グスタフ・アドルフ(BattleField版)#2

どうも半月ぶりです。今回も前回の続きで「グスタフ・アドルフ」ですが前回の更新以来体調を悪化させまして、「う゛あ゛ぁ゛~」って具合なのです。おかげで予定していたポイントまで翻訳が進みませんでしたが、一応出来たところまでアップしておこうかなと言うことで。本当ならティリーとの決戦、ブライテンフェルトまでは進めたかったのですが出来たのはティリー登場と戦前の情景までです。ふがいなし。まあ他にもいろいろやってますからね、仕方ない・・・って言い訳にしかなりませんが。ともあれ出来るだけ早く体調回復させてちゃっちゃと物を済ませられるようにしたいと思いますので、それまでご容赦を。それでは。

対抗者
火力戦、閉所戦闘、そして騎兵突撃、これらすべてはグスタフの提唱した軍制改革による。一つの事柄を確信したグスタフが作戦の結果の中でそれを改革したのは1621年、ポーランド戦役においてであった。デンマークとロシアについてはこの時点で慮外。スウェーデン軍ははじめオランダ式の戦闘教義とその解釈に自軍のそれをあわせていたが、シギスムンドとの戦いの中で武器と戦術を大いに改革した。戦争の詳細それ自体は小規模なものだったが、騎兵槍と甲冑で武装しその戦闘力を盲進するポーランド騎兵隊に、グスタフの軍制および戦術改革の成果は圧倒的衝撃を与えた。戦中1623年、グスタフは初めて彼の提唱する砲兵戦術を実行に移して最初の砲兵隊を創設、1629年までにこれを6個中隊にまで拡張し、この管理をレンナート・トルステンソンの隷下に置いて一任した。スウェーデン軍はリヴォニア(現在のエストニア)を征服し、相当速やかに機動してプロシアの戦場に入った。彼らは敵を粉砕して勝利したが、特に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント(シギスムンドの従弟)が出馬してポーランドの防衛軍を援助すると戦況厳しくなった。1629年6月29日、ザットゥムの戦中でスウェーデン軍はどちらかといえば次善の策で戦い、勝敗はっきりせず、国王グスタフがあと一歩で捕らえられるところであったが戦後両国の間には休戦協定が締結された。シギスムンドが戦いに倦むとグスタフはこれに乗じてドイツの戦場に赴き、イングランドと、より重要なことにはフランスから停戦調停のオファーを受けた。ベイジル・リデル・ハートの著述するところによれば「グスタフは巨大なステージに上ることを望んでおいた。フランス枢機卿リシュリューは巧みな心理操作によって彼を支配し操り、新しい味方につけた」アルトマーク条約ははじめ休戦協定ではなかったが、ここから向こう6年間にわたって継続し、グスタフはプロテスタンティズムと自由主義のために神聖ローマ帝国と戦い、スウェーデンはフランスと結びかつ競いあった。

ポーランド戦争はスウェーデン軍を見事な機械的戦闘集団に造り替える転換期となった。兵士たちもグスタフ自身も十分な経験を積み、テオドール・ドッジは「グスタフは配下に慎重に目を配り、彼に奉職する多くの部局の兵士たちは作戦の中で能力を成長させた。装備、兵器、官給品、健康管理に至るまで、訓練と統制を施されたスタッフが作戦行動に随行した。野営地に到着すると駐屯軍は責任を持ってそこを管理し、申し分ないグレードを維持した。グスタフ個人について学ぶべき概略はそれだけではないが、彼は評価されるべき王であった」と著述する。

グスタフのドイツ領侵攻に関する論理的根拠は多くの討論のテーマとなっている。彼は急ぎドイツ人民を解放してプロテスタントの闘士たらんとしたのだけれども、ドイツの君公たちは彼の聖戦をなかなか容認しなかったという。しかし、グスタフは確かに神聖ローマ帝国を打ち負かしてプロテスタントの君公と結んだが、彼の戦いに対する動機が疑いなく宗教的原理に則っていたわけでは当然ない。むしろ政治的要因が強くあったのは自明であり、宗教的側面はその中の幾分かを占めていたに過ぎない。1629年、グスタフ自身のスピーチに曰く

「バルト諸国のカトリックどもの同盟はスウェーデンによって破滅に向かわせられるであろう。まもなく我らは祖国南岸より計画に着手する。スウェーデンはハプスブルグの権力の危険に対して全面的に対抗し、屈することなく、迅速かつ強烈に戦う。時節はよろしくはなく、危険は大きい。しかし時間は少なく、依頼を受けた以上コスト内で出来ることを行わなければ、我々は卓越した力を身につけることが出来ないであろう。この戦いは親たちのために、妻子のために、家庭のために、そして祖国と信仰のために!」

時に彼はポメラニア地方に上陸、グスタフの出発は新聞で報じられ、それはヨーロッパ中に翻訳され広められた。リストに列挙された彼の動機と道理とは上記通りで、帝国から外交上の侮辱を受けた。帝国はポーランドの近年の戦争による損傷を援助し、バルト諸国を帝国の傘下に収めようともくろみ、皇帝はドイツへの圧迫を強めた。遅れてやってきたグスタフの尚書院長アクセル・ウクセンシェルナはこの侵犯に対して批判の声を上げ、「宗教的事態はさして重要ではありません、むしろ社会的地位を守らんために戦い、その中に宗教を含めるべきであります」と進言した。

グスタフは後に皇室主義に対する彼の意見を表明して断じ、プロテスタント同盟の人々全体にそれを広めた。彼の偉大な伝記作家、アーンランド、およびミシェル・ロバーツの兄弟は彼らが政教分離に同意し、おそらく多くの場合においてそれが彼らのモチベーションになったであろうと言い、あるいは皮肉屋・シニカリストはそうではなく彼の戦いによる連戦連勝の利益から打算的に追従したのだと語る。

1630年当初ポメラニア海岸を発したグスタフと彼の軍は13000人にようやく達せようかと言う程度の数しかおらず、一個の友軍すら存在しなかった。彼は港町シュトラールズントと結び、前年から帝国軍の攻囲を受けていたこの都市はグスタフの派遣した5000~6000の兵をもってスコットランド傭兵アレクサンダー・レスリーの攻撃に頑強に抵抗した。帝国軍は最終的にこの年を攻め落として港と艦隊を略取し、海軍を作ってバルチック海に強力な支配権を確立しようとしたが、この計画の企ては戦に倦んだシギスムンドとスペイン(この当時グスタフと戦端を開く理由を持たなかった)のために成立しなかった。その間シュトラールズントの駐留軍はより強化され、これを打ち負かすことの困難を証明した。帝国軍は注意を移してワイズマールの港に矛先を転じた。

グスタフはプロシアおよびその他のバルチック海の港から収益を得てスウェーデンは潤ったが、にもかかわらず彼は財政上の理由以外、道義的感覚からドイツに軍事的援助をもたらすことを決策した。1631年、フランスの外交官にして枢機卿たるリシュリュー(神聖ローマ帝国の国力がフランスのそれを凌駕することを恐れた)はグスタフを誘引し、協定を結び月々の援助金を約束した。彼はハプスブルグ帝国が極端に強大な力を持つことを非常に警戒してそれがもたらす危険を至当に理解し、フランス独力でもこれを打倒しようとしていたところであった。ただ皇帝フェルディナンドは唯一グスタフがフランスを助けて国を奪いに来ることに恐怖を感じており、それはささやかな道義的援助であってもフェルディナンドを恐れさせるに十分であった。

グスタフの前に最初に立ちはだかった敵はヨハン・ティルクレス、通称ティリー伯爵であり、経験に富んだ優秀かつ偉大なプロの将帥であった。その軍事的経歴は1574年、15歳の時にまで遡り、スペイン領ネザーランド(オランダ)のブラバント属州を拠点にプロテスタントの軍を連破してきた当時隠れもない名将は、プロテスタントのグスタフの進軍に報復の念を抱き、トルコ兵を動員すると兵卒に先んじて戦陣に躍り出た。彼が帝国元帥号を得たのは1605年、それ以降一貫してバイエルン方面軍の指揮をとってきた。彼は1609年、バヴァリアカトリック連盟を創設し、その軍事総帥となった。1618年に端を発する30年戦争においても彼は子飼いの軍を率いてボヘミアおよびデンマークに転戦し、勝利を重ね敵を打破しないことがなかった。このティリーの接近に、グスタフ接近の報に際し、ティリーは加齢により能力を減衰しているとはいえなお優秀な指揮官であり、戦略の要諦を理解して全くグスタフを問題視していなかったが、彼はスペイン方面で培ったテルシオ先方に固執するあまり時宜を逸した。それでも彼旧来の個性がなければいかんともしがたかったであろう。しばしばティリーと比較されるアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン伯にとって最高統帥者・ティリーは友軍の将ではなく疎ましい排斥対象であり、彼はこのときスウェーデン軍到着後すぐに戦線を離脱している。部下にして元帥たる帝国軍騎兵隊長ゴットフリート・パッペンハイム伯は幾分若く経験浅く、彼の率いる炎のように激しい騎兵隊は後から見れば風刺対象でしかなかった。彼の騎兵隊は本来の数倍勇壮に見えたが、激しやすく命令に従順でないパッペンハイムにティリーは悩まされ、パッペンハイムのほうでも心中彼を耄碌爺と軽蔑していた。この二人とグスタフ、双方はほぼ一年間にわたって陣を争った。グスタフは6ヶ月間にわたり諸都市を占領して回り、港沿いの補給線維持を諸将に命じた。彼はこの作戦中北ドイツ諸州のメックレンブルグほかを統制下に置き、スウェーデン軍の勢力伸長とともに地方の傭兵を取り込み、グスタフは決然として兵站路の確保を命じ、愛嬌のある態度をもって略奪により土地から離れた人々を呼び戻した。しかるのち1630年、補給基地を確保した彼はほとんど目立った友軍無しに会戦に向かう。ブランデンブルグ選帝侯はグスタフとの協盟を拒み、1631年2月、サクソニー選帝侯とヨハン・ゲオルグの呼びかけで開かれたプロテスタント指導者会談で彼を推戴したのはリープツィグと実際現時点で帝国軍の攻撃に晒されている中立都市同盟軍のみであり、ほとんどは帝国にもスウェーデンにも与しないという立場をとった。かように言質を取られることを避ける諸候のため会談は不首尾に終わったが、二人の君公が対抗するようにして協力を申し出た。会談の主催者であるサクソニー選帝侯と、ヨハン・ゲオルグである。
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Author:岩城 隆之
病を得てより20余年、もはやこの病気が快癒することはないのでなんとか折り合いをつけてやっていこうと決意を新たにして帰ってきた岩城です。とはいえ昔のように連日新しい記事を書くのはさすがに無理。やれる範囲で適度にやっていこうと思います。よろしく。

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