スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

トップ記事/注意事項とお願い

 
この記事は大事ですのでトップにおいておきます。
✻2016/02/21、少しだけ注意事項を更新。些末ごとですが一応目を通していただけると助かります。
✻2016/03/02、またブログを細かく更新。ブログランキング設置しましたのでよろしければクリックください。
ついでに「名将録南北朝篇 再販」のUrlを。
https://www.dlmarket.jp/products/detail.php?product_id=338920です。
大事なこといくつか
✻このブログの記事の著作権は私岩城隆之にありますので、無断転載とか禁止です。個人的に楽しむ分にはいっさい問題ありませんが、以前無断転載でいたく傷つけられ一度ブログ閉鎖した経験があるので念押しさせていただきます。wikipediaとかに載っけるのも禁止。
✻ここにある翻訳文は所詮素人の手慰みであり、完璧なものでないことをお含み置きください。出来るだけ正確を期してはいますが、アラを探せば間違いはたくさんあると思います。
✻レスポンスがあると張り合いが出ますので、よろしければコメントやweb拍手などあると嬉しいです。
✻岩城隆之は戦史愛好家、名将愛好家ですが、それはあくまでも英雄ロマンに焦がれそれを探求追するだけのものであって戦争や軍事を奨励する思想は一切持ち合わせておりません。そこのところ誤解なきよう。
✻たぶんここの記事はビジネスの現場では役立ちません。あくまで娯楽読み物ですので、そこのところもご理解の上ご利用ください。
✻岩城は漫画家・大西巷一先生を全力で応援しています(ブログの更新頻度が早く記事が流れてしまったのでここに)。
✻誤字が多くて申し訳ありませんがこれは仕様です。気づいてないわけではないのですが急いで書き上げ推敲せずにさっさか勧めてしまうのでどうしても。もしまとめてpdf化する段になったらそのときにリライトしますが、ブログ上で敢えて手直しは考えていないので「こういうもの」とご理解の上読み進めてくださいませ。
✻3/21/22:30 「名将選考基準」とこの「注意事項とお願い」を分離。つなげていると長くなるので。
✻昨日の投票箱設置ででからこっち考えていたのですが、どうもブログの過去記事が読まれていないようなので少々更新予定を変更。今後しばらく2014年までの旧い記事を順次消去しつつ、そのままいけるものはそのまま、手直しが必要なものはリライトして再アップしていきます。その間に新規の翻訳をときたま放出しつつ、ストックを増やしていければいうことなしということで。
✻3/24/12:00 李勣傳に文字化けがあったので修正、半角カタカナで代用しましたがやはり雰囲気を損ねますね。とにかく一応の手直しはしたので宜しくお願いします。
✻同日18:00 ブログを携帯、スマホからも閲覧できるようにしました。
✻4/4/12:00 FC2への問い合わせに対する返答。「ブログ拍手が弾かれる原因はurlを含めている場合が多いので、urlを書かないで投稿してもらうこと」とのことですが、果たしてどうなるやら。
✻4/16/11:00、メールフォーム設置しました。たぶんないとは思いますがご意見ご要望その他ありましたらあちらから。

✻2016/12/09/09:50、体調不良が行きすぎてぶっ倒れ翻訳休業しておりましたが、4ヶ月以上放置していたブログに毎日10人前後のお客様が来訪してくださると言うことで再びこうして打鍵している次第。体調やや復調しましたのでまた邦訳をあげていくつもりですが、どうにも以前のようにはいかないもので(脳が揺さぶられて意識がぼやける程度なら我慢できるのですが、肉体的に腕がしびれて打鍵するペース自体が極端に落ちているのです)2,3週間に一人紹介程度のペースになると思います。とりあえず現在「Art of War」上巻よりユリウス・カエサルとティムールの邦訳はできているのですが、上記の理由で速やかにバンバンとアップしていくことは不可能。まあ一応「黄泉返りました」ということでご報告まで。本当になんの報告もなくぶっ倒れてしまい申し訳ありませんでした。

✻2016/12/16/10:00、カテゴリを再編しました。これで少しはわかりやすくなった・・・と思いますが逆に雑になったかもしれません。とりあえずしばらくはこの編成で行ってみます。よろしく。
スポンサーサイト

グスタフ・アドルフ(BattleField版)#2

どうも半月ぶりです。今回も前回の続きで「グスタフ・アドルフ」ですが前回の更新以来体調を悪化させまして、「う゛あ゛ぁ゛~」って具合なのです。おかげで予定していたポイントまで翻訳が進みませんでしたが、一応出来たところまでアップしておこうかなと言うことで。本当ならティリーとの決戦、ブライテンフェルトまでは進めたかったのですが出来たのはティリー登場と戦前の情景までです。ふがいなし。まあ他にもいろいろやってますからね、仕方ない・・・って言い訳にしかなりませんが。ともあれ出来るだけ早く体調回復させてちゃっちゃと物を済ませられるようにしたいと思いますので、それまでご容赦を。それでは。

対抗者
火力戦、閉所戦闘、そして騎兵突撃、これらすべてはグスタフの提唱した軍制改革による。一つの事柄を確信したグスタフが作戦の結果の中でそれを改革したのは1621年、ポーランド戦役においてであった。デンマークとロシアについてはこの時点で慮外。スウェーデン軍ははじめオランダ式の戦闘教義とその解釈に自軍のそれをあわせていたが、シギスムンドとの戦いの中で武器と戦術を大いに改革した。戦争の詳細それ自体は小規模なものだったが、騎兵槍と甲冑で武装しその戦闘力を盲進するポーランド騎兵隊に、グスタフの軍制および戦術改革の成果は圧倒的衝撃を与えた。戦中1623年、グスタフは初めて彼の提唱する砲兵戦術を実行に移して最初の砲兵隊を創設、1629年までにこれを6個中隊にまで拡張し、この管理をレンナート・トルステンソンの隷下に置いて一任した。スウェーデン軍はリヴォニア(現在のエストニア)を征服し、相当速やかに機動してプロシアの戦場に入った。彼らは敵を粉砕して勝利したが、特に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント(シギスムンドの従弟)が出馬してポーランドの防衛軍を援助すると戦況厳しくなった。1629年6月29日、ザットゥムの戦中でスウェーデン軍はどちらかといえば次善の策で戦い、勝敗はっきりせず、国王グスタフがあと一歩で捕らえられるところであったが戦後両国の間には休戦協定が締結された。シギスムンドが戦いに倦むとグスタフはこれに乗じてドイツの戦場に赴き、イングランドと、より重要なことにはフランスから停戦調停のオファーを受けた。ベイジル・リデル・ハートの著述するところによれば「グスタフは巨大なステージに上ることを望んでおいた。フランス枢機卿リシュリューは巧みな心理操作によって彼を支配し操り、新しい味方につけた」アルトマーク条約ははじめ休戦協定ではなかったが、ここから向こう6年間にわたって継続し、グスタフはプロテスタンティズムと自由主義のために神聖ローマ帝国と戦い、スウェーデンはフランスと結びかつ競いあった。

ポーランド戦争はスウェーデン軍を見事な機械的戦闘集団に造り替える転換期となった。兵士たちもグスタフ自身も十分な経験を積み、テオドール・ドッジは「グスタフは配下に慎重に目を配り、彼に奉職する多くの部局の兵士たちは作戦の中で能力を成長させた。装備、兵器、官給品、健康管理に至るまで、訓練と統制を施されたスタッフが作戦行動に随行した。野営地に到着すると駐屯軍は責任を持ってそこを管理し、申し分ないグレードを維持した。グスタフ個人について学ぶべき概略はそれだけではないが、彼は評価されるべき王であった」と著述する。

グスタフのドイツ領侵攻に関する論理的根拠は多くの討論のテーマとなっている。彼は急ぎドイツ人民を解放してプロテスタントの闘士たらんとしたのだけれども、ドイツの君公たちは彼の聖戦をなかなか容認しなかったという。しかし、グスタフは確かに神聖ローマ帝国を打ち負かしてプロテスタントの君公と結んだが、彼の戦いに対する動機が疑いなく宗教的原理に則っていたわけでは当然ない。むしろ政治的要因が強くあったのは自明であり、宗教的側面はその中の幾分かを占めていたに過ぎない。1629年、グスタフ自身のスピーチに曰く

「バルト諸国のカトリックどもの同盟はスウェーデンによって破滅に向かわせられるであろう。まもなく我らは祖国南岸より計画に着手する。スウェーデンはハプスブルグの権力の危険に対して全面的に対抗し、屈することなく、迅速かつ強烈に戦う。時節はよろしくはなく、危険は大きい。しかし時間は少なく、依頼を受けた以上コスト内で出来ることを行わなければ、我々は卓越した力を身につけることが出来ないであろう。この戦いは親たちのために、妻子のために、家庭のために、そして祖国と信仰のために!」

時に彼はポメラニア地方に上陸、グスタフの出発は新聞で報じられ、それはヨーロッパ中に翻訳され広められた。リストに列挙された彼の動機と道理とは上記通りで、帝国から外交上の侮辱を受けた。帝国はポーランドの近年の戦争による損傷を援助し、バルト諸国を帝国の傘下に収めようともくろみ、皇帝はドイツへの圧迫を強めた。遅れてやってきたグスタフの尚書院長アクセル・ウクセンシェルナはこの侵犯に対して批判の声を上げ、「宗教的事態はさして重要ではありません、むしろ社会的地位を守らんために戦い、その中に宗教を含めるべきであります」と進言した。

グスタフは後に皇室主義に対する彼の意見を表明して断じ、プロテスタント同盟の人々全体にそれを広めた。彼の偉大な伝記作家、アーンランド、およびミシェル・ロバーツの兄弟は彼らが政教分離に同意し、おそらく多くの場合においてそれが彼らのモチベーションになったであろうと言い、あるいは皮肉屋・シニカリストはそうではなく彼の戦いによる連戦連勝の利益から打算的に追従したのだと語る。

1630年当初ポメラニア海岸を発したグスタフと彼の軍は13000人にようやく達せようかと言う程度の数しかおらず、一個の友軍すら存在しなかった。彼は港町シュトラールズントと結び、前年から帝国軍の攻囲を受けていたこの都市はグスタフの派遣した5000~6000の兵をもってスコットランド傭兵アレクサンダー・レスリーの攻撃に頑強に抵抗した。帝国軍は最終的にこの年を攻め落として港と艦隊を略取し、海軍を作ってバルチック海に強力な支配権を確立しようとしたが、この計画の企ては戦に倦んだシギスムンドとスペイン(この当時グスタフと戦端を開く理由を持たなかった)のために成立しなかった。その間シュトラールズントの駐留軍はより強化され、これを打ち負かすことの困難を証明した。帝国軍は注意を移してワイズマールの港に矛先を転じた。

グスタフはプロシアおよびその他のバルチック海の港から収益を得てスウェーデンは潤ったが、にもかかわらず彼は財政上の理由以外、道義的感覚からドイツに軍事的援助をもたらすことを決策した。1631年、フランスの外交官にして枢機卿たるリシュリュー(神聖ローマ帝国の国力がフランスのそれを凌駕することを恐れた)はグスタフを誘引し、協定を結び月々の援助金を約束した。彼はハプスブルグ帝国が極端に強大な力を持つことを非常に警戒してそれがもたらす危険を至当に理解し、フランス独力でもこれを打倒しようとしていたところであった。ただ皇帝フェルディナンドは唯一グスタフがフランスを助けて国を奪いに来ることに恐怖を感じており、それはささやかな道義的援助であってもフェルディナンドを恐れさせるに十分であった。

グスタフの前に最初に立ちはだかった敵はヨハン・ティルクレス、通称ティリー伯爵であり、経験に富んだ優秀かつ偉大なプロの将帥であった。その軍事的経歴は1574年、15歳の時にまで遡り、スペイン領ネザーランド(オランダ)のブラバント属州を拠点にプロテスタントの軍を連破してきた当時隠れもない名将は、プロテスタントのグスタフの進軍に報復の念を抱き、トルコ兵を動員すると兵卒に先んじて戦陣に躍り出た。彼が帝国元帥号を得たのは1605年、それ以降一貫してバイエルン方面軍の指揮をとってきた。彼は1609年、バヴァリアカトリック連盟を創設し、その軍事総帥となった。1618年に端を発する30年戦争においても彼は子飼いの軍を率いてボヘミアおよびデンマークに転戦し、勝利を重ね敵を打破しないことがなかった。このティリーの接近に、グスタフ接近の報に際し、ティリーは加齢により能力を減衰しているとはいえなお優秀な指揮官であり、戦略の要諦を理解して全くグスタフを問題視していなかったが、彼はスペイン方面で培ったテルシオ先方に固執するあまり時宜を逸した。それでも彼旧来の個性がなければいかんともしがたかったであろう。しばしばティリーと比較されるアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン伯にとって最高統帥者・ティリーは友軍の将ではなく疎ましい排斥対象であり、彼はこのときスウェーデン軍到着後すぐに戦線を離脱している。部下にして元帥たる帝国軍騎兵隊長ゴットフリート・パッペンハイム伯は幾分若く経験浅く、彼の率いる炎のように激しい騎兵隊は後から見れば風刺対象でしかなかった。彼の騎兵隊は本来の数倍勇壮に見えたが、激しやすく命令に従順でないパッペンハイムにティリーは悩まされ、パッペンハイムのほうでも心中彼を耄碌爺と軽蔑していた。この二人とグスタフ、双方はほぼ一年間にわたって陣を争った。グスタフは6ヶ月間にわたり諸都市を占領して回り、港沿いの補給線維持を諸将に命じた。彼はこの作戦中北ドイツ諸州のメックレンブルグほかを統制下に置き、スウェーデン軍の勢力伸長とともに地方の傭兵を取り込み、グスタフは決然として兵站路の確保を命じ、愛嬌のある態度をもって略奪により土地から離れた人々を呼び戻した。しかるのち1630年、補給基地を確保した彼はほとんど目立った友軍無しに会戦に向かう。ブランデンブルグ選帝侯はグスタフとの協盟を拒み、1631年2月、サクソニー選帝侯とヨハン・ゲオルグの呼びかけで開かれたプロテスタント指導者会談で彼を推戴したのはリープツィグと実際現時点で帝国軍の攻撃に晒されている中立都市同盟軍のみであり、ほとんどは帝国にもスウェーデンにも与しないという立場をとった。かように言質を取られることを避ける諸候のため会談は不首尾に終わったが、二人の君公が対抗するようにして協力を申し出た。会談の主催者であるサクソニー選帝侯と、ヨハン・ゲオルグである。

グスタフ2世アドルフ(BattleField版)

またずいぶん間が空きました。なんか病人だし長期間休むと倒れてるのか? とか思われてしまってそうですが、そんなことはないのでご安心ください。今は前回も言いましたゲームづくりと、あと名将録南宋篇にエントリーする人物選定なんかやってます。で、南宋名将は電子書籍にアップするまでおあずけにしようかな~と(こっちにアップした後で書籍版にリライトしなおすのが手間なので)いうことでよその国よその時代。というわけでしばらく放置していたバトルフィールド版グスタフ・アドルフです。分量がとんでもないのでとりあえず序盤3分の1。英訳は漢語訳より簡単な部分と逆に難しい部分とあってめんどくさかったりするのですが、人の書いたものではなく自分でこの人を発掘しているのだという実感があるのはいいですね。それではご開陳。第二回ができあがるまでまたしばらく潜伏しますがご心配なきよう。それでは。

グスタフ2世・アドルフ(1594-1632)
生きて立っている間、世界において、彼は王であり、将であり、そして匠であった。これを賞賛しない理由があるだろうか。
            ~ロバート・モンロー~
グスタフ2世・アドルフの祖父、グスタフ1世・ヴァーサは「スウェーデンの父」と見なされている。彼はデーン人による国土の侵略を打ち払い、そして1523年に王を名のった。グスタフは何度もデーン人と戦い、さらにはロシアと戦い、しかし家庭人としての彼にもっとも重要なことはプロテスタントを奉じるキリスト教ルター派の伝道師であり、戦士であった事であった。彼は1560年まで支配者ではなく、彼は彼の息子エリックによって成功した。エリックは八歳で君主となったが、ますます重みを増す精神病によって退位させられ、彼の異母弟ジョンが後を襲った。ジョンはスウェーデンの王であると同時にフィンランド国王でもあり、1590年に彼が死ぬまでずっとそうであった。彼の治世は常にデンマークからロシアとの戦争に明け暮れていた。ジョンの花嫁はポーランドの姫君だったので、彼の息子シギスムンドはポーランドとリトアニアの王位を求め、1587年、同権君主国の盟主となった。ジョンが死ぬと、シギスムンドは当然の権利としてスウェーデンとフィンランドをも自らの国と求めた。彼はポーランドの首都カラコフから支配力を行きわたらせ、伯父・カールをスウェーデンの摂政として派遣した。シギスムンドはカトリックに傾倒し、彼の本国には彼に共感しない口やかましいルターを主義者が蔓延していたので、カトリック国家であるポーランドの宗教観を主流とした。このようにしてシギスムンドは中央で宗教改革を進め、カールのモチベーションのために欲を刺激して、議会に彼をスウェーデン国王とすることを認めさせた。カールはスウェーデン国王としてポーランド人と戦い1598年セント・ネゲブロの戦いで勝利を飾り、シギスムンドを公式に退位させて翌年自分がそれに取って代わった。
 カールの息子がグスタフ二世である。このような経緯で下がってきたスウェーデンの王位において、唯一あとから騒々しく騒がれることなく成功した君主であった。カールの支配力とアドバイスそして議会の承認によって、彼の支配力は彼が強化した広義のスウェーデンとその宗教に及んだ。彼はグスタフに優秀な講師をつけて帝王学を学ばせ、彼の息子に英才教育を施した。グスタフの最初の講師はヨハン・スカイットと第二にヨハン・ブーアであり、彼らはルーン文字とスウェーデンの歴史、そして神話の専門家であった。これらの方向性を持った教師たちの下で、グスタフは五カ国語を流暢に読み書きでき、また別の五カ国語についてもまずまずの語学力を発揮した。彼の教師たちは幼い彼が大いに貪欲に学び、原語力とさらに科学について秀でていることを喜んだ。彼はのち貴族たちと討論する事を学び、、外交使節として政治の場に口を挟むことを彼の父に求めた。彼はそのため先進国の言葉や生活様式を学んだのであり、彼と対面したものは皆一様に驚嘆したのだった。彼は第一級の弁舌家として認識され、軍事指導者としてはその能力を疑問視されていた。あまりに学問好きなので「本の虫」などとよばれ、彼の父は彼に学問を修めさせながらも彼に実戦経験と統治のすべを教え込もうと考えた。カールはしばしば議会と戦い、彼らに対抗して稲妻のようにしゃべる姿は力強くアグレッシブに見えたかもしれない。グスタフは父の不屈の精神を受け継ぎ、同時に政府との関係の中で観察力をも学んだ。言葉は時として行動以上に効果的であった。

十五歳のグスタフは広範に学問を追求し、そして10代相応の役に立たない王子を演じた。彼は軍事的出来事への関心を強くしきりに感じていたが、しかしながらその聡明さを表に出すことが危険であることも理解していた。彼は余暇には彼の顧問の一人ヤコブ・デ・ラ・ガーディーに軍事学をまなび、外交官としてオランダに赴いた際には偉大なる将帥、ナッサウのマウリッツに会いに行ってしばらくの時を過ごした。マウリッツはグスタフのスウェーデン軍軍制改革について助言をした。1610年、16歳になって帰国したグスタフは彼自身のために行動を準備する必要を感じ、彼は彼の父に東方ロシアとの戦いを継承するのかと問うた。彼は否定したがしかし待つ時間は大して必要ではなかった。1611年初旬には議会が公然と彼の戦う理由と戦うべき時を認めた。デーン人(及び彼らのノルウェーの臣下)の侵攻に関してはおよそ絶え間がなかった。デーン人の軍は国王クリスティアン四世の指揮下にあってスウェーデン南岸の都市カルマールを占領し、地方都市を襲撃し諸都市を破壊するかあるいは占領した。
1611年四月、グスタフは選りすぐりの騎士団を派遣して戦わせカルマールの不安を軽減させようとした。彼は速やかにイランドのブリテン諸島を奪い返しながら、カルマールとは正反対の方面に兵を動かし、彼自身成功裏にクリスティアンの都市クリスティアノープル( 現在のクリスティアンスタット) を、はじめて軍事的詐術を弄して打ち破った。味方を敵の慣習的な衣服に着替えさせて騙し、あとは通り一遍の装備だけでこれを達成した。グスタフは夜襲と都市占領作戦の準備を手際よく整えており、彼が住民に町を燃やすから立ち去れと勧告した。彼らはほとんどわずかな動きすらなく成功を得たが、しかし1611年カールが倒れその健康状態が刻々と低下、最終的に死に至ったので帰国せざるを得なくなった。わずか16歳のグスタフは今や彼自身の意思によって国王にして最高司令官の座を手に入れた。
 二つの城塞都市にデーン人の手が伸びた。グスタフは同時代におよそ類を見ない戦略的頭脳をもってどちらの解囲もあきらめることがなかった。そのために彼は西に兵を向け、デンマークの保有する領地に攻撃の準備をした。これは不成功に終わったが、しかし彼は別の準備を始めた。飛び跳ねるように陸路を進んでデーン人の諸都市に入り込み、城塞都市を解囲させようとした。彼の将らはこの命令に従うことなく、しかしその代わりに海軍を用意してストックホルムを強襲しようとした。グスタフはこれに学び、彼は軍隊を行進させた。彼の1200人の軍隊は1週間で240マイル進み、敵の首都に到達ししかるのち攻撃を加えた。彼は常時動員力を見積もり、軍隊を正装させて町に入り逆襲の突撃を待った。反撃を考慮して大軍を配備した彼はこの都市の多くが文民であり国王クリスティアンはすでに撤退していると知った。より小さな戦闘がデーン人とのあいだに行われたが、1613年には和平が結ばれた。グスタフは交渉の席で二つの城塞都市カルマールとリフスブルグの返還を要求したが、実のところはすでに買い戻した後であった。デンマークの脅威はひとまず取り除かれたが、しかし今度はロシアとポーランドが問題として立ちはだかることになった。
グスタフのいとこでありライバルでもあるポーランドのシギスムンドは平和条約締結の場に出席することを拒んだが、既存の協定に基づき、五年間の平和延長を受け入れた。グスタフは手にした平和な時間を生産的に使った。彼は先ず国府を移し、当面残った敵国ロシアに備えた。またポーランドに対しては北西ロシアとロシアの貴族たちが幸せにならないようにシギスムンドをけしかけ、両国を共食いさせるよう仕向けた。彼らはグスタフの年下の兄弟カール・フィリップにモスクワ大公の玉座をと申し入れたが、グスタフはためらった。なぜならそれは弟にロマノフ王朝の後継者たる資格を与えることになるからである。グスタフは申し出を表面上本気だと思いながら、しかしそれではスウェーデンという国より大きな領土が手に入り逆に統制が厄介になる、あるいはロシアという土地の価値が一層のトラブルのもとになると感じた。ニス・アフランド、グスタフの最も重要な伝記作家はこう記す。「彼はロシアという国を全く信用できなかった。彼は尊敬されるべき彼のもっともすぐれた国色的思考をもって、彼らを取引き相手としてだけ信用したが、それでさえ平和と友好の状況が許す限りでしかなかった。彼はいつこの大国が敵に回るか、常に不可欠としていた。彼はそういう猜疑心をかかえた人間であり、そのポリシーが常に純粋であったというのは幻想というものである」
 スウェーデンは早くもロシアに対する前哨基地をバルチック海岸(ノヴゴロドの近く)に築き、1614年にはグスタフ自ら、向こうからの侵略にそなえて先手をとった。もっとも有名な行動は。プスコフの攻囲戦である。グスタフは賢明に抜け目なく、冬が明けるのを待ってアプローチを仕掛けた。少しの偶然もなく、平和条約の定めた所の1617年をまたず、スウェーデン軍はロシア軍をバルチック海岸に招き寄せて全ロシアの海上貿易を抑制した。この簡潔で短い作戦行動に於いて、グスタフはふたつのカギとなる軍事的決断を行っている。まず一つは彼の掲げた軍隊の立場の重要性であり、第二にヤコブ・デ・ラ・ガードル(彼の積み込み家庭教師でありオランダのマウリッツに戦術を学んだ人物)仕込みの統帥術である。攻囲されたノヴゴロドは最後までこれらの重要性に気付くことがなかった。都市の貴重品は次から次へと売られた。しかし最も重要な古参の軍人たちはむしろ大事にされた。ついでグスタフは彼の軍隊に厳しい訓練を課し、彼らに絶対略奪も暴行もさせなかった。すべての官給品と給与は王国のそれぞれの土地部局から出るようにして、また、いくつかの失敗した命令は致命的な事柄でない限り長所利点に変えた。そのような評判が後世グスタフをかなり美化して伝える理由になったかもしれない。二つの敵と和平を結び、今第三のそれとも和した。若き王は仕事の改良に着手した。彼の軍が有名になったのはもしかしなくとも彼個人の業績によるであろう。

グスタフの戦線
 十六世紀半ばから、戦場の主役はパイク、それもスイスのいわゆるスイス・パイクマンに移った。この千年間、常にあった騎兵優越の神話は、急激に凋落した。遠距離から火薬兵器に対した場合、あるいはこれも長距離査定を誇る イングリッシュ・ロングボウに狙われた場合、彼らは中世以来重騎兵のお家芸であった得意の騎兵突撃を停止して弓兵あるいは銃士の格好の的になった。弓兵と銃士はなお護衛の兵を必要とはしたけれども、究極的には広範囲にわたって降りそそぐ矢が、ヨーロッパの困難な地形を学ぶ上で騎兵の突撃力よりもものを言った。それは比較的射程が短く再装填に時間のかかるクロスボウでも、そして火薬兵器でもっとも原始的な火縄銃でも、騎兵に対してアドバンテージを持っているということでは共通していた。これらとても射程を限られ、再装填に時間がかかるという点では万能ではなかったのだが、しかしこれらを簡単にする人が新兵にその使い方を伝授した。時が過ぎて火縄銃は改良を加えられ、マッチロック式を経てマスケット銃に移行した。火縄銃からそれほど大きな変化があったわけではないが、マッチロックは重量がある代わりに12ポンド弾を使うことができたし、この12mmの徹甲弾が火を噴けば2オンスの弾丸となって火縄銃の二枚の威力を発揮した。一人の人間を相手にするにはいささかオーバースペックだが、三脚に支えられたこれが鎮座するとそれだけで抑止力となった。およそ400ヤード前後の距離においてこれは有用であったが、整理不良が多く手入れもずさんであったため、次第に火縄銃とマッチロックのハーフのようなマスケット銃が歩兵ユニットの補助武器として主にスペインで使われはじめた。これが最も成功し普及して、ヨーロッパの軍隊ではマスケットの装備が標準となった。
 バイクはそんな時代に登場する。これは騎兵の保持した突貫力を、銃士のような再装填の手間もなく受け止め、貫いてのけた。スイスは最初多人数によるバイクのフォーメーション、古代ギリシアにおけるファランクスの再来として紹介した。しかしこれが完璧に完成するのはスペイン方陣ことテルシオの登場を見なくてはならない。開けた地形において、方陣を組んだパイクマンは、もし安全な視点から狙撃する歩兵の銃士が支援につくならば、どれほどの数の重騎兵が敵にあったとしてもマスケット銃士(あるいは火縄銃士)たちを完全に守り切るであろう、パイクマンは火力兵員のサポートとして敵を完全に防ぎ、敵の重歩兵あるいは重騎兵の攻撃に備えるのに、これ以上はなしと言われた。テルシオは1000人あるいは3000人で一団を形成し、地勢次第でその運用を変える。隊列外側の兵士達は複合鎧を着用し、15フィートの長さのパイクを装備する。その内側の列は鎧を着てないパイクマンであり、中央には甲冑を纏いおよそ6フィートの木製シャフトと長い鉄の穂鉤で武装したハルバード兵が刃を並べて外側の穂(あるいはスパイク)に引っ掛けた。これは何よりも防衛的なフォーメーションであり、テルシオはその上オフェンシブにも運用されたという点でファランクスに酷似していた。パイクによる反撃はまさしく殺戮のために存在するといって良かった。テルシオは歩兵が騎兵突撃による衝撃力とは違う方法で到達した戦闘力であり、難攻不落でしかも止めることが困難であった。彼らの機動はゆっくりとしていたが、その攻撃力はほかの何ものにも勝った。他の巨大な方陣に当たない限り、彼らは前後左右からも攻撃に対してアドバンテージがあった。これは突貫力を備えた防御として、守備のうえではこの上もなく決定的だった。
 そしてマスケットはロングレンジでの攻防に特化していた。順序と命令に従って最大限の火力を発揮する武器は、スペインの後退戦術のなかで発展し成熟した。銃士は10人から12人の縦隊の中に一人ぐらいしかいなかったが、マスケットは縦列の先頭に立って発射され、強烈な威力を発揮した後、隊伍の後方に下がって再装填した。彼らは歩兵に追従するのに適し、銃士が最前線に出て主導的に攻撃することは当時考えられていなかったのは、再装填と発射準備に時間がかかるためであった。マスケットの再装填はゆっくりであり、火縄銃よりは改善されたとは言え最高の射手でさえも一射ごとに90秒を最低でも要した。射程距離と打撃力においでは(それは100ヤード離れた所からプレート・アーマーを貫通することが可能であった)比類なかったのだが。
 騎兵にも変化が訪れ、フルアーマーの甲冑で身を固めた騎士の時代はもはや去った。騎兵の役割は主として偵察と哨戒になり、装備はホイールロックピストル(旋条銃。フリントロックと違い着火装置と発条機構で弾丸を発射する)になった。彼らはむしろこの再起と発展を喜んだ。短兵兵器に旋条銃を含めた装備の中でも、彼らが最も好んで使ったのは旋条銃であり、馬上風のように敵をひしいだ。多くの銃士たちは彼らの基本的な働きをもとに、シガレットライターと揶揄された。銃士たちは発条を改造してフリントロック以上の打撃力を生み出し、それはなべの中の火花のように輝いた。このように、銃はフリントロック式の火縄銃からホイールロック式の旋条銃へと移行した。しかしながらそれらよりすぐれていたのは点火式のマッチロックであった。これは高価なうえにメカニズムが複雑で優秀なガンスミスによるオーバーホールが必須であったが、一方でマッチロックは比類ないほどの破壊力を発揮した。騎兵がマッチロックを使うとき、この両手持ちの銃の有効性は計り知れないものがあった。旋条銃は撃鉄の操作から点火までを片手で扱えるがマッチロックに比べると遅かった。騎兵は2丁の銃をホルスターに入れ、そのうえ三つ目の強大な攻撃力を担いで運ぶことができた。テルシオのポテンシャルをもってしても、これら歩兵主体の革命的打撃力の前では如何ともしがたかった。
 ドイツの傭兵は騎兵が発達していて、その戦術は旋条銃の 有効性を最大限に引き出すことに特化していた。彼らは鎧の防御性をについて可能性を閉ざし、ヘルメットのみに依存した。彼らは比較的小型の馬をたくさんの線状縦列にして急歩で走らせ突撃し、およそ二馬ずつの間隔をおいて、幅のある縦列をなしておのおの様々な深さに突き進んだ。彼は急歩で接敵し、前衛の騎兵はそれぞれ3発の空砲を鳴らしてから一気に鋭く攻撃し、一撃離脱で後衛と入れ替わった。この戦法のことを称してカラコールという。このように成熟した騎馬隊は反転攻撃の際にもっとも際だって実力を発揮した。これを実行する仲間は反転攻勢によって敵を打ち破ることが出来たし、 出来たかもしれない。
 これが三十年戦争以前の時代における汎ヨーロッパ的な軍隊の戦闘様式であった。1560年代、スペインが彼らの戦法を確立してオランダを属州としてから以来、ピューリタンティズムは抑圧され弾圧された。断続的な八十年戦争の中において、オランダ人のスペイン人に対する武器と戦術に学ぶべきところは大きい。そしてこれは変革の始まりであった。設計者であり最初の実行者であったのはナッサウ家のマウリッツと彼のいとこであるルイ・ウィリアムとジョン・ウイリアム。マウリッツは大々的で壮大な野戦における将軍ではなかった。迅速に行動するよりもしばしばためらうことが目立った。しかしながら彼は傭兵部隊とパートタイマーの国軍の混成軍をして戦闘のプロフェッショナルに変え、最終的な勝利を得て戦争を革命し近代戦の父となった。
 オランダの作戦において自国の兵は確かにその核となったけれども、それを助けたのは紛れもなく傭兵戦力であった。長年にわたってヨーロッパでは彼らが戦場に不可欠な存在であった。海軍は困難であったが、イギリスで怪我をすることなく安定した収入を得られる新時代の職業として人気を博し、これ以降海軍国イギリスの極めて重要な産業となっていく。その目標とするところはスペインの経済および軍事力であり、実際、不規則な支払いから反乱がおこることも北欧では珍しくはなかった。ナショナリズムの成長と海軍力の成長のつながりはオランダに傭兵を持続的に雇い続けるだけの財力と、戦争を継続させる高い戦意とをもたらした。そしてそれはマウリッツに、彼の軍制改革に要求される二つのファクターを手に入れさせた。
 マウリッツはかの沈黙公ウィレムの息子であり、その名前は21世紀においてもオランダ海軍および陸軍の指揮官にして提督、スペインへの反抗の象徴として英名を轟かせる。その著作は系列だった軍学として他国に邦訳されることはなかったが、彼はオランダ諸州および合衆国の困難な建国の事実上の国父として、そしてヨーロッパ世界における軍事的権威として知られている。多くの合衆国の力ある騎手たちの中で、マウリッツは貴族としてほとんど王と言ってい身分を得たけれども、支配権を振りかざすことは彼の生涯においてついぞなかった。より注目されるべきはこの戦争の間に彼がほぼ完成されたあらたな軍事システムを創り上げることに成功したことであって、彼は地位や権力に固執することがなかったように思える。彼の軍制改革の基礎はローマ・およびビザンチン帝国の軍事教本に学んだといわれ、またルネッサンスまでの古い世界のおよそすべてに魅了され、そこからも学んだとされる。
 マウリッツは大命題として、テルシオという巨大なターゲットをいかにして破るかについて理解していた。そのため砲兵隊をよりいっそう大規模なものとし、戦場の機動を容易なものとして規模をテルシオに匹敵させた。しかし当然のことながらマスケットをはじめとする火力兵器を十分に供給することは容易ではなく、さらに言えば多勢の鍛え上げられたパイク歩兵を打破することも簡単ではなかった。マウリッツはそれらを理解したうえでまずは火力兵器の増強に努めた。彼はまず実用に耐え愛着の持てる銃を輸入すると、これを改造し、再装填の速度を飛躍的に速めた。またマウリッツは軍隊の規模を小型化し、2000人の部隊を600まで減らし、130の部隊を作った。そして彼らを縦10列以上の縦隊で形成した。25から30の縦深をとるテルシオとは対照的であった。彼はユニットにおける銃の重要性を正しく認識し、これを前衛に置いた。また、再装填作業をより速やかにするために銃の着火機構を改造、高速化した。さらに二つあるいは三つの部隊ごとに、スペアとして常時使用可能な廃燃料を配備した。この配備のために先導の連中は飛ぶように忙しかった。彼のこれらの仕事がこの時代の軍制改革としてどれほど革新的であったか、伝記作家ジェフリー・パーカーは記す。「我らはこのオランダ人の“斉射戦術”という、全くその名のとおりのテクニックについて記すことができる。この戦術の概略とほぼ全く同じものは、のちにルイ・ウイリアムが、彼のいとこマウリッツが1594年12月8日付けで古代ローマの軍事メソッドについて勤勉に学んだ結果、このアイデアに至ったと著述し断言したことを述べている。(これは長篠の戦いで織田信長やったことに後れをとること12年、ヨーロッパではじめて着想された火力の集中運用であった)」部隊を薄く広く展開させること、広範囲からの大火力の造出。しかし、考えられるターゲットとの兵力差と反撃の砲火に比べれば、これらの改革はなお取るに足らなかった。
 さらに大きな火力を実現するため、マウリッツは鋳鉄工場を発展させ合衆国諸州でカノン砲を鋳造した。彼は銃の口径および弾丸の統一規格を作り、その中から三つの規格だけを採用した。12、24、そして48ポンドである。すべて大砲の部品として扱うには技術的に困難な代物であった。これらの銃は歩兵隊の前衛に扱わせることを想定しており、一兵科が一つの武器だけに特化するのではなく、歩兵が銃士を兼ねる混成構成のフォーメーションは古代ローマのそれに通じるものがあった。前進と後退の命令に終始途切れがなく、そして騎兵ユニットは彼らの側翼の防御に使われることが多かった。これがマウリッツの成し遂げた二つの目標地点のうち一つであり、大軍をより機動的に、よりオランダの湿地帯における作戦に則したものとして運用するということがそれであった。もう一つはテルシオ以上の攻撃性と防御性の双方を兼ね備え、フレキシブルで簡便性に長けた戦闘システムの構築である。
 彼は改良に着手した。それは志願兵を短期間で使いものになるようにするには必要な措置だった。合衆国諸州の人口は一万人を超えることはなかったが、農商業に打ち込んだ結果多大な財産を手に入れ、マウリッツはこれをもって傭兵を大量動員した。傭兵たちはいつもと違い兵士としてより長い期間雇われ、シーズンを問わず戦うこの時代特有の傭兵として職務に就いた。傭兵というものは一度雇われると、給与未払いなどの何か特別なことがない限り雇い主に背いたりしないのが普通であった。彼らは激しい訓練を経験し、団結たユニットとして先進的に鍛えられた。
 さらに、これは西ヨーロッパが古代ローマ以来、何事も考えることのないことだったが、取るに足らないユニットであっても、指揮官および非任官指揮官の才覚によってより多勢の部隊に勝るということがあった。これら外国人によって指揮される部隊は普通のオランダ人に指揮されるそれよりいくぶん勝り、傭兵部隊にその傾向は最も目立った。従って、指揮官と軍隊の関係は合衆国への愛国心・忠誠心よりむしろ、成熟したユニットであればあるほど自ら属す部隊へのそれによった。パイク歩兵とマスケット銃兵、そして騎兵を連携して運用することによって、短時間では興味深い何事かを見せることはないが、長期的な目で見て一定の変わらない実力を発揮した。
 マウリッツの軍制改革はまた理想的な軍の造出のため、兵たちに根本的かつ実践的な訓練を課し、また抜本的なところから近代戦の成立に貢献した。 消極的欠点として、舞台の幅を長くして深みを薄くしたことは、実際に敵に対するには演習時以上の勇気を要した。彼らは爾来縦深陣形を持って戦うことに慣れており、新兵のように新たに横幅陣で戦うことにひっかかりを覚えた。これもまた訓練によって教条とユニットとしての団結力を作り上げるしかなかった。それが有効だということは訓練によっても、またマウリッツの著したイラストによって説明されたオランダの軍事教本によっても証明されていたが、しかしそれまで実際の戦闘における勝利を軽減していない彼らは、1597年ターンホート、そして1600年ニュープールトの二つの勝利を得るまでなかなか信用ができず、しかしグスタフが創造して産みだした改革においてはたやすくこれを信じた。
 グスタフはマウリッツの創り上げた手段を取り込んだうえ、これをよりスウェーデン軍に適したよりアグレッシブな戦闘スタイルとして確立した。マンパワーの観点から、グスタフはスウェーデン人の指揮官および兵士を主導的に使い、そして彼は世界初の国民常設軍の創設を果たし、傭兵に頼らない単純かつ永続的な軍隊を作り上げた。ミハイル・ハワードが気付いたことには、「兵士たちは断続的で移ろいやすい状態にあって死や傷や病気というものを自然と避けたし、といって脱走する者もなかった。彼らの行動を治めるのは戦略や計算ではなくむしろモラルであって、領内で略奪するものを見たことがなかった。それはこの時代の戦争にあって驚くべきことに、この世間に認められた権力者は、理性で戦争を終わらせようとする政治感覚的なモチベーションをもって統帥と傭兵を行い、堕落した世間の人々に代わって無法とバイオレンスを永続的に取り除こうとした。」そのためにグスタフが始めたのが徴兵制であり、彼の祖父が創始し父へ彼へと受け継がれる都度に拡大してきた議会制である。一人が10人のコミュニティーの長となるシステムは彼の軍事システムによるところが大きく、そして国民のうち納税者以外の残余は国によって養われた。人口百万にも満たないスウェーデンながら、この国は強大な防衛軍を持っており、この福祉はその十分なマンパワーによって提供されたし、政治的支持基盤を確たるものとすための遊説などよりはるかに大きな人気取りの効果があった。 グスタフの親切は彼の軍隊および傭兵そしてその家族にまで及び、彼らはもはやスウェーデン以外のために奉職しようという意思をなくした。
 兵たちは有能な400人以上の指揮官に率いられた中隊によって組織され、
ほぼ全員がパイクとマスケットを装備した。彼らはパイク歩兵を中軸、その両翼マスケット銃士を配備し、すべての戦闘部隊を六段の陣に分けた。一中隊にはユニット単位ごとに複数の偵察隊・予備隊がつけられ、彼らにもそれぞれ96丁のマスケットが与えられて、3から4中隊で一旅団が形成された。歩兵の武装も改良された。マスケットはスウェーデン兵により合うように、オランダで造られたオランダ標準のそれよりも強力で持ち運びと取り回しがよく火力に優れ、また使い捨てのシングルカートリッジ式のものに換えられた。それ以前の標準的な火薬カートリッジは総て木製の小箱に蓄えられていて、銃士は首の周りにたくさんの配給された小箱をぶら下げていた。グスタフは導入したこのシステムをさらに前進(あるいは単純に使い勝手の問題から)させ、紙製のカートリッジに換えた。この使い捨てのパッケージによってマスケット銃は自由にいくらでも弾丸を使えるようになった。スウェーデンの軍人はみなマッチロックを見限り、「スナップロック(早期のフリントロック)」を使うようになった。これが1620年代、大々的に出回るようになると、当然のように砲兵隊、護衛隊およびほかの兵科でもこれが支給されるようになった。グスタフがこの改革に乗り出した最主要な理由は、スウェーデンではマッチロックの導火線を造る資材を見つけるのが困難だったからだという。

スナップロックの製造はスウェーデンだけのことではなく、彼らはまったく必要に駆られて休息を奪われた。再装填の手間は減少したが銃火器に関する問題は増加して、さらに言えば銃士の行動の必要性が増した。オランダで始められた2段式一斉射撃をグスタフは三段掃射に切り替えた。銃士は銃弾のいっぱいに入った武器袋を肩から肩に掛け、布陣の配列が三段に切り替わってから「前衛は跪き」、「二列目は前傾し」、「後衛は直立」して一斉掃射するのが一般となった。グスタフは従来の射撃先方を後退しながらでも可能なように作り替え、それにより銃士は前進しながら、あるいは前線から後退しつつ再装填と待機、そして反転砲火を行えるようになった。のちのスウェーデン軍が正面三段撃ちを可能としたのは速やかなポジショニングと滞りのない再装填により、三段撃ちはそこから発展した回転射撃のほぼ直接の母体となった。

スウェーデン軍ではパイク歩兵もまた変化を経験した。16フィートの長槍は11フィートまで短くされ、金属の鞘から伸ばしたパイクの長さは十二分に通用したし、壊れた場合、あるいはわざとこれを折ることで、閉所における戦闘にも対応できた。パイク槍兵はあくまでマスケット銃士の防護的役割にとどまり、グスタフもこの兵科に敵を寄せ付けない防壁以上の役割を求めることはなかったが、彼にとってパイクは戦闘に勝利するための武器であり、テルシオ式戦闘法を凌駕するために不可欠なものであった。銃士の砲撃が敵の防衛線を粉砕し、パイクおよび短兵兵器の歩兵隊が勝負を決するという職能分担を彼は確立していた。

どんなに優れた銃弾があっても銃士のみでは用をなさない。グスタフはそれ以外の武器として野戦軽砲を改良した。長らくスタンダードな兵科として存在した砲兵隊だが、これが効果的に用いられるのは攻城戦ぐらいな(攻城戦においては非情に効果的だが)ものであった。グスタフはこれを戦場の主役として大量投入し、それぞれのサイズの砲を戦場各所に設置した。運用は極度に困難であったがそれゆえに動く標的に向けて攻撃するのに非情な有効性を発揮した。グスタフは以前から野戦軽砲について考えるところがあり、砲兵のテクノロジーに関しては専門家と言って良く普段文民として活動する際の彼はエンジニアであった。砲兵はしばしば通常の軍隊の規律および要求を軽蔑し、また通常の兵士も逆に砲兵を軽蔑する癖があったが、グスタフはプロの軍隊として砲兵を正式採用した。

マウリッツは野戦軽砲を改良し打撃力と貫通性を高めて規格化したが、彼の砲は巨大に過ぎた。グスタフが新たに設計して鋳造したものは24ポンド~、12ポンド~、3ポンド~の三種砲であり、もっとも小型の3ポンド砲は(必要ならば)馬の鞍上に乗せるか三人がかりで持って携行することすら可能だった。1625年の砲撃戦においてスウェーデン軍は砲の容易な運搬と速やかな設置を可能とし、ターゲットへの砲撃調整維持を容易なものとした。はじめグスタフが用いたのは銅製の銃身に包まれしっくいでコートされ、革袋に包まれてロープで牽引される砲であったが、やがてドイツでの作戦中冶金術が発展し、4ポンド以上の砲は硬質合金に取り替えられた。使用される火薬もまた発達し、管内で圧縮されて発射されるそれは非情な戦力となったので、このためグスタフは銃身の分厚さを削減することを許可し軽量化を図った。マスケット銃もまた放送され単純化された火薬カートリッジを使用することで安定化し、砲兵と銃士の銃撃の役割は高まり、彼らは軍内で安定した給与を約束された。グスタフのもと、銃士と砲兵の役割はすっかり変わり、戦場の主役というべきものになった。グスタフはブドウ弾(複数弾頭の大型弾)を導入し、この大型弾一発が小型の弾頭24発に匹敵した。スウェーデン軍はそれゆえ他のヨーロッパ諸国に比して火力のより優越した集中運用を可能とした。一般的にスウェーデン軍に専門職は存在しなかったが野戦軽砲と砲兵だけは別で、エリートは砲兵に転科することが多く、スウェーデンはヨーロッパ最強の砲兵隊を保持した。これらのことから、多くの史家が現代野戦砲兵が担う役割をはじめたのはまったくグスタフ・アドルフの功績であると主張する。

「騎兵を本当の意味で決戦兵器として十分な攻撃力を授けたのもまた全面的にグスタヴァス・アドルファス(グスタフ・アドルフのラテン読み)の功績である」といったのはラッセル・ウェグレイであるが、別の史家の見解では彼の功績は真実スウェーデンの勝利に貢献したのかという説もある。騎兵はグスタフの下スウェーデンの主力をなし、一般にその構成員は貴族あるいは富豪の子弟からなったが、グスタフは彼らをカラコールのように巧妙に運用するわけではなかった。ただ昔日通りの騎兵運用を普通に行ったのみである。ただ彼は「騎兵の衝撃力は質量×速度に比例する」という原則を回復はした。それゆえ、騎兵にはホイールロック銃を装備させはしたけれども一般に抜剣突撃のほうが主であったという。騎兵隊と銃士隊はそれぞれに結びついており、彼らは敵に対して様々な速度で緩急をつけてアプローチすることが出来た。銃士隊が一斉射撃で多数の敵をまとめて混乱に陥れることにより騎兵隊は十分に余裕を持って突撃を仕掛けることが出来、銃士隊が再装填中は騎兵隊の突撃が次弾装填まで彼らをカバーし、アシストした。特に撤退あるいは後退に際して彼らは互いに不可欠不可分であった。グスタフは彼の騎兵隊に3ポンド砲を装備させ、機動砲兵として効果的に運用した。彼は早くから「銃撃は敵陣に穴を空けるためにあり、騎兵は敵にとどめを刺すためにある」ということに言及していた。

南宋-畢再遇


 どうもお久しぶりです・・・っていうか間が開くたびにこの台詞言ってますが、実際お久しぶりなので他に言い様もないですよね。さておきまして半月ぶりの更新は畢再遇、南宋中期、趙方とか孟宗政あたりとほぼ同時期やや遅れの人じゃないかと思うんですが、生没がはっきりしていないのでよくわかりません。とにかく分かっていることはこの人が金から蒙古・元の過渡期にあって孟珙登場までの見事な継投役として南宋を保全した名将であると言うことです。諡にもそこらへん表れてますね、忠義の忠に武毅の毅です。そんな人物でありながら今まで全くノーマーク、今回初めて翻訳したのですが、まあどちらかというと勇将・闘将タイプですか。統率と武力で言うと武力が高い、という感は李顕忠のときもそうでしたが、見事な統帥者、というのは南宋末期の歴史上滅多に登場しないのですね。初期の宋沢・岳飛・韓世忠・呉兄弟に劉キを除けば、孟珙ただひとり。あと李庭芝と呂文煥なんかも統率に優れた名将だったかもしれませんが、他は武辺の士ではあっても偉大な指揮官ではないかなあと思わされます。このへんなぜ武勇の闘将が多く統帥者たる人傑が排出しなかったのか考察の価値ありな気もしますがとりあえず今回はこのへんで。ちなみに現在ウディタでゲーム制作にハマッておりまして、特に2.20が使えるようになったおかげで制約が外れていろいろ出来るのですよ。だからまあ、次回更新もまた結構スパン開きそうかなーと言っておきます。まあ書籍づくりもやらにゃいかんわけで、あんまりゲームづくりにばかり時間割いてられないのですけどね。では。

畢再遇(ひつ・さいぐう)
畢再遇、字は徳卿、?州の人で手ある。父・畢進は建炎年間に岳飛の部将として主に護衛として働き、江淮の間を転戦、積功により武義大夫となった。畢再遇はその蔭を以て官途に就き、侍衛司馬となるや武芸絶倫、二石七斗の弓を挽き、後ろ向きでも一石八斗、歩徒なら二石、馬上では一石五斗を挽いたという。孝宗はこれを召してその驍勇を大いに悦び、戦袍と金銭を賜与した。

 開禧二年、北伐の詔が下され、殿帥(後方司令官)郭倪はもって山東および京東を招撫すべく畢再遇と統制・陳慶孝を先遣隊として泗水を取らしめんとする。畢再遇が決死の軍を新たに選抜して先鋒の軍にと請うたところ、郭倪は八十七名をこれにつけた。金人は招撫司進兵と聞くや?場(物資集積所)を閉ざし城門を塞いでこれに備えた。畢再遇は曰く「敵は既に吾らが軍を動かすの日を知るなり。奇を持って兵を制すべく、まず一日その不意に出てこれに当るべし」陳慶孝これに従う。畢再遇は士卒に饗宴を催し、忠義あるべしと激励すると、兵を進めて泗州に迫る。泗州には南北に城堡あり、畢再遇は命を陳べて戈旗船楫を石桶に隠し、兵を分割、西城を攻めんと欲する者はそちらを攻めさせ、自らは麾下の兵を以て趨り徒山から東城南の出城にとりついた。先を争って登り、敵兵を殺すこと数百。金人大潰し守城の兵は北門を開いて逃げる。西城はなお堅守の構えを見せたけれども、畢再遇が大将旗を掲げて「大宋の畢将軍ここにあり、汝ら中原の遺民なれば、速やかに降るべし」と大呼すれば淮平の知県もまた城を以て縋り降るを請う。ここにおいて両城悉く定まる。郭倪来訪して士卒をねぎらい、宝物と刺史の牙牌を授けようとしたが、畢再遇は辞して曰く「国家は河南八十一州、今泗の両城を下して刺史になったとて、次は何をもって賞とするや? 天下を招撫するに朝廷はいくつの牙牌を要するか?」といって受けず。説得のすえようやく環衛官とされた。

 郭倪は李汝翼、郭倬を調発して宿州を取らしめ、また李孝慶をつかわしてこの後詰めとする。畢再遇は四八〇騎をもって徐州攻めの先鋒を命ぜられ、虹に至る。たまたま李汝翼、郭倬は創を負って班師。これに問うにすなわち答えて曰く「宿州城下は大水、我が軍に利なく、統制・田俊邁敵にとらわる」。畢再遇は兵を得して疾駆し、霊壁に屯す。李孝慶の軍が鳳凰山から引き返してくるのに遭遇し、曰く「宿州で捷てざりといえども、しかるに勝ち負けは兵家の常、あによく赴いて自ら挫かん! 吾招撫の命を受けて徐州を取るべくここに道を借り、寧ろ霊壁の北門外に死し、南門の外では死なざるべきなり」ときに郭倪は李孝慶にも書簡を以て叱責し班師を命じたが、畢再遇は「李、郭の軍潰せればこそ、賊軍必定これを追い躙せんと欲す。吾まさに自らもってこれを防ぐ」金人は果たして騎兵五千の大軍を分路二軍に分かって到来、畢再遇は軍中に令して敢死の兵二十人を募り、霊壁の北門を守らしめると同時、自らは兵を領して敵の陣を衝く。金人その旗幟を見て「畢将軍来たれり!」と叫んでついには逃走した。畢再遇は左右の手に双刀をたずさえ、指揮しつつ敵を水際に追い詰め追い落とし、殺すことはなはだ多し。その甲冑戦袍は深紅に染まり、なお北に追撃すること三十里、金将に双鉄簡(鉄の鞭というか長い棒。唐の秦叔宝が使ったことで知られる)をよく操る者があって畢再遇の前に躍馬立ちはだかり、畢再遇は左の刀で鉄簡を受け止め、右手の刀で敵の脇腹を斬りこれを落馬させ、殺した。諸軍霊壁を発するも、畢再遇は一人留まって動かず。軍が進むこと二十里のところで畢再遇は霊壁に火をつけた。諸将が「夜灯りなく、昼に炎あり、はたしていかなる仕儀か?」と問えば、畢再遇答えて曰く「夜照らされればすなわちその虚実を知られ、昼火をたけばもやの中に隠れる。敵破れてあえて近づかざりしも、諸軍の安全虞れなかるべくせり。貴卿ら兵を動かすの安きを知るも、これを退くの難を知らず」と。

 泗州に還り、戦功第一。武節郎から特進して武功大夫、左驍衛将軍とされる。このとき岳ソウ(宗の下に山)が鄭友龍に変わって宣撫使となり、郭倪に檄を飛ばして曰く泗州を棄てよと。命により畢再遇は??に引き戻され、知??軍とされる。ついで改めて鎮江中軍統制とされ、鳳凰山での功績により達州刺史。その冬、金の大軍歩騎数万、戦艦五百余が淮河を渡り、艦隊は楚州と淮陰の間に停泊。宣撫使は畢再遇に楚州救援の檄を飛ばし、また段政、張貴に代えるべく遣わした。畢再遇は速やかに??を出て楚州に赴き、張政らは驚愕、金人らが??に入ると畢再遇はすぐさまこれを復して定め、功績により鎮江副都統制。

 金兵七万は楚州の城下に迫り、三千の兵で淮陰に糧を置いて守備させ、その後方にはまた糧を乗せた三千艘の船が大清河にあった。畢再遇は間諜の報せでこれを知るや、、曰く「敵は十倍、力で勝は難なり、計を以てこれを破るべし」そこで都統・許俊に間道から淮陰に赴かせ、夜、ひっそり敵営に迫るや二鼓して、おのおの火をつけその中に潜入するや、糧車の間五十余箇所に伏兵を置いた。歩哨が火の手の上がったことを叫んで味方に報せたときには、もはや敵は驚愕し擾乱されて鼠のように逃げ趨るしかなかった。ウグランスロ、ボチャムンドら二十三人の将官を禽える。

 金人はまた黄狗灘から淮、渦口に渡り、戊兵は形勢不利と見て悉く逃げ、濠、?が相次いで失われたうえ安豊もまた破られた。畢再遇は諸将に言いて曰く「楚城は兵多く堅壁、敵の糧は既に尽き、慮るべきは淮西のみ。六合の地こそ最要害の要地、敵は必ず力を合してこれを攻めるであろう」と。そこで疲弊を率いて六合に赴く。指揮官として節制淮東軍馬の位を授けられる。金人は竹鎮に至るや六合まで二十五里。畢再遇はこれに先んじて登城すると旗を立て鼓を鳴らし、南の土門に伏兵を敷き、城上に弩手を列べて濠の向こうの敵方を臨む。衆は互いに弩を発し、宋軍は城を出て突撃、万雷の鼓声を聞き、城上の旗幟の数に瞠目した金兵は驚いて逃げ出し、宋軍は追撃して大いにこれを破る。金の万戸完顔蒲辣都、千戸デイボウグらは十万の騎兵を以て成家橋、馬鞍山に駐留していたが、進んで城を囲むこと数重、焼き殺さんと攻め立てるが、逆に濠の堰を切られ水攻めされたうえ畢再遇の号令一下勁弩が一世に発され、撤退を余儀なくされた。また金の都統ギシレと兵を合し勢い盛んにして急攻、このとき城内の箭が尽き、畢再遇は人に令して城上を往来、梁や天井の材木を集める。金人はこの真意を測りかね、とにかく争って箭を射かけた。まもなく城牆にうずたかく箭が集まり、その数二十万余。ギシレは兵を退くも、まもなく兵を増して還り城の四面に営帷を置き、円環状に囲むこと三十里。畢再遇は臨時の門を造らせながら敵に閑暇を示して見せ、そして出撃、奇兵を以てこれを撃つ。敵は都度に擾乱されて夜も安眠できず、退く。畢再遇はその再び襲来することを測り、そこで自ら兵をひっさげ城の東・野新橋を奪い敵の後背に出る。金人ついに遁走し、これを追撃するも折から豪雨豪雪、従って師を還す。この戦いで畢再遇は驢馬一千五百三十一頭、鞍六百、衣甲旗幟は数えるのも面倒なぐらいの戦果を得て、忠州団練使を授かる。

 三年、鎮江都統制兼山東・京東招撫司事。揚州に還り、驍衛大将軍を加えられる。金軍の楚州を囲むことすでに三月、列を成して城外に屯すること六十余里。畢再遇は将帥を派遣して両翼から挟撃し、軍声大いに振い楚州の囲み解ける。これにより知揚州、淮東按撫使を兼任。揚州の北の軍は二千五百人、畢再遇はそれを建康、鎮江の軍に分かったが、何処の部隊も兵力が不足していた。備品も整わず、軽甲を造るにも長さが丈足らず、手足を覆うに届かなかった。ために畢再遇は最重要の兜のみ重武装にして、あとは馬の甲冑と同じく皮革で甲冑を造ったという。また糧車などの車輪も木製にして、脆弱ながら一人で車両を動かせるほどに機動性を高めた。敢死の一軍が亡命してくるとよく駕(皇帝)に御するべしと彼らを登用した。陳世雄、許俊らはみな畢再遇の推挙による。張雄健は勇を頼んで倨傲であったので、畢再遇はその罪を朝廷に議し軍法に照らしてこれを戮した。諸将みな畏れ、服したという。

 嘉定元年、左驍衛大将軍となるも、功成り名遂げた上は郷里に帰って畑を耕したいと上訴する。が、詔によりこの要望は許されず、保康軍宣承使とされる。さらに詔が降って提挙祐神観。六年には提挙太平興国宮、十年、武信軍節度使をもって漸く致仕を許されるがまもなく卒す。享年七十。大尉を追贈され、さらにのち大師を贈られる。諡は忠毅。

 畢再遇は容貌魁偉にして雄傑、若くして拳雄で知られ、また兵卒と一緒に寝て自らを誇ることも飾ることもなかった。一旦事が起きると諸将が日和見を決め込む中急ぎ敵陣に当り、その威声はなはだ著しかった。まこと一時の名将というべし。

名将録南宋篇-進捗および質問

どうも。一月置くといいましたが、少々気になったことがあったので本日もアップ。といってもたいしたことはしませんが。「名将録南宋篇」を作るに当たり、岳飛や韓世忠、孟珙といったあたりにはより詳述された資料があったわけで新しくこちらを翻訳しようと思ったわけです。で、先日も言いましたとおり「平易な現代語にしてお届け」すると。そこのところがこの文章(底本からかなり意訳しています)で果たされているかどうか、読者諸兄の見解が欲しくこうしてpdfを一部ですが開陳した次第です。WS韓世忠
どうですかね? これに金を出すだけの価値があると思われますでしょうか? こうした方がいいとかありましたらご意見ください。「誰を入れろ」という要望も今ならお受けできます。なんといっても発売は本年度末予定ですからね。とはいえあんまりゆったりしてると時間なんてあっという間に消え去るのですが。というわけでご意見ご要望お待ちしております。とりあえずコメントか投票フォームのコメントかにちょろっと書いていただければ参考にしますので。それでは

南宋-杜杲


だいたい一週間経過、というわけで約定通り、新規更新です。今回は杜杲。南宋末のこの時代孟珙を別格とすればこの人か余玠のどちらかが南宋の藩屏として出色な人でした。まあ孟珙がすごすぎて、№2、№3だったこの二人はかすんで見えるんですけどね。それでも彼らの頑張りが孟珙の労力をかなりな部分助けたのは事実なわけで、孟珙愛好家としてこの二人にはお礼を言っとかなければなりません。それにしても最近は調子が悪くてですね、年末は救急車の世話になりましたし先週は病状がひどすぎてかかりつけ医院に追加の薬。しかし先生がとんちき(失礼)でして、「頭が痛くて締め付けられたり突き刺されたり、あと吐き気」というともう「岩城さん=頭痛」とそれだけ認識するらしいんですね。これがやっかいでして、岩城は頭痛もありますが胸の不快感や痛み、舌のまめらなさ、右半身のしびれ、そしてなにより精神状態の不安定という根源的問題を抱えているわけですがそっちはほぼ無視されます。気分が悪化すると自分をここまで追い詰めた父の虐待を思い出しあのジジイを今から鹿児島に行ってぶち殺してやろうかなとかなかば本気で思ってしまうのですが、それについて抑制するケアはまるでなし。どーしてくれようかですよ。まあ、そんなときには創作活動だ、というわけで小説創作、お絵かき、ゲーム制作なんてものをやりながら心の嵐をやり過ごす今日この頃。あんまりに思い通りにゲームが作れないので「ウディタ」の教本をアマゾンに注文しました。ウディタ、ゲームエンジンとしては申し分ないのですがHD画面が使いないのと自分のスクリプトテクニックのなさが恨めしいです。あと一緒に買ったのは「世界宗教史」1巻と「ローマ帝国衰亡史」7巻。この三冊だけで6300円になるということにこの世の不条理を感じながらも、趣味には金がかかるもの、と自分を納得させています。で、明日ウディタの教本が来たらじっくり腰を据えてゲーム作りしてみたいので、しばらくこっちをお休みしてもいいですかねとここでようやく本題。まあ半月か一月に一度はなにか更新しますし、それに「名将録南宋篇」の清書も平行してやってるので、怠けるわけではないです。ただ傾倒する労力を趣味に何割か振る、ということで。そういうことでよろしく。

杜杲(と・こう。一一七三-一二四八)
 杜杲は字を子昕といい、邵武の人で、官門の人である。曽祖父杜?は江西提挙常平、祖父杜鋒は知万戴県、父杜頴は江西提點刑獄であり、杜杲はその陰を以て入仕した。宋蒙戦争勃発前、前後して通州海門買納塩場とされたが、代理建陽尉、ついで?県尉とされ、また江淮制置使李?に招聘され幕僚となる。

 嘉定十二年、宋金第五次戦争中、金軍が?州などの地を攻めた時、江淮制置使は杜杲率いる偏師を救援に赴かせた。金兵が城を囲むこと数重、杜杲は城壁に登って督戦し、身に矢を受けながら指揮を堅持し、州城を以て保全させた。

 そののち、杜杲は江山県丞、崇明監鎮、廬州節度使推官、知定遠県、通判濠州、知濠州、知安豊軍などの職を歴任する。久しく辺境を歴任するうちに累ただしい富と軍事経験を積む。宋蒙戦争勃発当初、杜杲は既に六十二歳の老人になっていた。淮西地区の防御過強を為すうち、朝廷は再度改めて彼を知安豊軍に任命する。

 理宗の端平三年冬、蒙古の大将クオンブケ、チャガン率いる侵攻軍が両淮を攻める。安豊軍は蒙古の主要目標地の一であった。杜杲は蒙古軍の攻撃目標攻撃前に近領に一城を築いて、“家塞寨”と為し、然る後蒙古軍の深入してくる特点に、制置使の同意を得たのち淮河の北の順昌府の百姓すべてを南の寿州に遷し、尾随して蒙古軍の到達した空の家塞寨に押し込み、杜杲は寿州と安豊軍の間の連携を取って、また安豊軍県城の防御施設を修築し、親信する幕僚の沈先庚に防御を主事させ、寿州城、安豊軍城、安豊軍県城の三城で防御態勢を形成した。
順昌府通判王安と蒙古軍が交戦して実戦経験を積む。彼は杜杲に蒙古軍の主要攻城兵器石砲の威力を告訴した。その砲は極大の石を往々にして数百人で弾き動かして放射するというもので、一砲よく囲楼あるいは方楼の楼櫓を撃ち砕く。杜杲は王安の建議を採納し、旧式の囲楼(せいろう)と方楼(ほうろう)を全部串楼(さくろう)に改修し、即時用いることのできる二、三尺粗の栗、棗、槐などの硬木を城沿いの壕に杭を五、六尺埋め立てた。地面の高さ丈余、上部には横木を架け、矢窓を脩造し、下部には羊馬牆を修建して遮り護る。この種の串楼は、一般によく蒙古軍の三砲に対抗しえた。
 かくして予防を為し、万一に備えて杜杲はまた令を下し、予め先んじて非常に多くの串楼を建造し、戦闘中壊れればすぐに直した。

これに次ぎ、蒙古軍の前鋒が安豊軍県城に進行し、挫かれた後また転じて安豊軍城を攻めた。杜杲は聶斌を派遣して重兵で城を守らせ、四隅に埋伏させ、また部将の趙諒に軽騎を授けて突撃隊となし、城を出て蒙古軍を襲撃させた。まさに宋の援軍至り、蒙古軍北に撤退する時、杜杲の命令で寿州の樊辛率いる敢死隊が戴撃し、戦馬四百余匹を奪い大量の物資を獲た。

嘉熙元年冬、蒙古軍は再び安豊軍に進行してくる。蒙古軍は楼閣に向けて炮石を発射しながら、“バートル・イン軍(決死隊)”を派出、金属の兜、牛皮を硬く重ねた甲冑を着せて工場した。杜杲は腕利きの射手を選抜して矢窓から敵の目を狙って射撃させ、バートル・イン軍に重創を負わせる。蒙古軍は城の壕を埋めて平らかにし、二十七座の土手を築き、南風に乗じて城に火をかける。しかしただちに風向き変わり、風雪驟雨に降るに及んで、蒙古軍の火責めは失敗に終わる。杜杲は宋軍を風雪に乗じて反攻させ、土手を占領し、まさしく蒙古軍の砲座および城攻具をすべて焼き打った。呂文徳、余?、趙葵、夏貴らの支援の下、杜杲率いる安豊軍の軍民は再び蒙古軍の侵攻を退ける。蒙古軍が安豊軍の城下に残した器具は一万七千に及んだという。
 嘉熙二年、朝廷は杜杲を安撫使兼知廬州、ならびに太府卿、淮西制置副使兼転運判官に任じた。廬州を堅守して杜杲は多勢の長を採り、鵝梨砲と三弓弩を製造させる。鵝梨砲は一兵で発射可能な手砲であり、大小の石を放射可能。三弓弩は千歩の遠きにとどく弩であった。

同年九月、蒙古の大将チャガンが軍を率いて廬州に猛攻をかける。在城の者壕外の者あわせて六十余里に渡って城郭を修築し、推土を築き、城楼を高くし、胎土の上に砲台を架けて日夜発射やまず。杜杲は軍民を率いて英雄的抵抗を見せ、城の中にあってまた一座の土城を築いてもって不測の事態に備える。あわせて串楼内部に雁翅(三角形の支えの横木)七層立て、串楼の対砲撃防御能力を高めた。杜杲はまた令を下して油に浸した干し草を用意させ、干し草を蒙古軍の土塁の下に敷き詰めて点火、蒙古軍の砲座を焼いた。敵軍の攻勢衰えるを待ち勝ちに乗じて出撃し、追撃すること数十里にして帰る。撃ち斃された蒙古兵は二万六千余にのぼった。

 朝廷は知廬州の勝利報告を聞き、即時杜杲を兵部侍郎、淮西制置使兼転運副使に昇進させる。嘉熙三年、蒙古軍再度南侵。杜杲は余?ら各路の軍と合同作戦を展開し、水師を派遣して淮河を扼し、息子の杜庶に命じて呂文徳、聶斌ら率いる精鋭部隊を要路に埋伏させ、伏兵を発して蒙古軍を撃ち、大勝を獲る。朝廷は杜杲を刑部尚書に任じ、理宗は杜杲に衣帯と馬鞍を賜与した。

 淳祐元年、杜杲は宰相史崇之との間に間隙を生じ、老いの故に職を辞すという。朝廷は杜杲を工部尚書に任じたが、杜杲の退休要求は堅く、朝廷の非許可的状況にも拘らず一葉の船に乗り、郷里に帰った。史崇之と御史劉晋は杜杲を弾劾し、杜杲はついに免職され導廟の管理人とされた。このとき、蒙古軍が南安から侵入を図り、理宗は免職したばかりの杜杲を再び起用して主持広西軍務事としようとしたが、ただしまた史崇之のかたくなな反駁にあい断念せざるを得なかった。淳祐二年、理宗は堅く決して杜杲を再起用し、知大平州に。まもなく昇進して華文閣博士、沿江制置使、知建康府、兼節制和州、無為軍、安慶府。蒙古軍が真州各地を擾乱すると、杜杲は杜庶、聶斌らに兵八千をひっさげて応援に向かわせ、来犯の敵を撃退した。

 そののち、杜杲は功績を以て敷文閣博士とされ、遷されて刑部尚書兼吏部尚書、徽猷閣文学奉祠。淳祐六年、宝文閣学士をもって致仕。淳祐八年六月二十七日、病により卒。享年七十六歳。

南宋-孟宗政

お久しぶりでございます。宣言通りに1週間休むってできないなぁと痛感。なんなんでしょうねこのヘンな義務感というかやらないと死ぬみたいな焦燥感。ぐいや、昨日までは具合よかったから問題なかったんですよ。グスタフ・アドルフ(Battlefield版)34ページを1日2ページのペースでゆるりとやっていたのですが、が、しかし岩城隆之という人間の身体は一筋縄ではいかず、ゆったり安定していた状態から一転謎が謎を呼びそして風雲急をつげて、今日のていたらくです。もうね、痛いとか苦しいとかそうしいの以前に、だるいんです。なーんにもやる気起きないしそのくせ気分はカッカして怒りに支配されてて、自分の精神でねじ伏せようとすればするほど悪化するという。まあそんなわけで今日はつらいから手慰みで孟宗政をアップしたと、そういうことです。ちなみにグスタフ・アドルフ陛下の翻訳は9ページまで進みました。あと3倍以上残ってまして、今日順調にいけばもう少し進んだはずなんですが、まあいいです。とにかく孟宗政よろしく。次回はまた一週間前後のスパンで杜杲、余玠か畢再遇の誰かをアップします。それでは。
孟宗政(もう・そうせい。生没年不詳)
 孟宗政は字を徳夫といい、絡州の人である。南宋の抗金の将の一人であり、祖父孟林は岳家軍の一員として岳飛に従い随州に移り、そのまま随州に居を移したという。孟宗政は幼くして豪放雄偉、胆略あり、常に父に従い戦場に出た。宋の開禧二年というから一二〇六年、金の将軍・完顔革が湖北を犯し襄陽と鄒州に侵犯してきた。孟宗政は義勇軍を募り険要に拠って金軍を撃ち、菌群を撃退すると同時に輜重および軍器多数を得た。宣撫使・呉措はこれを知ってのち、彼の胆略と才能に驚くと同時に恐れを抱いたという。朝廷に報告し、承節郎、棗陽県令。時の名将・趙方は孟宗政のことを聞き知って興味を抱き、朝廷にその才能を推挙、孟宗政は転じて秉義郎に昇進せられ、京西鈐割とされて襄陽に駐留する。

 宋寧宗の嘉定十年こと一二一七年、金人は襄陽、棗陽を犯し、趙方は孟宗政に神勁、忠義軍の節制を任せて敵を伐たせた。孟宗政は巵再興、陳祥と軍を三つに分け、要所に埋伏を伏せて敵を待った。金兵至るや宋兵ただちに発ち、天未だ昼にもならぬうちに棗陽から敵を奔らす。神のごとき用兵に金人は大いに恐れ、防ぐこと及ばずして兵を退き帰る。趙方は勝報を聞き、大いに喜び、孟宗政に棗陽の軍を司らせることにした。孟宗政は着任すると堤防を修築し水利を興し、城墻を修築して兵卒を訓練し、敵の侵犯に備えた。

 これより前、彼が始めて棗陽を治めるようになった初めの頃、部下のひとり愛朴が新たな布告に違反したので、彼は姑息を赦さず、断じてこれを斬った。これによって軍民震え驚き、彼の統治に粛然と従うようになったという。

 嘉定十一年、金の元帥完顔賽不が金兵を擁して棗陽を攻囲。孟宗政と巵再興は兵を合して敵を拒み、金人は三ヶ月城を囲むも下せなかった。双方その間に七十余戦の小競り合いを経、戦いのごと、孟宗政は身を陣の先頭に押し出して突撃し、金軍多しと言えどもこれに勝ちを取る法なし。金兵は憤怒して急撃し、棗陽城四方の壕を埋め、兵を外に並べて、箭を以て宋軍を射る。併せて陶鈐を戦に参加させ、陶鈐は大いに吠えて吶喊した。孟宗政は重い報償を以て壮士千人を募り、これを決死隊として金軍襲撃の間隙に乗じて逆撃。宋の壮士はみな奮戦し、刀槍を掲げ、金兵敢えてこれに当たるものなく、怯えて退く。のち宋の随州守将許国が自水から兵を領して救援に来ると互いの鼓の声が聞こえ、孟宗政が宋軍を率いて出撃し金軍の腹背を突いていて、もはや再戦すべからず、竟に敵軍は潰走して帰り、よって許国の出番はなかったという。朝廷は孟宗政に金帯をもって賜り、転じて武徳郎を授けた。

 嘉定十二年、金の元帥完顔説可が二十万の大軍で棗陽を攻囲。孟宗政は早々に備えを為し、宋兵をもって糠袋に砂を詰め、蓋で覆って城楼の上に並べた。また士卒に令して大甕に水を貯めて防火に努めた。同時に砲手を募って砲撃でもって敵を撃ち、砲声轟くごとに金兵数人が死んだ。金人は忿怒し精鋭二千を選抜、これを‘弩子子’と号し雲梯と天橋をもって城に登らんとする。また銀鉱の工夫を使って昼夜掘削作業を行い、城までトンネルを掘らせ、さらには茅草を運んできて棗陽城下を囲み、これに火をつけ火攻めにしようとした。

 孟宗政は自ら先んじて城楼を壊し、砂をかけてもって延焼を防ぎ、宋兵に命じてトンネルを埋めさせる。再び戦うも利あらず、城の守りは損なわれていった。宋兵はトンネルを進む敵を発見、孟宗政はここで遂に令を発し毒煙烈火を放たせる。金兵は燻され苦しみながらも必死に道を開いてついに棗陽城下に達する。孟宗政は城楼の兵士に命じて彼らに柴薪を抱えさせ、火をおこしてこれを落とし金兵の進路退路を裁つ。そうして壮士千名をそろえ、全員に長槍と勁弩を装備させて、もって金軍に突撃させる。自らは民兵を指揮し、外で落とされた楼閣のために新しい濠を掘って、再度新しい楼閣を築いた。名は偃月城。五日にして落成した。

 金人は剽悍の士卒を選抜し、身に厚甲を着させ、鉄兜を被せて、鋭鋒前進させる。また前線の士卒に令して、火に燃えず凍えもしない皮革を着用させた。かくして西北の金兵は雲梯で城楼に登ったが、城中の宋兵は金兵の喉を狙って鉾で刺し、金兵を殺して追撃する。孟宗政はまた決死隊を募り、城下と呼応して金兵を挟撃、金兵は墜落し火炎の中に死ぬものはなはだ多し。

 金将はその軍を督し、刀を揮い金兵に令して進撃する。太陽が昇ってから沈むまでひたすから戦うが、死傷者は金兵にはなはだ多かった。雲梯も天橋もみな壊れて損なわれ、金軍は攻城を果たせなくなった。追い風の勢いを受けて城外の溝を乗り越えた金兵は矢を放ち携行の油革に火をつけて城上に戦う。孟宗政は将士に血戦を奨励。宋軍もまた矢を以て敵を射殺し、双方の矢が交差すること雨のごとし。宋金このときの攻城戦で交戦すること五十数回を算え、金兵の死者一千人あまり。その都統も宋兵に射られて死んだ。風向きが変わり、金人ますます忿怒して砲火の勢いを増すが、このとき宋将王大任が精鋭一千人を帯びて金の重囲を突破、城内に入る。城中の宋軍士気大いに震って勇気百倍、却って金軍は疲労困憊。孟宗政はまたまた決死隊を募り、金の営に突撃、宋軍これに続いて朝から夜三更まで激戦、あまねく敵を殺し、金軍はもはや打つ手なく、遂に敗れて完顔説可は軍を捨て逃げ去った。

 棗陽はこの戦で無数の敵を殺し、金軍の輜重および牛馬万余を獲た。捷ちを聞き、朝廷はこれを嘉して孟宗政を武功大夫兼閤門宣贊舎人とし、重ねて金帯を賜った。

 湖陽県は金の辺境の重鎮であり、孟宗政は制置使に任ぜられ命を受けて出兵、これを撫す。孟宗政は兵を率いて一鼓これを抜き、そこに積んであった軍需を焼き、その営寨を平らげ、捕虜を掠めて帰る。金人はこれより恐れ入り、敢えて再び襄陽、棗陽を犯すことをしなくなった。中原の遺民数万人が宋に帰順。孟宗政は官戸を開いて彼らを救済すると、それぞれ自らの農地を与えて耕作に励ませ、また家屋を建ててそこに住まわせた。この中から勇気ある壮士を選んで組織し、号して‘忠順軍’。唐州、鄧州に出撃して、威は遠近に振るった。それゆえ金人は彼を敬い恐れ、‘孟爺爺’と呼ぶ。

 孟宗政は軍を治め政を行うのに方略あり、功あれば必ず賞し、罪あれば必ず罰す。賢者を好んで善行を楽しむのこ、これ天性と言うべきであった。いまだかつて誰からも兵法を学んだことはなかったが、その用兵の術は見事なまでに兵法と符合していた。

 没年は定かでないが病を得て死ぬ。彼が世を去るとき、襄陽、棗陽周辺の民は皆泣くのを止めることが出来なかったという。息子の孟?は父の業績を承けついで、南宋を代表する名将として金を滅ぼし元に抗うことになる。

南宋-巵再興

 一週間休む決意は何処へやら、結局グスタフ二世アドルフ大王34ページをちびりちびりと訳してますし、こうしてブログを確認しては記事更新しないと落ち着かない岩城です。ちなみに巵再興さんは趙方麾下の2枚看板をなした名将なんですがあんまりね、書くことがなかったのか第5次宋金戦争以降の資料が散逸したのか、分量は少ないです。1233文字でしたから原稿用紙3枚分。これくらいの量だと書いたという気がしないのは自分が異常になってるのかなって気もしなくはないですが。グスタフ二世大王なんかは一日にとりあえず1から2ページ訳して半月から一ヶ月はかかりそうなんですがたぶんレスは少ないのでしょうね。西欧の名将を語るには王朝やら人物の背景にある宗教的だったり政治的だったりの事情を理解してからでないと意味がないというのはわかってるんですが、政治・宗教・国際世情まで包括的に語るとなると労力が半端ではなくなるので無理なのですよ。まあ、そこのところ手を抜いてると言われればそれまでなんですが、とりあえず本日は巵再興さんをやりましょう。そういえば南宋史概論とか書いてなかったですね。まあ本にしたときにおまけコラムでさらっと書きます。それでは。今度こそ一週間休む(でもグスタフの訳はやる)決意を持って、それでは。

扈再興(こ・さいこう。生没不明)
 扈再興、字は叔起、淮の人なり。膂力あり、よく機に応じて変じた。戦うごと、髪を振り乱し胸を諸肌脱ぎにして突っ走り、双刀を手に指揮して声を震わせ敵陣にはいり、その勇猛は万人の驚嘆するところであった。金人が襄陽、棗陽を犯すと、京西制置使・趙方の檄を受けて扈再興はこれを防ぐ。金人は団山から訪れ、その勢い暴風雨の如し。扈再興は孟宗政、陳祥とともに軍を三陣に分かち、福平を以て待ち受ける。敵人至るや扈再興は中央の陣から発ち、金人を潰走させこれを逐う。孟宗政と陳祥も左右から発って金軍を覆うように援撃、金人は三面から攻撃を受けて大敗し、まさしくその様屍山血河。これにより神勁統制。ふたたび棗陽が攻められると扈再興は軍を率いて救援に赴き、金人はすでにして数万の兵で城を囲むこと九十日であったが扈再興至る、の報せに夜、壊乱したという。扈再興は夜、鉄ハマビシの密集地を横断して偽装退却、金人は馳せてハマビシの中につっこみ、創を負うもの十中七、八。敵の退却を追うこと十五里、金兵の棗陽城東隅を攻めるのに南門から北に向かって迫撃、扈再興と孟宗政、劉世興はおのおの敵の一面を相手取り、大いに戦うこと数十合、金軍を大破した。金の主帥・完顔訛化は歩騎数万を擁して河を渡ろうとしたが、扈再興と孟宗政が河の半ばでこれを撃ったために算を乱して逃げるものはなはだ多く、相争って逃げを打ちそこに急追されて溺死するもの無算。金人は対楼、鵝車、革洞などを創って川をせき止め、土石を運んで城下の濠を埋めた。扈再興は敢死隊を募って全員に鉄面を装着させると、陣を列べて以て金兵を待つ。金人は計を施すところ無くして去り、捨て去った旌旗甲冑輜重は箭に辺満した。笵家荘の大戦においても金人をやぶり、追撃して泊湖まで至って金の巡検・亢師礼酒と都監・納蘭福昌を擒えた。降った壮丁および牛馬牧畜はこの時もまたきわめて多かったという。
 これより孟宗政と扈再興は戦わざる日々無し。扈再興はまた順昌県で敵を破り、甲馬三千を奪う。ついで淅川鎮でも金人三百を殺し追撃して馬鐙砦にいたり、その城柵を抜く。またその護駕騎軍を瀼河において破った。鄧州に入るや高頭を破って歩軍五千、騎兵五百を撃破、その糧秣を焼く。遂に高頭の営に逼り、進んで鄧州を攻め、三家川で騎兵二千、歩兵七千の迎撃に遭うがまたこれを破って金軍の死者十中に七、八だったという。追って城下に至ると、金将・完顔従義は残余の騎兵三百をかき集めて遁走を謀った。扈再興は城を棄てて逃げ去る完顔従義を待ち構えてこれを迎え撃ち、完顔従義を斬る。ついには唐州を囲み、兵を分かって州の境内を焼き討ち、敵の退路を断った。久長の砦にて陣を厳重にして敵の残兵を捜索、金の副統軍広威将軍・衲韃達を擒えた。金兵を戮し、髑髏を集めると首塚が人の背丈ほども積み上がったという。
 のち病により卒。息子の扈世達も名将として知られ都統制になったと伝わるが、史書は彼の事績を伝えていない。

フランス-テュレンヌ子爵

 一昨日、昨日、今日までかけてようやくできあがりましたテュレンヌ長文。そもそも岩城が中国史を飛び出して世界の名将にも目を向けることになったはじまりはこの人でして、思い入れもひとしおです。今となってはグスタフ2世アドルフ大王が脳内世界史名将ランキング1位をかっさらった(斉射戦術、三兵戦術のみならず人間的魅力とすごみが同居していたりとか、国立学校の創設やら福祉の充実やらほかにもいろいろ。まあ、彼の政策すべてが当たったわけではないですが現代福祉の基礎はもとをたどればこの人に行き着くわけでして、それだけでも敬愛すべき人物だと思ってます)けれども、やはり最初の扉を開いた人物ですからね。この人なしでは洋書を読む自分はいなかった、と断言できます。それぐらい岩城の人生を変えてくれました。でも今の岩城はテュレンヌを知ったら今度はルイ14世麾下のあんまり有名じゃないけどすごかった名将、を知りたくなる男。ほんとに知識欲旺盛というか貪欲すぎて困るんですが、洋書で「普通のところでは顧みられないけど本当はすごい人物の本」ないですかね? たとえばアレクサンドロス大王のクラテロスとか、ベリサリウス麾下のヨハネスとかそんなあたりに一人五ページ以上割いてるようなそんなニッチですてきな本ないかなー? ないんでしょうかね。たとえば日本なら小西行長とか石川高信ですら名前伝わってるじゃないですか。その感覚でないもんかなと思いますが。まあそれは置くとして次回は巵再興をアップします。ドキュメントはできてますからいつでも準備オッケーです。ただ連日絶対アップする習慣つけると自分の精神衛生上よろしくないので、明日はやりません。もうね、一週間休んで週一更新とかにしても問題ないというか、そうした方が心と精神の安定のためにいいんですよ。買いっぱなしで読んでない本とかもあるし。でもたぶん一週間は休めないなーと思ってます。ま、とりあえず数日置くということでどうか宜しく。

テュレンヌ子爵(1611-1675)]
ルイ14世の将帥のみならず17世紀の将帥の中で、テュレンヌほど傑出した戦術家、戦略家はほとんどいないと言っていい。常に戦備が整っており、かつ即興でしのぐ適応力があり、彼ほど完全に完成された戦術的、戦略的エキスパートはそうはいなかったし、著述家としても彼は秀逸であった。彼の奉職は30年戦争に見習い将帥として参加したのをはじめに、1650年から1660年代にはルイ14世の最強のフランス軍の中でも頭抜けて優れた軍事的才覚を発揮するに至った。彼が究極的に作戦行動の最高の大家として完成されたのはその人生の最後の2年間であった。たとえ貴族としてテュレンヌが政治に無関心であったとしても、彼は彼の兵士たちと一緒に家族のように過ごすことを楽しんだ。
 初めにこの世紀の軍事的スタイルを確立してリードしたのはナッサウのマウリッツとグスタフ・アドルフであった。テュレンヌはこれら進んだ技術を彼の国家の為に広範囲に学んで、1660年から1700年まで、彼が体得したスキルを超えるものは現われなかった。彼は先入観を持たず、自らの失敗に学び、 特に30年戦争最後の1年、1645年の間における彼のバヴァリア人に対する作戦活動の非凡さは群を抜いていた。慎重で用心深く計算高い戦術家であるテュレンヌには、大いなる聡明さと速やかに立場を判断し、しかるのち行動する行動力があった。
 1667年までに、テュレンヌはフランス軍を世界一級のレベルにまで向上させた。彼の戦術は常に攻撃的であった。また、その命令は大いに自由を保証し、軍から脱走する者を減少させた。彼は兵站および後方業務の重要性を至当に認識し、定期的な通信防衛システムと兵站ラインを構築した。テュレンヌは常に敵のテリトリーを狙い、かつ兵站路を妨害してフランスの戦争におけるコストと危険性を減少させた。これはかつてスウェーデン人が作った原則「戦争の対価」に従ったものである。賢明な彼は軍隊の士気と秩序を維持するために、兵士たちを優遇するのではなく、普通とは逆に田舎のくたびれた駐屯地に分散させ、代わりに高額の給与配当金を支払った。1674年から5年の神聖ローマ帝国軍とのアルザスの防衛戦において、彼は戦闘開始前の偵察中、流れ弾に当たって死んだ。

フランス国王への奉職
 アンリ・ド・ラ・ツール・ドーヴェルニュは1611年9月11日にセダンの半独立公国の支配者、ブルボン公と彼の二度目の妻、ナッサウのエリザベス、すなわち沈黙公ウィレムの娘の間の次男として生まれた。一家はカルヴァン主義であった。テュレンヌは生来身体が弱く成長が遅かったし、その上ひどい吃音症に悩まされ、これは終生治る事がなかった。貴族の息子として彼は修道院かあるいは軍隊にはいることを義務付けられた。彼は身体の虚弱から当然前者を選ぶと思われたが、彼は身体的健康的ハンデを克服して1625年軍籍に投じ、彼をよく知るオランダの叔父、すなわちナッサウのマウリッツとフレデリックのもとオランダ軍に入った。後年私的にテュレンヌのボディーガードとなるフレデリックは、1626年、テュレンヌを士官に任命した。それから四年間、彼はいわゆる「ナッサウ・スクール」で近代戦の技術を学び、また1629年のヘルトゲンボッシュの攻囲戦を含めて広範に経験を積んだ。
 1623年、彼の偉大なる二人の叔父、マウリッツとフレデリックはブルボン王朝の公爵として大政治家、枢機卿リシュリューの熱心な勧誘によりフランス王国の権威に奉職することになった。はじめリシュリューはスダン公国の独立権力を削ろうとした。エリザベスとフレデリックはこれらの申し入れに反抗し、ただテュレンヌだけはオランダ軍の内向性から1630年、スダンから王室への忠誠の証明として非公式にパリに送り出された。リシュリューは初見でこの青年に好意的な印象をいだき、彼を歩兵連隊長に任命した。テュレンヌはいったんオランダ軍に帰り、配置換えされ、しかる後1635年、フランス王国の全く忠実な一武将としてそのキャリアを開始させる。

徒弟時代
 奉職後しばらくはユグノーの同僚たちの下に置かれた。のちの元帥アンリ・ド・ラ・ツール・ドーヴェルニュは、1634年ロレーヌの攻囲戦でラ・モットの指揮下に入り、大胆にして決断力に富んだ最後の突撃での戦場働きによって少尉に昇進された。1635年、テュレンヌは今度はラ・ヴァレット枢機卿の下でマインツの攻囲戦を行って8月8日、補給を求めた。ヴァレットがメッツで引退し隠遁すると、テュレンヌは指揮官として混乱する後衛を率い、将軍マティアス・ガラスと戦い、深刻な傷を負ったが、その名声は世間に非常に強い印象を与えた。しかし1636年から1137年まで戦闘をやめて帰還。その後1638年にはザクセン・ワイマール公ベルンハルトの指揮下で12月17日 アルト・ブレイザッハの戦いを指揮、1639年、彼は北イタリアに転じ、コンテ・ド・ハルコートの軍隊を指揮し抜群の働きと結果とで1640年中尉に昇任せられる。彼は1641年から1642年までルシヨンで彼自身の軍隊を指揮した。

フランス元帥
 彼と彼の一家はプロテスタントであったため、スダン公国自体が政治的に疑われた。1642年、テュレンヌは自分の立場が彼の兄弟家族を巻き込むことをおそれて、マルクス・ド・シンク・マースと共謀しリシュリューの隷下に自分を置いた。しかしながらテュレンヌが継続して彼の中世が常にフランス王室の上にあることを証明し続けたにもかかわらず、彼の雇用者の猜疑はなおしばらくの間止むことがなかった。1643年、リシュリューは彼に北イタリアでの独立指揮権を与え、カリニャーノ公トマスにつけた。この作戦活動中、1643年12月9日、アルザスでザクセン・ワイマール公ベルンハルトが残した「ワイマール軍」の指揮をとっているさなかをもって彼はフランス元帥に昇任せられ、続いてチューリンゲンを速戦で陥とし、このアルザスとドイツ間の作戦は30年戦争が終わるまで続いたが、彼は運命の混じり合いを楽しむかのように不完全な軍隊を教育し、神聖ローマ帝国、スウェーデン及びバヴァリアの好ましくない兵に比較して熟練した兵士を手に入れる事に成功した。
 1644年6月、テュレンヌとワイマールの軍はフランスからの援軍、超然たる指揮官アンギャン公、すなわち未来の大コンデ公、王家の血に連なる名将と合流し、体面上彼に指揮権を委譲した。彼らはバヴァリアのフランツ・フォン・マーシーの軍をフライベルグ・イ・ブライスガウで打ち破り、疲れ切って撤退する彼らを騎兵突撃で追撃し、これをフィリップスベルグでとらえることに成功した。8月25日から9月12日の事である。翌春、定説ではフォン・マーシーの軍は軍隊の強化を消耗して弱体化していたので神聖ローマ帝国に軍隊の強化を申請したが、イエナでスウェーデン軍の反転攻撃に遭い、テュレンヌにライン渡河中を襲われて捕らえられたという。しかし実際にはマーシーは十分頑強な軍隊を保持しており、テュレンヌはこれをスワビアの深みに誘いこみ、彼の交信手段を失わせてその補給物資を見失わせ、その上で壊滅させなけ彼はればならなかった。攻めるに易い平地でマーシーを急襲し驚かせ、マーシーはマリエンタル・バート・メルゲンハインで5月5日 、下手を打った。アンギャン公はテュレンヌの軍隊と撃破したバヴァリア人たちをそのまま吸収して、次いで8月3日 、ノルトリンゲンの戦いに移った。
 翌年、テュレンヌはスウェーデンの将軍カール・グスタフ・ウランゲルに同道し、神聖ローマ帝国からバヴァリア軍を引き離した。神聖ローマ帝国の最高権力者、最高権力者マクシミリアン一世は1647年に至って、もはや和平を結ぶしかないと思ったが、なお最後の反攻作戦としてマクシミリアンはあがき、テュレンヌとウランゲルは徹底的にヨースト・マクシミリアン・フォン・グロンスフィールド伯及びペーター・ミランダー・フォン・ホルツァフェル伯指揮下の帝国‐バヴァリア軍を1648年5月17日 アウグスブルク近辺のザウスマルスハウゲンで打ち破った。この勝利をもって長く長く血なまぐさい戦争は終焉を迎える。
 国内情勢の不安の中で、フランスは一般にフロンドの乱(1648年、および1653年)といわれる内戦に突入、テュレンヌは幼い国王ルイ14世と、彼の首席司祭にして枢機卿のマザランの、最も重要で確定的な勝利のために1652年、王室の正規軍を率いて貴族軍を破い、コンデ公をスペインに追い落とした。しかしコンデ公は亡命先のスペインで兵を借り、スペイン軍をひきいて貴族たちとともにフランス王室を攻撃し、この結果フランス‐スペイン戦争が1653年と1659年の2度にわたって繰り広げられた。テュレンヌの軍事技術は円熟して絶頂を迎えており、彼はフランス正規軍を率いてコンデ公のスペイン軍を破り、またこれに合流するハプスブルグの軍を1658年6月14日、ダンケルク近辺、デューンの戦いで完璧に打ち破った。
 テュレンヌはフランス王国の最も忠実で有能なしもべであることを証明した。彼は1661年、ルイ14世からフランス大元帥に任命された。しかし王室は彼がローマ・カトリックに改宗しないことからカトリック教会の主要な柱であるフランスに対する不忠としてユグノーへの改宗を強く勧めた。ついに1668年、彼は田舎の風習であったプロテスタンティズムを放棄させられた。

フランス‐オランダ戦争( 1672 ‐3 )
1660年代になってルイ14世はミヒャエル・テーラーとその息子マーカス・ド・ルーヴォアを補佐官に、 王国に仕える各位の長官に常時陸軍および海軍をもってハプスブルグとオランダ共和国へ対して優勢たらんとした。テュレンヌは1660な年5月24日 八万人を率いてオランダ国境を超えスペイン軍と相対した。八万人の遊撃隊はベルギーを占領し、カーレロイ、トゥールナイ、オーデンナード、およびアロストとリールを抜いた。オランダ人は依然としてフランスよりも神聖ローマ帝国を支持していたが、フランスの成功に恐慌ををきたし英国およびスウェーデン望遠郷して1668年、三国同盟を結んだ。テュレンヌはこれに対してオランダはスペインの手打ち倒されるであろうとコメントした。ルイ14世は1672年、決然としてオランダを懲罰することに決し、テュレンヌを先遣隊として進ませ、長らくサンブレー沿いをコンデ( フロンドの乱に際してスペインに亡命していたが、許されてフランスに帰服していた)とともに行進してロレーヌ地方のミューズの渓谷で二個軍団は合流し、リーグ司教区を保持した。彼らはマーストリヒトに向かって陽動のフェイントを仕掛け、それによってオランダ人をラインアウトの強化された要塞駐屯地からひきはがし、しかる後ケルン司教区にとって返すとライン川からロビスへ渡り、オランダ軍をオランダに囲い込んだ。
 コンデはラインの水の中に入って残余のオランダ人に対し、テュレンヌはまずマーストリヒトで1672年8月31日、15000の兵でラインを横断し、示威行動を起こした。彼はつづけて南方のコブレンツまで行って転身し、モセルまで下ってロレーヌでの冬営を行った。彼が彼の兵士たちにラインとモセルの渓谷の間で略奪することを許し、「消耗させよ」と命じたのは確かなことであり、それは帝国軍のこの地方での作戦行動を阻害する意図を持っていた。次の作戦行動でもフランス軍は略奪をおこない、ユトレヒトとオランダの両翼と後背から攻め立てた。田舎の小作農は植林していた丘や平地を荒らされ、飢えて凶暴な戦士となり猛然と反撃した。
 1673年、マーストリヒトを攻囲したセンターピース作戦において、テュレンヌは二月から三月にかけて場を仕切り、帝国軍のブランデンブルクの軍隊を脅迫する準備をした。四万人の兵士が立てこもる城をライン川沿いに長いこと囲んだ。マーストリヒトの兵士たちはテュレンヌが西方への行動を封鎖してウィック方面へのマースの崖沿いの道を全く封鎖してしまった時、深く考えなかった。マーストリヒトは6月30日 陥落したが、テュレンヌはこのオランダ共和国の土地を1673年8月30日 スペインの新たな同盟に備えてすぐに強化し、1674年2月19日、イギリスとの戦争が終結するまで要塞化を続けた。この戦争は最初は短く、限定された征服作戦であったが、ルイ14世はこれをヨーロッパ連合への大いなる対抗戦争へと転換させた。

アルザス防衛戦、1674 ‐ 1675
1674年の間じゅう、テュレンヌは巨大なドイツ‐ 帝国軍の行動を妨害し阻害することをオランダ共和国のスペイン領あるいはフランシュ・コンテのどちらかから常に行っていた。これに対し、帝国軍のアイネイアース・カプラーラはラインの西の崖を完全に横切ってシュトラスブルグの野営地近くまで迫った。彼はラインを東から南に通過してロレーヌの公爵カール4世を打ち破り、フランシュ・コンテをおびやかそうとしたが、テュレンヌはロレーヌ公カールを粉砕し下して勢いに乗る突撃をかわした。テュレンヌはラインの崖のそばで敵から生き延びる方策を練った。彼の軍隊は6000の騎兵とわずか1500の歩兵隊だけであり、広範囲から集まってくる敵に対応するにはあまりに劣弱に過ぎた。六月に入り、彼とユグノーの兵士たちはラインの東側から離れ、フィリップスブルグの橋の上に背水の陣を敷いてカプラーラらを待ち受けた。誰も彼らが北方に行進した結果、フランクフルト・アン・マインの慎重な公爵アレクサンドル・ド・ボーモンヴィルと合流してこれを隷下に加え、強化されていることを知らなかった。五日間で100マイルを踏破し、テュレンヌはカプラーラの7000の騎兵と2000の歩兵に追いついた。しかるのち彼はボーモンヴィルと相談し、6月16日、ジンツハイムの戦いで事を決しようとした。
 この時点でテュレンヌは騎兵において優勢だったけれども、彼はなお迅速な行軍と広範囲にわたる作戦で敵を包囲殲滅することを戦闘の理想とした。カプラーラも同様に村落の辺縁のラインで敵を包囲すべく銃士を並べたが、テュレンヌは彼の竜騎兵を下馬させ、徒歩で静かに接敵させた。いくつかの小競り合いの後、カプラーラは軍を撤退させエルザ川を越えて村に入ろうとして、軍隊後方を戦線からより高地のジンツハイムに撤退させようとした。フランス軍は今やようやくその機動性を生かして帝国軍の騎兵隊を高原で襲撃、撃破することが可能となった。テュレンヌはそこでフランス軍の戦闘力を底上げする新戦術を披露、彼の歩兵隊と下馬した竜騎兵隊に狭いわき道を進ませ、高地のふちを取り囲み、夜、城砦といいブドウ畑といい全てを占拠した。彼はこのあたりに落ち着き、騎兵を動かして間道に戦闘行動を邪魔されないポイントを設置した。テュレンヌは銃士たちの中に混じり、またスウェーデンの騎兵隊の作法が規則ただしくに感服した。また敵に備えて火力を追加し、前衛を秩序ある縦深陣形にして帝国軍に攻撃を加えた。フランス軍の前進は予想以上に早く、その結果の破壊力も強大であった。しかし歩兵隊がブドウ畑を荒らすと反撃の打撃および狙撃が始まった。テュレンヌは命令を下し将軍たちに前進を命じるとともに、銃士部のサポートに回り、着実に勢いに乗って帝国軍を丘の後方に後退させた。疲れ切り、幾分ずさんになったけれども、テュレンヌの戦士たちは帝国軍に戦場からの撤退を許す好ましい命令をくだした。両軍の被害者、損耗数はおよそ2000人を数えた。
 幸運と実力によって彼は戦功を重ね成功した。テュレンヌはハイデルベルクで誇示したよりも早く、ラインのニュースタダットのキャンプで結果を見せた。1674年六月初旬、彼はそれをより強固なものとし、ラインの崖沿いを撤退して行進する帝国軍首脳部に対し、ハイデルベルグに前進した。 ボーモンヴィルの軍は戦いを求めた。ボーモンヴィルはしかしライン川の本流から北に進むことを拒んだ。テュレンヌの軍隊は相変わらず国外にあり、ライン川辺縁の崖のそばで生活していた。彼は指揮官として強奪と略奪と暴行を許し、寄付という名目で財貨を徴収し、小作農の報復攻撃に対して主に孤高であったが、ごくたまにパーティーを開催してご機嫌をとったり、逆にならずものを惨殺して見せしめとする事もあった。この「プファルツの荒廃」は引き続き、ボーモンヴィルが八月の終り、ライン川沿いのマインツでロレーヌと北アルザスを脅して30000人を得るまで続いた。テュレンヌは25000人に及ぶ激しい虐殺をやめさせるまでの間に、ウィッセンブルグとランダウでボーモンヴィル以上の略奪と虐殺を行って彼の軍隊を大いに満足させたと確信した。ボーモンヴィルはラインの南に行軍してスタッドブルグ攻撃をラインの橋上からサポートすることを大いに期待されたが、しかし引き離されたまま動けず、テュレンヌはサポートなしで上アルザスおよびフランシュ・コンテの征服を求められた。
 ボーモンヴィルは36000の兵をエンツハイムの村に堅持していたが、動こうとはせず、スタッドブルクの西ブレスヒ川の後ろで強大なフレデリック・ウイリアム・フォン・ホーフェンゾルム、通称「偉大なるブランデンブルク選帝侯」の到来を待ちかまえた。テュレンヌはそれと知ると、リスクを冒しても戦闘する彼のために通信を開き、上アルザスからボーモンヴィルとフレデリック・ウイリアムの接触を妨げる手を打った。
ボーモンヴィルがブレスヒでの交戦のすべてに失敗したのを見届けたのち、十月なかばの夜、テュレンヌは静かに軍を動かし、川を越えモルスハイムのボーモンヴィルに合流すると彼と一緒にシュトラスブルグを攻撃し、これを攻め下した。文献によれば、ボーモンヴィルはエンツハイムの戦いで「最も長く届き、もっとも執拗な大砲が並んだ。未だ嘗てこのような光景を見たことがなかった。」とされるフランスの2500門の砲兵士官の出身であった。事実のままを述べるのならばボーモンヴィルは正面からの突撃にこだわり、側翼に回ることをしなかった。彼は危険と悟ると3500人の死傷者を出す撤退を経験したが、最後まで戦場に立って勝利をつかんだテュレンヌの損害は3000人を超えることはなかった。
 10月10日 フレデリック・ウイリアムはラインの西崖を通ってケヒに20000の兵と33門の大砲をもってシュトラスブルグを通過し、ボーモンヴィルが創り上げそして遺した50000の兵と合流した。圧倒的に数で勝る敵に対し、テュレンヌはデットウェイラーまで撤退、しかるのちサヴァーネとハーグナウの砦に立てこもった。彼はひたすら防衛につとめ、そして33000人の兵力があればこの敵を倒すに足ると計算した。テュレンヌは冬営の間にボーモンヴィルの屯所で今はフレデリック・ウイリアムの物である土地を訪れ、ライン川近辺から手を引くようにと率直に述べた。1674年十二月初頭、テュレンヌは九つの大軍をサヴァーネとハーグナウで迎えた。彼の後ろには後進の軍隊が続いたが、北と西からあつまるこれらを合わせても小部隊というほかなかった。
 大雪と霜の中、彼と彼らは南方へ逃げるように見せかけ、しかるのち律動的に東のベルフォート・ギャップ領へ入った。彼は保有の軍とベルフォートのそれを合せて再編し、12月27日 、テュレンヌはライン川近辺の平地に打って出た。帝国軍のだれもが驚いた事に、点在する守備兵は帝国軍の1/4にも満たなかった。ボーモンヴィルは騎兵隊の先頭に立ってフランス軍の時間稼ぎに尽力した。彼の軍隊はコルマーおよび小ティルクハイムの小諸都市からかき集めたものだった。前回急いで北に逃げたあと、テュレンヌが帝国軍をミュールハウスで撃破すると12月29日にティルクハイムの兵をひきい、1675年1月4日 テュレンヌのもとにはせ参じた。ボーモンヴィルは暫時フレデリック・ウィリアム率いる30000と対決したが、時間稼ぎ以外彼らは全体として期待できるのではなかった。
 テュルクハイムの兵は正規の守備兵の下に置かれた。彼らは劣弱で役に立たなかったが、テュレンヌは彼の対向者と対決するために彼らを使えるよう鍛えて配置に付けた。しかる後彼は自らフランス軍を率いて命令しつつ30000人が待ち受ける戦線に突入した。フランスは前進し、帝国軍左翼と中央は主な努力をティルクハイムとの闘いに割いた。帝国軍は着実だったが街の頑強な妨害とボーモンヴィルの献身的な努力によって主力が町の郊外に引きずり出された。
 そしてよりフランス軍にとって僥倖だったのは戦闘の辺縁でティルクハイムがボーモンヴィルに率いられて帝国軍中央と左翼をうまいぐあいに引きつけたことにあった。彼は人が変ったかのようにティルクハイムの兵を率いて敵をブロックしてはそのぶん前進した。宵闇になって、帝国軍左翼はテュレンヌの支配する戦闘圏内に入り、ついに帝国軍はラインを超えてシュトラスブルグから撤退した。

テュレンヌの作戦と死
 1675年からの作戦活動は、皇帝レオポルトのリコールにより名うてのイタリア人、古強者のライモンド・モンテクッコリが帝国軍総司令官に起用されライン地方を狙ったことにはじまる。彼はまちがうことなくケヒ‐シュトラスブルグからアラスに侵入し、35000の兵力をもってシュトラスブルグを直撃した。彼はテュレンヌ率いる25000を挫き、ついでモンテクッコリがフェイントをかけた機動によって北を突くと見せると、今度はテュレンヌが敵の思惑を見ぬいてこれをブロック、阻んでのけた。真に用兵の原則をわきまえた両将は、ラインの崖附近で互いに譲らない戦いを繰り広げた。テュレンヌが川を越えて機動作戦を行おうとすれば、モンテクッコリはこれを理解してテュレンヌをはばみ、その逆もまた真であった。彼はたがいに余人の知らぬレベルでのコミュニケーションをとって、わずかなアドバンテージを奪い合ううちに七月が終わろうとした。モンテクッコリは機動戦によって敵に損害を与えようとし、ニーダー・ザスバッハでテュレンヌに勝負を避けられない状況を作り、フランス軍を引き出した。テュレンヌは戦闘前の砲兵陣地視察のさなか、思いも寄らず敵砲兵の誤射の流れ弾がテュレンヌの頭に直撃し、フランス最高の名将はあえなく落命した。7月27日のことである。彼はSt.デニス大修道院に埋葬され、フランス王ルイ14世がじきじきにその魂の安息を祈った。その墓は外観を損なうことなく、フランス革命後までそのままで存在する。のち1800年ナポレオンの命令により、救国の英雄として廃兵院に移送された。

南宋-趙方

現在Cドライブが極度に断片化されてまして、デフラグ中。よってマシンの機動が非常に鈍化しているので手短に。今朝は孟宗政か巵再興、といってましたが、根本的なところで彼らを使いこなした制置使・趙方を忘れとるやんけということでまずは趙方をアップします。いろいろ書きたいこともあるし電子書籍化計画のテキストに結構な数の拍手ありがとうございますとかいっておきたいのですが、なにぶんハイスペックPCを売ってしょぼいノートに乗り換えダウングレードしたので余裕がなくすみません。それでは本日はこれにて。次回こそは孟宗政、巵再興のどっちかをアップします。

趙方(ちょう・ほう。?-1221) 趙方、字は彦直、潭州衡山の人である。父・趙棠は若くして胡宏に学び、慷慨にして大志あり。かつて張浚とその督府にて見え、張浚はその雅量と才覚に敬服して以てこれを右選官となした。趙棠は不撓不屈、しばしば策を以て兵事を語り、張浚はこれを奇として息子の張?と趙方に交わりを結ばせ、のち趙方はその縁で張?に学ぶ。
 淳煕八年、進士。蒲圻尉に遷せられるや疑獄の多くの案件決裁を委ねられる。のち大寧監教授となるが俗人、陋しき者はなはだ多く、趙方は教えるべき者を自ら選抜して彼らにのみ親しく学問を教え、人々甚だこれに感動したといい、ここから出た進士甚だ多かったという。知青陽県となるやその太守・史弥遠に曰く「科挙を催して憂いなし、これ科挙を催して無事に当たる。刑罰に差無くすれば、これ刑罰を以て教化するに当たるなり」人これを名言という。
 主管江西安撫司機宜文字となり、京湖の将帥・李大性を知隨州に抜擢する。南北講和の始め、突如大蝗発生、趙方は自ら京師四郊に走り、祈祷するや一晩大雨降って蝗盡く死ぬが、この年南宋は大熱波の旱に襲われた。和平がなると諸郡すべからく戦備を緩めるが、趙方は一人兵を招き将を抜擢し、抜擢した土豪の中に孟宗政ら名将があったので彼らを官につけた。同年、提挙京西常平兼転運判官、提點刑獄となる。時に劉光祖が徳をもって軍を率いるのを見て、趙方は礼を尽くして曰く「吾、性太剛、劉公を見る都度に人をしてさらにこれを緩めんと」かつ劉光祖に書を請うて「勤謹和緩」の四字を授かり、座する所常にこれを掲げてもって自らの戒めとした。召されて金部員外郎、のち直秘閣を加えられ、さらに改められて湖北転運判官兼知鄂州。さらに昇遷されて直煥章閣兼権江陵府。三海八砦を修築し、その形勢甚だ壮。勧められて秘閣修撰、知江陵府、主管湖北安撫司兼権荊湖置司。
 時に金兵動き、計るにこれかならず南を侵さんと言い、日夜防備を固める。荊門の東西に双山あって険要をなし、趙方はその上に登って堡塁を築くとともに、戌兵を増してもって金軍の衝撃を迎えんとする。進められて右文殿修撰。金の樊快明が謀って宋に帰すると見せ、兵を率いて襄陽に至ると、趙方は孟宗政、扈再興らに百騎を授けてこれを迎撃させ、金人を殺すこと一千余、金人は算を乱して逃げ去った。これにより工部侍郎、宝謨閣待制、京湖制置使兼襄陽府。間諜により金人の本格的南進の意図を知るや、速やかに防備の令を下す。金の相・高琪とその枢密・ウゴロンケジュは陳、光化、隨、棗陽、信陽、均州を侵し、趙方は夜半その息子趙笵、趙葵を呼んで曰く「朝廷、和戦の説未だ定まらず、見るにこれますます人の意乱る。吾既に策を決っせり、ただ兵を引っ提げ辺境に臨み、決戦してもって国に報いるのみ」かくて主戦の論を取り、自ら襄陽に赴く。
 金人は棗陽を囲むこと急、趙方は孟宗政、扈再興らを使わして棗陽を援かしめ、さらな光化、信陽、均州の戌兵を増やし、もって連携して声勢を震わす。すでにして棗陽の守将・趙観は金人を城外において破り、扈再興、孟宗政が至って趙観とともに金兵を夾撃、再びこれを破って棗陽の囲み解ける。趙方は諸将に申しつけ、境界上で金軍を迎え撃ち敵人を一歩たりとも南宋の領土に入れるべからずと。時に麦のまさに熟し収穫の季節、趙方は兵を遣わし民を護ってこれを刈らせ、清野を令してもって金兵を待つ。再び力をふるうを疎み戦う可からずという者わずか七人、戦議ついに定まる。
 金将・完顔賽不は十万と号する兵を率いて境内を超えた。趙方は諸将を分遣、棗陽を犯さんとする者は孟宗政に尚家川で破られ、隨州を犯さんとする者は劉世興に磨子平で倒された。相対したまま翌年になり、趙方は劉世興の師を移して許国、扈再興に棗陽を縁語せしめ、張興、李雄?は隨州の援護に充てた。隨州の囲み解け、扈再興らは転戦しつつ棗陽に入る。時に孟宗政は城を守って城の東に兵を伏せ、金人は待ち伏せに遭って敗走したところに、いまだあきらめず再度至らんとするところを扈再興がまた破った。これより数日戦い無し。金人は満を持して三方面から来寇、しかし孟宗政が東門から、扈再興が南門から、劉世興が北門から出て、大いに合戦してこれをやぶった。金人は進退無く、よく防ぐあたわず。諸将は表裏共謀してこれを撃滅すべく、許国がまず南野山から進み、張威が?河から進み、劉世興、李琪が城から出て許国と会し、扈再興もまた城を出て張威と会す。?角の勢(三者鼎立)をなして追撃すれば金人遂に潰す。光化の守将・潘景伯もまた伏兵により金軍を趙家橋に破り、孟宗徳もまた隨州の鴨兒山で金人を破った。完顔賽不の妻の弟、王醜漢は擒われ、趙方は完顔賽不を誅殺した。この戦功を以て龍図閣待制に昇遷され、長沙県男に封ぜられて食邑を賜った。
 金人はまた退去南侵、完顔訛化の号令一下濠を埋め、もって土城を造る。趙方はそのその巣窟の空くを計り、その虚に乗じて一突きを喰らわせば、棗陽の囲み自ずと解ける。そこで許国に命じて東の唐州に、扈再興に命じて西の鄧州にむかわせ、また自らは息子の趙笵を観軍としてもう一人の息子、趙葵を殿に据えた。時に孟宗政は城中にあって日夜鏖戦、敵の攻具を焼き、金人敢えて近づくこと無し。西師が光化の境から出て三尖山に砦し、順陽県を抜く。金人は衆を率いて攻めに出たが、大敗した。扈再興と許国は両道並んで進み、唐、鄧の境で会すと劫掠、その城柵軍糧を焼いた。棗陽の城は堅く、金兵を引きつけてその足を留めること八十余日、趙方はそれを知るや気力恢復し、許国、扈再興を召し戻し、扈再興に東方の師を率いさせて期限を決め合戦させる。扈再興は?河で金人を破り、また城南でも敵を破った。孟宗政も城中から打って出て金軍を夾撃し、その衆を殺すこと三万余。金人大潰し、完顔訛化は単騎逃亡、宋軍は大量の財貨軍糧を手に入れ、軍器については数えるのも大変なほどであったという。趙方はまた進められて煥章閣直学士。奏して官軍民兵に均しく糧を支給されるよう乞い、自ら馬を以て備える者には二倍の食費をもとめた。また奏して、「民兵は夏は帰らしめ、もって月給を省くべし。秋また詣でて屯し守御してもらうべし」朝廷これに従う。
 趙方は金人がしばしば棗陽を攻めて志を得ないのを計り、必ずまた同時に諸城を攻めるであろうと読み、まさしく先手を打ってこれを制す。許国、孟宗政に命じて師を唐州に向かわせ、扈再興は鄧州へ、そして戒めて曰く「深入りする勿れ、城を攻める勿れ、まずその保甲を潰し、そ城砦を焼き打ち、その軍糧を空費させるべし」孟宗政は進んで湖陽県で敵を破り、その千戸・趙興皃を擒えた。許国は部将を派遣して耶律均および金人と比陽に戦い、その将・李提控を戮した。扈再興は高頭城を抜き、大いに金兵を破って遂に鄧城に逼った。来援した唐州の兵も加えてこれを破る。降る者が一人出ると髄鞘する者はひきもきらなかった。金兵が樊城に至ると、趙方は扈再興に命じて陣を待たせる。趙方が敵師を見るところ、金人は三日間動かず、ついに遁走した。
 金の将帥で?馬の耶律阿海が淮西を侵し、枢密・完顔小驢が唐州の後釜にはいる。趙方はまず唐州を伐つべく謀り、扈再興を棗陽から遣わしてその西を撃たせた。許国には桐栢から発して東を撃たせる。扈再興は金人を唐城にやぶり、完顔小驢を斬って、城を囲むところの五砦をことごとく降した。たまたま薪州、黄州が相次いで陥とされ、趙方に詔が降ってこれを救うべしと。趙方は速やかに許国に命じて鄂州を守らせ、扈再興には淮西を助けさせる。許国が鄂州から戻ると今度は江州の守りに充て、扈再興の軍を薪州の霊山に至らせて金人の銅製を伺わせる。土豪、祝文蔚がこの時敵人に突撃し、金人大敗、許国は張宝らに兵を授け遣わして来援、李全らまた至り、金人ついに潰滅。扈再興はそれを追撃すること六十余里、その監軍・耶律阿答を擒えた。趙方はこの功績で顕謨閣直学士、太中大夫、権刑部尚書とされた。
 にわかに病を得、特進して徽猷閣学士、京湖制置大使。帰還するや病を押して師を犒い、論功を行った。改めて病重くなり、曰く「あと一日の猶予あらば、まさに一日で綱紀を粛正してみせるものを」扈再興を臥室に招き、勉めて心を合して国に報いよと誡め、また宰相に書を送って大いに論考を行うべしと説き、その夜卒した。死の瞬間、大隕石が襄陽に堕ちたという。端明殿学士、正議大夫として致仕したこととされ、銀光光祿大夫、太師を追贈された。諡は忠粛。
 趙方は儒生から身を起こし、辺境を守ること十年、彼のもとで官民は一体となり、家族を成した。軍を率いるに厳格であり、毎度諸将に飲酒するなかれと戒め、まさに日々連戦を可能ならしめた。淮、蜀の辺縁はしばしば金人の襲来を受けたけれども、しかるに京西一帯を完全に保全してのけたのは全く彼の功績による。かつて劉清之にまみえ、その才覚から留意され抜擢を受けたが、彼自身もまた多くの人材を抜擢した。名士の陳?、游九功らは皆抜擢され大吏となったし、また名将も多く彼の麾下から輩出した。扈再興、孟宗政ら土豪から身を起こした人物は彼のために力を尽くし、藩?となって朝廷の北虜の憂いをなからしめた。それゆえにこそ彼の死は人々から惜しまれたのである。

南宋篇投票箱設置

 皆様おはようございます、というか岩城は6日近く寝てないです。新記録ってほどではないですが昔に近いなぁと。夜中じゅう頭は痛いわ胸はしくしくするわ右手は思うように動かんわとまあいつも通りですがね、はっははは。そんで本日は名将録南宋篇について投票フォーム作りましたよーという報告と、あと収載人物のリストアップです。南宋目次とまぁだいたいこんな感じで。かろうじて名前が読み取れるサイズではあると思いますが、この名前の下に()で読みがな振ってあるのがすでに翻訳済みの人物です。だからあと倍近くやらないとなぁとつらいような楽しいような。で、投票フォームには買うか買わんかほかの時代をやれか設置しましたので。たぶん記事だと数ヶ月の間にすっかり流れるだろうということで投票箱です。それでは改めまして宜しく。そして予告。今日は昼頃に孟宗政か巵再興のどっちかをアップします。ブログ記事としてのこれと書籍としてまとめる文章はまったく別物に、現代口語文訳しなおさないといけないので時間かかるのですよねー。とはいえブログ記事に口語体でアップしたら書籍版が見向きされないとなるので差別化が必要なわけです。めんどくさいですね。それではまたお昼頃にということで、テュレンヌ邦訳に戻ります。

イスラーム世界-バイバルス

 やっぱり昨日一日では時間的に無理でした、というわけでバイバルス和訳は本日になりました。しかしチンギスといいティムールといい、大帝国の支配者は冷酷残忍でないといかないっていう原則でもあるんでしょうかね、このバイバルスもエジプトを中心としてかなりの版図を獲得しましたが、やはり冷酷な支配者でした。まあ人間押さえつけられれば反抗するし、それを支配しようとすれば酷刑をもって恐怖でって事になるのかもしれませんが。温厚篤実、仁慈で大帝国をなした人物はいないものですかね、ナポレオンですらも秘密警察を組織して密告を奨励してましたし、やっぱり仁慈の君はそもそも広大な世界を支配したい、という望みを抱かないのですかね。このへんもう少し深く考えてみたいところですが。ところで話変わって昨日通院日でした。もうすんごい具合悪い日が歳末から続いてたから助けてくだされとそんな気分で先生と会ったのですが、なんか話がかみ合わない。「鬱でも躁でもない中庸の状態に持って行ってもらえませんかね(切実)」に対して先生曰く「あ、大丈夫大丈夫。問題ない(けろっと)」というわけで、両者の病気に対する認識に齟齬があるのですよね-。あの病院で床に転がってうめき声あげながらのたうち回るような患者、岩城は自分以外に見たことないしあの先生もそんな患者を相手にした経験はないようなんですが。だからもうあの駄医者、とののしり言葉が出てきてしまうわけです。それでもあそこ以外に場所がないからなー、つらいところです。そういえば銀英伝をしばらく母に読ませまして、それで自分もちょっと読み返してみたのですが、ゴールデンバウム王朝だったら精神的不虞者である岩城は殺されて処分されるとこですよ。ここが平成の日本でまだ少しはよかったなと。でも日本の政治もいい加減末期ですけど・・・って政治の話はやめておきます。考えるともう一気にネガティブになるし。
 それでは前置きが長かったですが、マムルーク朝バイバルスです、よろしく。

 スルタンはの太陽と星のきらめきの間に粛然と立っていた。それはまるで狐を狙うライオンのようであった。彼は異教徒戦うための厳しい訓練を受け、そして飽くなき聖戦をつづけた。
~昼夜にわたる戦争
 「バイバルスの生活」より。アブー・アル・ザーヒル~
バイバルス(1229-1277) スルタン・バイバルスは公正に見て、中世イスラム教世界の最も強力な戦士であったと言える。彼はシリアの白人奴隷(マムルーク)から身を起こし、ついにはマムルーク朝の創始者となってこの王朝はほぼ二百年の間、世界の大権力の一つでありつづけたのだから。彼自身は聖ルイとの戦いに勝利を収め、アイン・ジャラトの戦いでエジプトとシリアの覇権を握り、そして1260-77年の間スルタンとして君臨し、無敵のモンゴル軍を打ち破った。
 サラディン(1193没)はイスラム教聖戦のシンボリックな存在となり、今日の西洋においてもその騎士道精神は美徳的イコンとして、イスラム教的にはイェルサレムをキリスト教徒から取り戻した英雄として頌えられるが、本当の意味でフランク人の締め付けからイスラム教世界を解放し、レバント地方の覇権を確立したのはバイバルスであった。今日高い人気を独占するのがサラディンであるが、実際の実績を言うならばバイバルスはそれ以上のことを行った。しかし彼が史上無名に近いのは、彼の事績を記した書物や伝説の類いが西洋にほとんど流れなかったからであろう。彼の生前死後に書かれた伝記を別として、初めてバイバルスの叙事詩が書かれたのは15世紀を過ぎてからである。シラート・バイバルス(バイバルス史記)と呼ばれるその素晴らしく格調高い伝記中で、彼は素晴らしい英雄的行為、人間性と信心深さによって、何百年間か高い人気を博し、20世紀初頭にはカイロでそれぞれ30ものジャンルに分かれた朗唱者が存在したが、西欧においてはなお無名なままであった。

マムルーク朝の祖 バイバルス政権-そして後継者たちにおいても-の主要な特徴と言えば軍事支配であった。スルタン自身が軍を躾け指揮するプロデューサーであった。彼はおよそ1229年(正確な生年は実のところ分かっていない)、キプチャクから逃げたトルコ人家族の一員として産まれた。
 ロシア南方の大草原からクリミア半島までがロシア軍の侵略を受けた。逼迫されて逃げてきた少年バイバルスは奴隷にされた。彼には二人の買い手がつき、最初の買い手は彼の瞳孔に異相があるとして悦び彼を買い取った。他方もう一人の買い手の方はこれを「残忍な邪眼」として恐れ、買い控えた。

 十四歳の時に彼はアレッポの奴隷市場で下級貴族に安値で買われ、しかし長い雌伏を経てのちついにはカイロのサラーフ・アイユーブ、すなわちサラディン、エジプトの支配者の宮廷に仕えるまでになり、サラディンおよび彼の子供らにバハリヤ・マムルーク(白人奴隷護衛官)として仕官する(この部分致命的誤訳です。1193年に死んでるサラディンにバイバルスが直接仕えたわけはないですから、ここは「アイユーブ朝の血脈に仕えた」と読み替えてください。)。マムルークの素体はアイユーブ朝で創られ、これは「白人奴隷」といいつつ実質的には奴隷と言うより「エリート護衛官による精鋭部隊」であった。ムスリムの支配者は長らく中央アジアおよびクリミアからのマムルーク(文字通りの意味の上に支配される奴隷戦士)を使った。彼の青年時代は家族から孤立させられ、イスラームへの改宗を強制させられて、ナイルのアル・ラウダの特別私兵隊として扱われた。彼らはバラックで共同生活して起居し、そして過酷な訓練を受けたが、それ以外の点ではむしろエリートとして尊敬を受け、また命令を受ければ対キリスト教軍の主力として並ぶ物が無かった。後完全な訓練を終えた彼らはバハリヤ・マムルークとして奴隷階級から解放され、スルタンの家族の護衛官として一目を置かれる存在となった。
バハリヤ・マムルーク隊が歴史の表舞台に出た最初は1250年2月、アンスラフの戦いである。これ以前フランスの「夏王(のち聖王)」ルイ9世は十字軍の頭としてエジプトの地を侵し、それは総合的な意味で最良の軍隊組織であった。今や彼は前進してナイルを下りカイロを脅かした。アイユーブのスルタンはつい先日逝去したので、十字軍の2月8日の接近は、エジプト軍野営地に大きなショックを与えた。彼らの指揮官はバイバルスを見いだすと速やかに後事を託し、キリスト教軍の騎兵隊は万雷の蹄音を響かせながらマンスールの町で戦争に突入したが、致命的失策を犯した。バイバルスはバハリヤ・マムルークを率いてムスリムの先頭に立った。この時代の戦いの特徴は「獅子的英雄が敵を打ち倒す」に尽きた。マムルークは敵の不道徳に乗じて逆襲の突撃をしかけ、点在するキリスト教徒を次々と仕留めていった。また、マンスールの通りの密集する地帯に罠をしかけ、十字軍の馬を殺し疲れきった騎士たちをゆっくりと仕留めていった。おそらく、十字軍の立派に洗練された騎士たちの100人中15人が殺され、その中には208人の騎士団長も含まれた。バイバルスとバハリヤ・マムルークはかくて圧倒的かつ歴史的に重要な勝利を得た。世間が彼らの戦闘能力を高く評価し、活力と力の模範としたのも当然のことであり、神への忠勤と並んで二つのファクターでキリスト教諸国に先んじていたかもしれない。少なくともバイバルスは力によって正しさを証明した。

モンゴルの侵攻~アイン・ジャラットの戦い 第7次十字軍は結局失敗に終わったけれども、アイユーブ朝にも後継者不在という問題が横たわった。タラン・シャーはバハリヤ・マムルークに彼らのマンスールでの奮闘の報酬として虐殺と略奪を認めた点で継承者としてふさわしくなかった。この帝国の中が空虚で不安定な状態になると、実力を持ってマムルークの支配層が台頭した。1250年、バイバルスもまた・ラー・アル・クトゥズの一武将となり、実力者の一人と目された。その矢向、彼らは最も強大で強力な試練に立ち向かうことを余儀なくされる。すなわちモンゴルの侵攻であった。1258年、10万の大軍を以てかの遊牧民の騎兵隊は複数の道を通ってバグダッドを強襲し、東方に近いスンニ派カリフの大都市を徹底的に破壊した。モンゴル軍は基本敵に多国籍であり、多様な神を信じ、そして権利を保障されていて、誰もが彼らの前に立ちはだかる者を神の敵と認め、抹消することに躊躇いがなかった。1259年、彼らは前進してシリア、パレスチナ、エジプトの諸都市に入った。まずアンティオキアが屈服させられ、同じようにアレッポが攻撃された。ムスリムの挑戦はしかし撃破された。しかしながら1260年早夏、モンゴルの大軍はよりよい(砂漠ではなく、牧草地の)狩り場を求めて撤退した。クトゥズはこの機に乗じて反撃に出た。バグダッドとシリアはモンゴルの手に落ちており、イスラーム世界の生存はこのエジプトと東方世界の対決にかかっていた。クトゥズはジハード、すなわち聖戦を公布し、モンゴルに抗戦した。クトゥズはモンゴルの特使を斬り、歴史家が怖気を振るうような冷酷さを示した。
 1260年9月、クトゥズはバイバルスを同道させ、シリアに打って出るや侵略者たちに立ちはだかった。2個軍団およそ1万2千人と、クトゥズらは9月25日アイン・ジャラット~別名ゴリアテの泉~で遭遇し激突した。おそらく適切な場所からより弱い集団を順次倒していったことになっているが、実際は分からない。ともかくもモンゴル人にとって、クトゥズらのエジプト軍は征服できない相手であった。同時代のキリスト教徒とムスリムの間の戦闘とは全く違う戦いだったが、2個軍団は比較的これによく似ており、両翼から弓兵で矢を射かけひるんだ敵本陣に乗り込めば比較的容易く制圧できた。これはフランク人の重騎兵との戦いと本質的に似通っていた。
 マムルークの決定的勝利の要因はバイバルスのはたらきによる。彼はしばしば偵察部隊を出して状況を探るとともに、擾乱作戦によってモンゴル軍を混乱させた。彼のマムルークの対抗者は撤退の魅力にとりつかれたが、バイバルスら選ばれた少数の抗戦派はあくまでアイン・ジャラットの戦場にこだわった。谷と森、そして嶺に囲まれ、水源に隣接した平地で、ムスリムの軍は丘上で彼らの戦闘配備につき、モンゴル軍と対峙した。早朝、強い太陽が照り付け、マムルーク軍はゆっくりとスロープを下った。絶えずドラムを打ち鳴らし、神への祈願を叫びながら。まずモンゴル軍はムスリムの最精鋭を見つけたが、その時にはマムルーク軍は左翼別格の騎馬隊を堅持してモンゴル軍右翼を後背から撃っていた。モンゴル軍左翼は角を支配しており、ムスリムは流浪の民の盟友を遊撃としてこれを撃たせ、残った中軍を取り囲んだ。残余のモンゴル軍は獰猛に戦い丘の上に登ろうと試みたが、しかしバイバルスがこれに横撃を加えて彼らの進軍路を断った。バイバルスの同時代における伝記作家、イブン・アブド・アル・ザーヒルはこう著述する。曰く
「彼は敵前に立ち、そして彼らの最初の猛攻をしのいだ。敵は彼の英雄性を見て、彼が迫るより早く再突撃を試みた。彼は丘を登ろうとする敵の後背について突撃をしかけた。衆は彼の尽力に丘から山を登り登攀し、全方位から彼を支援した。彼は戦い、かつここで彼自身の命を賭けた。兵士たちは初めて自ら彼らの頭を選び、彼らは多いに殺戮した」
 モンゴルの将軍は乱刃の中に殺され、そして彼はシリアに残る敵を速やかに排除した。これはマムルークの絶頂であった。モンゴルの気風は排され、侵略者たちは盡く打破された。

スルタン・バイバルス クトゥズは彼の偉業を長く楽しむことが出来なかった。旅に出てエジプトに帰った彼は、1260年10月23日、ガザでバイバルスによって殺された。彼が戦闘でみせたヒロイズムにしてみればスルタンの位をゆずられて当然であって、バイバルスが罪を犯すに至った責任は大部分ムスリムの総意による。アイン・ジャラットは勝利以上に重要なことに、彼を真のイスラームの守護者として許す効果を持った。信心厚い救国者は、強奪したのではなくて神の認める最高の形でマムルークを最重要な勝利に導いたとされた。
 バイバルスは速やかに事を始め、アイン・ジャラットの上に彼自身の魅力によってスルタンに選ばれた。彼は冷静に情報操作に着手した。イブン・アブド・アル・ザヒールはこう書いた。「神は彼のタタール人に対するアイン・ジャラットでの大いなる勝利を嘉した。スルタンは神の与えたもうたこの偉功と敵に強いた流血の量を記念して、マシャッド・アル・ナーセル(勝利のモニュメント)を創建するよう命じた」
 かくてバイバルスはスルタンとなった。彼が絶対に優先したのはシリアとエジプトの防衛であり、そしてモンゴル軍への逆襲であった。彼はジハードの継続を宣言し、それを成功なし遂げるにはバイバルス自身のムスリムとしての信仰心、アイデンティティーが聖戦の必要不可欠なパーツとしてあった。さらに彼を助けたのは1258年のバグダット破壊から復活したスンニ派カリフがスルタンとしてバイバルスを比較的、カリフより上位に認め、1262年には彼を尊称して明確にへりくだり、名実ともにバイバルスをイスラーム世界の正当な精神的指導者と認めたことにある。誰もこれに異を唱えず、サラディン以来のジハードの指導者としてアイユーブ朝の後継者として認めた。

バイバルスの兵制 バイバルスは最高司令官としてきわめて精密な軍令を下し、彼に率いられる騎兵たちはナンバーリングされた部隊として危機をくぐり抜けるために相当な訓 練を課された。兵の士気を高めるためバイバルスはモンゴルの抑圧下から逃れてきた難民を迎え、彼らを訓育して軍隊組織の下層、奴隷階級に置いた。それはさながらアイユーブ朝におけるマムルークの扱いに似ていた。最も重大な変更としておよそ一千人単位だった部隊を、バイバルスは四千人単位に変えた。高いスキルと堅固な肉体、そして厳格な訓練と愛国心による聖戦意識保に裏打ちされた兵士らにより、彼の軍隊は完全なプロ集団としてできあがった。彼らは非常に恐るべき重厚な戦士であり、弓矢と剣と斧と槍のすべてを使いこなし、くたびれた胴鎧をまとって馬に騎乗した(これにより正面からの攻撃から身を守った)。これはアラブ・キュレニアの険しい山々、荒れた地形を機動・踏破するのに適していた。
 バイバルス自身は特別な競技場をカイロにつくらせ、特別優れた兵士たちと戦闘訓練を行い、スルタン自身鉄の教官として極めて熱心に馬術、剣術、弓術及びランス(突撃槍) のスキルを磨いたということは有名な事である。彼は並の軍隊で受ける鍛錬のすべてを通過し、むしろ戦闘技能を行うにあたって熟練した技能を保持していた。政治的にはこのスルタンは挑戦者に対して率直かつ残忍であって、水責め、磔刑、流刑など、反逆を抑止するために彼と相容れない者には酷刑をもって対した。
 バイバルスは国策実施のために、偉大な注目すべき兵站術の達人たちを雇った。このスルタンはその後直ちに騎馬による伝令システムを構築し、カイロからダマスカスまで、400マイルを三日でつないだ。彼はまた狼煙によるシグナルと伝書バトも駆使し、国内の交通整備を完全なものとし、道路や橋のコンディションを改良した。彼がとりわけ熱心だったのはスパイ網の構築と彼自身変装しての強弱の政敵発掘である。その一例としてイブン・アブド・アル・ザヒールによれば、1268年トリポリでボヘモンド6世の御馬番に扮した彼はまったく詮索されることなしに町を探索し、騒乱の原因をなしたという。

バイバルスの戦略とフランク人への反攻 バイバルスは確かに軍事技術とその偉功、そして諜報機関の情報収集の補佐を受けて素晴らしく精力的な作戦行動をほぼ毎年行って自ら直接それを指導した。彼はフランク人(レバント地方におけるキリスト教徒の名称)、トルコ人、モンゴル人、アラブ人およびアルメニア人を圧倒し、そして堅い決心と冷酷な計算高さによってフランク人との連続した戦いを有利な条件で休戦した。彼はそれ以外の普遍的な敵を求めたが、彼の対抗者は常に容易く打ち破られた。
 彼のフランク人に対する反攻とその印象を要約すると、彼は1261年から活動的にパレスチナのフランク人を襲撃した。1263年には自らアクレを攻撃し、1265年にはカエサリヤとアルスフを手に入れた。1266年にはサファドを占領し、1267年にはもう一度アクレを蹂躙した。1268年、彼はヤッファとビューフォートを占領したのち、さらに遠くへ進軍し、アンティオクを手に入れた。1269年、彼はテュロスを脅迫し、1270にはカラック近辺の貴族たちを踏みにじったうえ翌年までかけてサフィタとアッカを占領した。このようにスケジュールは毎年のように追加され、彼は最終的にダマスカスを求め、彼以外のシリア王国を征服してこの地で閲兵した。続いてヌビア、イエメンと小アジアに作戦の鉾を転じ、1269年にはメッカとメディナをも手に入れた。
 バイバルスのフランクに対する反抗と逆襲は、ムスリムの歴史家でさえもその悪意と峻厳に怖気を振るうほどのものだった。襲撃につぐ襲撃は、木をなぎ倒し、村を蹂躙し、家畜を殺しつくした。毎度多彩なトリック、詐術で、フランク人を打ちのめした。彼の兵士がテンプル騎士団とホスピタル騎士団の旗を抱えて恐れおののく農民たちをアクレの町から追い立てた事があった。無力な小作農たちは策略に気付いたけれど彼らは逃げ遅れ、およそ500人が殺戮され打ちのめされた。記念碑としてサファド城内の大きな円塔に戦勝をたたえる碑文が刻まれた。
 スルタンの価値観とポリシーから、このフランク人の城は報奨としてイブン・アル・フラットに与えられた。ムスリム軍の一部はフランク人たちを城塞から追い立て、そして彼らの城を破壊し新たな城を築き 、東方からくるモンゴルの脅威に対抗するため、城壁堡塁を[もとのそれと比較して]より高く増した。また、やがて海岸後方からくるモンゴルの脅威を取り除くための手段として、十字軍の橋頭保を利用した。著名な著述家はそう記すが、内陸ではしばしば攻囲された城がそのダメージを残したまま修築されずに基地として近隣地区を統制していた。キリスト教諸国家は恐怖に震えあがり、防備をかためてモンゴルの侵入を待ち受けるしかなかった。

バイバルスとモンゴル ペルシアのモンゴルからの脅しに対し、バイバルスは彼に不可欠な柔軟性と創意の才、そして彼の戦争における以前からのルールに則して攻め寄せる東方勢力の遊牧民騎兵隊に対して焦土戦術をとり、そしてより時間をかけて彼は反撃のための主力軍を自ら創設した。秀逸な外交術でフランクと休戦協定を結び、ゴールデンホードのモンゴル軍に相対してロシアの南までをムスリム集団の前哨基地とした。共通の信念を持ってバイバルスは彼と彼の国を逼迫して競争するゴールデンホードとペルシアのモンゴル軍に相対した。彼らはそうして1273年モンゴルの侵入をユーフラテス沿岸のビラの城で迎え撃った。スルタンはラクダとワゴンで解体したボートを運び、川の上で組み立て直して進軍してくるモンゴル軍を全方位から攻撃した。彼はつづけて遊牧民たちを小アジアから駆逐するべく強要し、彼の軍歴の最後としてシリシアで勝利した。
 バイバルスは1277年6月20日、ポロ競技の観戦中に酒の飲み過ぎで倒れ、死んだ。強度のアルコール中毒にさし迫られて彼はワインのかわりにロバのミルクで過ごしていたが、どうしようもなかった。彼の殺戮と詐術の記録はいたるところ大いに噂を呼んだが、しかしながら真実を証明するにたるものは何ひとつなかった。彼はマドラスのザヒリヤ(かつてサラディンの父親の家があった場所)にドーム状の特別室を作って埋葬され、大理石でつくられた部屋は多色のモザイク模様で飾られ、今日なおその静謐を見ることができる。
 無慈悲と打算的を兼ね備えたバイバルスが創り上げた帝国の支配圏は小アジアとシリア、パレスチナとエジプト、下ってヌビアとイエメンまでに及んだ。彼は抵抗から逆襲に至り、その成功を支えたのは紛れもなく常時の軍事力であった。彼のすばらしい軍隊とそのスキルはフランク人をシリアから遠くへ追放した。彼はクリミア半島からつれて来られた奴隷の少年であったにもかかわらず、17年間、厳格かつ冷酷な支配者として成功した。

 ・・・以上です。それで次回以降の予定ですが、たぶん中華篇南宋の素材集めの意味もあって趙方あたりを。あと続けて趙方の部将ってことで巵再興、孟宗政と続けようかと思ってます。その次はテュレンヌが「MilitaryBiography」の短文版しか上げてないので「ArtofWar」の長文版を。それ以降はまだ考えてないです。というわけで以上。おつきあいありがとうございました。

書籍化について、問

 そういえば忘れてましたって事で一つ、皆様に問いたいのですが、古文調だったり堅苦しかったりする全文をわかりやすい現代語の縦書きに改めて、名将と奸臣と敵将を集めて時代背景やら人物Aの行動が人物Bに与えた影響なんかをコラムとして短い私見など入れ、今年一年かけて12月までにDLマーケット様から「中華名称録・南宋篇」を出す予定でいる岩城な訳です。で、今いった感じの電子書籍、300ページほどで300から500円程度だったら購入していただけるか否かについて決を採りたく。というわけで「買ってやってもいい」という方はこの記事のブログ拍手に1クラップお願いします。まあ需要がなくても自分の勉強の成果として形にはする予定ですが。ともあれそういうことでよろしくお願いします。バイバルスの訳はまだあと4ページほど残ってますが、3日だか4日だか寝てないのでそろそろ眠くなってきました。明日病院から帰ってか明後日かに仕上げるとします。それでは皆様、今週も克己精励にいそしむとしましょう。

南宋-成閔

 そして続きの成閔です。さっき解元のところで書くこと書いたし、ついでにいうと翻訳したのがかなり昔なので思い入れが薄くなってたりして語ることがないです。なので今回は前置きのうざい一人語りはこれで切り上げて、明日、は病院なのでたぶん明後日、バイバルスをアップできると思います。それでは。

成閔(せい・びん)
 成閔は字を居仁といい、?州の人なり。靖康の初め、劉?が眞定の師となり、兵士を募って金兵を防ぐと、成閔はその麾下となった。高宗即位するや、成閔は数百騎を領して揚州に至る。上と会して南に渡り、韓世忠が苗傳を追い、ウジュを襲い、范汝為を討つや、成閔はみな進軍し、また力戦して敵を斥け、積功をもって武功大夫、忠州刺史。

世忠に従って入朝し、世忠成閔を指して曰く「臣南京に在り、自ら謂う天下当先、まさに時にこの人を見て、また一頭を避くなり。(わたくしは南京に在り、自ら天下無双と自認していましたが、この人を見てまた一頭及ばないと知りました)」上その労勉を嘉し歓ぶ。ひるがえって海州を以て取り、抜擢されて磁州団練使。召見し、袍帯、錦巾を賜り、玉帯束束を加贈された。時まさに金と盟し、世忠兵を罷め、枢密使に入って為し、詔により成閔は棣州防禦使、殿前遊奕軍統制とされる。遷せられて保寧軍承宣使。

紹興二十四年、慶遠軍節度使を拝す。ついで母の憂いに当たるも、詔により復帰、母は鄭国夫人を追贈された。金主亮まさに明を敗り、成閔は詔により禁軍三万を以て武昌に鎮し、命ぜられて湖北を守る。漕いで砦屋三万屋を創りもってこれを待ち、米錢茶引全百四十万余に亀裂発し、米を買い上げて義倉に六十三万石を軍用に備え、則ち金器を賜り、剣甲これに臨んで遣わす。成閔は鄂に至り、まもなく進んで応県城に屯す。

八月、官を移して湖北、京西制置使、浙西両路軍馬。九月、兼ねて京西、河北招討使。十一月、詔により淮西に回って援す。成閔は還るを得るにおいて喜び、雨を冒して昼夜兼行建康に趨り、士卒多く死ぬも、朝廷師を犒うものを給わるを以て忽ちこれに帰し、士卒及ばず。士卒に怨みごとあって成閔これを斬る。まもなく官を換えられて淮東制置使さとれ、鎭江に駐す。既にして言者の論、諸軍みな鎭江に聚め、敵の不意をついて上流から恐れに出で、ここにおいて詔発され成閔は鄂州の張成、華旺と軍を還して鄂に駐す。

亮死し、成閔兵を引き江を渡り揚州に趨る。金人?胎より淮を渡って北に去り、成閔は南岸に兵を列して、軍士互いに諾の声を聞く。金人笑いて曰く「成太尉の寄る声、勤めて護送有り(成閔の大声も、我らを護送するに有るのみだ)」時に虜すでに気を奪われ、日に王師の至るを虞れ、干戈を棄てるに委ね、粟米山と積み、郡多く仰いでもって給う。これ成閔の軍浙人多く、もとより粟を食まず、死者甚だ衆。

成閔泗州に至り、奏して已に淮東を克服すると。まもなく入朝し、およそ侍従、卿監、閤門、内侍、みな賄賂で官を買う。左に劉度が正言してこれを弾劾するも、なお超して太尉を拝し、主管殿前司公事。まもなくまた御史論列、とされ、太尉を罷め、?州に居住し、慶遠の節を奪う。乾道はじめ、自ら頼るを聞き、湖州に帰り、まもなく詔により節に復し、都統鎭江諸軍とされる。九年、祠を請うて致仕。平江に園第を治める。

淳熙元年卒。享年八十一歳。開府儀同三司を追贈された。子が十一人。

南宋-解元

 早くても復帰は12日以降、と宣言しましたがそんなことは忘れました。忘却の彼方にファーラウェイです。2万5千で取り回しに融通の利くノートPCに乗り換えてオーバースペックのモンスターPCを7万で売却、各種ソフトのインストールと諸設定を済ませ、ついでにチューンナップユーティリティを使ってノートのスペックを可能な限り引き出して性能32から100パーセントまでもっていき、昨日と今日の二日はそれで潰れました。体調悪くておとといから寝てないから徹夜テンションでちょっと躁です。でもまあ都合のいいことに明日通院日なので、穏やかに世界の幸せを願える人になる薬を出してもらうとします。そんな薬があればどんだけ楽かって話ですが。K先生の薬の出し方って躁状態だとやたら押さえつけて陰鬱になるし、鬱の時は元気にならせようといって「フシャシォシャシャーッ!」ってなるような薬を出してくれやがるのでですね、中庸って大事じゃないかなと思う昨今、というか岩城の病状がちょっと普通を逸脱して重篤なので中庸に気を凪がせることが難しいそうです。めんどくさい病気だなぁと。それはさておきまずは予告通りに解く元、成閔をアップです。これ二つとも過去記事のストック分なのでそれ自体手間はかかってませんが、その裏であれやこれやの合間を使ってマムルークのバイバルスを現在邦訳中。とりあえず解元、成閔、二人連続でアップします。

解元(かい・げん) 解元は字を善長といい、保安軍徳清砦の人である。眉目秀麗の美丈夫にして猿臂、騎射を善くす。行伍より身を立て、清澗都虞候となった。建炎三年、大将・韓世忠の麾下に隷し、擢されて偏将。韓世忠は下邳から出て、金兵の大挙押し寄せるとの報せを聞くと士兵みな驚愕し、恐れたが、解元はただ二十騎を領して敵兵を擒え生捕り、敵の動息を知った。俄かに数百騎と遭遇するも、勇躍して身を自ら陣に陥とし、敵の酋長を横から刺して馬から墜せば余衆みな遁げ去る。この功により閣門宣賛舎人。苗傳、劉正彦の変でも韓世忠に従い、追撃して臨平に戦えば賊勢既に衰え、ついに浦城にてこれを擒える。

 四年三月、金人は浙西を攻めたが、韓世忠は京口に兵を治め迎撃し、敵が軍を返すその帰路、海艦をもって大江を横切るように塞ぐ。金人は小舟数十で出て、宋船の戦板に長鈎をかける。解元は別舸(小型艦)に載り勇躍して敵舟に乗り込み、短兵(剣や斧、手槍など)をもって将を撃ち殺すこと数十人、兵を擒うこと千余。忠州団練使、統制前軍を授かる。継いで従い閩の寇賊・范汝為を撃ち、湖外にて諸盗を転戦、討つ。時に劉忠白が面山に拠し、険に憑って塁を築いたが、韓世忠はこれを撃ち、賊営から三十里に迫って陣を張る。解元は独り馬に跨り水を渡り賊砦に薄り、四顧周攬(四方八方当るところ敵無し。大暴れしたという程度の意味)す。賊は山に因って望楼を設け、高から下を俯瞰し兵を以て之を守り、壮鋭四山に屯し、それを指呼して出戦する。だが解元は既に其の形勢を知っており、帰って韓世忠に告げて曰く「与し易し。もしその望楼を奪い拠せば、乃ち技極まるのみ」韓世忠は之を然りとし、まず解元率いる兵五百を遣わして長戟(長柄の武器)の中に居せしめ、翼から弓矢し、自ら部衆に下知して高みに趨れば、賊はこれを支えること敵わず。そこで望楼を占拠し、赤幟を立て、四面並進、これにより賊を平らぐ。解元は改めて相州観察使。

紹興四年、金人は偽斉の兵を合して入侵する。韓世忠は鎭江から揚州に趨り、解元に命じて承州に駐屯させる。金人近郊に至れば、解元は翌日城下に敵至るは必至と測り、百人を遣わして要路に伏し、百人を獄廟に伏し、自ら四百人を以て路隅に伏せる。そして令して曰く「金人過ぎるなり、我先出してこれに当たり掩す。要路に伏す者、我が旗幟を視て、乃ち幟を立ててもって待て、金人必ず獄廟に走る、伏者背より出よ」また河岸の堤を決壊させてその帰路をとどめる。金人は果たして城下に走迫り、解元は伏発を発す。金人は進めば伏兵退こうにも流水、とるべき道なし。そこで獄廟に走るも、解元はこれを追い百四十八人を俘虜とする、うち将官は二名。時に城中の兵は三千に満たず、金の万戸・黒頭虎は城下に向けただちに降れば助命を約すと解いたが、解元は兵力を隠匿したうえ、偽りの降伏の使者に微服(粗末な服)を着せて城から出す。これに対し金人が驕り怠るのに乗じ、にわかに伏を発して瞬く間に黒頭虎を擒えてしまった。まもなく四方の金兵集合するも、解元は戦ってこれを退け、追北すること数十里、金人見ずに堕ちて溺死する者甚だ多かったという。改めて同州観察使。六年、韓世忠は下邳から出て、数百騎をもって敵を破り兵を伏せ、保順承宣使を授かる。

 十年、順陽の地を略す。劉冷荘に至って率いるところは騎兵がようやく三百に対して敵は鉄騎数千。しかし解元が戈を振るい太呼するところ、衆も争って奮撃し、向かうところ披靡せざるはなかった。さらに敵の救援至り、味方後顧を疑い懼れるが、解元が振り向いて叱咤勉励して曰く「我ここに在り、汝ら慮る無し」といえば衆すなわち安じたという。転戦すること辰の刻から午の刻に至り、ついに敵を退け、整然として還った。龍神衛四廟都指揮使を加えられる。

 明くる年、韓世忠は兵権を罷めて枢密使となり、解元は鎭江府駐箚御前諸軍都統制となり代わって韓世忠の衆を統べる。その翌年、進んで侍衛親軍馬歩軍都虞候、まもなく保信軍節度使を授かる。年五十四にして卒。檢校少保を贈られた。

南宋-秦檜

 なんかやたらと気分が昂ぶって「うりゃさーっ!」「えぃし! えぃし! えいさぁ!」な気分のままでいたら眠れませんで。そのまま元気なのか最悪なのかまったくわからん気分のままに秦檜を終わらせちゃったのです。歳末に「来年は月二回更新で」とか言ってたのは何処へ行ったやら。ちなみにこの文書は音声入力で書き上げました。いままで手打ちの方が早いと思ってたのですが、ちょっとコツを掴むと音声の方が断然早いですね。ただ漢文は固有名詞が膨大な数に上るのでそれを一個一個登録していくのが面倒といえば面倒。とはいえ手打ちでも固有名詞はその都度辞書登録しますしね。対して差は無いです。しかし秦檜って知ってるつもりで知らなかったですね。最初この人主戦派だったんですよ。それが徽宗親子と一緒に北に連れ去られて、帰ってきたら銭ゲバ権勢欲の塊な悪徳政治屋になってたわけですが、この「どこでどうして和平派に転んだのか」という所を掘りさげて考えてみたいですね。まあ何処まで肩入れして考えたとしてもこの男に共感は抱けそうに無いですが。よく「岳飛を殺して和を結んだのは国策として正しい」という学舎さんいますが、罪も無い人間に「お前平和のために死ね」って言って殺したわけですからね。学舎さんには「自分はその状況で死ねと言われて死ねるか」というところまで考えて欲しいと思う次第。まあ悪も悪党巨悪の首魁ですが、ここまでいくとユニークですらありますよね。息子を高宗の養子にして国を奪おうとしたとかスケール大きいことは確かです。まあ、好きか嫌いかと問われれば間違いなく、嫌いですが。
 ともあれとりあえずご拝読御願いします。そして次の更新は解元か成閔か、どっちにしても韓家軍からアップしようと思います。で、これから少少PCの売却と乗り換えで時間取られますんで、早くても十二日以降になると思いますが。あんまり気張って更新してると義務感になって精神的負荷を増やすんで、ゆったり行くつもりです。そんなわけですのでゆるりとお待ちください。

秦檜(しん・かい。1090-1155)
 秦檜は字を会之といい、江寧の人である。若年時、太学で読書しているとき、彼の身長が異様に大柄だったため、交際応酬のあった同学年の人々から“秦長脚”と呼ばれた。北宋末、徽宗の政和5年、進士に及第、とりあえず密州教授を授けられる。まもなく中詞学と茂科を兼ね、正式に太学学生を授かる。

 欽宗の靖康元年、金軍が開封を囲んだ。秦檜は朝廷に向かい四条からなる建議書を提出し、抗金を主張、寸土たりとも割譲して和議を結ぶことに反対したが、宋廷は尽く秦檜の意見を無視、代わりに彼を昇進させ員外郎とし、彼と程瑀を一緒に割地の使者として粛王・趙崇に陪道、金との和議に赴かせた。開封に帰ったのち、秦檜は殿中侍御史、遷せられて左司諫。あるとき御前で割地の是非を問うことが議題に上ると、笵宗尹を筆頭として70名が和平に賛成したが、ただ秦檜たち36人は決然として反対した。この事があってから、秦檜は御史中丞を拝した。

 金軍は開封を占拠したのち、帝の座を思う張邦昌を立て、傀儡政権を建立した。東京の留守・王時雍は百官を招集してこの事を議した。秦檜は監察御史・馬伸の意見に付き、御史台を代表して意見書を提出、未だ宋朝の宗室は義に背いていないとして、張邦昌の立てた偽齎の成立に反対した。金軍はそこで秦檜及びその妻王氏を拘禁し、そののちまた彼ら夫婦を徽宗、欽宗親子とともに金国の韓州に連れ去った。

 秦檜は金国にあって、表面上は節義を保ち、宋の使者の面前で剛毅不屈の精神を見せて迷惑がられたが、しかし使者が帰ると密かに金人とつながりを持ち、大いに和議に唱和した。南宋政権が建立されたと知るや、徽宗は即時金の権臣、オリブに書信で帰国を申し入れたが、秦檜はこれを潤色し、南宋をして金に和議を乞わしめた。秦檜は金人に賄賂を贈り、オリブの手中にある書信を開封前に手に入れた。まもなく、金の大宗は秦檜に賞与を与え、その族弟・ダランをして秦檜を山東まで送り届けさせた。建炎四年十月、秦檜夫婦はダランに言い含められ、宋廷に対する和議の使者となるべく、南宋に帰された。秦檜は南宋朝廷に帰ると、自分は監視の金兵を殺してかろうじて逃げてきたと主張した。官員たちは少なからず疑いを表したが、ただ、宰相・笵宗尹、同知枢密院事・李回らは力強く彼を高宗に推薦し、秦檜の忠誠を信じるべしと説いた。秦檜は高宗に向かってダランの求める和議の文書の起草を提案し、また金朝と偽齎の現状を紹介した。紹興元年、二月秦檜は参治政治に任ぜられ、彼はひそかに対金和平派の主導者となりつつあった。

 同年七月、秦檜は手管を使って、笵宗尹を宰相の座から引きずり下ろした。八月、秦檜は右僕射、同中書門下平章事兼枢密院事。九月、秦檜はまた左、右丞相の分任をやめるよう建議、高宗はこれを認可し、呂頤浩を専管軍事とし、鎮江に赴かしめて都督府を設置させた。呂頤浩は朝廷から排斥されることで朝廷の権力を掌握できなくなることを大いに恐れ、自ら親しく信じる連中と輪をなし、勢力を培った。

 翌年、金朝から和議に対する否定の答えが返ってきた。高宗は秦檜に対して不平の意を示し、呂頤浩はこの機に乗じて朱勝非と連合し、殿中御史・黄亀年を弾劾して秦檜の私党を切り崩そうとしたが、和議を第一に考え、失地回復をあきらめる点で、秦檜の党派を朝廷から切り崩そうとすることは不可能であった。高宗は直学士院・綦崇礼を召して礼を尽くし、秦檜の提出した”南人は南に帰り、北人は北に帰るべし”という主張に大いに頭を悩まし相談した。曰く「朕が北人にあらざるゆえに、諦めざるを得ぬというか? 秦檜はこの数カ月で南宋朝廷を壟断し、天下を動かすに至った。今この変化に対していかんすべきや?」綦崇礼は甚だ厳しい言葉で秦檜の言動行動を制する文を起草、これが布告されて秦檜は罷免され、以て観文殿学士提挙江州太平観。再び任用されることはないかに思えた。

  紹興五年、秦檜は金との和議を主張して上奏。紹興七年、右丞相・張浚の推薦で秦檜は枢密使に任ぜられ、再び調停に返った。彼は張浚に取り入るべく出謀劇策をなし、高宗に勧めて岳飛の統べる淮西軍を張浚に援助させ、淮西軍の敵を倒すを嘉して招致させた。しかし張浚は自らの後任に趙鼎を推して辞任したので、秦檜は張浚の引き立てらなかったことに懊悩しかつ怒り、趙鼎に対して曰く「皇上は早晩にも貴卿を宰相となす心づもりだが、張浚はそれを許さず妨害するだろう」趙鼎はこれにより張浚と反目し互いに目の敵とし、そのためにかえって秦檜に対する皇帝の信任はいやました。翌年、秦檜は再び宰相の任に就き、また陰謀を弄んで趙鼎を陥れ、趙鼎はついに朝廷を放逐された。

 紹興八年五月、金の使者ウリョンスムたちが南宋との通商と和議の交渉に臨安に到来した。高宗は身を屈して和をむすぶことを決心し、朝廷には少なからず反対の官員たちが不平を鳴らしたが、秦檜は高宗に説いて曰く「わたくしと僚佐たちは頭尾の両端、大事にたらざればもって断ずべし。陛下は果たして講話を決心するに如かれれば、願わくば陛下我に単独で商議せんことを。群臣の参与は以て不要なり。」高宗は遂にこれを良しとする。秦檜は単独和議の首魁となり、これ以降秦檜は和議を論ずるにあたってほしいままに蛮横を振るう。朝野に激烈な抗議の論潮が溢れたが、彼は難なくこれを鎮め、もし不満ならば自分はもう一度職を辞するといえば、高宗はその権限の限りを持って全力で秦檜を支持するほかなかった。抗金を主張する官員たちは大っぴらに打ちのめされ、前後して和議に反対する書を上呈した胡栓、陳剛中、馮時行らの人はおとしめられて辺遠の州軍に飛ばされ、朝野の論はことごとく制圧された。この年歳末、宋と金との間で第一次紹興の和が結ばれた。 秦檜は廉恥を顧みることもなく、ついには高宗の代表として金に向かい金朝に跪いて詔書を賜った。

 紹興九年、金廷で政変発生、和平派のダランらが殺され、主戦派のウジュを筆頭としたグループが朝政を掌握した。翌年、金朝は和約を破棄し、兵を四路に分かち、大挙南進した。秦檜は恐れおののき、高宗と民衆の犠牲の羊として彼と彼の党派は怒りを被った。御史中丞・王次翁が高宗に進言して、事情が変わった上は宰相を入れ替えるべしといったが、これも趙異の党と争って朝廷の安穏は影もなかった。秦檜は上奏して自らの罪を弁明し、その上でなお称しのたまて曰く「わたくしが昨日見るに、ダランには明確に割地講和の意思がございました。故に陛下に河南を守るべく支持し、北方を望むなと論じたのであります。しかるに今ウジュがその叔父たるダランを殺し、和議を改変したのでありますから、わたくしとしては陛下にこれを討伐するべく願い、 長江周辺の各位の将帥達に力を合して金軍を討つべしと存じます。」

 紹興十年秋、 各路の宋軍は前線においてそれぞれ程度の差こそあれ勝利を収め、戦場の主導権を握った。秦檜はこの勝利に高宗が浮かれるのに気をよくし、詔を下して岳飛、楊沂中、韓世忠、劉錡らに恩賜を賜りつつ、金の側が講和をもとめてくる事態を待った。ウジュは機に乗じて河南の地を取らんとし、紹興十一年春金軍をひきいて淮西に攻め行った。宋将・楊沂中らは柘皋でこれを迎え撃って大敗させ、金軍の攻勢を決定的に挫いた。

 同年夏、秦檜は高宗の思し召しを承り、給事中・笵同の建議を容れて各位論功を行い、韓世忠、張俊を枢密使に任ずるとともに岳飛を枢密副使に任じた。彼らは他の将帥と別格に三大宣撫司とされ、その軍隊は枢密院の統括するところとされた。同年冬、秦檜はまた高宗の指示を受け、特使として金朝に談判に向かって第二次紹興の和を結ぶが、これには南宋にとってかなり屈辱的な条件が盛り込まれた。南宋の領土である大散関を明け渡し、淮河以南の統治権を認めさせる。さらにはウジュを苦しめた軍隊を解体し、抗金の言論を弾圧すること、主戦派を金朝への覚えを良くするため、秦檜は高宗の意という名目で岳飛を獄に落とし、「すべからく有るとも無し(莫須有)」という罪名でついには岳飛を殺した。

 紹興十二年、秦檜は和平の功労者として嘉され、高宗は秦檜に少師を加え、秦国公に封じた。金朝も岳飛を殺してまで尻尾を振った秦檜に十分報いた。彼は絶大な権力を保障され、特意により紹興の和の間にさまざまな規定を定めた。終生変わることなく丞相の位にあることを保証された。秦檜の権力は宋金第二次紹興の和によってそびえ立つ絶嶺のごとくなり、朝政は彼が一人で総覧したし、己に逆らうもの諂わないものは排除した。大いに文字の獄を興し、抗金を叫ぶ官員たちを次々貶め斥けた。抗金を論ずること自体に圧政を加え、史書を改ざんして自らがいかに清廉で政務に励み勤勉であったかを書かせ、また告げ口を奨励してそれを法として遂行するとともに、税金を高くし民衆を苦しめた。虚飾で自らの罪状を覆い隠すため、秦檜は自らを頌える詩文を創らせた。火炎の勢いで恥知らずな官員たちが文筆を振るわせ、古の管仲に比して“聖相”と。

 秦檜という権力者の暴慢は宋朝に先例が無いほどのもので、彼は人をこすずるく欺しては雪だるま式に権力を増大させた。たとえば、柔佞の人を任用して執政を任せたらば、その奸悪の弱味を握って決して自分の右に出ることの無いよう努めたし、行いを控えよと諫めるものあらば己の意と違うというだけでこれを排除した。彼と医官の王継先、そして宦官らは互いに連結し、共同体を成して権力を貪ったがその中心はあくまで秦檜であった。彼をはばむことは高宗でも不可能で、却って自らの子を高宗の養子にして国老たらんとすら企んだ程であって、彼は時として皇帝の臣下では無く主人ですらあった。高宗は秦檜を罷免して紹興の和が請われることを恐れ、彼に対して十分すぎるほどの猜疑を抱きながらも為す術無く、彼が成すことは全て「國司の命」として通った。彼は自らを描いた図像を私宅に持ちかえり、それを門が開いた奥の間に飾って常に来客を圧倒したという。

 紹興二十五年十月二十二日、病により卒。享年六十六才。

南宋-李顕忠

 昨日ようやく病院に行きましたが、午前8時30分の開院ギリギリに行っても患者さんいるもんですね。昨日の岩城は精神ささくれ立ってたので「たいしたことも無い有象無象が重篤の俺より先に診察受けよってからに」とか極めて邪悪な性根を発揮しましたが、人間なんてそんなもんでしょう。具合悪いのに余裕でいられる人間なんていないと思います。ただそれを堂々と「うがーっ!」って言ってしまうのは40過ぎの中年としてどうかと思いますがたぶん省みて直すってことはできないですね。そんなゆとりは持てないので。今も今とてホントに苦しい・・・10段階評価の10が最高として8ぐらいなのがここ最近毎日で、9とか10もぱらぱら散見できるぐらいですから。そんなに悪いなら入院しろと言われそうですが、入院しても良くならないのは一度入院して実感したのでしません。まあなんのかんので昨日薬が変わって、少しはマシになったのですけどね。それでも8以下に下がることは無いです。精神がそんななのに肉体の錬磨は怠らないというよくわからなさですけどね。筋トレだけで無く昔取った杵柄で空手の蹴りをひゃっひょいひょいとやってみたり。昔は一番得意だった後ろ回し蹴り、今でもちゃんと出来ました。
 というわけでそんな精神を病んだ武闘派の岩城ですが、本日は南宋の流転の武闘派、李顕忠をば。最初南宋の臣で、ついで生家近辺が金に占領されてやむなく臣従、その後偽齎に仕えて南宋に戻ろうとしますが偽齎が潰されたので仕方なく金のウジュにまた臣従し、その後家族を皆殺しされて西夏に移り、金のサリカ(家族の敵です)をぶっ殺してしかる後紆余曲折してようやく南宋に帰国したという、やたら奇天烈な人生を送った人ですね。面白いし好きな人手はあるんですが総合的な能力をゲーム的に数値化すると統率72、武力81というところ。それほど名将って訳では無いんですよね。当世的には名将の名を博していたようですが、一世代前というかほぼかさなる時代に岳飛や韓世忠がいるとやはり霞むというわけで。まあ忠義無双、というのは変節漢よりかっこいいです。というわけでごらんあれ。

李顕忠(り・けんちゅう)
 李顕忠は綏徳軍青澗の人である。初名は世輔、南に還って顕忠の名を賜る。唐以来蘇尾九族の巡検を世襲してきた名門の出であった。はじめ、母は出産に当り、数日しても産まれる気配がなかったある僧が門前を通過して曰く、「孕むところはすなわち奇男子、まさに剣と矢を以て母の側に置くべし、さすれば生まれん」と。果たして李顕忠出生し、生まれてすぐに立ち上がったのでみなこれを異とした。

 齢十七にして手柄を立てんと欲し、父・李永奇に従って陣に出入りする。金人が?延を犯すと、経略使・王庶は李永奇に命じて間者を募った。張琦を得てさらにもう一人を求めたところ、李顕忠はこの任務に立候補する。李永奇曰く「お前はまだ経験が浅いゆえ、必ず張琦に従え」これに対し李顕忠は「顕忠年若しといえども、膽気少なからず。張琦に従うにあらずして、まさに張琦とともに任に当たらん」と。かくて偵察に出る。夜、敵人の部衆数人が宿の陶穴に配流を見た李顕忠はその後に追いすがり、十七、八人を得て悉くこれを殺す。うち兜首が二つ、馬が二頭。残余の馬も尽くその足を折る。王庶は大いにこれを奇とし、承信郎を授け隊将に充てたのでこれ以降名を知られることになる。転じて武翼郎とされ、副将に抜擢される。

 金人が延安を陥とすと、李顕忠と李永奇の親子は捕らわれ金の官を授かって金に仕えた。李永奇は滂沱の涙を流し、曰く「吾は宋の臣なり、世々国の恩を蒙って、なんぞ彼ら(金人)の用いるところとなろうか!」時に劉豫は李顕忠に令して馬軍を率いさせ、東京に向かわせる。李永奇は厳に戒めて曰く「汝もし機に乗ずるを得れば、すなわち本朝に帰り、我が志に二心なきことを示すべし。事なれば、我また朽ちるとも栓なし」李顕忠は東京にいたる。劉麟はこれを喜んで南路鈐轄を授けた。李顕忠は密かにその客・雷燦の行在に?書をもって人を遣わし偽齎に仕えんと欲したが、既にして劉豫は廃されウジュが万騎をもって長駆疾走し淮河を渡らんとしていたので、李顕忠は独立した一部将として馬囲場の間にあり、呉俊を擒え戒めて淮河を馬で渡る浅瀬を聞き出し、ウジュに金への帰属を申し入れる。還らんとする呉俊に、李顕忠は馳せてこれを問い、竹槍でもって馬を傷つけこれを止める。ウジュは李顕忠を承宣使、知同州に任じた。

 李顕忠は?に至るや父を省み、李永奇は李顕忠に教え諭して曰く、「同州から南山に入り、すなわち金人の退路を断つべし。汝はこここにおいてその酋長を擒え、洛水、渭水を渡って商、?を通り朝廷に帰るべし。その報せを受ければ、我まさに延安の兵を以てまた朝廷に帰らん」と。李顕忠は同州に赴き、すぐさま黄士成らに書簡を持たせて蜀に入り呉に至ってから朝廷に帰服を報ず。金の元帥サリカが同州を訪れ、李顕忠は経略を使ってこれを拿捕、馳せて城を出、洛河に至って舟船にて渡らんと期するも得ず、追騎と屡々戦いみな捷つ。李顕忠は高原にて憩わんと望むも追騎ますます多く、すなわちサリカの箭を折り同州の人を殺さずと誓わせ、また我が骨肉同族を害せずと誓わせてこれを許す。遂にこれを推して山崖を下り、追兵争って救い免ぜらるを求む。李顕忠は老幼を連れ、長駆北上し?城県に至り、急ぎ人を使わして水の奇しきを告げる。水の奇しきによりすなわち家で挈し、出城より出で、馬翅谷口に至る。金人の為して及ぶところ、家族二百余口尽く害さる。この日、天は昏く雪は豪雪、延安の人これを聞き泣かざるものなし。李顕忠はわずかに二十六人を以て西夏に奔り、父母妻子を殺された恨みをつぶさに言うや、願わくば二十万人を率いてサリカを生け捕らんと。陝西の五路を取り、西夏に帰服するや、李顕忠は不倶戴天の讎に報復を果たした。時に西夏には有力な酋長・号して青面夜叉あり、義人として知られたが、これが李顕忠の壮図は西夏の患いとなるとして、三千騎を請うや画策して夜、疾駆して李顕忠の帷中に彼を捕らえる。西夏主大いに喜び、すなわち二十万騎をもって自ら出馬、文臣・王枢、武臣・移訛らを陝西招撫使となし、李顕忠を延安招撫使となした。 時に紹興九年二月一四日のことなり。李顕忠は兵を率いて安延に至り、総管・趙惟清に大呼させ令し?延路をまた宋に帰するなりと。赦書あり、李顕忠とその官吏は列して赦書を拝し、李顕忠大慟哭。衆もみな泣き、百世の哭声絶えることなし。李顕忠は地勢のべからざりしを知り、すなわち出てウェカを斬り、及ばず、王枢を擒えこれを縛り、榜を掲げて兵を招き、旬日の間に万人を得て?州に行き至る。既にサリカには耀州に四万余の馬軍あるも、李顕忠来たりと聞くや一夜にして遁走、四川宣撫使・呉?は張振を遣わしてこれを撫諭し、いいて両国の間に和議の生まれんことなかるべしと。行在にあって引く軍を測り、高宗に再三撫労を請えば、名を賜賚し加えてまた鎮江に田を賜る。崔皐の軍に従ってその佐将となり、ウジュが河南を犯すと李顕忠は招撫司、前軍都統制とされてウジュの軍を屡々破り、焼き討ちして盧江に奔らす。太后臨安に至るや李顕忠入朝し、保信軍節度使兼浙東副総管を加えられる。李顕忠は西辺の山川険易を熟知し、中原回復を言上。秦檜の意に阿ねらず、金の使いに私に人を使わし、言いて境界を越えるべからず。ただしこのために官を降され、代州に蟄居させられたが、のちまた寧国軍節度使かつ都統制。二十九年、金が盟約を反故にして進軍、李顕忠は詔を受けてこれを防がんとし、これを破り斬獲はなはだ衆。金主・完顔亮は淮西、和州を犯して宋軍は守りを失い、亮まさ采石を渡らんとする。朝廷は李顕忠を王権に代え、虞允文に命じてその軍の交わるところに赴かす。軍中大いに喜び、ここにおいて采石の捷は疑い無しと。淮西の諸郡を尽く復し、完顔亮諸将を叱責、奉命あるも用いず、諸将遂にこれを弑す。還るに及んで、李顕忠以下ことごとく昇遷し俸禄を加増され、李顕忠は大尉を加えられ寧国軍節度使、主管侍衛馬軍司公事とされる。行在所に赴くや孝宗即位し、李顕忠に百頃の田地を賜り権池州駐箚御前諸群都統制節制軍馬を与える。隆興元年、淮西招撫使を兼任、ときに張俊が都督府を開くと、李顕忠は命ぜられて長江を渡り、北伐。督戦してついに霊壁を復す。入城に当って徳を行うべしと宣言し、殺戮略奪一切無し。中原に帰せる者とどまることなかったという。時に邵宏淵が虹県を囲んだが未だ降らざる。李顕忠は霊壁の降卒を派遣、諭し降すべく邵宏淵に「自ら出ずして功を矜るは恥なり」と言わせた。しかしこの降卒は爾来邵宏淵の部卒であったから、邵宏淵はその佩刀を奪って「顕忠斬るべし」と言い地面に刃を突き立てた。李顕忠は宿州城で兵から伝え聞き、これにより、二将不倶戴天。金人の襲来あるも邵宏淵は救援せず、李顕忠一人これを拒み、破る。ついにまた宿州で捷ってこれを回復、これを聞き朝廷は開府儀同三司、殿前都指揮使を李顕忠に授けた。邵宏淵は李顕忠に負けじと官戸を開いて士卒をねぎらい、また発さんと欲し出城に移り、財貨を見せてまた兵たちを犒ったが、彼の士卒皆悦ばず。金の元帥モンサは自ら歩騎十万を率いて南京を攻めに訪れ、早晨、城前に大軍を列する。李顕忠は自ら軍を率いて城南で大いに戦うこと数十合、モンサを大いに破るが、翌日、敵は兵を増して至る。李顕忠は邵宏淵に金軍挟撃を請うたが、邵宏淵按兵して動かず。李顕忠は独りその部するところの兵を率いて力戦すること百余合。斬獲はなはだ衆。邵宏淵は衆を顧みて曰く「これまさに夏の盛り、清涼を求めて団扇を扇ぐは、これなお耐え難し。況んや烈日の中、冑を被って苦戦したるは、人心を得る事無くして揺らぐ。夜に至らば闘志耐えざらん」。軍の統制・周宏が鼓を鳴らし大いに喧噪を囃し、敵の至るは必至と謂うや、邵世と劉?はそれぞれ軍を率いて遁げ、ついで統制・左士淵、統領・李彦孚また逃げて李顕忠の軍に遷り入城。殿司前軍都統制・張訓、通司馬都統制・張師顔、池州統制・茘沢、建康統制・張淵らもまた遁げさり、金人この機に乗じてまた来攻。李顕忠は力を尽くして防御に努めまた斬獲二千余を得、敵が撤退を始めるや李顕忠曰く「もし諸軍が掎角を成しておらざれば、今城外に出て痛撃、尽く敵兵を殺し、金帥を擒え、河南の地を復すべし」と言うも、邵宏淵はまた「金軍は二十万の兵を擁し、我が軍の党は及ぶべからず。また恐れは不測の変なり」李顕忠は邵宏淵に堅い志のなかるべきことを知り、勢い孤立して詠嘆し、曰く「天、未だ中原を平らぐを欲せざるか。なんぞここに涙し倒れんや」ついに引き返し、符離に至って金師を大いに潰走させ、軍資機械のほとんどを奪って喪わせる。幸いにして金軍はまた南進することはなかったが、李顕忠は独断で軍を動かしたことをとがめられ果州団練副使に落とされ潭州に配された。のち朝廷はその故を知って反省し、李顕忠を撫州に移して威武軍節度使兼左金吾衛大将軍に昇進させた上京師に邸第を賜った。孝宗は李顕忠の容貌が奇状であったので命じてその図像を描かせ、また大尉とする。のち致仕を願い出て許され、淳煕四年、召されて万寿観に起居する。六十九才にて卒。開府儀同三司を追贈、諡は忠襄。

17/1/06/17時追記;次回は「名将」という視点とはちょっと視点を変えて、秦檜の伝をやってみようと思います。「宋史」本編の秦檜伝は無駄に長いので25史新編の方から。秦檜なり賈似道なりが「国を誤らせるに至った」経緯に逼るのも一興かなと。今後はこうやって次回予告していこうと思うので宜しく。それでは。

アレクサンドル・ネフスキー

正月は苦手です。テレビもラジオもいらん特番しかやってないし・・・翻訳と筋トレぐらいしかやることが無い。そしてこのおよそ1週間の間に体調がくずれることが多のに、大概の精神科は5日過ぎないと開かないという・・・。まあ明日ようやく通院日なのでそれは助かるのですが、本当に昨年末から今年初めは死ぬか倒れるかと思わされました。やっぱり徐々に体力そのものが落ちて行ってるんですね、昨年末から6年前の自分を取り戻すべく筋トレ再開しましたが、まあ上半身は好いんです。腹筋とか腕立ては多少の筋肉痛で済みます。しかしスクワット・・・300海やったら翌日から葦の痛し痒しよという塩梅で。まあいきなり300回はちょっとだけ回数多かったかも知れませんが、達成感って大事ですから。30回だと全然運動した機にならんでしょ? と言うわけですよ。
 さて、愚痴はここまでにして本日は。アレクサンドル・ネフスキーです。なんかロシアの民族英雄なんですが、この人の関わった戦争ってほんとはちっちゃな小競り合いだったとかいや実はそもそも戦争自体無かったとかいわれてるぐらいで、果たして名将と言えるのかどうか解りませんが、世の中アレクサンドル・ネフスキー寺院があって岩城の世界名将100撰中軽くBest10に入ってくるアレキサンダー・スヴォーロフがここに安置されてることを考えると、シンボリックな英雄として見過ごせんなと。というわけでどうぞごらんあれ。ただし病人がのたうちながら冷静とは言えない状態で本屋した文書なので正確かどうか聞かれると困りますと言うことを予めご了解ください。それでは。
アレクサンドル・ネフスキー(1220/21-1263)
 彼の力はサムソンに匹敵し、彼の知性はソロモンに匹敵した。そして彼の勇敢さはローマ皇帝ウェスパシアヌスに匹敵した。
 1563年「大いなる書」より「アレクサンドル・ネフスキーの生涯」
 大公アレクサンドル・ヤロースラヴィッチ・ネフスキーはロシア北東部、ツァレスキーのペレヤシラーヴィルで産まれた。少-青年時代すでに、アレクサンドルは彼の叔父・ユーリ・ヴィセロードヴィッチ大公にノヴゴロド共和国の支配権をゆずられた。そして1238年および1242年、この戦士である公子はロシアの指揮官として2つの戦いに関わった。それは表面上わずかなかかわりだったけれども、どちらも両方彼の勝利とそれに引きつづいて加えられる偉大な聖人としての名声を博した。
 13世紀初頭、ロシアに君臨する王朝はおそらく有名なスカンディナビアの皇子、リューリクの血筋であった。10世紀末、ここの統治を委譲された大公ウラジミールは、ロシアの正統としてキリスト教をコンスタンティノープルで学び、布教した。ロシアの主要な都市はドニエプル川に近く、スカンディナビア系スラブ人の多く住むキエフであった。ロシアの公子の数は時代を追うにつれて増加し、そして多くの他民族集団にありがちな、公家の権利と土地の継承問題について激しいもめ事と騒動があった。王位は通常、父から息子へ受け継がれるのでは無く、統治者からその一番上の兄まで遡った。相続はそこから長兄から末弟まで、そして長兄の子、次の息子という順に行われた。息子に相続権が移るのは父の兄弟が他にいないときであって、相続人が失策を犯すと彼の兄弟の息子に領邦が充てられることがしばしばあったという。そしてその領邦は彼らの兄弟あるいは息子に世襲されることになり、結果として国内には無数の公国が乱立した。
 12世紀末葉までに、キエフはすでに王朝の安定した政治の中心地としてウラジミール-ンツダルに取って代わった。キエフの支配者はウラジミール同様「大公」と呼ばれ、東北ロシアの他の公国に熱意を込めて多くの公子を任命した13世紀初頭の偉大な大公はユーリ2世、その相続人は彼の弟のヤロースラフであって、アレクサンドル・ネフスキーの父親であった。
 ロシア帝国の東北に新都ノヴゴロドおよびプスコフの両都市それぞれに都市共和国を形成し、ことにノヴゴロドはバルト海沿岸、北海にまで張り出して繁栄した。その物産は皮革、毛皮、蠟、ハチミツ等であって、ボルガ川下方カスピ海周辺の東方諸国、黒海東方の東ローマ帝国およびバルト海西のドイツ、ハンザ同盟が主な貿易相手であった。流通には主にドニエプル川が遣われた。ノヴゴロドはキエフ大公国と定められ、それによって王朝支配圏の公子たちに、契約によって市壁を強化すること、行政管理の優越などをみとめさせた。市の議会は公と富裕層の市民から構成され、また大司教が同じく市の政府において大きな権限と政治力を持った。
 13世紀初頭、ロシアの大地はきわめて強大な敵に直面した。北方ではスウェーデン人とドイツの十字軍徒がリヴォニアを攻めてこの市を要求し、それ以西では異教徒のリトアニア大公国、それ以外にも帝国と繋がるポーランドはこの時期すでに帝国に反抗してポロツク公国を造っていた。さらによりいっそう危険な敵として、チンギス・ハーンの大帝国が中央アジアに生まれた。
モンゴルの侵略
 12世紀末までに、モンゴル人はチンギス・ハーンの定めたルールの下に大帝国を築き、カラコルム、現在のモンゴルであるところに団結していた。南ロシアに対する彼らの最初の襲撃は1222-3年、カルカ川を超え、アゾフ海辺縁における対決で始まり、ロシアの大敗に終わった。モンゴル人はついでモスクワに進んで焼き打ちし、そして大公ユーリの妻子を含む住民を殺した。チンギス・ハーンは1227年に歿したが、西洋社会に対する攻撃は1234年以降さらに激烈を増した。
 第二の、より重大な攻撃がシットゥ川上に1238年3月、おこなわれた。大公ユーリ自身が彼の三人の甥とともにウラジミールで殺された。モンゴル軍は春の雪解けの近づきによって南に還ったが、翌年晩冬、モンゴル軍は再び襲撃を開始して1240年12月6日、キエフに乱入し町を破壊した挙げ句市民を盡く皆殺しにした。彼らはキエフの広大な牧草地が彼らの巨大な騎兵隊の維持管理にとって有用であることを見いだし、こを橋頭堡とした。ヨーロッパへのモンゴルの侵攻はチンギスの孫、バトゥの下で続いた。1241年9月、モンゴル軍はシレジア、リーグニッツの戦いでドイツ-ポーランド共同軍を破り、クロアチアに入ってダルマティア海岸まで達したが、この遠大な作戦は1252年春、遠くカラコルムでハーンが崩じたというニュースによりかろうじて中断された。
アレクサンドル・ネフスキーの登場
 ウラジミールの統治者として、大公ユーリ2世はすでに彼の幼い甥、アレクサンドルをノヴゴロドに送っていた。シットゥの戦いにおけるユーリの死で、彼の弟、アレクサンドルの父ヤロースラフが大公となり、若きアレクサンドル・ヤロスラーヴィッチは再びノヴゴロドに赴くことになった。アレクサンドルはカトリックの司祭と修道士によって手短にキリスト教に改宗させられ、結果、彼が経験した最初の実戦はニコラス・ブレイクスピア枢機卿(のちの大司教ハドリヤヌス4世)指揮下での対スウェーデン戦になった。
 ロシアにとって不幸なことに、ローマのキリスト教総本山はコンスタンティノープル正教会を異教徒と同じぐらい劣悪な分派であると考えていた。そのためにスウェーデンのカトリック・バイキングは十字軍的精神をもってフィンランド湾南岸上のロシア領を異教徒として攻撃したし、それが当然ありうる権利だと信じた。まさしくスウェーデン人はローマ教皇からの命令によってカトリックのの支配圏を拡張するため、異教徒ロシア人を攻撃することをみとめられた。しかしスウェーデン人の絶え間ない侵略に対し、フィンランド人およびラドガ湖の間での独立自治の切望に対して、スウェーデン側の言い分は都合の良いものでしか無かったが。
 13世紀初期の事件の証拠は、第一義的にロシア語とリヴォニア語の融和と修道士の利害によって編纂される聖典の説明と、第二にアレクサンドル・ネフスキーの生活様式に基づく。おそらくもしかすると、大都市的監督下において、個人的に彼と交友があった誰かによってアレクサンドルの死後40年頃に書かれた「一部分は伝記であり、もう一部は聖人伝」である文書はものされたかも知れない。最もはっきりとした年代記、家系図が始まるのは16世紀中頃からであるが、そこではアレクサンドル・ネフスキーという人物は軍事司令官と言うより聖人、歴史的偉人として多くの項を割かれ、強調されている。
 アレクサンドルの伝記―これは1563年に書かれたものであるが―によれば、国王エリクがローマに改宗して以降、北方(スウェーデン)はロシアがモンゴル人による破壊で苦しめられたと耳にし、スラヴ人を奴隷に落とそうとした。そして1240年7月、ネヴァ川河口近くでノルウェー人、フィンランド人およびカレリア人を先遣隊にラドガ湖を扼し、さらにヴゴロドのロシア人を奴隷にせんとしてロシアの残余を征服する良い機会と考えたが、大公アレクサンドルはこのとき彼自身活発にスウェーデンに対抗した。
ロシア軍の組織
 ロシアには当時組織だった軍隊が無かった。なぜなら中央集権国家としての国家の体裁が無かったからである。スウェーデン軍は甲冑を身につけた西方の騎兵隊と、草原遊牧民の高速騎兵隊によって彼らに直面した。ロシア軍は公ら率いる騎兵隊からなったが、従者の補佐を受けて補助の馬具を取り付け、ネヴァならず、また兵士は市と村とでお粗末な訓練を受けただけの民兵と地方の公の個人的私兵集団によってようやく成り立っていた。より位の高い公子とボヤーズ(貴族)はそれぞれ騎馬に防馬具、兜と鎖帷子を被せた。ロシアのヘルメットおよび鼻当ては普通釘を打ち付けたもので、ドイツ系のそれと同じく円筒形であった。民兵は通常歩兵であり、荷車を引いて行軍したが、騎兵隊も時として下馬し歩兵として戦った。
 スウェーデン軍の武器は諸刃の剣やサーベル、長槍、短槍、斧、弓と矢からなったが、彼らのより強大で危険な武器は13世紀末から発生し普及し始めた小銃だった。兵士は通常連隊と訳されるが、実際の所は500から1000人単位の3あるいは5以上の「部隊」からなり、勢力全体を称する「ポルキ」と区別されて柔軟な運用を可能とした。そしてロシア側にとって、戦場となる湿地帯にはほとんど城も強化補修された町も無かった。
ネヴァの戦い
 「伝記」は若いアレクサンドルを神を恐れ、戒律を守り、身体を常に清らかに保ち、神の功徳を楽しむ若者であると描写する。彼の敵は彼の名声とスウェーデンの挑戦に対する反応に動揺したと言うが、これは信じるに足りない。ただし大公アレクサンドルが神の手助けを求めてノヴゴロドのセント・ソフィア協会で祈ったのは確かであるらしい。
 双方にとって、ネヴァの戦いについて確たる情報は錯綜し、かつ少ない。ために本当に若干の史家がスウェーデンの資料にさえ手を伸ばしたがさしたる効果が無かった。ゆえにどのような戦いも実際には無かったが、あったとしてきわめて小規模なものであったと思われる。アレクサンドルの戦術を再構築するため、ロシアの著述家の多くは「伝記」の種々の改ざんに従事した。そして最初のノヴゴロド年代記において、彼らは均しく15世紀の記述をもとにした。
神の介入
 スウェーデン人はネヴァのイゾラ川からほど近いフィンランド湾岸に上陸したという。アレクサンドルは既に騎兵と歩兵の混成部隊を編成し自らも騎乗して、90マイルを強行軍してノヴゴロドから湾岸までを2日間で踏破した。彼は彼の再建された歴史に従えば1240年7月16日、敵と対面したと言われる。彼は自らの軍を波上に進ませ、また再編成することが可能にし、階級ごとに5つのポルキを配した。
 戦闘は武装した騎士の騎兵突撃によって始まり、その勢いは凄まじかった。アレクサンドル自身もまた剣を振るい、スウェーデン人部隊の指揮官の一人を斬った。戦いは集団戦から個人戦、あるいは小集団のぶつかり合いに移行した。ある現代の歴史家がノヴゴロド年代記の最も古い版を調べ上げ、ロシアの騎士階級で少なくとも20人、兵士たちでは数百以上、戦闘に関わった男子たちまで広げると数千人の損害が出たことが明らかとなった。
しかしアレクサンドルには他所からの援軍があった。彼の守護聖人、二人の11世紀のロシア人殉教者、ボリスとグレブの兄弟である。ボリスはアレクサンドルを支援するため、到着を早めようとしてグレブに呼び掛けた。聖人の到来を知ったとき、アレクサンドルは神がその意志を宣言するまで彼の兵士たちにはそれを言わないようにした。スウェーデン人は天子の介入により挫かれて、急ぎ船に取り返して味方の死骸を船に投げ入れると沈め、しかるのち逃げた。「伝記」によれば神の使徒により打ちのめされた兵士たち、多くの一般大衆は対岸のイゾラ上に敵が死んでいるのを見付けたが及ばなかった。この時大公はまだ戦場に足を踏み入れすらしていなかったという。彼の勝利はもっとずっと後になって与えられ、大公アレクサンドルは「ネフスキー(ネヴァの勝利者。この当時そう呼ばれたのでは無く、後世の呼称)」と呼ばれることになる。
西方カトリックからの攻撃
 ノヴゴロドの人々は、しかしながら彼の勝利に感謝することは無かった。ために偉大なる大公は彼の兵士と家族を連れてノヴゴロドを去る。アレクサンドルと共和主義の都市とは常に緊張状態にあり、彼と彼らの権利と権威を増すことを望む公らはまもなく独立を謳ったが、同時に戦争の継続を望んで緊張を保った。
(12世紀の末葉、王国に革命運動をもとめて結成された、剣を取ったリヴォニアの同志らが、それらメンバーの合併吸収によって形を成した)ドイツのチュートン騎士団は、すでに征服と植民地的征服によってバルト海岸の民族を変質させる仕事に着手するようになっていた。物語は韻を踏んだ年代記(1290)を大切にしたが、彼らは侵略者、略奪者以外の何物でも無かった。ノヴゴロドの年代記においてはウラジミール大公ヤロースラフがアレクサンドルとアンドレイを弁護するため、次男アンドレイをノヴゴロドに送った。
 コペイスクに築き上げられた要塞はドイツ人の前進の前に破壊されたので、チュートン騎士団の命令で囲まれていたプスコフも自由にされ、アレクサンドルはノヴゴロドに帰還した。多くの「裏切り者」たちを拘禁し、粛正することで、この地における彼の権威を高めさせ、またエストニア公国に入った。アレクサンドルは準備を進め、チュートン騎士団に対して凍り付いたチョド湖(現在ピーパス湖として知られる)上で反撃に出た。そして1242年4月5日、少なくとも3つの「複合連隊」を以てロシア軍を結集させた。これにはほぼ同数の弓兵隊が存在したと伝わる。
 氷上の戦い、これはロシアの後世の歴史学上、神話学上の学徒たちを魅了した。そしてそれは1938年の映画「アレクサンドル・ネフスキー(セルゲイ・アイゼンシュタイン監督)」で決定的になる。-アレクサンドルがドイツの征服からはじまり、ローマ教皇のカトリックを否定するという筋立てで、映画が1939年8月、ナチス-ソビエト協定の際に撤収されて、1941年6月、ロシアがドイツを侵略したときになってようやく公開されたという経緯を持つこの作品で、アレクサンドルは英雄であり公子であり、一般的なロシア人のカリスマティックな救済者であった。しかしアレクサンドル・ネフスキーのこれら二つの勝利について、ロシアの正史においてもその真偽が解らないところである。
 アレクサンドルはモンゴルのハーンからウラジミール大公として承認され、カラコルムからの帰路、1246年に父ヤロースラフが没すと、約束されていたとおり父の後継者とされた。ただしモンゴルの内紛-グユク・ハンの即位から2年後の急死、そして1251年モンケの即位-等を経て1252年、正式に父親の後継者となった。アレクサンドル自身、ロシアはモンゴルに対抗するには余りに劣弱と認識しており、ジョチ・ウルスに接近してその首都サライに数回赴き、バトゥに臣従の意を表明して後ろ盾を得ようとしている。その後、彼はもう二回カラコルムに旅行した。アレクサンドルは西方に対し、多くの勝利と交渉によって結びつけられたモンゴルの宥和政策を模倣し踏襲した。彼はノヴゴロドに人口調査を課して徴発して、モンゴル人のために朝貢し、タタール人に軍役を課してモンゴル帝国の公子らしくハーンに協力した。
 彼はロシアの防衛とそのカリスマティックな性格から自信を興し、大土木工事を多くおこなった(1263年、彼は死の床にあって最も高い修道院を造った)。彼のモンゴル語を公用語とする政策は通らなかったが、ウラジミールのスーダル協会を彼の墳墓とすることには成功した。1547年、彼はロシア正教会から聖人として認定された。1263年没。43才であった。後継者は慣例に倣って弟ヤロースラフ3世が嗣ぎ、さらにのちアレクサンドルの息子ダニエルがモスクワ公となってノヴゴロド公国を征服した。
森の聖人
 この聖人の最後の神格化はフランスの学者ピエール・パスカルの言葉で「森の聖人ユリシーズ」と言われる。ピョートル大帝が1704年、スウェーデンに敗北したのち、ネヴァの戦いの近くの森を見てそこに木製の十字架を架け、修道士では無く戦士としてのアレクサンドル・ネフスキーをサンクトペテルブルグの新しい守護聖人としたゆえである。彼の未亡人エカテリーナ1世は彼の名誉のため1725年、聖アレクサンドル・ネフスキー騎士団の創設を銘じた。アレクサンドル・ネフスキーの名前は、まず彼の直系子孫、ついでモスクワ大公国、そしてロマノフ王朝へと広がり、彼はロシアの英雄性と神性の最も高いレベルに引き上げられた。 

ローマ-ユリウス・カエサル

 おはようございます。新年初春の寿ぎを申し上げると同時に、おいでませ2017年。去年は災厄続きでした(世界規模での犯罪事件、災害もそうですし、岩城自身の体調も低空飛行でしたから)が、今年は良いことあると良いですね。昨日はついに久しぶりに救急車のお世話になりました岩城ですが、なんか搬送先はでっかい病院のくせに精神科/心療内科が存在せず、内科の妙に偉そうぶったジジイが「どうせこの病気で死ぬことは内見、大丈夫」とかいいやがりまして、あんまり腹立ったんで「たりめぇだ死ぬわけねぇだろーが! 死ぬほど辛いのに死ねねぇのが辛いんだろーがよ!」と怒鳴りつけて思いっきりガンつけてやりました。ジジイが目ェそらしたんで「やることだけやっとけ、フン」と言い捨ててやりましたがこれって岩城の態度がよろしくないんですかね? 岩城隆之という男は所見で「こいつは俺をナメとる」と思った相手にはあいてのちいとか立場とか無視して突っかかる癖がありまして、反省せねばなぁ途は思うのですが、ホント「死ぬほど辛い」という言葉がなにを意味するのか分かってない医者が多すぎる・・・。実際この病気で死ぬことはないです。其れ自体ではね。でも躁転が行き過ぎたり鬱に沈みすぎて自殺する人間の数は、決して無視できるものではないのですよ。まあ正月からこんな話題もなんですが。
 さておきまして。本日は正月ならこの人だろうと言うことで温存しておりました、ガイウス・ユリウス・カエサル。「ローマが産んだ唯一の天才」です。翻訳しながら読んでるとまあこの人の苦労の大きかった事。というか圧倒的優位にあったポンペイウス相手によく勝てたなと思うのですが、やはり天才の政治的駆け引きの手腕がものを言ったのですかね? ともあれこの人を以て共和制ローマは終焉を迎え、そしてアウグストゥスに始まる帝政ローマがはじまるわけで、ただの名将ではなく国父として偉大な存在だった、といえるでしょう。何と言ってもローマが完全に滅びるまで、地中海の覇権を失ったあともなおローマだと言えるなら1400年ほどの基盤を作ったわけですから。
 それでは訳文行きます。本年度も宜しく。

ユリウス・カエサル(Bc.100ーBc.44)
 ガイウス・ユリウス・カエサルはローマ史上最も有名かつ、最も成功した将軍である。紀元前58年から51年までの8年間の集中的選挙運動で、彼は自ら望んでガリア(大雑把に言って現代のフランスとベルギー)に赴任し、ドイツにおいてはライン川を渡河し、イギリスに2回渡航した。ローマにおける彼の政敵によって袋小路の中に追い詰められ後退したが、彼はその後地中海沿岸で行われた内戦(前49ー45)で彼らを破った。ローマ人は彼が他のいかなる指揮官よりも多くの戦いを経、すべての作戦行動で勝ったものと信じたし、その双方が一過性のものにすぎなかったと知った後も動乱の揺り返しを経験したに過ぎないと信じた。カエサルは著述家であり、また最高の喧伝家であった。ガリアにおける彼自身の作戦行動についての著述と、南北戦争は当初からラテン語の最も大きな精華として受け止められた。彼らの明確かつ公正、そしてテンポの速い筆致は軍事史がいかに描かれるかのモデルであり、ナポレオンですらただカエサルから多くのことを学んだ将官の一人に過ぎない。
 後世で言えばナポレオン的に、彼は将士に熱狂的狂信を吹き込むことのできるカリスマティックな指導者であった。彼の率いるレギオン集団は頑健で強固であり、多くの絶望的な状況を突破してカエサルを救った。指揮官としてのカエサルの技能は、しばしば彼自身の作り出す問題から脱出する際において最も勇壮に見えたというのは諸人の言うところ合致している。彼は常に勇壮・勇敢であり、ときとして無鉄砲ですらあった。ローマの将官は攻撃的かつ勇敢であることを期待されたが、カエサルのそれは時として人を騙す詐術師的なところがあった。南北戦争時から知れ渡っているギャンブラーのコメント――いわゆる「賽は投げられた(iacta alea est)」のとおり彼は危険を選んだが、それは彼が成算を得たうえでのことであり、もし停滞によって敵に対して強くなる見込みがあるなら彼はそれを選んだであろう。ただ現状維持のままでは的が強大になるばかりだったからこそ、カエサルは見込み薄な賭に出たのである。彼は彼の兵士たちの間で決してけちではなかったが浪費家ではなかったし、同じように大胆ではあっても無謀ではなかった。
 カエサルはセルフプロモーションの天才であり、略奪に寛容であり賞賛を鷹揚に受け取った。彼の士官および彼自身がその著書でその英雄的行為を強調していることで知られる熟練の百人隊長がいて、カエサルは彼に軍事上の厳しいトレーニングを課し、しかし模範的戦法に従うよう強いた。スエトニウスによれば彼は彼の兵士たちを見て、ついで厳しいルート進行に彼らが追いついて従ってくるのを期待し、ひっそりとキャンプから抜け出すのが常であったという。しかし彼は休養時期の自制について考慮することがなく、また厳格な人間でもなかったからカエサルの信頼は得られなかったらしい。
 カエサルは彼の軍団員に話しかける際、常に彼らを「僚友」と呼んだ。しかし南北戦争の二戦目、彼が大事にしていた10番隊軍の間に二つの重大な叛乱が発生すると、カエサルは「僚友」のかわりに「文民」と呼び、ただ一言のもとに反逆者の精神を打ち砕いた。まもなく老巧の軍団員は10人に1人の軍人を処刑し、より多くの犠牲を懇願した。それはカエサルが彼らをもとの職務に戻すであろうとの打算であったが、究極的にカエサルが早期に反逆を収束させ、勝利したことに変りはない。カエサルの兵士たちは指揮官であるカエサルとともに、彼の勝利を信じて全幅の信頼を置いた。カエサルは自らを幸運児であったと自慢した。ローマ人が感じた「なにか」が将官の最も重要な特質の一つであった。作戦行動中に彼はミスをして、大きな危険にさらされたことがある。しかし結局彼は勝ち続け、それこそがローマのために重要なすべてであった。
初期の経歴
 カエサルは熾烈さいや増すライバル関係によって分裂させられた共和制ローマに生まれた。彼が10代の内に最初の内乱が勃発して、カエサルはローマ自身がローマの軍隊によって攻撃されるのを三回目の当たりにした。若きカエサルはこの残忍な対立において能動的な立場を取ることはなかったが、その余波で独裁者(ディクタトール)、スラに忌まれ、狩られるものとして数ヶ月の逃亡生活を送った。彼の母親と彼女の影響力を持った親類は彼のために恩赦を確保することに成功し、そして彼は下級将校としてアジアのローマの州に行かせられた(紀元前80-78)。 ここで彼はミティラインの攻囲戦において早速勇気を示し、都市の王冠を与えられた。このときビスィニヤ連合軍のニコメデス国王に対する外交使節としての対応がスキャンダルを導き、このためカエサルは年が行った国王の習童になった噂された。これに対して常にねつ造を拒絶したにもかかわらず、ゴシップはその後の生涯を通じて彼につきまとった。
 前78年、カエサルはローマに戻る。このときすでにローマ軍は効果的なプロ集団であり、それは貴族主導の軍の終わりと民間出身者によるプロフェッショナル軍隊の始まりを意味していた。カエサルはそれにならって軍人コースを歩むが、これ以後20年、彼のキャリアは平凡な若い議員が歩む道のりそのものであった。彼はしばらくギリシアの東に旅行し有名な講師から修辞法と弁舌術を学びんでしばらくを過ごし、何回かの旅行の一度、海賊に捕えられた。彼は身代金によって釈放されたが、カエサルの魅力は無頼の海賊たちをも魅了したという。彼は自らが釈放された後、戻ってきて彼らのすべてを断罪すると約束し、身代金が届くと実際当局を通ぜず、約束したとおりに自らの裁量で海賊を裁いた。慈悲のジェスチャーとして彼らの首をまっ先に搔っ切って見せたにせよ、海賊たちへの裁きは正当であったと言える。前74年、ポントゥスのミトリダテス王国率いる軍隊がローマ・アジアの州を攻撃したとき、カエサルはまた勉強旅行の途にあったが、彼は東方を急襲して地元の同盟市と共闘、軍を組織化し、そして州から敵を追い出した。彼はこれを行う権限を持ってはいなかったが、しかし彼の迅速果敢な行動は広く彼の技能と巨大な自信の双方を称して讃えられた。
 カエサルはローマにおいて、他の男性たちの妻を立て続けに誘惑する寝取り屋としての悪評を高めると同時に、政治的階梯を登るのを助ける印象的な評判を作った。前72、あるいは決定的には彼が護民官――いわゆるところの参謀将校――のポストに選出された前71年、彼はスパルタカスと反抗的な奴隷たちの軍を相手にして打ち破った。彼がその本来あるべき重要なポストにつくまで、まだなお10年を要する。彼がその後スペインの州知事に任命されたのは前61年。スペイン知事となるや彼は人気と名声を得るため本来の資力を大きく超えて散財し、大規模な借金をこさえたが、最終的に成功した。利益を生む作戦行動は彼の評判を復活させたので、彼は債権者を寄せ付けず、かつ必要なときには彼らから金を引き出せた。州には二つの守備隊が置かれたが、しかし彼は守勢に満足せず、すぐさま同等の軍隊を呼び寄せるとこれを率いて境界異民族に積極的作戦行動を仕掛け対抗した。
 カエサルは彼の勝利を祝賀して、凱旋パレード――ローマ市の中心を通っての正式の――の栄誉を与えられた。彼は前60年代の終わりにそれを求めた。しかしながら、彼の政敵はこの名誉がコンスルシップ、ローマ最高の行政機関に訴え選挙で彼が一人で栄誉を受けることを妨げた。結果、カエサルは自身の勝利を諦め、コンスルシップに選出されてポンペイウスとクラッスス、ローマで最もパワフルな二人の男と秘密同盟を結成した。3人は一緒に1年間政治を独占した。カエサルの報酬はガリア諸州とイリリクムの5年間の統帥権であった。これはのちに10年に拡張されたが、それでも、驚異的な負債を抱えることになったカエサルは、絶望的なまでに膨大なスケールの勝利を勝ち取る必要に迫られた。
ガリア戦記
 カエサルは本来の作戦計画として、バルカンに入り、イリリクムに進んでダシャン王国を攻めることを企図していた。しかしその代わりの機会としてヘルヴェティ族が現在で言うところのスイスから移住して、トランスアルペンを通り、ガリア(現在のプロヴァンス)を要求してきたので、カエサルはそれを拒絶、ローヌ側のラインを強化してこれを無理に渡ろうとするヘルヴェティ族の試みを阻んだ。ヘルヴェティ族の注意がそれた間に、カエサルはアエドゥイ、レム族らローマと同盟しているガリア諸族からの保護要請に応え、これを追った。夜襲の試みは練度の低い偵察隊のために失敗、しかしまもなくのち、カエサルは一群の孤立した護送車両を強襲してこれを粉々に粉砕した。彼の同盟者が十分な穀物を持ち得ずカエサルの軍を補充し損ねたとき、カエサルはアエドゥイの首都ビブラクトに退いた。ヘルヴェティ族はこれをカエサルの弱さの発露とみて彼らの軍を集結させたが、カエサルの用兵の前に大敗。生存者は故国に送り返され、彼らは巨額の損失を起こして撃退された。
 前58年以降、カエサルはローマの同盟国からの要請を受け、転身してゲルマンの戦争に身を投じた。ゲルマン軍のリーダーはアロヴィストゥス、ローマ兵はゲルマン兵の獰猛性について聞いたとき、ほとんど暴動と行ってもいい反抗を起こした。カエサルは、たとえただ10番隊(カエサルに最も忠実かつ勇敢であった師団)のみが自分に随伴するとしたとしても、わたしは往くであろうと表明し、10番隊を称揚し他を恥じ入らせた。短期の戦役でアロヴィストゥスは集中攻撃を受け、そしてまったく挫折させられた。前57年、カエサルはついでもうひとつの救援要請に応え、北東の好戦的なベルギー族と戦うために転身した。ベルギーの軍が食糧を使い果たして四散しなければならなくなったとき、両軍の間の紛争は終結したかに思われた。カエサルは個々に敵を各個撃破し始めたが、しかし彼らは軍の再編に成功し、サンルベ川の横に大規模な待ち伏せを布いてカエサルを驚かせた。深刻な、しかも混乱した戦いの中で、カエサルは自軍右翼に走り、そのときの様子は以下のごとくであったという。
 ・・・彼は、後列の兵士から盾を受け取った。彼は自分自身の武器を持たずにきて、前線に進み、名指しで百人隊長たちを督励し、兵士を励まして、そして、彼らがより一層容易に自身の剣を振るえるように、前進して展開するよう命じた・・・
 しかし結局その日は守勢に終わった。敵の副司令官の一人がローマ軍左翼と戦ってこれを破り、局地的に敗北した。
 その年遅く、カエサルは2個大隊を率いて海峡を渡り、渡英した。ローマ人は上陸するや拠点を確立したが、しかしまもなくのち、彼らの物資輸送船の大部分が嵐で難破した。カエサルはかろうじてガリアに戻り形勢を立て直すことが可能であったから、前54年、彼は再び大軍を率いてブリテンに上陸、テムズ川を渡り北方の中心人物となった。ブリテン人は彼らをしつこく悩まし、ローマの軍はまたもや猛烈な嵐のために船を失い、かろうじて逃げることができたものの、軍事的にはブリテンへの両度の遠征は目的を達せず、むしろ大惨事を引き寄せた。しかしながら、政治的な効果として、これはローマ人の多くの想像力と冒険心を捕えかき立てて、カエサルの成功に貢献していた。
反乱
 冬、二度目のブリテン遠征の後に、カエサルは一連の叛乱の最初の一つに直面した。1と半個大隊が反抗的なベルギー族に包囲され、駐屯地において皆殺しにされた。カエサルは2個師団に満たない、しかし騎兵によって編成された部隊総勢7000足らずで敵の攻囲を打ち砕こうと欲し、前53年、彼は自らに責任がある種族の土地すべてを荒して、彼らが服従するまで一連の懲罰行為を指揮した。
 前53ー52年の冬に、より巨大で重大な叛乱がガリア全土で発生した。犯行の首謀者はヴェルキンゲトリクス、彼は自らの種族に過去体験したよりずっと厳しい鍛錬を課すことのできる、有能で若い族長であった。カエサルは最初不意打ちを食らわされたが、異民族特有の侵略に対して反撃を開始し、ヴェルキンゲトリクス派に反抗する部族との合流により反攻した。ヴェルキンゲトリクスはローマ軍の補給を断って、戦いの危険を冒すよりむしろ彼らを飢えさせて服従させることを画策した。よって彼はカエサルの進軍に対して彼をいらだたせることに奔命し、無慈悲にローマ人の進軍路上の街と食料庫を焼いた。
 アヴァリクムの市民はヴェルキンゲトリクスに懇請して彼らの街を要塞化したが、それでもなお4週間の包囲攻撃の末にカエサルによって突破された。ヴェルキンゲトリクス派への見せしめとして、町は略奪され多くが虐殺された。カエサルはしかる後、ゲルゴヴィアの町にヴェルキンゲトリクスを追った。ガリア人のキャンプに対する限定された攻撃を開始するに当って、ある熱心な兵士があまりにも遠くに遠征してゲルゴヴィア自体を攻撃したため、作戦は間違った方向に傾いた。彼らは掃き出され、ガリア族の大部分を敵に回して大損害を被った。カエサルは退き、ガリア人たちはここぞとばかりに追撃を仕掛けたが、ガリア人が後退に転じたとき、ローマのレギオンがガリア人騎兵隊に逆転し、これを退けた。カエサルは余勢を駆ってこの後に続いた。
 ガリア人はアレシアの町の丘の上にキャンプを布き、そして彼らを救う大軍を招集するために近隣すべての種族に使者を送った。カエサルは11マイルの要塞包囲線--サークムバレイション--で丘を囲んだ。彼はそれから2番目の包囲線、外向きよりも長いライン--コントラバレイション--をも築いた。のち、ガリアの大規模な援軍が到着して、外部からローマ軍を攻撃した。ヴェルキンゲトリクスは繰り返し精力的に兵士たちを督戦した。最終的に、ローマの包囲線の最弱地点に設置された要塞の周囲で最終決戦が行われ、カエサルは万全の体制でガリア人を破るべく、彼の持ちうる全兵力で戦い終始戦局をリードした。ヴェルキンゲトリクスは翌日降服した。叛乱はさらに一年余続いたが、ローマ人は少数の手に負いがたい敵をシステマティックに破り、外交による集中砲火によってローマに従うよう腐心した。なんとなればカエサルはこれこそが永続的な平和を作る唯一の方法であると知っていたからである。
内戦
 前49までに、カエサルの以前の同盟相手、ポンペイウスは、すでに彼の対抗者よりずっと強大になっていた。彼はカエサルが評議会議員に戻ってガリアで勝利して得たその富と栄誉を楽しむことを、断固として妨げる決意をした。故に彼とその取り巻きはカエサルを袋小路に追い詰めたが、カエサルはポンペイウスの任期の終わりを待つより内戦を起こすことをいとわなかった。49年1月、彼はルビコン川を渡って幾週間の内にイタリアを征服した。カエサルはそれからポンペイウスの陸軍にイレルダで降服を説き、スペインに渡り、年末、自身ポンペイウスと対面するためにマケドニアに赴いた。ダイラティウムの敵の補給所を捕捉する試みは何週間にもわたって失敗に終わり、カエサルは撤退したが、翌48年、ファルサロスでの戦闘を受けたカエサルはポンペイウスの軍を総崩れにさせた。
 ポンペイウスはエジプトに逃れたが、小年王プトレミー13世によって完全に破られた。カエサルはその後まもなくエジプトに到着して、そして国王と彼の姉クレオパトラ7世の内戦に干渉した。よく知られるようにカエサルの前に贈られた引き出物の中に密輸されて――実際にはカーペットよりむしろ洗濯袋に入って――カエサルに接近した彼女は、速やかに彼の恋人になり、プトレミーは彼女の交渉力の前に一歩を譲った。カエサルはプトレミーを相手に最終勝利を得て、これを殺した。彼はその後しばらくの間クレオパトラとナイルをクルージングし、何ヶ月もを浪費した。彼が再びゼラからファルナセス王を打ち負かすべく動き出したのは前47年遅くより以後のことであるが、この急速な作戦活動の祝典において彼は有名な言葉を発した。曰く「来た、見た、勝った」。
 この小康の間に彼の敵は再編の機会を与えられて、アフリカに新軍を終結させていた。彼はこれを認めるとラスピナの近隣に立ち戻り、前46年タプサスでポンペイアンスを撃破した。内戦の最後の戦争はスペインにおいて行われ、前45年、ムンダの勝利によってカエサル自身の手により終結を見た。カエサルはローマに戻ると自らを終生独裁執政官としてまずダキア、ついでパルティア(ともに近代におけるイランおよびイラクの一部に等しい)に遠征を企図した。しかながら、彼は戦争に勝ったけれども平和の作り手としては失敗していた。ガイウス・ユリウス・カエサル、ローマが生んだ最高の天才は前44年3月15日、元老院議員の若手グループによって殺された。享年56才。

南アフリカ-シャカ


 今年も残すところ今日一日、精神荒廃してプチン、とリミッターが振り切れ、なぜか筋トレにいそしみ世間に対してくそったれがと叫び続けながらかろうじて自分を保っている岩城ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 というわけで、2日間ほど意図的に休ませていただきましたが2016年最終日にこの人をアップするというのはもうね、半月ぐらい前から決めてました。シャカ・ズールー・ケセンザンガコナ。かつて昔日シャカという名を聞いてあぁ、お釈迦様か、とか思ったものですが大慈大悲の釈尊とは似ても似つかぬ冷酷残忍な漢でした。ただ戦士として、軍事政権の指導者としては紛れもなく超一流。彼がもし古代ローマに存在したならばカミルスやカエサルに匹敵する軍略家になったのではないでしょうか。ただこの文書にはイギリス軍との2度にわたる激闘が描かれていないので昔アップした方にそれは載ってるかな、短いヤツですが。イギリス軍は最初味方だったのですよね。それが侵略者となったときに2度勝って西欧人の度肝を抜いたのですがそこが書いてない。二つの資料を組み合わせて自分式のドキュメントを作ってもよかろうかと思うのですがそれは原文を書いた方への侮辱に当たるかも知れず・・・というわけでご容赦ください。それでは。

シャカ・ズールー(1787-1828)
ズールー族の王、シャカ・カセンザンガコナはおそらく史上最も優れたアフリカ黒人部族の族長であり、軍事指導者であった。彼はの軍事的・政治的天才はわずか十年にしてサハラ南部のアフリカ諸部族の中における彼自身の小さな部族を「最も洗練され管理された、軍事的にパワフルな」ものへと改革させた。彼は戦術と武器の改革によりこれを達成し、敵を完敗させ、そしてその都度自軍に編入、吸収合併するシステムを作り上げ、自らの部族を巨大化させていった。彼はすべての偉大なる軍事指導者、すなわちアレクサンダー大王、ユリウス・カエサルやナポレオンと同様に、常に全局面を見渡して的確な指示を下す練達の指揮官であり、戦術、戦略のみでなく外交の技量にも優れていた。

 シャカの属するズールー族は総勢一五〇〇人に満たず、一六世紀から一七世紀にかけて南東アフリカ中に広がった数百の部族のなかでも、下から数えた方が早い弱小部族であった。彼は一応族長センザンガコナの長子として産まれたが、実際には父の血を継いでいない、母ナンディーの私生児であったから一族の後継者・相続人として認められていなかった。ためにズールー族の古老たちはシャカと母ナンディーに皮肉と当てこすりをもって接し、この誕生に関しての汚名から逃れるため、シャカは七歳の時母とともに母の部族、ィランゲニ(ズールー語で太陽の意)族へと移住した。

若かりし日の追放者
 しかしシャカはィランゲニにも長く滞在することがなかった。かれが十分成長すると彼と彼の母に対する迫害はより酷くなり、彼は族長の息子と対立、結果メッテタヴァの傍系の一氏族・・・ズールー族もィランゲニ族もその下に含まれる・・・に追放同然の形で送られた。
母ナンディーに対する世間の冷遇と彼自身への侮辱、そしてこたびの追放同然の処置という不名誉は、シャカの胸の中に深いいらだちと怒りの炎をともし、それは生涯消える事無く残った。彼はひたすらに戦士として指揮官としての自分を鍛錬した。たとえば投げ槍であれば三〇歩の距離でも草の葉に百発百中させることができるほどだったし、指揮官としての戦争の技能においても彼の指揮する軍団は部族内の模擬戦で敗北を知らなかった。

部族内革命
 シャカの戦争技術は彼をしてメッテタヴァの大酋長ヨブの注目するところとなり、一八〇七年のヨブの死後その後継者ディンギスワヨーに仕えて信任を受ける。ディンギスワヨー部の軍権を掌握したシャカは九年間かけて次々と周辺諸部族を服属させていき、そこには血も涙もなかった。その冷酷で凄惨な精神を作り上げたのは彼の父の非情であり、メッテタヴァでの冷遇であった。これがのちにズールー族の命運を大きく変えることになる。
 これ以前、部族間の戦争というものは遠距離からで投げ槍を投じあい、相手が「負けた」と言ったところで終了、後日また同じことを繰り返して期日になると両軍引き揚げる、というもので戦争と言うより力を誇示する儀式的な意義以上のものはほとんどなかった。シャカはそれを根本的に変更、イカルウァ~投擲槍でなく短兵武器としても使われるこの槍は、広く重い刃を備えており、肉から刃を引き抜いたときの音に因むその名称はそれまでの様相を一変させた。彼はまた牛皮の盾を鉄のそれに代え、攻撃のための武器として使う手段を彼の兵士たちに教え、突撃して盾の後ろから敵を貫かせ、ぐいとねじり込むや強烈な逆手のスウィープ(引き戻し)で敵の内蔵を抉らせた。さらにきわめて重要なことに、軍を三段に分かち、包囲戦術を実践した。敵に対して左右両翼からはさみ込み、圧迫された敵を中翼の吶喊が撃ち抜くのである。
 のちにズールーの国王としなった彼は、さらに古式包囲戦術を改革してイツィンポンド・ツェンコモ(バッファローの角)を創出した。まず「胸」部隊が接敵してヒット・アンド・アウェイを行い、ついで二本の「角」部隊が速やかに突撃する。そして「胸」部隊と「腰」部隊が翻ってまた突撃し、敵を崩す。これらの部隊は状況に応じて配され柔軟性を以て運用された。シャカが彼の兵士たちに与えた鉄の盾は四から六フィート、頭のてっぺんからつま先までを防護し、また彼は可動性を損ねるずさんなサンダルを廃するよう令した。
 歴史の不思議な偶然というか必然と言うべきか、シャカの戦術技法は古代ローマのレギオン戦術に非常に酷似していた。彼らは峻厳な訓練を受けて見事に編成され、彼らの盾は彼らの敵を打ち崩し、彼らの短剣はまたローマのグラディウスに似ており、殺戮に特化されていた。シャカは当然ながら古典や古代ローマの戦争や戦術知識を所有していたわけでなく、これは完全に彼が独創したものであった。彼は他にも様々な破壊のメソッドを彼の部族に伝授した。
彼の連隊型戦闘部隊と呼ぶべき新戦術は「ィシチュエ」と呼ばれる。時に彼の連隊はンドワンドゥエとの戦いにおいてこの部隊を率いて最も重要な、鍵となる働きを見せた。(ディンギスワヨーの)首脳の一人、メッテタヴァはシャカを主たるライバルと見てフォンゴロ・トゥゲラ地方に派遣して境界線を引くとともに、その機嫌を取るため一八一四年、最高司令官に任命しディンギスワヨーの評議会の一員に迎えた。

ズールー族の王

 二年後、彼の父センザンガコナが没すると、シャカはディンギスワヨーの支援を受けてズールーの族長となった。センザンガコナから指名されていた遺産相続人、彼の異母兄弟のひとりはひっそり殺され、その名も残っていない。かくてシャカは故郷に拠って自立した。彼の土地は四方一〇マイル、戦力は五〇〇人たらずの男子のみであったが、独立君主としての地歩を得た。
 シャカは自分と自分の一族が生き残るためには版図拡大する以外にないことを知っていた。そこで、彼は即位から一月以内に、武器を取れる全ての男子に連絡し、彼らを三連隊に分かち組織化した。三〇才から四〇才の男子、二五才から三〇才の男子、そして一八才から二五才の男子である。すべての連隊にはすでに彼がイシュチェで見せてその有効性を実証した交戦用戦術を叩き込まれ、またシャカは彼らの既存の槍を破棄、鍛冶屋に命じて高純度の鉄鉱石を使った新しいものを造らせた。この幅広で鋭利な槍が先述のイカルウァである。
 彼の母の郷里でありながら母子を冷遇したィエランゲニが最初に襲われ、隣接諸部族が次々とシャカの率いる殺戮マシンともいうべき連隊軍に打破されるか、あるいは投降した。過去に彼あるいは彼の母を苦しめたものはすべて囲いに追いやられ、追い立てられた牛に突き刺され殺された。これを知った力あるブレセチ族は断固反抗することに決めたが、これはシャカにイツィンポンド・ツェンコモの実力を改めて実証させる機会を与えた。それは筆舌に尽くしがたい一方的殺戮であり、たった一人のブセレチ兵すら残らなかった。彼らは敵の農地を焼きはらい、その女を攫い、子供と牧畜はズールーの中央に送られた。シャカは新しい総力戦の概念を持っており、この戦争は「インピ・エンボンヴゥ(血みどろの戦争の意)の最初のデモンストレーション、幕開けであった。
  
ンドワンドゥエ征服
 わずか一年の間にズールーの領土は当初の四倍になったが、シャカはまだ名目的にディンギスワヨーの一家臣であって、それゆえに慎重さが求められた。この憂いはディンギスワヨーがンドワンドゥエとの戦い前夜に捕えられて首斬られたことで解決し、シャカの前途が開けた。リーダーを失ったメッテタヴァ軍は四散し、シャカはンドワンドゥエとの対決の時が迫っているのを感じ取った。彼はイチシュエ連隊を含む全ての将兵を招集し、以前までメッテタヴァに仕えていた戦士の多くをヘッドハントして、さらに軍を強化すべく彼自身の首都クゥワブラワヨーへと戻った。
ンドワンドゥエが一八一八年初頭、ズールーの領土に侵攻してきたときまでに、シャカはできるだけの準備を全て整え、傲然と待ち構えていた。ウェリントンがやったように、しかし彼より三年早く、彼はそれをやった。慎重に、彼の軍が防衛的かつ決定的に敵を打ち破りうる場所を選び、クワッコキリ丘の緩やかな斜面を戦場に策定した。巧妙精緻な計画と優秀な戦術によって彼は数的優位なンドワンドゥエを撃破し、これを終息させた。
 シャカの勝利の多くはこの偉大な敵手ンドワンドウェに対してのものだが、この大功以前に良く彼の軍隊をフルに使って見せたことは知られる限りおそらくない。彼我の戦力差二対一あるいはそれ以上の敵に対して、シャカは彼の使いうる技術と詐術のすべてをここで使わなければならないことを知っており、故にそれ以前彼はその爪牙を隠していた。
 彼の計画は可能な限り長く持ちこたえることにあった。かつ彼はその戦士四〇〇〇にホワイト・モフォロジ川の増水した浅瀬を渡らせるという困難な任務を命じ、また彼らにクワッコキリ丘の後ろに上陸するよう命じ、川の南二マイルのところで彼らを待機させ、おのおのポジションに配備、これを丸状丘の蔭に低く隠れさせ、一〇〇ヤード先の田園からもほとんど発見できなかった。シャカにとって幸運なことに、クワッコキリに待ち構える危険な罠に気づけるほど優秀な指揮官はおらず、そしてシャカ自身はこの土地がどれほど重要であるかを熟知しており、かつペテン、詐術の練達であった。彼は丘の周囲に部下の一隊を派遣し、丘の南頂上に潜んませてひっそりと待ち構えた。さらに予備兵を残して後方に隠し、長期の包囲戦に備え牛を大量に殺し、水と食糧と薪を確保する。その上で敵の体力を奪うため、糧道を塞ぎ兵站所を潰しておいた。
  彼の手腕は見事であったが、しかしながらクワッコキリ丘からほど近い平野に盤踞するンワンドゥエ軍指揮官ノモハランジャナが動かなかったため、エントンヤネニ高地の牛飼いたちを囮に使いノモハランジャナを誘い出そうとした。果たして彼の軍の一部はこれを追い立て、牛飼いたちはシャカの命令通り狼煙を上げて敵勢力の分断に成功せりと報せた。
 かくして戦闘はシャカの計画の通りに進んだ。川に潜む四〇〇〇の伏兵は退こうとする敵に激しい追撃を与え、初日はきわめて多くのンドワンドゥエ軍卒を殺した。二日目、ノモハランジャナはズールーの牛飼いに兵を割いてしまった後で自分がシャカの策にはまったことを思い知った。彼の兵士およそ七〇〇〇は半円状にクワッコキリ丘の前線基地を囲み、これを開くべく前進して最前線防御兵一五〇〇に攻撃を加えようとしたが、そこにシャカの号令一下、ズールー族が先制攻撃を仕掛け、そして彼らは徹底的に仕込まれたイカルウァによる超近接戦闘で、見事大差をつけてンドワンドゥエの将兵を撃破した。
 ンドワンドゥエが退くと、シャカは麾下の士卒たちを予備兵と入れ替えた。それが夕闇を利用して行われたので、彼の敵は自らの敵手が一体どれだけの兵を擁しているのか、正確なところを知らなかったという。ンドワンドゥエは今回の戦で丘の前哨基地周辺全体を攻撃した結果ズールー族一人に対しンドワンドゥエの兵一人が死ぬという大敗を喫したことで非常に不愉快になった。ノモハランジャナは兵たちに疲労して養生しているよう装わせ、そして自らの企みを試みた。しかし用意周到なズールー族の備蓄はンドワンドゥエ軍のそれを大きくしのいでおり、彼らにとって堅守して出ず罠を避けることは困難でなかった。
 傲慢なズールー人はいずれ自壊すると見て、ノモハランジャナは幅二〇〇ヤードにわたる巨大な縦隊を組織、これを丘上に向けた。これに対しシャカは彼お得意の「バッファローの角」陣形を取るべく、まず「胸」部隊でンドワンドゥエの縦隊を受け止め、左右の「角」隊で敵の側翼を穿った。ノモハランジャナと彼の四人の兄弟たちは虐殺の巷に斃れ、ンドワンドゥエ軍は四〇〇〇~五〇〇〇の死者を出した。これはまるでカンナエにおけるハンニバルのように見事な包囲殲滅戦であり、敵にとっては深刻な大惨事であってンドワンドゥエを追って鏖殺するチャンスであったけれども、シャカが追撃を行わなかったのは彼の軍民に補給を行うための時間がきわめて重要であり、そのため海岸ほど近くまで移動する必要があったからであった。農業収穫と兵の補填のためシャカは撤兵して忙しく動き回り、この戦いの勝利はまだ進行中の一作戦の第一回戦にすぎないと知っていたけれども、駆け出しのズールーという国家の自立自尊のためにきわめて重要な意義を持っていた。
 シャカは彼の軍隊を一九一八年までにほぼ完成させた。そのために非情で冷酷な外交、残忍な征服を織り交ぜて彼は彼の国家を大きくすべく腐心した。彼はもはやその制御下にホワイト・モフォロジとトゥゲラの両川の間の全ての氏族を置いた。この勢力の伸張は彼をしてフォノゴロの北に種族の精力基板を移す野心を固めさせた。ちなみにフォノゴロの北とは現在の南スワジランドである。一八一九年、シャカは再びンドワンドゥエを撃破した。

シャカの軍事システム
 シャカの権威が増すに連れて軍隊の規模も大きくなり、全ての成人男子に徴兵義務が課された。三才から一四才までの少年たちはアマカンダ(軍事訓練所)に入れられ、そこで牛を飼い作物を育て、そして軍事訓練を受けた。その後彼らはアマブートゥ、別称を年齢別軍隊に編入され、さらに八ヶ月の共同生活を経た後ようやく家に帰ることを許された。その後年の四分の一の間彼らはアマカンダの指導員として働き、国を挙げての祭りがあるとき以外は半武装状態を強いられたし、戦時には連隊の一員として一人前の働きを要求された。シャカは結婚願望の強い兵士たちを愚かと思いつつ、彼ら集団の結束を強め結果として国家を強くするために女性を軍隊の特権システムに組み入れたが、彼らはまずシャカによって認められねばならず、アイシココという賞を獲得している必要があり、そして三五才前の兵士にはまずめったに認められることがなかった。アイシココは成人したと認められ、村落のコミュニティに完全に認められたものにのみ与えられる賞で、これなしで結婚も帰宅も許されなかった。比較的遅い時期までこれを与えることを控えることで、シャカは彼らを部族の長老の支配下に置き、長老たちを統制下に置くことで若いズールーの兵士たちを頑強に保つよう仕向けた。
 わずか数年にしてシャカの軍隊は五〇〇人から二〇〇〇〇人にまで跳ねあがった。版図に至っては一〇マイルが一一五〇〇平方マイルである。彼が征服した部族の多くはツルスという言語を使い、その言語による統一の拡がりにより人口はまもなく二五〇〇〇〇人という膨大な膨れあがり方を見せる。シャカの闘争はもはや生存戦争ではなく、征服戦争であった。牛の所有数によって格が決まるズールー族は、犠牲者から奪い取った多数の牛によってまた富んだ。一八二四年までに、ズールー族は現代のナタール地方を完璧に制圧し、その過程でイングランドのケープ・コロニー境界線の駐留英軍を踏みにじり圧倒した。この蹂躙は「圧倒」という意味のムフェカンと称される。(ただし、広義の意味でこの言葉は北方のライバル、新興のトゥゲラ族の民族移動に対する緊急戦争を含むズール族の全ての戦争を意味する)
  
最後の決戦
 敵はまだその息の根を止めてはいなかった。ポンゴロの北を越えて後退してから後、ンドワンドゥエは数年がかりで力を蓄え、あらたな軍隊を創建していた。一八二六年秋、彼らの若き族長・シフンヤナはポンゴロからズールーの領土を侵した。これについてヘンリー・フィンというイギリスの初期入植者は「巨大な宮殿にその全軍二万を呼び寄せるや北進し、人馬は巨大な塵を瞬かせた」という。フィンはシャカの英雄的活躍を賞賛し、彼が各連隊をどう扱いどう指揮するかを監察した。戦士たちはおのおの武器を持って盾を背に負い、穀物はトウモロコシ、鉄分は牛の肝で補給した。若年の兵士は絨毯を運び、大量の糧を積んだ牛たちを牽引した。
 ズールー族は一〇日間の行軍ののち、カンブラの戦場にほど近い左岸の尾根に登った。五三年後、ここでズール人は小銃と大砲によって武装したイギリス軍に撃退されるが、一八一九年シャカが指揮した場合は違った。シャカは間諜を放って情報を収集し、敵を誘引するべく少数の先遣隊と守備兵を出した。これら間諜はシクナニャといい、クワッコキリの丘の戦いの半ばでイジンドロウェネの丘にある岩石の頂上から眼下を俯瞰してシャカに報告、彼をしてすぐさま戦士たちを集中させることを可能としたなど活躍している。彼らは丘に登り、家畜をその上に、さらにその上に妻子を置いた。戦場の範囲を考えればシャカは自分の思い通りの戦術で戦うことができなかったが、ただ唯一の救いとして、全て上手く行けばンドワンドゥエの勢力にとどめを刺し、その残党をズールーが潰滅させることが可能であるから、シャカは二正面作戦を避けンドワンドゥエ勢力に正面攻撃を仕掛けることとした。フィンおよび彼と同じくシャカに力を貸すことを諒諾したわずかながら火器を持ったイギリス軍入植者たちである。
 しばしの間ンドワンドゥエはシャカの国土を蹂躙したが、やがて小道を通ってシャカとその軍団が引き返してくると、前後から挟撃されたンドワンドゥエは算を乱して逃げ惑った。それはまさに女子供のような惨めさで、ほぼ全ての兵士が機敏な裸足の追跡者たちによってほとんど殺し尽くされた。少数の生き残りの中に物陰に隠れて生き延びたのちの族長・シフシャナがいた。
 この勝利により、シャカはようやく最後まで頑強に抵抗した、彼の治世にとって最も危険で永続的に彼を悩ましかねなかった脅威を取り除いた。わずか一〇年の間に、彼の比類なき天才は北はデラゴア山から南はムタンヴゥナ川、インド洋からドラッケンスベルグ山脈までにわたる広大な版図を実現した。しかし彼の支配が長く続くことは不幸にしてなかったが。
  
暴君、死す
 ズールーの民は絶え間ない戦争に倦み疲れた。しかも、彼らの支配者は酷刑を濫用する傾向があり、食事中に誰かがくしゃみをしたというだけでその頭を断ち割った。極めつけは一八二七年、母ナンディーの死に際してのヒステリックでドラスティックな反応であり、数千人が哀悼のために生け贄とされ殺された。シャカは向こう一年の間女性たちは農耕も乳搾りも妊娠することも許さないと布告した。三ヶ月後、シャカは自ら反省して布告を取り下げたが、彼の名声八は地に堕ちてもとにもどることがなかった。
 彼の異母兄弟、ディンガネとマハランガナがシャカの暗殺を企て、一八二九年九月二四日、軍事作戦中のシャカが無防備になっている所を彼らは襲撃した。シャカは彼らに刺されながら「これはどういうことだ、同じ父の子でありながら私を殺そうというのか!?」と叫びまた命乞いしたが、ディンガネらはシャカの絶叫に近い言葉を無視してイカルウァを深く突き刺し、シャカの命を奪った。享年四一才の若さであった。

ヤーノシュ・フニャディ

 もうなんかね、身体がホントに爆裂四散しそうなぐらい苦しいんです。肉体的にも精神的にも。あと最近悪夢しか見ないので寝るのが怖いですよ。夢見の悪いは心がすさんでるからでないかなと思うんですが、そのあたり詳しいことは当人にも分かりませんし病院の先生も分かりません。九大から追い出されたとき、一応「ウチじゃアンタをこれ以上よくできんから、福岡一の名医に紹介するからそっち行ってくれ」って言われたんですが、その「福岡一」のK先生をして「難しいねぇ」と言わせてしまう始末。今夜こんだけ悪くて叫んだり転がり回ったりして完全発狂寸前の体である以上は、明日朝一で病院に行しかないかなと。
 そして今晩の更新はヤーノシュ・フニャディ。以前翻訳文アップしましたが、アレよりわずかに情報量多いものが新しくKindleで勝った書籍にあったのでそれをアップ。しかしなんでKindleはコピペできないのか。いや、厳密には英語モードにすればコピペできますが、私日本人ですからというね。そういう文句をちょっとつけたくなる。一気に全文コピペできれば一太郎の「左右に分割して表示」で英文を確かめながら対訳できるのですが。まあ一太郎とKindleを同時に使ってなおかつバックグラウンドで作業用音楽流しててもメモリ不足にはならない(32GBありますから)のですが、ウチのPCはなぜか突然フリーズして全く動かなくなったりするので何が怖いってそれなのです。今こうやって書いてる最中に止まったら泣くしかない。
 というわけで、駄文はさておきヨハン・フナイヤーことヤーノシュ・フニャディのご登壇です。

フニャディ


ヤーノシュ・フニャディ(一三八七-一四五六)
 ヤーノシュ・フニャディは一三八七年、トランシルヴァニア(現ルーマニア)の、マジャール人系のそこそこ豊かな農民、セルヴァ・ヴォジクとその妻エリザベート・モルシーナの間に生まれた。その逸話・情報のほとんどはトランシルヴァニアの伝承に負うが、それによれば彼は幼くして闊達聡明、10歳前後でハンガリー王シギスムントに近侍し、ボヘミアにおける王の三度にわたる遠征の少なくとも一つに従軍したという。シギスムントの隊フス十字軍は悉く失敗に終わったが、ヤーノシュはこの期間に優れた軍人としての経験を積む。
 のち長じてヤーノシュは国王アルベルトに奉職、彼のもとでしばしばトルコと戦い勝利を収めるが、一四三七年、トルコのセメンドリア要塞を占拠し勝利を収めたことで彼の名は一躍東欧世界のみならずヨーロッパのキリスト教諸国家を歓喜させ、賞賛を受けるところとなる。
 アルベルト死後はウラースロー一世に奉職、一四三九から四〇年までウラースローに反抗するパルチザンたちを討伐して功ををあげ、トランシルヴァニア公(ヴォイヴェーデ)とされる。

 ヤーノシュは王を補佐してセメンダリア、ハルマンシュタット、アイアンゲートでトルコ軍を連破し、トルコとの間にゲゼド条約を締結するがこの盟約はほどなく破棄され、一四四一年から一四四四までヤーノシュは「長い長い征途」といわれ今日もハンガリーで語り継がれる征戦に着手する。ニースとソフィアを攻撃してこれを陥とし、一四四二年までに彼はバルカン半島のほぼ全てを掌握した。この攻撃にトルコの大スルタン・ムラト二世は与しやすし、と見ていたキリスト教国家に脅威を感じ、講和を求めるふりをしてその一方で艦隊を動かしダーダルネス海峡を渡らせ南欧を衝く。一四四四年一月十日、ヴァルナの戦いにおいてスルタンはキリスト教国家の軍を凌駕し圧倒し、ハンガリー国王ウラースローはこの戦乱の中陣没。ヤーノシュ以下の将士たちは国王を失って瓦解し敗北の辛酸をなめるほかなかった。

 ウラースロー1世没後、ラースロー五世を擁立。新国王の下総督に任ぜられ、ハンガリーの軍権をほぼ委ねられる。ヤーノシュは再びムラトを伐つべく軍を集めコソヴォまで進出、一四四八年一〇月一七日、敵の数が倍に膨れあがっていたにもかかわらずヤーノシュは常時優勢に戦いを進め、四万の敵兵を殺しあるいは傷つけたが、自軍も1万7千の死傷者を出して決着ないままに軍を退いた。

 一四五一年、ムラト一世没してメフメト2世立つ。メフメトは速戦速攻、一四五三年には東にコンスタンティノープルを陥落させたが、このトルコの偉大な征服者はそこで満足するような人物ではなかった。彼はついでベオグラードに矛先を転じ、ここを貫いて一挙トルコのヨーロッパ侵攻を達成しようとしたが、この意図を察したキリスト教世界ではフランシスコ修道会のポープ・カリクタス三世が僧兵カスピトラーノのヨハネをヤーノシュのもとに派遣、危急を告げる。一四五二年にバンスカー伯兼ハンガリー大将軍に任ぜられたヤーノシュは国民を扇動し発揚させ、また軍備を整えたが、敵はあまりにも強大であった(その総兵力は一〇万とも三〇万ともいい、史家によってまちまちだがヤーノシュの動員できる総兵力を遙かに超えていたのは間違いない)。ヤーノシュが動かせる兵力はウラースローからの支援を含めても六万前後七万に満たず、さらに言うならばトルコ軍はドナウ川に二〇〇艘の大艦隊を浮かべてベオグラードを目指し、その威容圧巻に尽きた。

 ヤーノシュは新設軍を率いてまずドナウからの敵艦隊を襲撃、船三隻を沈めて四隻を鹵獲した。一四五三年七月二一日、スルタン・メフメトの大軍がベオグラードを囲み、攻囲戦が開始された。ベオグラード市民はかねてヤーノシュの指示通り、堀を進む敵兵に火炎瓶を投げ石を落し、なりふり構わずありとあらゆる手段で以てトルコ兵を攻撃した。その翌日、フニャディが入城。防衛戦の指揮を執る。スルタン・メフメトはこのとき創を負い、そのためトルコ軍は撤退を余儀なくされた。
 四〇日後、また攻囲戦が再開されたが、ハンガリー軍一万の損害に対しトルコ軍の損害は五万を上回ったという。トルコ軍はさらにセルビア軍から側面を衝かれ、二万五千人の損害を受けて撤退する。この勝利にキリスト教世界は大歓喜し、教皇カリクタスはヤーノシュのことを「この三〇〇年の間に世界が排出した戦士の中で最も優れた存在」とまで褒め称えたが、しかしヤーノシュの前に約束された栄光を彼が掴むことはなかった。なぜならばベオグラード防衛の四〇日の間ペストが流行し、ヤーノシュ自身もまた病に倒れたからである。一四五六年八月一日、逝去。死に際して彼は「全ての我が朋友たちよ、ハンガリーとキリスト教の世界を守り給え・・・。もし口論にかまけて貴卿らが起たないことがあれば、貴卿らの国土もトルコ人の支配するところとなるであろう・・・」と言い残した。カスピトーラのヨハネもまたその二ヶ月後に死んだ。フニャディの長子は一四五八年ハンガリー王となり、マーチャーシュ一世を名乗った。

 ハンガリーの愛国者にして国民的英雄、ヤーノシュ・フニャディは多彩な能力を持った男であり、国家第一の民族英雄である。彼は疲れを知らぬ指導者であり、音に聞こえた戦術家、戦略課であって、また人々を鼓舞する魅力あるリーダーであった。ベオグラードにおける彼の大勝はイスラム系トルコ人によるキリスト教世界を護持したという意味で歴史上もっとも偉大で意義のある勝利の一つであり、キリスト教徒からはなにものにも勝る守護者として、トルコ人からは最も恐るべき存在として「トルコヴェッロ(トルコに苦しみを与える者)」と呼ばれた。ウラースロー五世はヤーノシュが武勲を建てるにつれて次第にヤーノシュを警戒するようになったが、ヤーノシュは決して寸毫たりとも二心を抱く事無く忠誠を尽くした。彼は高潔高邁で気高く、キリスト教徒にとってのシンボリックな天才であったといえよう。

三国-蜀漢-張飛

 まいどながらどうも。またしても自分に課したルールを犯して翻訳です。暇なのか? と言われるととんでもない! と答えるぐらい忙しいんですけどね。合間を縫ってやってしまうというかこれが一番の安定剤になってるのですよ。南宋の李顕忠が翻訳完了したのでそっちを上げても良かったのですが、ちょっと隠し球として置いておこうかなというわけで三国から張飛です。正直言うとあまり好きではない・・・だって暴力笠に着てるヤクザモンですから。それでも武力の高さは間違いなく。しかしまあ、今回正史からの訳ではないですが、短いですね。正史よりは情報量あるといえど、2300文字程度しかありません。この短さも今まで張飛列伝を避けてきた原因です。一応人気者ではあるからアップ・・・というのはあざといかな~と思いもするのですがまあご容赦を。ともあれ年末年始も案外この作業やってそうです。身体がもうぶっ壊れて爆発するという状況になるまではやるのでしょう。それでは。

張飛(ちょう・ひ。?-221)
 張飛、字を益徳は三国時代の名将で、涿郡の人。人となり剛毅剛健にして傲岸、戦に当たって勇猛比類なく、また仁義と智謀にも不足なかったが、ただ性格が暴烈、慈愛の心に欠け、しはしば将士を刑罰で殺した。ために最後はその率いるところの軍卒の手にかかって死ぬこととなる。

一・橋を扼して敵を退け、威、長坂に震う
 張飛は若くして劉備、関羽と交わりを結び、三人志を同じゅうして互いに相手を自らの骨肉と称した。関羽は張飛より年長であったので、張飛は彼を兄と呼んで殊更に懐いていたという。劉備挙兵後、張飛は南勢北伐、全てに従って甘苦をともにした。劉備が平原の相となると張飛は関羽とともに別部司馬とされ、軍隊を統率した。袁術が劉備の基盤である徐州を攻撃すると、劉備は張飛を遣わして下邳を守らせた。張飛は下邳の将・曹豹を殺したため、城中はおのずと危険に怯え、頗る混乱した。ここで袁術は書信を呂布に送り、彼にこの機に乗じて下邳を取れと勧め、異なった暁には糧草を以てもつて後援すると言った。呂布は水陸から大軍を率いて一気に下邳を包囲、劉備の中朗将・許耽は門を開いて投降するしかなかった。張飛は敗北の上城を失い敗走し、劉備の妻子および士卒の家族らはことごとく呂布の俘虜となった。形勢急迫し、劉備と張飛はこの侵略者呂布のもとに身を寄せることを余儀なくされ、小沛に駐軍させられた。しかし劉備の勢力が速やかに発展していくのを見て呂布は不安に駆られ、兵を率いて劉備を殺さんとした。劉備は張飛とともに曹操のもとへに身を投じ、曹操と連合して呂布を撃破した。のち曹操に従って許昌へ入り、張飛は中朗将に任ぜられる。
 劉備は曹操に背反、のち前後して袁紹、劉表らのもとを転々とする。劉表が世を去ると曹操が大挙南進して荊州に入ったので、劉備は民を連れ江を渡って逃亡した。曹操は自ら選抜した精騎3000を以て昼夜強行軍すること300里、当陽の長坂まで劉備を追い上げた。劉備の毎度のこすずるさを以てしても防ぐことあたわず、ただ張飛に騎兵20騎を与えて追兵を阻ませることして自らは妻子を連れ、逃げた。張飛らは劉備率いる衆に川を越えさせ、それを見届けると橋の上に馬上屹立、橋頭に仁王立ちする。曹操とその騎兵は船で劉備を追わんとしたが、橋頭に眦を決した張飛が蛇矛を携えるのを前に、敢えて近づくものなし。張飛が敵の大軍に向かって「我が名は燕人張飛なり、誰ぞ敢えて我と一戦に及ばんとするものなきか!」と声を励ました。その声はまさに巨雷、曹軍きこれを聞いて意気阻喪し、敢えて彼と感化を交えんというものなし。のち、劉備が江南を平定すると張飛は宜都太守兼征虜将軍とされ、爵は新亭侯。のちまた南郡太守に移される。

二・義智をもって勝ちを取り、刑殺をもって禍を受く
 建安19年(214年)、諸葛亮は関羽を閨秀に留め置き、張飛、趙雲らに分兵、兵を帯びさせて西上。張飛の軍は一路道沿いの郡県を平定、進軍して江州の城下に迫った。
 巴郡太守・厳顔は知勇双全、張飛の軍が至ると彼は地勢の険要と城池の堅牢を以て待ち構え、守備を厳にして投降の勧告を頑として拒んだ。張飛はそこで巧みに謀計を用い、大いに厳顔を破ってから他の将領とともに厳顔を捕らえる。張飛曰く「我が大軍ここに至る。何故にくだらざるして我らを拒んだか?」対するに厳顔いささかも恐れの色なく、大声を張り上げて「貴公は信義にもとり、無法我が州軍を侵す。我益州に断頭の将となれども、投降の将になることなし!」張飛はこれを聞いて荒れ狂うこと雷の如し、左右の将は厳顔の首を斬らんと進言したが、厳顔に恐れの色寸毫もなく、神色自若としているのを見て、張飛は怒りを冷まし不覚にも壮士を殺すところであったとして自ら厳顔を縛る縄を解き、座して賓客に対する礼を以て許しを請うた。厳顔ついに降る。
 ついで張飛は巴西、徳陽などの一帯を平定し、成都で劉備の軍と会す。益州平定が完成すると、劉備の論功行賞により張飛は厚い恩賜を賜り、巴西太守に任ぜられた。
 建安24年(219年)、劉備が漢中王に任ぜられると、張飛は右将軍に任ぜられた。章武元年(221年)、改めて車騎将軍兼司隷校尉とされ、爵を進められて西郷侯。張飛の武勇名声ははなはだ重く、その地位に比肩しうるものはほとんどいなかったが、ただ張飛は兵士や民衆の生活にまったく関心がなく、そればかりか平素からその性格暴烈炎のごとく、士卒を面罵しなおかつ打擲し、ひどいときには機嫌を損ねただけで誅殺した。この彼の唯一といって良い欠点に対して、劉備は何度も誠心をもって戒め、「貴君は人を殺しすぎる。常に士卒に鞭撻を以て対し、しかもその士卒を身辺に置いているようでは、早晩自らの身に禍いかかるべし!」と言ったが、張飛の言行が改まることはなかった。
 劉備は関羽の敵討ちで呉伐を企図する。これに応じて張飛も一万の将士を従えて出発、江州で劉備と会帥する手はずだったが、まさしく出発の前、前々から恨みを持っていた帳下の部将張達、范彊らの手により帷中で殺され、この両将は張飛の首級を携えて孫権に投降。張飛が営中まさしく劉備へ上表し、その使者が劉備のもとに届いて張飛の様子を聞いた劉備は予め予感するところあったので驚かなかったが、ただ「ああ、張飛死せるか!」と詠嘆した。劉備は張飛に諡して“桓侯”。

南宋-張珏

 お前休養するするゆーといて全然更新やめんやないかと言われそうですが、まあなんと言いますか、翻訳でも他の創作でも良いんですがとにかく何かやってないと落ち着かないので。あぁ忘れてましたメリークリスマスです・・・っていうかクリスマスってのはもともとキリストの誕生日でも何でも無く、ローマ神話における“無敵の太陽の王”ミトラス神の死と再生を祝う祝日だったのですがそれがローマがキリスト教に飲み込まれる中でミトラス神は邪教の神とされ、この祝日がキリスト生誕の日、とされたのですよね。だからキリストの本当の誕生日なんてわからないのてすが、まあ皆が幸せにこの日を祝ってればどーでもいいか。
 で、昨日非常に体調が悪くてですね、死ぬかと思った岩城は指定の通院日以外にもかかわらず朝一で通院、看てもらいましたが、とにかくここのところは体調最悪で良いことが一つもないというと、ジプレキサという薬を四倍にしていただきました。正しくは2.5㎎だったのが前回5㎎になり、今回さらにその倍になったのですが。それでまあ先生と話して少しは気分回復したのですが体調はよくならない。ならどうするべきか? 死ぬほど辛くて体調が悪い岩城がやることと言えば一つしかないのです。筋トレです。というわけで昨日は腹筋-320回、五本指立て-170回ほど。足がふらつくのでスクワットはやらない。この程度しかやれない自分に愕然ですが、一週間後には腹筋3000、指立ては1000回やれるようになるよう目標を掲げています。全盛期の岩城は毎日腹筋20000回やってたのですから、今からそこに戻るのもそう難しくはないでしょう。
 そいで、ようやく本日ご紹介の名将は“四川の虎”こと張珏です。王堅がいなくなった後の釣魚城守将ですね。虎将というだけあって勇猛果敢、蒙古・元軍を撃退してまた斥けてするのですが、最後は家族に請われて城を棄て逃亡、しかし自分が城民を棄てたことを羞じ、自殺してしまうと言う悲劇的な人でした。
 それでは宜しく。なんか今年中にもう一件ぐらい更新しそうな気配もしますが、とりあえず皆様良いお年を!

張珏(ちょう・かく ?-1280)
 張珏、字は君玉は風州の人である。十八歳の時合州に在って釣魚城防衛戦に従軍した。張珏は身の丈高く容貌魁偉であり、戦に当って勇猛、傭兵のすべを心得、戦功はなはだ著しいものがあった。徐々に昇進して中軍都統制となったころ、世人は彼を“四川の虎”と称すようになる。

 景定元年、朝廷に召されて王堅が入朝、かわって後任に馬千が合州の鎮守を任される。景定四年、馬千の子が兵糧を輸送中、虎相山で敵(モンゴル軍)に遭遇し俘虜となる。敵軍はこれを交渉材料に馬千を捕えんとし、幾たびも書信を以てして馬千に投降を勧める。このため馬千は心境倉皇として定まらず、四川制置使・兪興はこれに代えて張珏を興元府駐箚御前諸軍都統制兼都統制とした。

 その当時、モンゴル軍は大良平、虎相山を占拠し、時ならずして出兵し梁山軍、忠州、万州、開州、達州の宋軍屯塁を破壊、渠州へと通ずる通道を断ったため、宋軍は行動を掣肘され農民は田を耕すことあたわず、将士は寝るときも鎧を脱ぐことを許されず。張珏は着任するや士卒を練兵、軍器を精査し、軍紀を厳にして賞罰を明らかにし、兵に農民を護衛させて畑を耕させ田を拓いて粟を積む。加えて城の守りを強化し、釣魚城を堅牢にするとともに主導的に出撃し、各路の宋軍と連携して大良平以下の城を回復した。

 フビライは元朝を建立すると、もと南宋の将・劉整の建議を受けて進軍路をこれまでのものと変更、河東を捨て置いて攻めず大軍を以て襄樊を攻め、長江中流の南宋軍遊撃を撃破、兵を一路臨安へと向ける。宋の恭帝元年、朝廷は張珏を四川制置副使兼知重慶府とし、彼に命じて臨安を守らせようとしたが、しかし合州釣魚城は幾重にも包囲されて張珏といえどその重囲を突破すること敵わず。ただあくまで釣魚城の守りは崩さなかった。

 翌年、元軍はついに臨安を陥とす。しかし張珏はあくまで元に抵抗し続け、元軍からの招降にもいっさい応じなかった。このとき、元の大軍まさに江南掃討の師を興し、四川の兵力多からずといえども張珏は速やかに軍を組織して反撃に出た。彼はまずまっ先に元群の軍事基地・青居城を襲撃、これに攻め克って元の按撫・劉才、参議・馬嵩を俘虜とする。また重慶に救援を使わしてその一帯の元軍堡塁を一掃してのける。ついで彼は軍を進めて濾州を回復し、叛将・梅応春を捕えてこれを斬った。歳末、涪州の宋将・陽立が元に投降、張珏は麾下の部将・王立に釣魚城の守りを任せると、自らは軍を率いて重慶に入り、ここから部将張・万兵に兵を授けて遣わし陽立を撃破、涪州を回復するやまた都統・程聡に令を下して鎮守させる。これをもって夔州一帯を確保し宋軍本隊と連携。元軍が大寧監を囲むと張珏はまた張万を派遣して夔州に進ませ、自らは忠州・涪州の宋軍を率いて宋軍の寨十八座を連破、大寧監の元軍を撤退させた。また重慶に戻り兵力を蓄え守りを固め、はなはだ民心を得る。福州で趙昰が帝を称したという報せを聞くや兵数百を派遣し、趙昰を重慶に迎え守り奉って四川に独立国家を築かんと構想する。

 景炎二年、元軍は兵力を収束させ、ひときわ激しく張珏を攻める。西川に駐在の元将ブケは兵力数万を以て重慶を囲み、仏図関に大本営を築いて一軍を扎南城、一軍を朱村坪に駐留させ、また一軍を長江側に控えさせたうえで重慶を囲んで攻めず、兵を派遣して周囲の涪州、梁山軍、万州、濾州などをまず占領、張珏を孤立無援に陥れる。ブケは濾州の降将・李従を派遣して張珏降るべしといわしめたが、張珏はあくまでかたくなにこれを拒絶。翌年春、重慶の城内ついに糧尽きたため、張珏は兵を率いて薫風門から出撃、扶桑にあって元将イェスゲイに遭遇、その退路を断つも、ブケが兵力を集中してその後方から攻撃を加えると張珏は支えきることあたわず、大敗して城中に戻る。

 張珏の部将・趙安は重慶がもはや守り抜くことかなわじと見て、書信を以て張珏に投降を上申したが、張珏は断固として聞かず。張安は同じく部将の韓忠顕とともに夜、鎮西門から密かに出て、そのまま元に投じた。元軍はついに大挙城攻め、張珏の家人は毒薬を仰いで死ぬか、さもなくば逃げましょうと張珏に勧めた。張珏は妻子と子女をつれて小舟に乗り流れに沿って江を東に下り、涪州に奔ったが、その途上、張珏は陣に臨んで自分と家族だけ逃れたことを羞じ、斧を取って船底を叩き割り、自刃せんと願って長江中流あたりで実行した。舟は沈みはじめ、張珏は江に身を投じて自殺しようとしたが、家人に引き上げられて死ねず。翌日舟は涪州に到着したが元軍はそれを急追し、元将ティムールが彼らを俘虜とした。

 ブケは張珏を殺そうとは思わず、令を下して彼を西安に護送すると趙老庵に軟禁、朝廷の処置に任せた。元の世祖の至元十七年二月、彼のもっとも親しかった友人がその彼の逃亡について告訴しなじり、重慶の宋将・曹琦が自刃して果てたこと、張万、張起岩もまたこれに従い帰らなかったことなどを語ると、張珏は恥じ入り、迫られてついに投降した。合州の王立はひたすら堅守しいたが、張珏投降の報せを聞くや三月、元の使者・姚招燧に招かれ降る。張珏はこれを聞いてきわめて大きなショックを受けた。朋友は張珏に死を勧めて曰く、「貴方は一代の忠臣として朝廷に対し功績があったけれども、それが今ここで元朝に仕えて生き恥をさらしたならば世人はどう思うであろうか?」と。張珏はこれを然りとして弓から弦を外し、趙老庵の厠で首を吊って死んだ。彼に扈従してきた将がその死体を荼毘に付し、その遺灰と遺骨を瓦の缶に入れて地中に埋め、隠した。何処に埋められたは定かでなく、遂にその遺灰が発見されることはなかったという。

南宋-劉錡

本日・・・というか昨夜も寝落ちしました岩城です。一度経験してしまうと「あぁ、またか」という具合で驚きはしないんですが、本当に体力のパラメータ落ちたなと実感する今日この頃。心理状態も良くないのですよねー、先生はベストな投薬をしたらしいですが、極端な鬱状態か過激な躁状態のどちらかしかないので。とりあえず胸と頭が痛いのは相変わらず。

 なので更新休んでもバチは当るまいよと思うのですが、なんというか追い立てられてる気分でやってしまうのが岩城隆之です。焦燥感があるんですね、なんとなく漠然とした。

 それでもって本日ご紹介するのは南宋の劉錡。戦上手で美形で寡欲だったというから実に岩城好みの将帥です。この人から丁度一〇〇年ほど後に生まれる孟珙がマイフェイバリットであるように、“儒将の風あり”という名将が好きでして、この人と孟珙と宗沢が岩城の中で南宋三大好的大将なのです。人生の見本にしたい人物としても推したいタイプですね、彼らは。というわけで明日からクリスマス、正月と“シュトゥルム・ウントドランク”な日々が進むので今年の更新はまさしくこれにて。来年からは体調のためにも「月二回更新」を厳守するつもりでして、だから「岩城更新遅いな」といわずにのんびりお待ちください。それでは年末年始に寿ぎのあらんことを。

劉錡(りゅう・き。1198-1262)
劉錡は字を信叔といい、徳順軍の人。濾川軍節度使・劉仲武の第九子である。儀状(容姿)美しく、射を善くし、怒鳴れば声は割れ鐘の如し。かつて仲武にしたがって征討し、牙門の水斛(水升)満ちるや箭をもってこれを射、箭を抜いて水を注ぎ、一矢をもってこれを窒し(満たし)したがえて、人その精なるに服した。

高宗即位するや仲武の後に錄され(取り立てられ)、劉錡召見を得、これを奇とされ、特に閣門宣賛舎人を授かり、差(兼官)して知岷州、隴右都護と為される。夏人と戦ってしばしば勝ち、夏人兒啼(夜泣き)して、しきりに恐れてこれを曰く「劉都護来!」と。張浚陝西の宣撫となるや一見してその才奇なりとし、もって涇原経略使兼知渭州。張浚は五路の師を合して富平を潰さんとするも、慕洧が慶陽をもって叛き、環州を攻める。張浚は劉錡に命じてこれを救わす。別将を渭の守りに留め、自ら将いて環を救う。まもなく、金、渭を攻め、劉錡は李彦琪を洧の捍(まも)りとし、親しく精鋭を率いて渭に還り救うも、既に及ぶところなく、進む退くべからずして、乃ち徳順軍に走る。李彦琪は遁げて渭に帰り、金に降る。劉錡は貶されて知緜州兼沿辺安撫。

 紹興三年復官し、宣撫司統制。金人が和尚原を攻め抜くや、すなわち陝、蜀の地を分守する。たまたま使者蜀より帰り、以て劉錡の名を聞く。召し還され、帯と機械を除かれ、ついで江東路復総管と為される。六年、権(仮)堤挙宿衛親軍。帝は平江に註するも、解潜、王彦両軍交戦し、ともに罷む。命により劉錡兼ねてこれを将いる。劉錡は因ってもって前護副軍及び馬軍を請い、通して前、後、左、右を為し、中軍と遊奕(遊軍)、すべて六軍、ことごとの軍に一千、十二将を為す。前護副軍は即ち王彦の八字軍也。ここにおいて劉錡初めてよく軍を為し、扈従して金陵に赴く。七年、師を合肥に。八年、京口を戌る。九年、擢されて果州団練使、神龍衛四廟都指揮使、主管侍衛馬軍司。

 十年、金人三京に帰り、東京副留守、節制軍馬を充てる。諸部の八字軍ようやく三万七千、将に発す。殿司(後宮の十二司の一)三千人を益し、みなその妻子を携え、将に汴に駐し、順昌の家に留まる。劉錡は臨安から江に訴えて淮に絶し、すべて二千二百里。渦口に至り、方食(食事のさなか)、暴風が坐帳を抜き、劉錡曰く「これ属の兆し、主に暴兵なり」すなわち下に令して兼程(昼夜兼行)して進み、いまだ至らずして、順昌から三百里で抵り、金人はたして盟(約)を敗って来侵す。

劉錡と将佐は憩いて水陸から行き、先に城中に入る。庚寅、諜報金人東京に入ると云う。知府事・陳規、劉錡に見えて計を問えば、劉錡曰く「城中糧有り。すなわち能く君とともに守る」陳規曰く「有米数万斛」劉錡曰く「可なり」時に部の鋒を選び、遊撃両軍および老稚輜重、猶遠くに相去らせ、騎を遣わしてこれをうながし、四鼓すなわち至る。旦報せを得るに及び、金騎すでに陣に入る。

 劉錡と陳規兵を斂して入城するを議し、守禦の計を為し、人心乃ち安ずる。諸将を召して将に事を計れば、皆曰く「金兵敵すべからざり、殿(しんがり)に精鋭を請うをもって、歩騎で遮りつつ老小順に流れ、江南に還るべし」劉錡曰く「吾赴くは本来官を司に留めるべし。今東京を失うと雖も、幸いにして全軍此処に至り、城あって守るべし。如何にしてこれを棄てるや? 吾が意已に決す、敢えて言うものは斬る!」ここに部将・許清、號して『夜叉』なるもの奮して曰く「太尉奉命して副、汴京を守れば、軍士を養い老幼をして連れ、今避けて走るは易き耳。しかるに父母妻子を棄てるは忍びなく、欲してこれとともに行く、則ち敵の翼をして攻め、何処に逃げるや? 互いにこれと努力一戦に如かず、死中において生を求めるなり」議して劉錡と合す。劉錡大いに喜び、船に鑿してこれを沈め、去る意なしを示す。寺のうちの家の奥、門に薪を積むと、戒めるものあって「脱するは不利有り、すなわちわが家を焚くは、敵の手に辱すなかるなり」命を分かって諸将に諸門を守らし、明けて斥候、土人を募って間探を為さしめる。ここにおいて軍士みな奮い、男子は戦守に備え、夫人は刀剣を研ぐ。争い呼して躍して曰く「平時わが八字軍人を欺くも、今日当に国家のために賊を破り功を立てん」

時に守備に恃むべしは一もなく、劉錡は城上において窮し自ら督励し、偽斉の痴が造るところの車を取り、環(輪轅)をもって城上に埋める。また民を戸扉に撤かせ、箱に周ってこれを隠す。城外の民家数千気は悉くこれを焚いた。全て六日にして粗畢し(ほぼ完成し)、しかして遊騎すでに穎河城下を渡り至る。壬寅、金人順昌を囲み、劉錡は予め城下に設けた伏を発し、千戸・阿黒ら二人を擒え、これを詰問し、謂うに「韓将軍白砂渦に営し、城から距離三十里」劉錡夜千余人を遣わしてこれを撃ち、連戦、殺虜頗る衆。すでにして三路都統・葛王、完顔褒が兵三万をもって、竜虎代王と兵を合して城に逼る。劉錡は令して諸門を開き、金人疑って敢えて近づかず。

はじめ、劉錡は城伝いに羊馬を養う垣を築き、垣に穴を開けて門と為す。これに至り、許清ら垣を蔽して陣を為し、金人縦に矢を射る。みな城の垣端より離れる者軼著し(著し)く、或いは垣上中止。劉錡は胡弓を破らんとして、神臂翼をもって強く弩を引き、城上の垣門から敵を射て、当たらざるなし。敵やや退く。また歩兵をもって迎撃し、河に溺れさせて殺すもの数えるべからず、鉄騎で破れる者数千。特に鼎州観察使、枢密副都承旨、沿淮制置使。

時に順昌が囲まれて已に四日、金兵ますます盛ん。乃ち砦を東の村に移して、距離二十里。劉錡は驍将・閻充に壮士五百人を募って、夜その営を斬らす。この夜、天は雨を欲し、電光四方に起こり、辮髪の者これを見てしきりにつきる。金兵退くこと十五里。劉錡はまた百人を募って往く。あるもの銜を食むを請うも、劉錡嗤いて曰く「枚もつ無し也り」と。命じて竹折らせ大呼させ、市井の児が戯れを為すものに如き、人を以て一持して號をなし、直ちに金営を犯す。雷電燭するところみな奮撃し、雷電止めば則ち隠れて動かず。敵衆大いに乱れる。百人の者は吹く声を聞いて即ち集まり、金人ますます測る能わず。終夜戦ってより広野に屍積み、軍は老婆湾に退く。

ウジュは汴に在ってこれを聞き、即ち縄を取って乗馬し、淮寧を過ぎて留まる事一宿、戦具を治め、糧を備え、七日をかけずして順昌に至る。劉錡ウジュの来るを聞き、城上に於いて諸将と会して策を問い、或いは謂う今已に屡勝ち、よろしくこの勢いに乗じ、全軍舟してしかして帰るべしと。劉錡曰く「朝廷は兵を養うこと十五年、まさに緩急の用を為す。いわんや已に賊の鋒を挫き、軍声わずかに振るう。衆寡均しからずと雖も、しかるに進むあって退がる無し。かつ敵営はなはだ近づき、しかるにウジュ又来る。吾軍一動すれば、彼その後に躍し、則ち前功ともに廃されん。敵に両淮を侵軼させ、江、浙を驚震させるは、則ち平生報国の志あろうと、反して誤国の罪なり」衆皆感動して奮を思い、曰く「これぞ太尉の命なり」と。

劉錡は曹成ら二人を募り、これに諭して曰く「汝を遣わして間を作し、事捷てば重く賞す。ついで我が言に如けば、敵必ず汝を殺さず。今汝を騎中の綽路(緩やかな路)に置き、汝敵に遇わば則ち偽って墜馬すれば、敵の得るところとならん。敵師我を如何なる人かと問えば、『太平辺師の子、伎声を喜び、朝廷は両国の講通をもって、東京を守り逸楽に図らせんのみ』」已にして二人果たして敵に遇い執われ、ウジュこれに問い、答えて前に如く。ウジュ喜びて曰く、「この城破るに易きのみ」すなわち鵝車に砲具を置かず用いず。翌日、劉錡は城に登り、遠く看て二人遠来、縄を上げて架け、すなわち曹成ら敵に枷して帰り、文書一巻繋ぎ枷してもって、劉錡の軍心懼れ惑わし、ここに焚を立てる。

ウジュ城下に至り、諸将を喪うを責める。衆皆曰く「南朝の用兵、昔の比に非ず。元帥城に臨んで自ら見られよ」劉錡は耿訓に約戦書をもって遣わし、ウジュ怒って曰く「劉錡なんぞ敢えて我と戦うか。吾が力を以て以てすれば爾の城破れん。直ちに尖靴を用いて躍り倒すのみ」耿訓曰く「太尉、ただ太子と戦うを請うに非ず、且つ謂う太子必ずあえて渡河せず、願わくば浮橋五カ所を献ず。渡りて大戦す」ウジュ曰く「諾」すなわち下令して翌日府治で会食し、夜明け、劉錡は果たして五個の浮橋を穎河上に為し、敵この由をもって渡る。

劉錡人を遣わして穎河上流の草中に毒を及ばせ、軍士に戒めて渇死すると雖も河水を得て飲む勿れと。飲むは夷その賊。敵は長勝軍を用いて陣厳にしてもって待ち、諸酋おのおの一部に居る。衆先を請うて韓将軍が撃つを請い、劉錡曰く「韓を撃退したと雖も、ウジュの精兵なお当たるべからず。まさに法に法ってまずウジュを撃つ。ウジュ一動すれば、則ち残余は為す能わず」

 時に天大暑、敵遠来して疲弊し、劉錡は士気暇を聞く。敵謀って夜甲を解かず、劉錡の軍みな番して休み更に垣下の羊馬を食らう。敵人の馬餓えて渇き、水草を食らうものしきりに病し、往々にして困り乏窮す。俄かに数千人をもって南門より出で、令に戒めて叫ぶなかれ、ただ以て鋭斧でこれを犯す。統制官・趙撙、韓直は身中に数矢中れども、戦って肯んぜず、士殊更死闘し、その陣に入り、刀斧乱下し、敵を大敗さす。この夕大雨降り、平地に水深きこと尺余。乙卯、ウジュは営を抜けて北に去り、劉錡兵を遣わしてこれを追い、使者万数。

 まさに大戦のとき、ウジュは白袍をまとって甲馬に乗り、牙兵三千を以て督戦し、兵みな重鎧甲をまとい、號して「鉄浮図」と。鉄兜を戴き、めぐりめぐらせ長く連ねて四方に垂れる。三人で伍を為し、韋索(鞣皮で作った縄)をもって連なり、ことごと進むこと一歩、即ちこれ馬を擁して用いるを拒み、人一歩を進み、馬を拒んでまた進み、退いてまた卻く。官軍槍を以てその甲を標に目指し行き、大斧でその臂を断ち、その首を砕く。敵又鉄騎を左右の翼に分かち、號して「拐子馬」。女真みなこれを為し、號して「長勝軍」、専ら堅攻をもって、戦たけなわ然る後これを用いる。兵を用いてより以来、向かうところ敵なし。此処に至り、劉錡の軍の殺すところと為し、戦い辰より申、敵を敗り、遽して馬を木でもって障りこれを拒み、僅かに休む。城上鼓の声絶たず、則ち飯に羹を出し、戦士坐して餉し平時の如く。敵披靡して敢えて近づかず。食已み、馬木を撤去し、敵陣に深入りし斬って、また大いにこれを破る。屍を棄て馬を斃し、血肉枕を為す。車旗器甲、山阜の如く積む。

 はじめ、河北に軍有って官軍に告げて曰く、「吾輩もとより是左護軍、本より闘志無く、両翼の拐子馬を殺すべきところ」故に劉錡兵力これを撃つ。ウジュ平日強者を以て恃むを為すも、損なうこと十中に七八、陳州に至り、しばしば諸将を罪し、韓常以下みな鞭を之し、すなわち衆を擁して汴に還る。捷ちを聞き、帝甚だ喜び、劉錡に武泰軍節度使、侍衛馬軍都虞候、知順昌府、沿淮節度使を授ける。

 この役より、劉錡の兵は二万に満たず、出戦わずか五千人。金兵数十万で征北に営し、亘ること十五里、毎暮、鼓の声山谷を震わし、しかるに営中讙譁(かまびすしく)、終夜声有り。金は人を遣わして城に近づき密かに聞き、城中粛然、犬声無難。ウジュの帳前に甲兵環を列し、燭を持ち夜を照らし、その衆分番して仮に馬上に寐す。劉錡は逸を以て労を待ち、故にもってしきりに勝つ。時に洪晧燕に在って密かに奏し、「順昌の捷、金人震え恐れて魄を喪い、燕の重宝珍器、ことごとく北に移す。意欲損ない燕の南に以てこれを棄てる」故に議者この時謂うに諸将協心し、分路追討せよと。すなわちウジュを擒うべく、汴京を復すべし。しかして王師還すに極まり、機械自ずから失し、良く惜しむべしなり。

 七月、命ぜられて淮北宣撫判官となり、副を楊沂中とし、太康県において敵を破る。まもなく、秦檜令を請うて沂中の師を鎮江に還させ、劉錡を大平州に還し、岳飛を以て兵を行在に赴かせ、出師の謀をやむなり。

 十一年、ウジュまた両河の兵を簽し、再び謀を挙ぐ。帝また測って敵情を知り、必ず一とせず已に遂に坐し、すなわち詔により大いに兵を合し淮西を以てこれを待つ。金人は廬、和二州を攻め、劉錡は太平より江を渡り、廬州に抵って張俊、沂中と会す。しかして敵已に大いに入り、劉錡東関の険に拠してもってその衝をとどめ、兵を引いて清渓に出で、二戦して皆勝つ。柘皐に行くに至り、金人と石梁河を夾み陣す。巣湖の河を通り、広さ二丈、劉錡は命じて薪を曳き畳を橋とし、須臾(わずかな間)にして成り、甲士数対を遣わして路橋に槍を伏せて坐す。沂中、王徳、田師中、張子蓋の軍と会し俱に至る。

 翌日、ウジュは鉄騎十万を分かって両隅を為し、道を夾んでしかして陣す。王徳その右隅に逼り、弓引いて射この一酋を斃し、因って太呼して馳せ撃ち、諸軍騒乱を為す。金人拐子馬をもって両翼而して進む。王徳衆を率いて鏖戦し、沂中万兵におのおの長斧を持たせこれを奮撃する。敵を大いに敗り、劉錡と王徳らこれを追い、また山東において敗る。敵遠くに臨んで曰く「これ順昌の旗幟也」すなわち退走す。

 劉錡和州に駐し、旨を得、すなわち兵を引いて江を渡り大平州に帰る。時に三師を並べて命じ、相せずして節制す。諸軍進退張俊多く出で、しかし劉錡順昌を以て捷ち驟かに貴く、諸将多くこれを妬む。張俊と沂中はともに腹心を為し、しかして劉錡と隙あり、故に柘皐の賞、劉錡の軍にひとりもなし。

 居すること数日、班師を議し、しかして濠州急を告げ、張俊と沂中、劉錡趨って黄連埠にこれを援く。距離濠から六十里、しかして南城すでに陥つ。沂中進戦を欲し、劉錡張俊に言いて曰く「もとより濠を救わんとし、今濠已に失す。師を退けて険に拠すに如き、徐に後図を為せ」諸将曰く「善し」三師鼎足して営し、或いは言う敵已に去る、劉錡また謂い、「敵の城を得て退拠するも、必ず謀有るなり、よろしく備えを厳にすべし」張俊従わず。沂中に命じて王徳とまさに神勇歩騎六万人、ただちに濠州に趨り、果たして伏兵に遇って還る。

 遅れて旦、劉錡の軍は藕塘に至り、則ち沂中の軍已めて滁州に入り、張俊の軍已めて宣化に入る。劉錡方食(食事の最中)、張俊至り、曰く「敵兵すでに近づく、如何?」劉錡曰く「楊宣撫の兵行在(帝の居場所)か?」張俊曰く「我利を失い還るなり」劉錡張俊に語りて「恐れる無し、劉錡歩卒を以て請い敵を御ぐ、宣撫試みにこれを観よ」劉錡の麾下みな曰く「両太師の軍已に渡り、我が軍なんぞ苦しんで独り闘うや?」劉錡曰く「順昌は孤城、赤子の助けを旁るなく、吾引っ提げる兵二万に満たず、猶勝ちを取るに足る。況や今地の利を得、また鋭卒有りや?」ついに三復を設けて以てこれを待つ。俄かにして張俊至り、曰く「諜者妄り也、すなわち戚方殿後の軍をなす(故に逃げられよ)」劉錡と張俊、ますます相わざるして下る。

 一夕、張俊の軍士劉錡の軍に縦に劫火し、劉錡十六人を擒え、槊上に梟首し余、皆逸す。劉錡張俊に見えると張俊怒って劉錡に謂いて曰く「我即ち宣撫を為す、汝即ち判官。なんぞ我が軍を得て斬るや?」劉錡曰く「宣撫の軍知らず、ただ斬るは砦を劫す賊のみ」張濬曰く「有る卒帰り、未だ嘗て砦を劫すを言わず」一人を呼びて出対す。劉錡正色として曰く「劉錡為すは国家の将帥、罪有らば宣撫当に朝に言え、豈得るや卒伍と対する事なるや?」長を収めて馬に登りて去る。已にみな班師し、張俊、沂中朝廷に還り、ことごとに岳飛の救援せずを言い、しかして劉錡の戦不足を言う。秦檜主として其れを説き、ついに宣撫判官を罷め、命じて知荊南府とする。岳飛は劉錡の掌る兵を留めるを奏し、許されず、詔によって武泰の節を提げ江州太平観に挙ぐ。

 劉錡は荊南に鎮することすべて六年、軍民これを安ず。魏良臣が劉錡の名将であるを言い、久しく閑するに当たらず。乃ち命して知潭州、大尉を加え、荊南府の師に復す。江陵県東に黄潭あり、建炎の間、有司水を決して江に入りもって盗を禦ぎ、このよしにより夏秋漲り満ちて荊、衡の間みな水患を被る。劉錡始めて命じてこれを塞ぎ、膏腴(あぶらづいた土地)を斥け、田数千畝。流民の自ら占める者幾千戸。詔により劉錡大礼に遇い文資により許し奏し、乃ちもってその甥劉汜を江東路兵馬副都監となす。

 三十一年、金主亮軍六十万を調(動員)し、自ら将いて南に来し、いよいよ望むこと数十里。銀壁に如くを断たず、中外大いに震う。時に宿将在るものなく、すなわちもって劉錡を江、淮、浙西節度使と為し、逐路軍馬を節制さす。八月、劉錡兵を引いて揚州に屯し、大将の旗鼓を建て、軍容甚だ粛、観る者嘆息す。兵を以て清河口に屯し、金人毛氈をもって船に糧を積みて来り、劉錡使いして善く沈行するものに鑿させその舟を沈ます。劉錡は楚州から召伯鎮に軍を退かせ、金人眞州を攻める。劉錡は兵を引いて揚州に還り、師・劉澤をもって城を守るべからず、請うて軍を瓜州に退かす。金の万戸・高景山揚州を攻め、劉錡は員琦を皂角林に遣わし、陥とし囲んで力戦、林の中に伏兵を発し、大いにこれを敗って景山を斬り、俘虜数百、捷を奏し、帝は金五百両、銀七百両をもって師を犒う。

 これより先、金人議して精兵を淮東に留め劉錡を禦ぎ、しかして重兵をもって淮西に入る。大将・王権は劉錡の節制に従わず、戦わずして潰。清河口より師を揚州に退け、舟を以て眞、楊の民を江の南に渡らせ、兵をとどめて瓜州に屯す。劉錡病を得、兵権を解くを求め、その甥劉汜をもって千五百人をとどめて瓜洲渡を塞ぎ、また李横に令して八千人を以て固守さす。詔下って劉錡は江を防ぐを専らにし、劉錡遂に鎮江に還る。

 十一月、金人瓜州を攻め、劉汜弓射をもって敵に克ちこれを退く。時に知枢密院事・葉義問、江、淮の詩を督して鎭江に至り、劉錡の病劇を見て、もって李横権(仮)に劉錡の軍を率いる。義問鎭江の兵を督し江を渡り、衆みな不可と以て為すを、義問これを強いる。劉汜出戦を固く請いうも、劉錡従わず。劉汜家廟を拝してしかして行う。金人重兵をもって瓜州に逼り、分兵して東の江五月に出、逆に瓜州に趨る。劉汜まず退き、李横孤軍当たる能わずをもって、また退き、その都統制の印を失し、左軍統制・魏友、後軍統制・王方ここに死す。李横、劉汜わずかに身を以て免ず。

 方々の諸軍江を渡って北し、劉錡人を遣わして黄、白幟を持たせて高山に登りこれを望み、これを戒めて曰く「賊至らば白幟を挙げ、合戦して二幟を挙げ、勝てば則ち黄幟を挙げよ」この日二幟挙がり、時こえて劉錡曰く「黄幟久しく挙がらず、我が軍殆ど失う」劉錡憤懣し、病益々甚だし。都督府参賛軍事・虞允文采石より来りて、舟師を督して金人と戦う。允文、鎭江を過ぎ、劉錡に謁して疾病を問う。劉錡は允分の手を執りて曰く「疾なんぞ必ず問うか。朝廷兵を養うこと三十年、一技を施さずして、しかして大功乃ち一儒生によらば、吾輩愧じて死すなり!」

 召されて門前に詣で、万壽観に提挙(軍事主管)し、劉錡仮に都亭(役所)の駅にこれ居る。金の聘使将に至り、留守・湯思退、おもむろに館してもって待つ。黄衣・劉錡を遣わされ別試院に居を移して諭す。劉錡、劉汜の己を煩わすを疑い、常に懼れるは命後に有り。三十二年閏二月、劉錡怒りを発し、喀血数升して卒す。開府儀同三司を追贈され、家に銀三百両、帛三百匹を賜る。後諡されて武穆。

 劉錡は慷慨沈毅、儒将の風有り。金主亮の南進に、下令され敢えて劉錡の姓名を謂う者、皆赦されず。南朝の諸将枚挙有り、その下敢えて当たり執るものを問い、皆姓名随いてその答え響くに如く。劉錡至り、応じる者有る莫し。金主曰く「吾もってこれに当たる」しかるに劉錡病を以て卒し成功能わず。世に傳う、劉錡陰陽の家行に通じ、師の避ける所に就く。劉錡は揚州に在って、命じて城外の居屋を悉く焚き、石灰を用いて白城の壁に書して曰く、「完顔亮ここにおいて死す」と。金主忌むところ多く、見てこれを悪み、ついに龜山に至り、人衆容れるべからず、もってここに変を致すを云う。

カルタゴ-ハミルカル・バルカ

 本日も宜しくおねがいしますというか、休んで養生しろよ自分、って感じなのですが、どうにもこうにもやってしまいたくなる。或る意味で自己顕示欲というか「僕の訳した名将たちを見てください」願望が強いんですかね? とにかく身体が動きさえするならどんなに苦しかろうがやってしまうのが岩城隆之でございまして。主に母と先生から「自分を追い詰めなさんな」と諫められてはいるのですが我慢するとフラストレーションなのです。でも最近は体調に細心の注意が必要かも知れないですねー、昨日寝落ちというか気絶というか、自分でいつの間に倒れたか分からん間に横倒しに倒れてました。四時半に床の上で目覚めたときは「は?」と思いましたがやっぱり疲れやすくなってるのかな。41才なんてまだ年取ったって年齢でもないのになぁ。
 ともあれ本日は「ハミルカル・バルカ」です。「MilitaryBiography」の文章は短く簡潔すぎたのでこれを下敷きにして、あとは日本語資料と岩城の私見を加えて書かせていただきました。せめて1500文字ぐらいの分量があればですね、問題ないのですが「Biography」は秀才人数こそ多いけれど一人一人の伝が短いからあまり役に立たないというか、面白みに欠けるのですよね。まあそんなわけで岩城の見解が入ってしまってるので、今回100パーセントの信頼が置けるものではないですが、まあハンニバルの父はこんな人でした、というのをやりたかったので。それでは。
 あ、それとアレです。世界篇のカテゴリ分けですが、国ごとに分けるより「上古」「古代」「中世」「近世」「近現代」の5つに分けた方がより親切でしょうか? 岩城は整頓が得意でなく、なかなかうまくカチッとはまる回答にたどりつけないのですよ。アイディアありましたらコメントなりに一筆下さると助かります。それでは今度こそ。

ハミルカル・バルカ
 カルタゴの将軍。かの有名なハンニバルの実父であり、自身も高名な名将である。<バルカ>というのはもともと姓氏ではなく、<電撃将軍>というほどの異名で、彼はそれほどに電撃的な軍隊運用を得意としたためこの渾名が氏族の姓氏になったのだった。

 前二四七年、青年将校としてシシリーでカルタゴ軍の指揮を執ることになったハミルカルは、歴史に登場するなり一風変わった手段と気構えで戦争に参加する。爾来、カルタゴは商業国家であり、自国民による専門の軍隊というものが存在しなかった。指揮官だけがカルタゴ人で、兵士はすべて傭兵、そう言うシステムであったから、趨勢が勝ちに傾いているうちは良いが劣勢となると愛国心なき傭兵たちは指揮官の靜止も聞かずに逃げ散ることがしばしばあったという。そこでハミルカルは常備軍の創設を考える。

 ただし、ハミルカルの求める常備軍とはカルタゴに忠誠を誓うのではなく、あくまでハミルカル・バルカという一個人およびその氏族に鉄の忠誠を誓う私兵団であった。ハミルカルは自らの裁量と権限によって徴募した傭兵たちを、実力をもって服属させた。ハミルカルについて詳細な文献はほとんど存在せず、実像が掴みづらいが、彼は息子に劣らぬカリスマ性を持っていたようで海千山千の傭兵どもから忠誠を勝ち取ることに成功し、この傭兵部隊をもってカルタゴの国難を救おうと考え、かつ実行した。

 ドレパノンやリリベウムの前哨基地でローマ軍と戦い経験を積んだハミルカルは、パレルモの北、エルクテ山に拠し、妻子ごと部隊をここに置いて足場をがっしりと固めた。そしてしばしば山を下りては平地のローマ人を襲い略奪を行う。将軍と言うより山賊的な戦い方だが、これはローマの国力を削ぐのにきわめて効果的だった。さらに彼の艦隊もまたイタリア半島沿岸を北上、ナポリ西部のクメのあたりを拠点として略奪した。ちなみにハミルカルの兵士たちに支払われる給料はすべてカルタゴではなく、ハミルカルが略奪で得た財産の中から出たらしい。傭兵たちが余計にカルタゴを軽んじハミルカル個人に心酔したであろうことは想像に難くない。

 かくてハミルカルは本国からの資金援助なしに麾下の兵たちに十分すぎるほどの財貨を提供、そしてドレパノンと密に連携しながら近隣を脅かし、ことにローマのパレルモ港を擾乱したことは敵に大いなる打撃を与えた。エルクテ山でしばしの略奪戦を重ねた後、ハミルカルは同様の拠点をエリクスにも造り、同様に略奪を行った。

 シシリー戦役は次第にローマの敗勢濃くなる。財貨牧畜ならびに人的資源が枯渇し、指揮官の誰一人として英傑ハミルカルに比肩髄鞘できるものがいなかったから、ローマ人がカルタゴの傭兵部隊に屈服する日も遠くないかのように見えた。

 が、元老院とその下にある将帥たちは無為無策でも、財産を備えたローマの愛国者たちはなお不屈であった。彼らは私財をなげうち兵を募り、海賊船中心の艦隊を造った。それまで海では圧倒的不利にあったローマが、苦闘二十三年目にして戦艦二百という大船団を建造したことは端倪すべからざる出来事であった。この艦隊を率いる提督には全会一致でガイウス・ルタティウス・カトルスが推され、ルタティウスはハミルカルの数隻の海賊船を鎧袖一触し、ローマ軍はほとんど抵抗なくリリベウムおよびドレパノンの港に到着、このカルタゴに逼迫される二市を怪力から猛然と攻め立てた。カルタゴ軍はローマが突如大船団を以て反撃に出たことに驚愕した。前二四一年、ドレパノン沖のエガテ島近くで両者は交戦したが、ほとんど初撃でローマ軍はカルタゴ軍を粉砕した。ローマ軍は装備・兵員・指揮官ともに優れ、カルタゴは装備劣悪で命令系統もちはぐ、さらにいえば兵の質も劣悪だったと言い、この結果は当然と言えた。この海戦でカルタゴを率いていたのがハミルカルであり、率いる兵が彼の指揮下の百戦錬磨の私兵団であったならローマに勝利の花束を贈ることはなかったであろうが、この戦でカルタゴ艦隊は五十隻が沈められ、七十隻を拿捕された。カルタゴ首脳部は大いに意気消沈したという。

 ハミルカルは七年間優勢に戦ってきたにもかかわらず味方のこの敗戦でその努力と成果をことごとくふいにされ、しかもこの状況下でカルタゴの全権を任された。実際には「おしつけられた」のが正しく、ローマの制海権の前にいかんともしがたくなったカルタゴ政府から敗戦処理を任されたのだが、ともかくもハミルカルは講和の席で堂々と振る舞い、シシリーは譲るがカルタゴの独立自治だけは絶対に譲らぬとしてこれを認めさせた。それでも三千二百タレントの賠償金は大きく、ハミルカルもシシリーの私兵たちに支払いができず危うく暴動が起るかも知れないところであったし、実際カルタゴ本国ではけちな政府が傭兵たちへの支払いを渋って結果暴動が発生、ハミルカルが出動してこれを鎮圧するという仕儀に相なった。

 前二三六年、ハミルカルはカルタゴ軍総司令官としてカルタゴを出立、その際まだ幼い息子ハンニバルにゼウス神殿の祭壇でローマへの憎しみを忘れるな、と誓わせたという。ハンニバルの弟たちもまたともに父に従軍し、北アフリカからスペインに渡った。この以降ハミルカルはスペインを前哨基地とすべく征戦に次ぐ征戦を重ねてほとんどスペイン一国を統一しかけたが、ついにスペインの土着民族との戦いのさなか、息子ハンニバルの面前で死んだというが、その支配者としての業績は一国の国主と呼ぶにふさわしく偉大であり、のち大カトー(ローマの大政治家でカルタゴ嫌いで知られる)ですらも「いかなる王も、ハミルカル・バルカに比すれば語るに足りない」と感嘆したという。それにしてもローマは大敵の死を喜んだが、のちにその息子ハンニバルがより巨大な敵として自分たちを苦しめることになるとは、慮外のことであったに違いない。


南宋-王堅

 もうなんでしょーかね、ホントに死ぬほど具合悪いわけです。ただその具合の悪さが陰性でなく陽性というか、とにかくテンション高くてもてあますほど元気なんですよ、今。もう「ヴゲャヒャヒャブビャフハァ~ッヒャフフ! ・・・ゲボフォア!?」って感じなんですが、分かります? オノマペト(擬音表現)ってB型特有らしいんですよね~、だから「お前の言いよることはいっちょんわからん」とかよく言われるんですが死にそうです。頭と首と胸と腹が痛くて相変わらず右半身がしびれっぽい。
 でも翻訳はやる。今日なんか通院日でしたけど昼に帰ってきてから三時までの間にちょちょいと一件翻訳してしまったぐらいで絶好調。「体調が芳しくなくてたまらんから劇薬でも毒薬でも丸山ワクチンでもバイアグラでも、とにかく効く薬飲ませてくれ、副作用ばっちこいやから」と、言いましたところ、なんか薬の構成が変わりましたがちゃんと我が身の役に立つかな、多少なりとマシになればいいんですけどね。「躁転せんように」ということに腐心してたはずなんですが、なっちゃってみると「鬱状態より躁状態の方が元気そうやね」と、おっしゃる先生の真意がよくわかんないんですが。こんなガイキチの風狂人を見て「元気そうやね」ってこれ元気か? 明らかに何か違うんですが。まあいいや、なんかあったら年明けの通院日に日記渡しましょう。
 ともあれ本日はですね、南宋末の王堅です。とりあえず三十人ぐらい集めてリライトっていうかなんていうか「誰々は何処々々の人である。○○は幼くして弓馬武芸に通じ・・・」という文章があるとしたら、「誰々は字を何々と言いまして、生まれは何処何処。幼少の頃より武芸に通じ、弓術馬術に長けました」という風に全部書き換えて、そのうえで電子書籍化してみる予定。まあ今現在まだアップしてない分含めても二十五人なので、最低あと五人は選出する必要がありますが。
 はい本日も前置き長い。それでは訳文行きましょう。イェア!

王堅(おう・けん。?-1264)
 王堅について生年・郷里および子供時代の逸話などは伝わっていないが、嘉煕年間(1237-1240)に孟珙の幕下に加わり、以降手柄を重ねたことで知られる。孟珙の命を奉じ、わずかな遊撃の兵を率いて鄭州順陽のモンゴル軍後方基地を襲撃、これを擾乱して敵の造船用木材を焼き壊し、淳祐三年(1243)にはまた孟珙の命で六千の兵を率いて蜀地の晋徳のもとに派遣された。これ以降王堅の活躍はおもに四川で部隊を率いてのものとなる。四川における抗モンゴル戦の最先鋒をなし、敵陣を陥として前後の功績をもって昇進し武功大夫(南宋の武臣の階級としては二七番目)とされ、遙郡団練使に任ぜられる。

 宝祐二年(1254)夏、モンゴルの将・王徳晋が軍を率い、北向川から試験的に侵攻、嘉陵江沿いに南下して一挙合州と広安軍の防衛ラインに迫る。王堅は曹世雄とともにその率いるところの部卒をもって頑強に抵抗し、遂にモンゴルの攻勢を挫き撃退した。理宗は王堅の奮闘と功績を激賞、徳に詔を下して二階級特進、さらにひるがえってまた王堅を興元都統制兼知合州とした。

 宝祐六年春、モンゴルのモンケ・ハンは入念な準備のすえ、弟のアリク・ブケに留守を任せると蒙古の兵を三路に分かち、大挙南宋に侵攻を開始した。フビライは京西と湖北、ウリャンハタイは雲南、から、そしてモンケ自身は本軍を率いて四川に迫り、四川を占拠して長江を南下するための橋頭堡を築かんと企図した。その進軍路上にある四川の防衛戦および都城は悉く徹底的に破壊された。京西、湖北、湖南から同時に襲い来るモンゴルの大攻勢の前に、長江上流の南宋軍遊撃は無力であり、四川を援護するための兵力を提供する余力がなかった。年末までに川西、川北、川中のほとんどの地域はモンゴルの手に落ち、実質的に南宋領として機能しているのは河東のみ、しかも形勢は非常に厳しいものであった。

 合州と重慶は河東の中心、心臓部といえる。合州は嘉陵江、渠江、涪江の交わるところに位置し、そこから要地重慶に繋がる。合州-重慶のルートは軍事的に非常な価値があった。さかのぼって嘉煕四年(1240)以来、四川制置副使・彭大雅は合州の防備を着々と固め、部将の甘潤を合州から東に十里、釣魚山に派遣して山上、釣魚寨の修築を命じた。その後、四川制置使・余玠が四川の府を釣魚山上に遷し、この頃王堅は知合州に任ぜられた。以後余玠は人を招き寨を大量の人員を投入して大改築、釣魚城を築く。釣魚城には軍人平民あわせて十万余が住まい、城内の水源豊富であり、糧は豊富でモンゴル軍の猛襲を迎え撃つ構えは万端であった。

 開慶元年(1259)正月、モンゴル軍は釣魚城を囲む。モンケは降将使・晋国宝を使者に派遣して王堅に降るべしと招いたが、王堅は断固徹底抗戦の気構えを崩さず、釣魚城の閲武場において晋国宝とその衆を殺した。モンケはこれを聞くや大いに怒り、二月三日、自ら軍を率いて釣魚山の山麓に立ち、各路のモンゴル軍を指揮して猛攻を開始した。

 モンゴルの将メンシデギンは火州のシュピース兵を領し、ファダットはジツィの兵を、チャオアコパンは臨洮のチベット兵を、コグヤンはアルゴンの軍を、アタチはアシの軍を率いてそれぞれ釣魚城の一字城、鎮西門、東新門、奇勝門、鎮西門の小砦などを攻めたが、南宋軍はその都度これを撃退して斥けた。四月初めの攻囲開始から雨の降り続くこと二〇余日、モンゴル軍はやむなく侵攻を停止し、四月二十二日、モンケは自ら軍を率い近衛の兵を攻城戦に投入、釣魚城護国門におけるその激闘は熾烈を極め、二十四日夜、モンゴル軍はついに護国門外城を占拠することに成功するが、王堅はすぐさま兵を率いて反撃し、瞬く間に外城を奪い返した。五月、モンゴルの軍中に疫病蔓延し、攻城はわずかほども進まず。

 南宋の京西、湖南、湖北、四川宣撫大使・賈似道は河東を確保して長江中流の敵を圧迫せんと軍を動員、自ら信頼を置く部将・呂文徳を四川制使副使兼知重慶府となして四川に援兵を送る。時を同じくして宋の理宗は王堅の赫々たる戦功を徳に詔して顕彰し、以て釣魚城軍民の士気を鼓舞した。六月初め、呂文徳率いる軍は苦戦してようやく重慶に到着したのち、千余艘の船団を率いて嘉陵江を遡り、救援として釣魚城に入る。宋軍は三槽山にあってモンゴル軍と遭遇、これを迎撃する。モンケは自ら馬上弓をとって督戦し、蒙古の将・史天沢は蒙古の歩騎を展開し長江両岸を扼しつつ、弓取って箭を射かけ宋軍を攻撃し、さらに併せて水軍を流れに乗せて川下りさせ、宋軍の船団に突撃した。呂文徳はがむしゃらに前進したが、逼迫され利なくして退き重慶に帰った。

 六月中旬のある夜、モンゴルの将・汪徳信がその率いるところの部衆とともに夜襲を仕掛け、馬軍寨の外城を占領。王堅は南宋の軍卒を組織するとモンゴル軍が浮き足立って地に足がついていないうちに強襲、迅速に反撃を開始した。両軍の激闘は夜が明けるまで続き、このとき雷雨大いに轟き、モンゴル軍の雲梯をへし折ったために後続のモンゴル兵は行動を阻害され掣肘され、馬軍寨内のモンゴル兵は悉く殺戮された。汪徳信は懊悩し恥じ入りそしてかつ怒り、単騎城下に迫って城上の王堅に怒鳴って曰く「王堅、私の裁量で全城内の軍民を救ってさしあげる故に、貴公速やかに投降されよ!」これに対し王堅は投石機の一斉砲撃で答えた。汪徳信は躱すこと敵わず、その頭に岩石を喰らって流血、朦朧とし、軍営に戻り応急手当を受けたが功を奏さず、死んだ。

 モンケが見るに釣魚城は難攻不落、きわめて悩むと同時に怒り、火刑によって場内をいぶり殺さんと決したが、それを決行する直前疾病にかかる。七月九日、モンケは敵の迫るのを前に諸将たちと建議し合い、ひとまず三千の精兵を以て釣魚城を警戒しながら、自分は主力を率いて悄然と立ち去らんとし重慶まで退く。七月二十一日、剣山の湯温峡にてモンケは病死。彼の死によりモンゴル軍はてんでに北へ離散、南宋政権を揺るがす大征戦に、南宋・・・という王堅はかろうじて勝ち残った。九月二十八日、理宗の知遇を得て消息を尋ねられた王堅は、詔を以て寧遠軍節度使に昇遷され、また依然として左領軍衛上将軍、興元府駐箚御前諸軍都統制および知合州、節制軍馬を兼ね、爵位を進められて清水県開国伯に封ぜられた。

 景定元年四月、宋朝朝廷は王堅を臨安に召し戻し、侍衛歩軍司都指揮使に任命した。しかし翌年五月、王堅は宰相・賈似道の猜疑を買って忌まれ排斥され、左金吾大将軍、湖北按撫使兼知江陵府とされる。景定四年三月、王堅は知和州と管州按撫使を兼ねるも活躍の場を得ず、郁々として死んだ。

南宋-魏勝

おはようございます。17日に「今年はこれで打ち止め」といったような? まあ減るならともかく増やす分には問題ないでしょう。というわけで今回は、南宋中期の魏勝という人物です。ほぼ虞允文と同時期に活躍した人で、田中芳樹氏の「紅塵」にもちょっとだけ顔を出してますがあまり活躍した印象がなく、有名無名で言うと無名に近いでしょうね。でもこれが調べてみるとかっこいい人だったりするのです。「俺はここで死ぬだろうが、お前たちは逃げよ。生きて天子にこのことを伝えるのだ」という言葉にはちょっと痺れます。まあ岩城の身体は慢性的にビリビリ痺れてたりするんですが。
 そういえば昨日とおととい、友人宅に彼が所帯を持って5年目にして初めてお呼ばれした(ずっと招かれてはいたのですが、こちらが足を運ばなかったというのが正しいのですけどね)のですが、まあ遊びに来いというのじゃなくて「PC修理して」という依頼で。おとといの時点で「こりゃ外付けのHDDがいるわ」ゆーたらマイフレンドはそんなもん持たず、じゃあ俺のを使えと1TBの外付けHDDを繋いで、Cドライブの邪魔っけなデータを外付けディスクに移動、元データを削除。本当はパーテーションの変更とかしたかったのですが「システムディスクはー?」というたらそんなもんないというのでこれはできない。うっかりシステムをフォーマットとかできんなと言うことで、じゃあいろいろ設定を弄って多少なりと早くなるように「win7を早くする7つの方法」的なことをいくつかやって、ついでにまた家から持ち出したチューンナップユーティリティーでシステムを最適化。このときの数値が、レジストリの問題1500ほどにプログラムの問題16000以上。「こりゃ遅くなって当たり前ってもんやが」と。チューンナップにより50パーセントのマシンパフォーマンスは57パーセントに。時間がかかるのでデフラグ見届ける事無く11時頃帰宅しましたが、デフラグが終わったら70パーセントぐらいまでは伸びるんじゃないですかね。とにかく余分なジャンクファイルが多いのとそれがシステムドライブを埋め尽くしてたのが原因でしたから、ウィルスとかワームの類いではなかったです。もしそうだったら岩城の手に負えませんからね。で、「日当くれ」といったのですがもらえなかった・・・。いやお前、友人とはいえ病人を6、7時間酷使して一銭も無しってひどくないですかね? 個人的にはHDD1TBでまあ2000円、技術料というか施工料で1500円、時給800×7で5400円として8900円、これをお友達割ということで0.7倍して6230。これぐらいはいただきたい。こっちゃ死にそうなよぼよぼの状態であれやってこれやってってやってるわけですし、ショップに頼んだら13000円ぐらいの仕事ですよ? なんかHDD盗られたって気がするです。まあ向こうも年の瀬で経済的に苦しいだろうし、仕方ないかなーとは思うのですが。ちなみにペンタブとトレス台もただであげました。なんかあいつにはもの上げてばっかりな気がする。ここに記録して忘れないようにしたから、ちゃんと払うべきは払えよ~、Tk。
 でまぁ、昨日の晩帰宅したらずっと7時間気を張ってた揺り返しで体内の調子が揺り返しの大津波ですよ。精神がささくれ立ってなんかカッカしちゃって、うちの母にちょっと怒鳴ったり怒ったりはしないんですけどね、なんか話り口が「なに?」と言うべきところで「なん!?」という粗暴な具合になりまして、やっぱり自分は他人の領域に長い時間いるとダメだなと思いました。長いこと一階にいると母にも自分にもわるいことになりそうなのでさっさと二階自室に戻り、こんなカッカしてたら眠れんのじゃないかと思いながらも深夜2時には眠れました。明日はもう通院日なので少しは体調立て直さないといかんのになぁ、1日で調整するのは難しいですよ・・・。
 まあそういう愚痴でした。わざわざここまで読んで下さった方はありがとうございます。
 それでは魏勝の本文いきますかね。

魏勝(ぎ・しょう。一一二〇―一一六四)
 魏勝は字を彦威といい、淮陽宿遷の人。南宋の抗金の名将であり、主として義勇軍を率いた。彼が生まれたのは絶え間なく金軍が南進してくる時代であった。彼は長ずるにつれ知勇兼備し、大刀を巧みに使い、騎射をよくするようになり、若くして弓兵として軍に投ずるが、変装して淮河を渡り、つぶさに金軍の情勢を探った結果、のち居を山陽に移す。一一六一年、金主完顔亮が六〇万の大軍を百万と号して大挙南侵すると、両淮の人々は倉皇と恐れふためいたが、魏勝の場合これを聞いて勇躍として決起し、食糧を集め武器を作り民兵を召募し、義勇軍三〇〇を組織して淮水を北に渡り、漣水軍を取り、徳意を布告して一人も殺すことなく漣水の民衆にその命令を聞き入れさせた。しかる後衆を率いて海州に進行、金の海州群守・高文富は魏勝の起義を聞き知り、兵を使わしてこれを打擲しようとする。魏勝は兵を率いて海州から八十里の大伊に至り、金兵と遭遇して勇躍奮戦、これを敗走させ、城下まで追撃した。城中はひたすらに驚き慌て、水陸から宋軍が攻め上ってくるのを見て高文富は門を閉ざし堅く拒守し、兵を駆使して民兵の登城を防いだ。魏勝は城外にあって虚勢の旗幟を張り、火煙を上げて兵を多勢に見せかけ、また四門の外に人を遣わして守衛の卒を脅かして降し、金人の敗れるをもって兵を興すを盟約する。朝廷が特に興師(軍を興した)の罪を問うため人を遣わした頃、すでに能く門を開いて敵を収降していた。秋毫も犯すところがなかったので城中の人は安堵しはなはだ喜び、ついに城門を開いてこれに饗応する。魏勝は城に入るや馳せて高文富とその息子高安仁を?の門外に戦って擒え、高文富を生け捕り高安仁および州兵千余を殺した。しかるのち民は安らぎ、州城まったく平らぐ。

 海州すでに定まると、魏勝は仮の州知事とされたが、自ら任じて都統制を名乗った。また使いを出して?山、懐仁、沐陽、東海諸県を招諭し、ことごとく平定。魏勝はまた令を下して租税を免除し、囚人罪人を釈放、倉を開き民衆に分配して賑わし、戦士をねぎらい賞与を与え、また忠義の戦士を王軍となして軍規を厳命にし、将領を選抜して任命、さらに軍卒を招募し、近遠にの回復を図って檄を飛ばし、四方これに応じる。二十日とたたずして数千の兵を得た。しかるのち、左軍統制・菫成を派遣して沂州を攻めさせ、これを取る。菫成の軍は千余人だったが、金兵と沂州で市街戦を勝ち抜いて殺した敵の数は郡主もふくめて三千人にのぼり、武器甲冑数万を獲た。まもなく、金将・蒙恬鎮国が兵数万を以て海州奪回のためにやってきたが、魏勝は報せを聞き、兵を率いて抵州の北二十里の新橋に布陣し、伏兵を敷いて待った。金兵至るや巧妙に伏兵を発し、大いに敵を破り蒙恬鎮国を斬り敵兵千余を殺し、三百人を降して軍声大いに振るった。また、沂州蒼山の義民が金軍に囲まれたと知ると兵をひっさげて救援におもむいている。金兵が追撃してくると魏勝は単騎しんがりを務め、大刀をもって奮戦、金兵は遠まきに魏勝を見ていたがこれぞ主将と知るやついに五百騎ほどで魏勝を囲んだ。魏勝は包囲を衝いて脱出し、多くの戦いを重ね、身に傷を受けること数十、刃の険を冒して脱出するが金兵はなお追い迫り、射かけてきた矢が馬に当たったので徒歩で命からがら寨に入り、九死に一生を得た。金兵は急襲を仕掛け、蒼山の周りに営を設けたが、魏勝は金軍はまた必ず海州を攻めるとみて間道を通り海州に戻った。果たして金の主力は海州に転向し、四面から攻城、魏勝は城の上に上って将士を指揮し防衛に努め、金兵は車掛かりに兵を入れ替えて七日間猛攻を加えたが死傷はなはだ多く、ついに撤退して北に還った。淮南総管・李宝はその備えの細やかなのを知って魏勝のために朝廷に上奏し、南宋朝廷はここに詔を下して魏勝を正式な海州知事に任じた。

 金主完顔亮は淮河を渡ったのち、魏勝を襲撃すべく心を定め、軍数万を分かって海州に赴かせ囲ませた。魏勝は警鐘を聞き、李宝に報告して救援を請う。李宝はすぐに軍を率いて海を渡り、海道近くの?西で敵を拒んだが、魏勝危急を知ってすぐに将士を率い、救援に向かった。軍は海州城北の新橋に至り、金兵と遭遇、すぐさま交戦となり、戦況混沌。魏勝は勢いに乗じて城を飛び出し、金兵を挟撃、金兵は背後を敵に突かれてたまらず潰走し、李宝は海州の囲み解けるを確認するとまた水軍を率いて?西に戻った。魏勝はまた城を回って各所に守御を置く。果たして数日後また金兵至り、城北の砂巷に営を置き、陣を並べて攻城準備を整え、同時に魏勝に使者を派遣して投降を薦めるが、魏勝は「盟に叛いて信を失い、ゆえなく兵を興した悪徳の金主に下げる頭はない! 本朝は仁義の師をもって旧領を回復し、汝らを必ず敗北させるであろう。汝らこそ早々に本朝に降れば、栄爵賞賜が獲られるであろうよ」といったので金の使者はむなしく帰って金将に報告するしかなかった。金将はすなわち兵を率いて城門近く迫ったが、魏勝は却って闘志を燃やし、城楼に登って酒を飲み、軍卒をねぎらい、あわせて固守を厳命し、堅く堅守。金兵は攻撃するたび被害を受けたので、また軍を馳せて渡河し、関の後ろにまわって襲う。魏勝は兵を収めて城に戻らんとし、金兵ここぞとばかり追求してくるのを魏勝はひとり馬にまたがりしんがりを務め、「魏勝ここにあり!」と敵を叱咤したので金兵これを聞いて敢えて進む者がなかった。金軍はなお城の西南を攻め、魏勝はまたこれを拒む。ある日の明け方、金兵が大霧に乗じて四面から城を攻めんとすると、魏勝は士卒を励まし、力を尽くして防御に努め、矢石を怒濤のごとく金軍に注いだ。金軍は大損害を受けてついに進めず、退走する。金兵は懲りることなく今度は海州の外側に長垣を築いて包囲しようとするが、のち完顔亮が内変に死するにおよんで海州の囲みはついに解けた。魏勝は海州保衛の功績から、閤門祇侯兼山東路忠義都統とされる。

 魏勝は金兵北に退くの機に乗じ、軍を増強し兵を練り、現地の人を皆精鋭とした。金の間諜を擒えると酒食を以てねぎらってからこれを解放し、その間諜は北に還るとみなに受けた礼遇のことを語った。これにより、山東、河北からの投降者が非常に多く魏勝に投じることになり、彼らの口から金人の虚実を聞き知った。金人は魏勝に威嚇されて被害甚大、ついに金将は山東路の統制に兵十万を与えて遣わし、海州を襲撃させた。魏勝は李宝と会して水陸からともに大軍を撃ち、金軍と海州の北で戦い大いにこれを破って斬首無算、堰の水は死体で流れを止めたという。数月あまりののち、金将・五斤太が諸路から二十万の軍を発して再び海州を攻撃、その勢いは凶猛であり、民衆ははなはだ恐れ、みな入城を欲した。統制・郭蔚は門を閉ざして入れず、民衆の怒号と怨嗟は地を揺るがした。魏勝が入城すると固守してこの地を守り抜くと告諭し、城門を開いて民衆を収容した。二日後、金軍至り、環となって城を囲むこと数重。魏勝と郭蔚は兵を分かって防備し、旗を収めて鳴りを潜め、寂々として人なきがごとし。金人は疑い恐れを抱き、数日、敢えて攻めることがなかったが、やがて雲梯を用意し四面から同時に城に迫り、土を負って壕を埋める。魏勝は敵が城墻に近づくのを待ち、ここで一斉に鼓を鳴らし旗を立て、一斉に矢石を発し、ついで火牛の計をもって敵中に放った。戦いを経ること三昼夜、金兵は城に近づきながらも半歩迫ること敵わず、攻撃をやめ、塁営を修築し、河川道を絶ち、長期包囲戦の構えを取った。魏勝は敵の算段を察知するとそれを撃破すべく、いくつもの小部隊を出して敵の不備を突かせ、発って襲撃、敵が不安に駆られたところに火をかけて攻城具を焼く。金将は悩み、羞じ、かつ怒り、力を合しての急攻に切り替えたが、魏勝はやはり堅守して抜かせず。その一方で魏勝は李宝に連絡を取って危急を告げ、報せを受けた李宝は張子蓋に命じ軍を率いて応援に赴かせる。金兵は宋の救援軍が来ると聞き、囲みを解いて逃げ出した。魏勝と張子蓋は部隊の先頭に立ってここぞとばかり追撃すること十数里、金軍は壊滅し、魏勝はさらに進んで敵将を討たんと欲したが、張子蓋の説得とただ解囲せよとの詔に従い、軍を率いて城に還る。

 一一六三年、魏勝は海州に鎮し、心を尽くしてその経営に当たった。海州城西南の枕孤山に敵軍が登山、城中の虚実を探り、それによって城の西南が破壊活動の標的とされると、魏勝は兵民を率いて外城の修築に当たり、山全体を外城の内に囲んだ。敵は一旦再びやってきたが、ついに害をなすこと能わずに終わる。魏勝はまた自ら創意工夫して戦車数百、砲車数十、獅子面の移動堡壘などを作り、それぞれの車には兵五十人を搭載することが出来た。この戦車が進んで連結し営をなすともはや人馬接近すること能わず、矢を以て防御するしか出来なかったという。一旦敵に遇えば戦車は陣の外にあって矢石を発射し、砲は陣の中に列して火を噴いたという。交戦時、勝ちを獲て陣を抜き追撃に移る時にも、不利な時退くにあたって休息するにも、士卒を疲れさせず、攻めるにも退くにもともに利のある兵器であったらしい。

 一一六四年、朝廷が金との間で和議を望み、海州の屯戊からの撤収を命ぜられた魏勝は南下して楚州の知事となり、清河口に屯する。この時点で和議はなお達成されておらず、金兵は宋軍武装解除の機に乗じて、糧道を借りると詐称し清川口より楚州に攻め入った。魏勝は忠義軍を率いて河口に拒戦し、逆に金軍の糧道を断ってやる。偏都統制・李宝が和議成ったことを報せに駆けつけ、檄令をもって侵攻を取りやめさせようとしたが金軍はきかず、魏勝も兵を擁して動かなかった。金軍は淮河を渡って南下、宋の境に入り、魏勝は急行して抵御、彼我鉾を交える。早晨から晩に至るまで戦い決着つかず、金将はそこでまた数万の残存兵力を戦場に投入。衆寡はあまりにも瞭然であり、魏勝は一面兵を率いて死戦しつつ、一面で李宝に急を告げた。李宝は楚州にあってその距離四十里のところにいたが、嫉妬心から救援を発さなかった。魏勝は孤軍奮闘、ついに矢折れ力尽き、自らの死を悟り、親しく近くの兵卒に語って「おれはまあ、ここで死ぬだろう。だがお前たちはなんとしても逃げよ、天子にこのことを伝えるのだ」しかるのち歩兵を先に逃がし、自らは騎兵のしんがりを務め、戦い且つまた走り、淮陽の東十八里のところで流れ矢に当たり、死んだ。

 魏勝は忠義貞節英雄と言うべく、兵をよく知り能く戦い、しかるに諸将に忌まれるところとなり、援けなくして戦死したが、後世彼の勇気に感嘆しないものはなかった。

シュテファン大公

おはようございます。っていっても今はまだ真夜中なんですが。昨日「これ酷い状態になることは以上はないだろう」と思ったのですが、今朝はそれ以上です。もう細々と症状を語るよりかたった一言「これ死ぬんと違うかな」というぐらいで。あと一歩で再びノックダウンかみたいな具合なんですが、ここで潰れたらそれこそ次の再起は絶望的、ということで頑張らせていただきました。『100位世界傑出的将帥』より斯特凡大公ことシュテファン三世です。この人について名前およびフニャディやヴラドと並んで中欧の英傑の一人と言うことぐらいしか知らず、中世モルダヴァ(文中ではモルドヴァとしましたが)の地名やら固有名詞やらよく知らないので間違いがあるかも知れない・・・というかたぶんきっとあるでしょうが、まあ寛い心で許していただければ幸い。しかしこの人入れるならヴラドとフニャディも入れてくれれば良いのになと思うんですけどね、近現代の比重重すぎです。そういえば韓信が入ってないんですねこの本。ちょっと姑息というか人格的に高潔でない部分でハネられたんでしょうか? あと孟珙がおらん。これはまあ、仕方ないというか、中国本土における彼の評価はもとよりあまり高くないようなのでわかってたことではありますが。他にこの本には注文つけはじめるときりがなくなるんですけどね。隣国日本の部将が秀吉だけかとか、アンタの国のすぐそばのベトナムとかビルマの名将はおらんのかとか。まあ全て「やむなし」ですが。というわけでそろそろ訳文行きましょうか。今度こそ次回正月過ぎまで休養します。もう絶対。なんか次回こそは早くアップします、っていうならともかく、間を置きますって宣言するのもなんですが、この身体、ガタがきすぎててどーにかしてやらんといかんので。それではこれをもちまして今年最後の更新です。よろしく。
シュテファン大公(1433?-1504)
シュテファン大公はハンガリー国王の部将としてマジャール人の両度に渡る侵攻をその都度斥け、威声大いに振う。二度にわたる大戦で悉く殲敵してのけ、シュテファンの軍事的傑出は内外に隠れも無いものとなった。この二度の勝利は大いにモルドヴァ人民の侵略者に対する独立心を高め、民族の自尊と勇気と信仰心を取り戻させた。シュテファンは機が熟したとみるや自ら長期にわたる戦略計画を立案、崇敬するヤ-ノシュ・フニャディの遺志を継ぐべくルーマニア三国に反オスマン同盟を打ち立て、ルーマニア人を団結させトルコの侵略に抵抗した。キリスト教世界の門番としてその扉を完全に守り抜いた指揮官であり自身敬虔な信徒であった。
 このとき、南方のムンテニアがトルコの大公ラドゥの襲撃を受けた。ムンテニアはカルパチア山の南側ドゥッヘ川の北面に属し、戦略的価値非常に高かった。西にハンガリーと西欧を繋ぎ、北に向かってはモルドヴァとポーランドの門に通じる。トルコ人はトルコ人がムンテニアを通過しその先の地を制したとしたら、ヨーロッパの大門に通ず鍵を明け渡すに等しく、常時侵略を許すことになるであろう。ゆえにシュテファンとしてはなんとしてもムンテニアをトルコ人の手から守らねばならなかった。
 1470から、シュテファンはトルコ人の侵入に対しせわしない連続した国土防衛戦争を行い、ムンテニアでラドゥ大公を打破、1473年の会戦でようやくラドゥ大公の軍を潰滅させることに成功し、勝ちに乗じてムンテニアの首都ブカレストを奪い返しラウド・バサラヴを擁立、君位につけた。バサラヴは半オスマン同盟に参加することを表明する。
 聡明なスルタン・ムハンマドはシュテファンの追求するところの目的を察知して、急ぎこれを討伐することと決定する。オスマン帝国のギリシア総督、トルコ軍において最も出色にして残忍凶悪なる統帥者、宦官スリム・スルタンは詔令を受け、彼の持ちうる全兵力を以ってモルドヴァへ侵攻、無鉄砲なほどに大胆な大公シュテファンはイスタンブールへの逆撃を構想する。
 シュテファン大公出征の報せを聞くと、ポーランド王カシミールとハンガリー王マーチャーシュはすぐさま兵を派遣してこれを救援した。マーチャーシュはシュテファンにとって仇敵に当るが、トルコの侵略に反抗する一個の好漢という点で信頼の置ける存在であり、かつモルドヴァを援護することはポーランドとハンガリーを護持することに繋がるから、トルコ人を決してモルドヴァより先に進ませないという決意を持っていた。シュテファンはまた当時ヴェニスに逗留のローマ法王に書簡を送り、救援を要請した。
 キリスト教諸国の援軍は遅々として訪れず、それに乗じてトルコの大軍が進撃を始めた。西暦1474年冬、スリムはアルメニアのスクダ要塞を出発、12万の大軍を率いてギリシア北部を横断、トラキアを通過してブルガリアの向こうドゥッヘ河を越え意気軒昂に進軍する。またその艦隊は食糧や衣服を満載して黒海からドゥッヘ河へ向かう。シュテファンは少なくない友軍がトルコに投降していく状況下で自らも降伏しようと考えるバサラヴ大公を支えて、かつほとんど無謀な虎のごとく、大兵力の侵略軍に対抗すべく大車輪で働いた。
 モルドヴァは独立以来最大の試練に直面した。シュテファン大公は即時国内の兵を総動員し、同時にバスルイ宮殿近辺に大本営を建立、対トルコ戦争の指揮を執った。彼は再びキリスト教諸国およびローマ法王に救援要請を求めたが、キリスト教諸国の君公たちは自分たちだけ愉しく過ごし、相変わらず口先だけの空返事で使者を追い返した。ただポーランドだけが2千人の援兵を寄越してくれ、トランシルヴァニアのサグレイがシュテファン大公の英雄的壮烈に佩服して自ら5千人を率い参戦してくれた。
 ついに時間が急迫し、シュテファンの軍隊はただ4万に過ぎなかった。さらに言うならばそのほとんどはさっきまで畑を耕していた農民で、援軍を足してなお5万に満たなかった。
 シュテファンは落ち着き冷静に彼我の強弱を分析し、敵を自国の奥深くに誘い入れて戦うことに決した。勝ちを伺うには堅壁清野の焦土戦術とゲリラ戦をもってするしかなしと策定する。
 クリスマス、トルコ軍先遣隊はモルダドァ国境を越えた。モルダヴァの農民兵たちは彼らの総帥の命令を遵守し、糧と家畜を隠匿し、井戸は埋めるかあるいは毒を流した。しかるのち敵を森の奥に誘い込んで襲撃し、夜、敵営に奇襲をかけて火をかけた。他にも小部隊を多数編成して険阻峻厳の地に布陣し、敵を阻ませた。彼らは自国の地形を熟知しており、敵を遭難させた。ひとたび遭難したら敵にはもうなすすべがなく、彼らはそうやってまた次の敵を山奥森の奥に引きずり込んだ。トルコ軍には天も手伝わず、終日霖が続き、川谷が氾濫し、道を塞いだ。トルコ軍はシュテファンのそれを追跡しているうち、本格的な交戦を行う前から疲労困憊、艱難辛苦を嘗めつくした。彼らは一様にシュテファンを恨み、声を挙げてシュテファンを捕まえ生きたまま生皮を剥ぎ切り裂いてその肉を喰らってやると罵った。
 トルコ軍はようやくにバスルイに到達し、決戦の時至る。シュテファン大公は諸大臣と将領をバスルイ宮殿の議事庁に招集すると、彼らを前に十字架に口づけてキリストにこの戦い、必ず異教徒を倒し戮すと誓った。ついで大公は戦闘の陣割について綿密な打ち合わせを行った。大臣と将領たちもまた酒を飲んで将帥に勝利を誓うと、慌ただしく自らの部署に戻った。
 シュテファンは念入りに戦場を選び、バスルイ城南の沼沢地に定めた。ここはラケヴァ河とビルラト河の合流する地点で、沼沢の両岸にはただ一座の高橋があるのみであって、トルコ軍が攻め入るためには木の橋を通らないわけにはいかない。この地形はトルコの大兵団を運用できなくしてその優位を奪い、よしんば橋を渡り終えても重甲騎兵の動きは阻害される。そしてモルドヴァ軽騎兵の行動が優位に立ち、彼我の強と弱は逆転する。
 西暦1475年一月上旬最後の二日、シュテファン大公は戦場に濃霧がさしかかっているのを見た。彼は胸の前で十字を切ると、曰く「それぞ神佑天助」すぐさま令を下して即時作戦遂行。10日払暁、モルドヴァ軽装部隊を率いて突撃、沼地の一辺の小樹林まで移動した。まさに進んできたトルコ軍は突如罵声を浴びせられて攻撃を始め、彼らは擂を慣らし鼓を叩き、大声で吶喊しつつむやみに矢を放った。
 長い間トルコ軍はモルドヴァ軍を捕捉できなかった。トルコの将軍たちはすぐに謀られたことを悟り、部隊を横に転じて転じようとした。沼沢に軍を進め、それに後方部隊が続く。目の前に小樹林が見えた。濃霧は彼らの目と思考とを欺き、その後方に万全の陣容で待ち受けているのをはっきりと見せることがなかった。ただ前に敵があるとだけ目視したトルコ軍は興奮して樹林を切り、伐ち、たたき壊して進撃した。彼らがまさにそのまま突き進んで沼の深みにはまった所を、シュテファン大公の主力部隊が両翼および後背から襲った。この攻撃があまりにも迅速かつ突然であったため、トルコ軍はたちまち恐慌に陥った。砲車も家畜も沼に深くはまり、混乱の中兵士たちは同士討ちを始めた。後退しても破滅は免れず、ただ力を振り絞って前進したわずかな兵だけが活路を見いだした。沼沢を避けて反転退却するトルコ軍に、モルドヴァ軍の果敢で容赦ない追撃が始まった。
 トルコの大軍は完全に沼沢に追い落とされ、弩箭と投げ槍は暴風雨のように降り注いだ。モルドヴァの軽騎兵は至る所で沼沢を這いずるトルコ兵を殺しまくり、戦闘という名の殺戮は2日3晩続いた。オスマン帝国が誇る12万の大軍はほぼ完全に覆滅された。トルコの総帥たる副王と実質的総指揮官スリムおよび8人の著名な総督がその場で捕えられた。沼沢の中は屍累々酸鼻を極め、およそ見ていられない様相であったという。
 バスルイ戦役(別名を高橋の戦い)における勝利は世界を震撼させた。これはオスマン帝国が国土拡大を初めて以来、キリスト教徒が勝ち取った最初で最大の勝利であった。キリスト教国の君公たちは欣喜雀躍し、シュテファンはこのために生きながら世界の伝説的英雄となった。人々は彼を褒め称え、カルパチア山の雄々しき鷹、偉大なる戦士にして将帥と呼んだ。
 シュテファンは勝利と栄光に陶酔して我を忘れるような人物ではなかった。彼は冷静に、より大きな危険と試練とは避けられない、そしてそれはすぐに訪れるだろうと考えた。彼は戦勝後まもなくキリスト教諸国の君公に書簡を送り、「邪教の皇帝はこの敗北を知り、すぐさま報復を謀るであろう。まさに今このとき、自ら大軍を率いて出動し、我らを叩かんと構想していてもおかしくはない。我らの国家、キリスト教国家の大門がひとたび陥落したらば、キリスト教世界は全き危険の中にその身をさらすことととなる。故に、私は諸卿が勇ましき騎士たちを派遣して我が国を援護してくれることを望むものである・・・」彼はさらに使者を派遣して、オスマンの軍旗を携えポーランド王とハンガリー王にこれを捧げて穏序を仰いだ。二人の国王は誠心誠意を以て援助を約束した。さらにまた、シュテファンはローマ法王の庇護とほかのキリスト教君公の護助を受けるべく自ら西ヨーロッパに赴いた。
 シュテファンはオスマン・トルコのスルタンが報復の戦を仕掛けてくることを確実なものと断定していた。次の戦争が起るとすれば、それは彼にとって大きなチャンスにもなるはずであった。世間は彼がヤーノシュ・フニャディの遺志を継いで多国連合軍の組織的支柱となり、一挙オスマントルコ領に攻め入ってこれを潰滅させてキリスト教世界を脅かす問題を解消するかもしれないと思われった。しかしキリスト教諸国の君公たちは眼高手低、浅はかで嫉妬深く、臆病であるため、この強悍なモルドヴァ大公が彼らの新しい脅威になるかもしれないと考え、トルコ人とシュテファンを戦わせて共倒れにさせたいと考えた。そのためにシュテファンの雄心壮図は必然、虚ろでうたかたなものになってしまう。彼はそれでもなお孤軍奮戦するが、英雄は艱難と屈辱を味わうことにになる。
 まさにシュテファンが予想して断じたとおり、スルタン・ムハンマドは高橋の戦いの完敗について激怒に打ち震えた。彼は大臣たちを処罰し自らも二日間の断食をすると、すぐさま報復の戦を起こして恥を雪ぐ決心をした。この年五月、早速討伐の師を起こす。スルタンは自ら軍を率いてハノードリーに駐留し、雲霞のごとき大艦隊を北方に向かうべく集結させた。アナトリア、ギリシア、アルバニアとブルガリアのオスマン軍を12路にわけてドゥッヘ河岸の城堡を渡るべく進発し、それぞれの師団に牛に引かせる巨大な大砲10門と小型砲6門を配備し、数千両の大車に食糧と軍需物資および日用品を満載する。軍中多種多様な肌、目、人種の人々が入り交じり、かくてオスマントルコの膨大な戦争の端緒は開かれた。
 しかし、ムハンマドには弱点があった。持病のリュウマチである。これをこらえるのが非常に困難であり、車に乗り降りする際に彼はずいぶん緩慢であったという。ムハンマドはまだ齢50才にも達していなかったが、しかし連年戦争を続けてまた肉欲を節制することもなく、ために健康を阻害されていた。この年夏、天候多湿で雨多く、リュウマチの発作はさらに痛みを増して彼の行動を阻害した。病はひとときも治まることなく、彼は不遜なモルドヴァ人の勝利を懲罰して楽しみを享受することを願いつつも、戦争に踏み出すに困難で連日先延ばしとなり、年が明けた。
 ムハンマドのリュウマチはシュテファンが台頭した近年になってより酷くなった。しかしシュテファンの側でもキリスト教諸君公への不断の外交努力にもかかわらず具体的援助を得られないという状況にあり、しかも一つの屈辱的調印文書により彼は縛られていた。それは1475年7月、ハンガリー王マーチャーシュとの間に締結した条約で、彼はマーチャーシュの宗主権を認め、そのかわりマーチャーシュは彼に政治と軍事の援助を与える、というものだったが、マーチャーシュはこの約束を守らずシュテファンに兵を寄越さなかったうえ、キリスト教諸国の君公にシュテファンを成功させないよう援助を断るよう手回しをしていた。このとき、ヴェニス人が叛乱を起こし、彼らはトルコのスルタンと休戦協定を結んで同じ黒海沿岸にあって友好どころか血縁関係すらあるモルドヴァ大公を裏切り、カファとマングープの両城堡を売った。シュテファンは憂憤やるかたなかったが、かくなるうえはやむなく独力でトルコの大軍を迎え撃つ決心をした。
 1476年春、ムハンマド到来の兆しが伝令によって報されると、シュテファンはモルドヴァの全ての教会および修道院に祈祷を行わせ、そして全軍の将士に一日の絶食を命じた。しかるのち家族に別れを告げ、長子アレクサンドルと部隊を率いて南下する。五月末、彼は国都ヤシでムハンマドの使者を迎えて接見、トルコのスルタンからの要求は降伏し朝貢し、降伏の印に息子を人質に送れというものだったが、シュテファンは断固としてこれを拒否。戦争は不可避となった。
 オスマン20万の大軍が南から浪の湧くが如く次々と現れた。トルコ人の共犯者マジャール人がモルドヴァの北部を脅かしてオスマン軍と相呼応、モルドヴァは南北からの敵に挟まれることになった。シュテファンはやむなく北方の敵に群を割いて自国の保全に回し、自らは1万2千の精兵のみを率いてオスマンの侵略軍に対することとした。その戦力差実に20倍。この大敵を前に、シュテファンは使い古された、しかし非常に有効な戦術を採用する。彼は徹底的な焦土戦術を行って巨敵に対抗し、持ち歩ける分を超える食糧や軍器まですべて焼却、路地の草木にいたるまで悉く焼いた。さらに井戸には毒を投げ込む。そして自身軍の先陣に立って険阻に依り指揮を執り、一歩歩くごとに現れる敵を阻む。さらに遊撃隊を編制、敵営に派遣してこれを襲撃させ、侵略軍の安眠を妨害した。シュテファンの焦土戦術に敵軍は飢え乾き、トルコの編年史家シーアード・ディーンはこの戦争の様子をこう書いている。「軍が何処に行っても食糧はないか腐っている。草木に一つの木の実すら見つけることはできず、また夜は何処に行っても安眠できなかった」
 7月26日、ある谷と森に近しい村で、モルドヴァ起って以来の最も激しく凄惨な戦闘があった。シュテファン自ら率いる精鋭軍はオスマンの襲撃に対して高橋の戦いの再演を期待した。しかしモルドヴァの将士がまたふたたびかつての偉大なる勝利を再現する英雄的気概を発揮したといえど、今回の敵は数の上でも士気の面でも強大に過ぎた。まるまる1昼夜にわたる激戦の結果、モルドヴァの将士はそのほとんどが彼らの愛する故国の土の上に倒れ、屍を晒した。その中には当時著名であった大臣や将帥も多く含まれた。シュテファンは残余の兵を収拾して夜の帷に乗じて戦場を離脱、山の奥に逃げ込んだ。
 勝ちを確信したオスマン軍は鼻息荒く、一路奪い、焼き、殺し、モルドヴァの首都ヤシを占領したが、シュテファンの家族もモルドヴァ首脳陣もとうに素早く逃れて身を隠したあとだった。トルコ人はただの空城を手にして、憤怒の念に駆られこれを焼き払った。
 しかし戦争は侵略者の思いも寄らない結末を迎える。不撓不屈のシュテファンは山上の羊飼いや農民を集めて1万6千人の集を糾合すると、さらにもう一度戦いを挑みゲリラ戦を展開した。この年は酷暑で食糧乏しく、トルコ軍は移動するたび各所で襲撃されて、馬は斬られ牛は裂かれ、大車は焼かれた。神もようやくシュテファンに手を貸し、オスマン軍中に恐るべきペストが蔓延し始めた。モルドヴァの国中が黒死病罹患者の死体で満ちると、ハンガリー国王マーチャーシュは双方共倒れに漁夫の利を狙ってようやく援兵を派遣した。ムハンマドは意気消沈して撤兵を命じ、オスマン軍は8月末までかけて撤兵したが、この国とシュテファンの恐ろしさは留まらなかった。オスマン軍は沿道を行くたびにモルドヴァ軍の襲撃を受け、きわめて重大かつ深刻な損害を被った。これと同時に北方の韃靼(マジャール人)も打ち払われた。
 モルドヴァの人民はシュテファン大公の領下、等しく侵略者を憎む心と勇敢な自己犠牲の精神を持ち合わせ、今回もまた故国の独立と自由を守った。しかし今回の勝利に要した犠牲は本当に深刻なもので、オスマンの大軍に蹂躙された国土は一朝一夕に元に戻るような生やさしいものではなかった。シュテファンは戦後すぐ大臣たちを連れ南方各所を視察、民衆を慰撫し彼らの家畜を弁償して、また消失した寺院や家屋を修築させ、そして焦土戦術で自ら燃やした土地に草木の種を蒔いた。彼はこの大戦後、名為政者としての政治手腕を持って可及的速やかに潰滅の中から人民と国土の活力を取り戻していった。また彼は敬虔なキリスト教徒として多くの寺院、修道院を建立したことでも知られる。1504年7月2日没。遺体はプトナ修道院に安置された。

中国人が選ぶ世界名将100撰

 どうもです。まったく「休め休め」と脳は命令してるんですが精神と肉体はなかなかそれを聞きいれてくれないのですよ。本日・・・というか昨日は「李広」をアップしてからアレやってコレやってしとりました。
 具体的には古書店さんに古本買取りの電話を入れて、Amazonで「歴史群像」シリーズの中古品を探して、そして書籍売却と同時に購入する本を策定、で、昼から夕食時まで本棚を整理整頓すること実に6時間。本が入ったままの本棚を「うりゃっ」と持ち上げたり押したり引いたりした結果、この冬に汗をだくだく垂れ流すというわけのわからん状態。
 さらに夕方、PCショップに電話して無線LAN親機とペンタブの古いヤツも売ろうと画策しましたがこれは担当の方がいらっしゃらず頓挫。明日、じゃなくて今日の昼にでも博多か天神に出て中古品買取りセンターとかに行きますかね。しかし明日は極寒で今年初の雪が降るかもといわれているうえ、私岩城は体調そんなによろしゅうないんですよ。家から2㎞の役場まで歩いただけで半死半生になるていたらくです。昔は身体鍛えに鍛えまくって「福岡で769番目(数字に根拠なし。ベンチプレス120㎏上げたり握力が100超えてたり空手独習の結果ちょっとした石を拳で砕けたりできるようになったから、たぶんそのくらいにはいたんじゃないかなと)ぐらいに強い」と自負していたのですが、今は幼稚園児の腹パンで死ねます。
 5年前の入院以降筋トレしなくなっちゃったのが痛いのですよね~、6つに割れてた腹筋は今やぽっこり膨らみ、いかにも運動不足の気色悪い体型になっちゃってます。しかしどう逆立ちしても今の体調で昔のように鍛え直すことは不可能なわけで、嗚呼、無念なるかなというところですが。
 で、胸と頭の疼痛に苛まれキンキン響く耳鳴りとすぐにあがる息、そしてうまく動かない右半身をひきずって8時からこの1時30分までかけてやったことはというと、「中国版世界名将100撰」こと『100位世界傑出的将帥上・下巻(ちなみに価格は両方併せて2000円以下です。やはり漢籍は安いのですかね)』の人名リストアップ。この本、kindle版なのですが、目次がそのチャプターの頭の人物しか乗ってなくてですね、最初「6人しか載っとらんやんか?」と思いましたが頁を繰っていくとちゃんと一人一人載ってました。しかし自分の読みたい地点に瞬時にジャンプするリンクがないのは残念ですね。結構良い本だと思うので勿体ない。
 そして渉読しながらとりあえずリストを作ったのでここに公開。なんというか、やっぱり自国の英雄を称揚する癖は何処の国でもそうなんでしょうね。近現代に特にそれが顕著ですが。あとロシア人の比率が多い。ドイツも。それ以外ではナセル大統領、フィデル・カストロ、カダフィ大佐あたりが珍しいですね。他は基本に忠実なところを抑えていて安心というか、少々物足りないというか。まあなんにせよシュテファン大公が載っていたというだけでも価値はあったのですが。あと、まったく理解が及ばない人物が2人。アラン・ド・プガスヤとヨセップ・フラジ・テットゥ。ヨセップについてはグルジア人で1982年5月生まれということですが、Wikipediaにもそんな人物存在しないし。ま、岩城が好きなのは上古から近世、ナポレオン戦争前後までであって戦車や戦闘機の横行する戦場にはロマンを感じない・・・むしろただの虐殺現場としか思えず吐き気を覚えるぐらいですので、20世紀以降の将帥には大した興味もないのですが。
 本当にやたら序文が長くなりました。それではリストをどうぞ。
01番・孫武
02番・地米斯托克利(テミストクレス)
03番・呉起
04番・孫ピン
05番・アレキサンダー大王
06番・白起
07番・李牧
08番・王翦
09番・漢尼抜(ハンニバル)
10番・西庇阿(スキピオ)
11番・項羽
12番・韓信
13番・李広
14番・衛青
15番・霍去病
16番・斯巴達克(スパルタカス)
17番・愷撒(カエサル)
18番・龐培(ポンペイウス)
19番・奥古斯都(アウグストゥス)
20番・曹操
21番・諸葛亮
22番・郭子儀
23番・査理大帝(シャルルマーニュ)
24番・楊継業
25番・岳飛
26番・薩拉丁(サラディン)
27番・成吉思汗(チンギス・ハーン)
28番・李成桂
29番・徐達
30番・帖木児(ティムール)
31番・斯特凡大公(シュテファン大公)
32番・弗尓南徳茲・哥杜巴(フェルナンデス・コルドバ)
33番・蘇莱曼一世(スレイマン一世)
34番・弗朗西斯科・皮薩羅(フランシスコ・ピサロ)
35番・戚継光
36番・豊臣秀吉
37番・莫里斯(マウリッツ)
38番・古斯塔夫斯・阿道弗斯(グスタフ・アドルフ)
39番・克倫威尓(クロムウェル)
40番・鄭成功
41番・施琅
42番・路易十四(ルイ14世)
43番・約翰・丘吉尓(ジョン・チャーチル)
44番・薩伏伊・欧根(サヴォアのオイゲン)
45番・弗里徳里希二世(フリードリヒ2世)
46番・養治・華盛頓(ジョージ・ワシントン)
47番・米哈伊尓・庫図佐夫(ミハエル・クトゥーゾフ)
48番・拉法叶徳(ラ・ファイエット)
49番・拿破它(ナポレオン)
50番・威霊頓(ウェリントン)
51番・聖馬丁(サンマルティン)
52番・安東万・約米尼(アントン・ヴァン・ジョミニ)
53番・左宗棠
54番・玻利瓦尓(ボリヴァル)
55番・温菲尓徳・斯科徳(ウィンフィールド・スコット)
56番・尤利塞斯・格蘭特(ユリシーズ・グラント)
57番・加里波第(ガリバルディ)
58番・毛奇(モルトケ)
59番・阿尓弗雷徳・馬漢(アルフレッド・マハン)
60番・卡尓・克労塞新茨(カール・クラウゼヴィッツ)
61番・費迪南・福煦(フェルディナント・フォッシュ)
62番・約翰・潘興(ジョン・パーシング)
63巻・魯登道夫(ルーデンドルフ)
64番・卡尓・馮・曼納海姆(カール・フォン・マンネンハイム)
65番・倫徳施泰特(ルンドスタット)
66番・約翰・富勒(ジョン・フラー)
67番・伏羅希洛夫(ブルシロフ)
68番・凱末尓・阿塔図尓克(ケマル・アタテュルク)
69番・養治・馬歇尓(ジョージ・マーシャル)
70番・古徳里安(グデーリアン)
71番・切斯特・尼米滋(チェスター・ミニッツ)
72番・養治・巴頓(ジョージ・パットン)
73番・朱徳
74番・蒙哥馬利(モントゴメリー)
75番・図哈切斯基(トハチェフスキー)
76番・阿蘭・徳布瓦西厄(不明。アラン・ド・プガスヤ?)
77番・艾尓文・隆美尓(エルヴィン・ロンメル)
78番・卡尓・鄭尼茨(カール・デーニッツ)
79番・艾森豪威尓(アイゼンハワー)
80番・約瑟普・布羅滋・鉄托(不明。ヨセップ・フラジ・テットゥ?)
81番・摩西・達揚(モーシェ・ダヤン)
82番・華西列夫斯基(ヴァシレフスキー)
83番・朱可大(ジューコフ)
84番・劉伯承
85番・葉挺
86番・賀竜
87番・彭徳懐
88番・葉剣英
89番・聶荣臻
90番・陳毅
91番・羅荣桓
92番・徐向前
93番・陳賡
94番・麦克阿瑟(マッカーサー)
95番・武元甲
96番・加麦尓・納塞尓(カマル・ナセル)
97巻・卡斯徳羅(カストロ)
98巻・羅曼・施瓦茨科普夫(ノーマン・シュワルツコフ)
99番・卡扎菲(カダフィ)
100番・欠番

前漢-李広-漢書54巻

 どうもです。なんかとりあえず半月から一月ペースでゆったり更新する、って言ってたんですが、なんか気づくと翻訳やってるから困ったものです。自分を追い詰めてるといつまでも病気よくならんし、いかんぞと。とはいえやりたいことやらないとフラストレーションも溜まりますからこれでいいのかな。
 ということで本日は前漢(西漢)から李広。説明不要の有名人ですね。岩に立つ矢のエピソードで特に著名。悲劇の名将でして幸福に生きて万々歳の衛青や天才だけど傲慢な霍去病より岩城としてはこの人が好きなわけですが、この感覚って判官贔屓ってやつですかね。でも現地中国の『100位世界傑出的将帥(世界の(いわゆる世界名将100撰)』にも李広は入ってますが衛・霍の二人は入ってないのです。だからやはり悲劇の人を称揚するのは世界共通かなと。世界史的に言うとレオニダスなんかも悲劇的で名将の列に入ってますしね。
 ちなみにこの『100位世界傑出的将帥』ですが、漢文で西洋名将なんて翻訳するもんじゃないですね。亜歴山大(アレキサンダー)ぐらいなら読めますが地名とかちゃっちゃくちゃらですし。ただまぁ、時々「おぉ、こんな人が」という人物が入ってたりします。モルドヴァのシュテファン(斯特凡)大公とかヨーロッパの側では無名ですが、ランクインしてるのですよ。だから熟読すればなかなかいい本かもしれません。
 というわけで次は西洋史か中国史か。日本史に関しては確たる資料が少ない・・・日本人なのに・・・のでちょっとお休み中ですが、適当な本売って学研の「歴史読本」シリーズとか買い戻そうかな。手持ちの本が漢籍と洋書と電子書籍ばかりになって売れる本が少ないですが。とりあえずそんなところで、次回はたぶん来月半ば頃に『BattleField』版のグスタフ・アドルフかフリードリヒ2世かの長文版をアップするんじゃないかなと思っています。ベリサリウスとヤン・ジシュカも一つの記事にまとめた方がいいかな。とにかく次の予定は20頁クラスの長文になると思います。漢籍からは南宋史の人物を固めようかなと思っていますがこれもあくまで予定なので分かりません。とりあえず「名将録世界篇」と「南宋篇」のためにそれぞれ50人ずつぐらい選抜したいと思っているのですが・・・世界篇に是非入れたい人物としてデュ・ゲクランとアルバ公とパルマ公、マフムード・ガズナ―ウィーあたりが欲しいのですが、どうにも詳細な資料がなく。やはり一人につき最低でもA4用紙3枚程度のボリュームは欲しくて、それがなかなかないのです。ゲクランについては小説「双頭の鷲」がかなり史実に基づいて書かれているのでこれも資料になるかと思っていますが、アルバ公やらパルマ公は本当に資料がなくて。一応アルバ公については洋書で見つけましたがAmazonで1万円オーバー。買えるかそんなもんというわけでして。
 あとカテゴリ分類変えようかな~と思ってますがどうでしょう。国家単位ではなく「西欧」「東欧」「北欧」「地中海世界」「中央アジア」「中近東」「アメリカ大陸」「Others」で分類した方が簡潔かなと思うようになってるわけです。ヴァレンシュタインとか「ドイツ」に入れるべきか「神聖ローマ帝国」に入れるべきか分かりませんし。
 前置きが長くなりました。それでは漢の飛将軍李公、ちょっと長いですがしばらく時間をいただいて、お付き合いください。

李広(り・こう)
 李広は隴西成紀の人である。祖先の李信は秦の時代の将軍で、燕の太子・丹を擒えたものである。李の家は代々射術に習熟した将門であり、孝文帝の十四年、匈奴が大挙䔥関を侵すと、李広は良家の子弟たちによる軍を率いて匈奴に抗撃、よく射て虜を殺すこと多数。戦後、郎、騎常侍とされた。しばしば文帝の射猟に随い、あるとき猛獣と格闘してこれを殺す。文帝は「惜しむべし、李広は生まれるべき時を誤った。高祖の御世なら万戸侯にもなれたであろうに!」と痛惜した。

 景帝が即位すると騎郎将。呉楚七王の乱において驍騎都尉を任され、大将・周亜父に随い昌邑の戦いで名を揚げる。梁王は李広に将軍の印璽を授けたが還っても褒章が出ることはなかった。のち上谷太守となり、匈奴としばしば交戦。典属国の公孫昆邪は哭いて言うに「李広の才気は天下に二つとなし。その能を自負ししばしば敵と勝敗するが、恐るべきはこれ犠牲の数なり」のち昇遷して上郡太守となる。

 匈奴が上郡を侵すと、皇上は中貴人(それなりの貴人?)数人を派遣し李広に随わせて匈奴との戦闘を学ばせる。中貴人は数十騎ではせ参じ、匈奴三人と出会ってこれと戦う。匈奴は矢を射て中貴人を射、その騎するところを悉く殺す。生き残った中貴人は李広のもとに奔って、李広曰く「これまさに射鵰(特に射撃を得意とするもの)の者に違いない」百騎を従え三人を追う。三人は馬を失い徒歩で歩いていたから、李広は三箭をもってこれに射かけ、二人を殺し一人を擒える。果たして匈奴射鵰の物であったから、縛り上げて山に登り、匈奴数千騎を睥睨して、はたしてもって騎虜を誘う。匈奴驚き山の上の要地を取った李広に驚いた。李広曰く「我が大軍数十里のところにあってかくのごとく敗走し、匈奴の追射を受け命ともし火。今我が留まらば匈奴は必ず我が後ろに大軍ありと察し、我を撃つことなし」そこで李広曰く「前へ!」匈奴の陣からおよそ二百里離れたところで止まり、令して曰く「みな下馬して鞍を解け」と言えば騎兵応えて「虜は多くかくのごとし。今鞍を解いては緊急に即応できませぬ。どういうことでありますか?」李広曰く「かの虜衆を謀にかけるため、鞍を解いたと見せるのだ。今鞍を解いて走れずと見れば、虜賊はその堅陣を解くであろう」まさに匈奴は迂闊に攻撃せず。しかして匈奴に白馬の将領あって出撃したので、李広は裸馬にまたがり、十余騎を従えてこれを射て、白馬の将を討ち取り、さらに軍を回頭させ百騎をもって本陣に当たり、鞍を解き、全軍馬を開放せよと令す。時まさに日暮れ、匈奴はついに最後までこれを怪しみ、敢えて進まず。夜半、匈奴は漢の伏兵部隊あるを知り、全軍を還す。翌日晨、李広はその大部隊に帰属した。戦後、隴西・北地・雁門・雲中太守となる。

 武帝即位すると左右の近臣たちが李広の名将であることを告げたので、未央衛尉とされる。程不識もまた長楽衛尉。程不識は李広とともに辺境を守る太守であり、屯田して辺境を守る。匈奴が侵犯してきたとき、李広の軍には厳格な規律などと言うものはなく、隊列も陣勢も良い水草が茂るところに屯し、往々に停留し、人おのずから便じ、夜になれば誰かが自主的に巡回した。府省の文章などというものもなく、軍はおのずから動く。程不職曰く「李将軍は至極簡便、しかるに虜卒に対するに禁ずるところなく、またその士卒また逸楽であって、これ死を恐れず。わが軍は煩擾(厳しく軍律を定めている)といえども、虜卒相手にここまで放縦にはやれぬ」このとき漢の辺郡の守りと言えば李広、程不職が名将と知られ、匈奴は特に李広を畏れた。士卒の多くは李広の放縦を喜び程不職に従うを苦としたからである。程不職は孝景帝のときしばしば直言諫言して、太中大夫となり、人となり清廉で法令に厳しかった。

 のち漢朝は馬邑城に単于を誘う。大軍を馬邑の路傍に伏せ、李広を驍騎将軍、属護軍将軍となした。単于はこれを気取り逃げたので、漢軍はみな功がなかった。のち四年、李広は衛尉から将軍に遷され、雁門から出て匈奴を討つ。匈奴は大軍であったため李広は敗北し、生捕られる。単于はもとより李広の賢者であることを聞いていたので、令して曰く「李広よ必生の道を取れ」と。虜衆は騎兵をもって李広を擒えたので、李広はその当時傷を負い、彼らは二頭の馬で李広を挟んで護送した。兜にもって繋ぐ縄で李広をふんじばった。李広は走ること十里、死んだふりをし、傍らにやってきた一少年の馬を奪って奔ること数十里、ようやくその余軍と合流する。匈奴は百騎でこれを追い、李広は少年から奪い取った弓でこれを射殺し、難を脱す。これにより漢朝は李広を下吏に落し、法廷の裁判で人馬をいたずらに失い、自らは捕まったという不名誉により、斬首となるところ罪一等を免じて庶人とされる。

 数年後、李広と藍田県のさきの潁陰侯・灌強は、しばしば山中に猟りに出た。またまた一騎で出かけて夜をすごしたとき、他の人と田間で酒を飲んだ。覇陵亭に戻り、覇陵の尉が酒を飲んでいるのを見て、怒鳴って止めさせる。「俺は昔の李将軍だ」と名乗れば尉、応答して「今なお将軍が夜で先に進めないなどということがあるだろうか、いかに!」ということで李広は覇陵亭の下に拘留された。しばらく経って、匈奴が西の遼西に攻め入り、太守を殺し、韓将軍を敗った。韓将軍はのち右北平に遷り、死ぬ。ここにおいて皇上は李広を召し、李広は右北平太守を拝す。李広は請うて覇陵尉とともに往くことを願い、軍中に至ってこれを斬り殺した。上奏して謝罪の文を述べたが、武帝は応えるに「将軍とは国家の爪牙なり。『司馬法』に言うではないか、『車に乗って式せず、喪に遭って服さず、旅を振るわせて師を撫し、征をもって服さず。三軍を率いるの心、戦士将門の力、ゆえに怒りを形にして千里を竦ませ、威を振るってすなわち万物を伏す。これ名声を夷貉によって穢され、威稜隣国に轟くなり』と。ますらおが忿に報いて害を除くは、残酷と屠殺をもってすべし。朕の図るところそれ将軍においてや。もし蹉跌して冠を免じ、頽廃の罪を請うならば、あに朕の指さすところかな! 将軍は師を率いて東を征し、辺境を安定さす。のぞむは以て右北平盛秋の戦門」として不問に付した。李広は辺境の郡に在って匈奴の号して曰く「漢の飛将軍」と。匈奴これを避け、数年境内に入ることなし。

 李広は猟りに出て、叢の中に石を見る。これを虎と見違えて弓弦を挽けば矢は石に刺さり、改めて見るに虎ではなく石であった。他日同じ石を射ても矢が刺さることはなかったという。石を虎と見違えることで人間の集中力と膂力の限界に達していたのであろう。凄まじいまでの集中力である。李広は郡内に虎ありと聞けば、常に自らこれを射て殺した。右北平で大虎を射たときは、虎に傷を受けながらもやはりまたこれを射殺す。

 石建が没すると武帝は李広を召して後任の郎中令に据えた。元朔六年、李広はまた将軍となり、大将軍(衛青)に随い定襄郡から匈奴を伐つ。諸将の多くが虜を斬り擒えて功により侯に封ぜられる中、李広は一人戦功がなかった。これは匈奴が飛将軍を畏れて避けたためで本来李広の不名誉ではないのだが。三年後、李広は郎中令として四千騎を率い、博望侯・張騫とともに右北平から塞外に出て道を分かつ。往くこと数百里、匈奴の左賢王は四万騎をもって李広を囲んだ。李広の軍卒みな恐れ、李広は息子の李敢に向けて救援要請の手紙を出す。李敢は精鋭数十騎を率いてただちに虜衆に突撃、左右に斬って道を開く。李広に向けて「胡虜の相手など簡単なものです」と言ったから、軍士たちはみな安らいだ。李広は円形陣を形成したところに虜賊の急襲が湧き起こり、矢の降る事雨の如しで漢兵の過半が死に、漢軍の矢は悉く尽く。李広は将士に令して把弓を開かせ、不要の物を射掛けさせた。李広も自ら大黄の弩を敵の副将に発し、殺すこと数人。匈奴ようやく囲みを解き、あたかも天は闇黒、吏士みな顔色を失うが、李広は神気横溢として平素と変わらず、軍はきわめて治まり勇気百倍。翌日、戦闘継続。博望侯の軍至り、匈奴遂に軍を解いて去る。漢軍は疲労困憊の極にあり、追撃は不可能であった。このとき李広の軍の全員が覆滅、薨って帰る。漢朝の法律では戦闘終局直前まで間に合わなかった博望侯は死罪だが金をはたいて罪を減じ、平民とされた。李広も自軍を全滅させたとして功罪相半ばし、よって賞与はなし。

 はじめ、李広と従弟の李蔡はともに郎となり、文帝に仕えたが、景帝のとき、李蔡は二千石。さらに武帝の元朔中、軽車将軍として大将軍とともに右賢王を討った。功績により中率、楽安侯。元狩二年、公孫弘が丞相になったころには、李蔡は名声では李広に遠く及ばないものの、官爵九卿では李広を大きくしのいだ。李広の軍の軍吏と士卒は(この分なら自分が李広をしのいで)あるいは封侯を取れるかもしれんと思った。李広は仲の良い王朔に曰く、「漢から匈奴への遠征、李広はいまだかつてその中に居ないことがなかったが、妄りに動く諸校尉や、自分に才能の及ばぬものが軍功を取って侯となるのを何十人と見てきた。吾は彼らの後塵を拝し、しかるについに寸尺の功も封邑も得ることなく終わるのだろうか、何ぞや? 吾には侯になるだけの実力がないのだろうか」王朔応えて「将軍自ら念じてあにかつて恨むものありや?」李広曰く「吾は隴西を守った際、羌族の反逆八百人を降し、詐って同日これを殺した。今怨み事があるとすればこの一事のみ」王朔曰く「すでに降りしものを大いに殺して禍いなし、これ将軍が侯になれぬ所以なり」と。

 李広は七郡の太守として前後四十四年、得た賞与はすべて部下に分配し、食事は士卒とともに摂った。家に余財はなく、一生ついに産業や不動産を語らなかった。李広は身長高く、腕長く、これよき射手の天稟であり、子孫や他人が彼に射術を学んでも決してその高みに到達することはなかった。李広は口数少なく、あまり余人と語りたがらず、軍略の計も地図さえあればそこを射るのみで、もっぱら射術に没頭した。将兵に水が足りず、士卒の水が尽くと、自ら水を近づけず、糧が尽きればやはり自分も食べなかった。寛厚な性格で部下を虐めることがなく、士卒から非常に愛される。彼の射術は敵人を見るや数十歩の距離でも的を外さず、発すれば敵を斃した。しかし兵を帯びての作戦では困辱を受けること多く、しばしば猛獣を射倒しては無聊を慰めたという。

 元狩四年、大将軍と驃騎将軍(霍去病)による大挙兵に李広は自らも随行をしばしば請うたが、武帝は李広も年なのだから、といって許さなかった。しばらくしてようやく許され、前将軍とされる。

 大将軍は出寨に際して、捕虜から単于の居場所を探知し、自ら精兵をもってこれに向かう。李広は右将軍の軍とともに山東道を進む。東道をやや迂回しつつ、大軍で水草少ない道をゆき、その勢は衆を集めての行進に向かぬ。李広は辞して曰く「臣は前将軍となり、今大将軍とは違う路を進んでおりますが、いわんや結髪(元服)の時の匈奴戦のごとく、今一度単于と相対したいもの。願わくば臣を前将軍の任から解き、先鋒として単于の前に死したいものであります。」大将軍は密かに皇上の内意を受けており、李広と雖ももはや老年であり単于の軍に当たるべからず、恐れるは彼の意を汲まぬようにと。このとき公孫敖が新失侯、中将軍となっており、大将軍は彼を単于の主力に充てるつもりであった。なので李広の進言は徒労に終わる。李広はこれを知り、硬い決心をもって大将軍に単于との対決を求めるが、大将軍はあくまで聴かず、長史に令して封書し李広を彼の幕府に引き下がらせる。封書には「急ぎ部をもって詣られよ、書の如く」とあり、李広は感謝するどころか大いに怒りを発して右将軍部の趙食其と合し東道をゆき、そして道に迷った。あとから進発した大将軍は単于と接戦してこれを退走させ、良く戦果を挙げて還る。大軍を南して向かった李広の前将軍部と右将軍部はようやく砂漠に出た。李広は大将軍がすでに勝利を得て還るのを見て兵を合す。大将軍の長史は酒と食事をもって李広に給わり、趙食其が道を間違えた件について「衛青は天子に報告し、貴方を戦場から遠ざけるためにこうしたのです」と言われれば李広に還す言葉もはやなし。さらに大将軍部の長史は李広の幕府に人員帳簿がないことを責める。李広は悄然と「校尉たちは無罪である。これすなわち我が自ら道を失ったのみのこと。今自ら帳簿を為さん」と語った。

 幕府に還り麾下に謂いて曰く「李広は結髪以来匈奴と立戦うこと大小七十余、今幸いにして大将軍が単于の兵に接し、大将軍はいたずらに李広の部隊を遠ざけ道に迷わしめた。これなんぞ天命に非ずや! 李広は齢六十余といえど、最後は刀筆の吏に裁かれまい!」と言ってついに刀を抜き自ら首刎ねた。百姓(民衆)これを聞き武帝の認識の不是を嘆き、老壮みな涙を流したという。ちなみに右将軍・趙食其の下吏は死罪が確定したが、金を払って庶人に落された。

曹彬-宋史258巻

おとといは頗る元気だったのですが昨日はとんでもなく具合が悪くてですね、もう脳は揺れるわ腹ン中に炸薬ブチ込まれて延々爆発されるような痛みに襲われるは平熱5度6分ぐらいなのに7度4分まで上がって中途半端な熱のせいでテンションがヘンになってやたらハイテンションにくっちゃべってはつかれてふはぁ~っ、てぐったりするわの繰り返しでした。あとこれはもうこの数ヶ月ずっとなんですが右半身が痺れてうまく動かせなかったり地味に耳鳴りがキンキンして思考が煩わされたりとまあ、そんな具合だったわけですよ。で、本日はどうかというとやっぱり元気か病気かと言えば病気状態。たまらんでしかしという調子ですが完全に思考能力を奪われるほどでもない、というわけで、朝5時頃に起きると闘病日記を書いてゲームプログラミングの勉強してマンシュタインの「失われた勝利」とか読み返しながらイラスト描きの練習して、そして11時頃から時間が余ったので漢文翻訳の練習がてら宋史から「良将」曹彬を翻訳です。古文調なのはそういう気分だったからなのですが、読みにくくて済みません。彼の勲功はまぎれもなく「名将」と呼ぶにふさわしいものですが、無辜の民を殺さず、敵兵すらもやたらに伐たずという人格的なところを鑑みて「仁慈の心厚き最高の良将」というイメージなのですよ。まあ百戦百勝というわけではなく一度か二度か契丹相手だったりに負けもしてますが、彼の男の貫目が下がることはないでしょう。さて、これ終わらせたら次は何をしましょうかね。「BattleField」の長文訳にまた挑みますか、アレはやたらと疲れますが。ともあれ、今日はたまたま翻訳する気分でしたがあまり頻繁な更新は期待しないでくださいませ。どうせおそらく、次は半月とか一ヶ月後とかしか書き込みませんので。
曹彬(そう・ひん。931-999)
曹彬、字は国華、眞定霊壽の人。父・曹芸は盛徳軍節度知兵馬使。曹彬生まれて数歳、父母百玩を席に並べ、その取るところを見る。曹彬は左手に干戈を持ち、右手に供物台を取り、かくすべからく一印して、他のものには目もくれず、ゆえに、人これを異とす。長ずるに及び、気質淳厚(穏和で重厚であること)たり。漢の乾雄年中、成徳軍の牙将となる。節帥・武行徳はその端緒を視て、左右に指さして曰く「これ器遠大、非常の流れ也」周太祖貴妃張氏は曹彬の伯母なり。周祖受禅し、曹彬、京師に召さる。世宗の帳下に隷し、従って?淵を鎭め、補供奉官とされ、抜擢されて河中都監。蒲の帥・王仁鎬は曹彬の帝戚をもって礼遇を加う。曹彬は礼を取ること益々厚く、公府に宴を集い、終日正しく簡潔であり、未だかつて視の狭まるなし。仁鎬従事して謂いて曰く「老父自ら夙に夜おこたることあらず、監軍見るに及び矜嚴、始めこれを覚えるの暇を率いるなり」

 顕徳三年、改めて潼関監軍、遷せられて西上閤門使。五年、呉越に使いし、命を致すに至って還る。個人の資により礼を致し、一つも受けるところなし。呉越の人軽舟をもってこれを遣わし、至るにおいて数多く、曹彬なお受けず。既にして曰く「吾、夙にこれを拒む。近く名を成す也」ついに受けて文して還り、悉く皇上に簡を送る。世宗強くこれを還し、曹彬始めて賜を拝し、悉くもって分遣し親旧一銭も留めず。出でて晋州兵馬都監。一日、主帥と賓従におよび野に坐して環す。ときに隣道の守将を使い走りにして書を馳せ詣で、使者もとより曹彬を識らず、ひそかに人に問うて曰く「曹監軍いずれや?」ある人曹彬を指して示し、使いの人己に給わり以て為す。笑いて曰く「豈ある国の親戚近臣、しかして戈をどてらにつつみ、胡床に素坐するものなりか?」審視のかたを信ず。遷されて引進使。

 はじめ、太祖が禁旅をつかさどり、曹彬中立にして倚まず、公事いまだかつて造門にあらず、羣居宴会、またまれに預かるところ、よしこれ重んずる。建隆二年、平陽より召されて帰り、太祖謂いて曰く「我代々の昔より常に親汝を欲す、汝なにゆえに我を疎むか?」曹彬頓首して曰く「臣周室の近親にしてまた忝く内職につく。職務に謹み務め位を守り、なお獲過を恐れる。安じて敢えて妄りに交友ありや?」遷せられて客省使、王全斌、郭進と騎兵を領して河東楽平県を攻め、その将・王超、侯覇ら千八百人を降し、俘獲千余人。すでにして賊将考進兵を将いて来援、三戦して皆これを破る。ついに楽平に平晋軍を建てるを為す。乾徳の初め、改められて左神武将軍。時に初めて凌州に克ち、河東の契丹兵六万騎が平晋に来攻、曹彬、李継勲らと城下に戦い大いにこれを敗る。俄かに枢密承旨を兼ぬ。

 二年冬、蜀を伐ち、詔が下って劉光毅が帰州行営前軍副部署とされ、曹彬は都監とされる。峡中の郡県悉く下し、諸将皆屠城をもってその欲するところを逞しくするも、曹彬独り令を申して軍を治め、至る所悦をもって服す。上聞き、詔を下してこれを褒賞す。両川平らぐも、全斌ら夜宴を劃して飲み、軍士を恤せず。部下の漁奪已む無く、蜀人これに苦しむ。曹彬しばしば師を旋えすを請うも、全斌ら従わず。俄かにして全師雄ら乱を起こし、擁する兵十万。曹彬また光毅と新繁にてこれを破り、ついに蜀乱平らぐ。諸将時に多くの子女玉帛を取り、曹彬その中にあってただ図書、衣衾を取るのみ。還るにおよび、上ことごとくその状を得、全斌らを以て属吏に預ける。曹彬の清廉謹慎を言い、宣徽南院使、義成軍節度使を授く。曹彬入見し、辞して曰く「征西の将士ともに罪を得、臣独り賞を受ける、恐れるは以て示すを勧める無し」上曰く「卿に茂功あり、また伐を矜らず、微累を設ける有り。仁贍らあに惜しむを言うや? 勧国の常典を懲らす、譲るなかるべし」

六年、李継勲、党進を遣わし師を率いて太原を征し、命により前軍都監、洞渦河に戦い、斬二千余級、俘獲はなはだ衆なり。開宝二年、議して太原に親征、また命ぜられて前軍都監。兵を率いて先に往き、檀柏谷に屯し、賊将陳延山を降す。また城南に戦い、濠橋に迫り、馬千余を奪う。太祖至るにおよび、すなわち砦の四面を分かち、しかしてその北に独立する。六年、檢校太傅に進む。

まさに江南を伐つ。九月、曹彬詔を奉じて李漢瓊、田欽祚と先に荊南に戦艦に乗りて発し、潘美の帥歩兵をもってこれに継ぐ。十月、詔を以て曹彬は昇州西南路行営馬歩軍戦櫂都部署となされ、兵を分かって荊南より順流に乗って東し、峡口砦を破り、進んで池州に克ち、当塗、蕪湖二県で連勝。采石機に駐軍す。十一月、浮橋を作り、大江を跨いでもって師を渡らす。十二月、その軍を大いに白鷺洲に破る。

八年正月、またその軍を新林港に破る。二月、師を秦淮に進め、江南の水陸十万余と城下において陣し、大いにこれを破り俘虜斬数万を数える。呉人出兵して禦るも、白鷺洲にこれを破る。三月より八月に至るまでこれを連破し、潤州まで勝ち進む。金陵囲みを受け、ここに至っておよそ三時(春から秋)、その人樵に採たせて路を断つも、しきりに敗れ挫かる。李煜甚だ危うく、その臣・徐鉉を遣わして表を奉じ過ちを詣で、緩師を乞うも、上これを省かず。これより先、大軍三砦に列し、潘美北偏を据守し、その形勢を図に来上す。太祖北砦を指して使者に謂いて曰く「呉人必ず夜出兵して来寇す、爾速やかに去れ、曹彬に令す、速やかに深溝を成してもって自らを固めよ。その計中に堕ちる無し」既に成り、呉兵果たして夜奇襲す。潘美率いる所の部は新たな溝に依ってこれを拒み、呉人大敗す。奏するに至り、上笑いて曰く、「果たしてかくのごとし」

長囲中、曹彬しばしば師を緩め、李煜帰服を冀う。十一月、曹彬また人を遣わしてこれを諭して曰く「事勢かくのごとし、一城生きるを惜しむ所の者を聚め、若しよく命に帰せば、策の上なり」城克に垂れ、曹彬たちまち病と称してことを見ず。諸将来門して病を問う。曹彬曰く「余の病薬石の能く癒すところに非ず、ただすべからく諸公誠心自誓し、もって城に克つの日、妄りに一人も殺さずば、すなわち病より癒える」諸将許諾し、ともに香を焚いて誓う。翌日、やや癒える。その明日、城陥つ。李煜とその臣百余人軍門に罪を請い、曹彬これを慰めて安じ、賓礼をもって待す。李煜は入遇して治装するを請い、曹彬数騎を以て宮門の外に待つ。左右曹彬に曰く「李煜その真意は不測、如何すべきや?」曹彬笑って曰く「李煜素より惰弱にして無断、既にして下り、必ず自刎すること能わず」李煜の君臣、卒の保全をたよる。出師より凱旋まで、衆士畏服し、軽んじて恣にするものなし。入見するに及び、刺称して「勅を奉じ江南の回事をもってする」その謙恭不伐かくのごとし。

始め、曹彬これ総帥なるに、太祖言いて曰く「李煜克ちを待つ、まさに卿を以て使相(主上の代わり)を為す」副帥潘美賀を以て預かるを為す。曹彬曰く「しからず、夫にこの行なり、天威につき、廟謨を遵守し、すなわち能く事を為せば、吾に何の功かな。況や使相極まるや?」潘美曰く「何を謂う也?」曹彬曰く「太原未だ平がれず」帰るにおよび、俘虜を献ず。上言いて曰く「まさに卿に使相を授け、然るに劉継元未だ下らず、姑、少しくこれを待つ」既にこの語を聞き、潘美曹彬を窺い見て微笑む。上覚えて遽に詰る所以、潘美敢えて隠さず、ついに実態を以てす。上又笑い、すなわち曹彬に錢二十万を賜る。曹彬退いて曰く「人生なんぞ必ず使相、官を好みまた得る錢過ぎずなり」まもなく枢密使、檢校太尉、忠武軍節度使を拝す。

 太宗即位するや同平章事を加えられる。太原征伐の議、曹彬を召し問うて曰く「周世宗及び太祖みな親征するも、何をもって勝てずや?」曹彬曰く「世宗の時、史彦超は石嶺関に敗れ、人情擾乱、ゆえに班師す。太祖は甘草の地に兵を頓し、たまたま歳、暑雨。軍士多疾ゆえに中止さる」太宗曰く「今吾北征を欲す、何を以て為すか?」曹彬曰く「国家の兵甲精鋭、太原の孤塁を翦るに、朽木を薙ぎ払うに如く。何をしてべからずと為すや」太宗の意遂に決す。太平興国三年、進められて檢校太師となり、太原征伐に従軍。侍中を兼ねる。八年、弭張徳の誣告するところとなり、天平軍節度使を罷む。十日後、上その讒言であるを悟り、封を進めて魯国公、いよいよ厚く遇さる。

雍熙三年、詔を以て曹彬は幽州行営前軍馬歩水陸之師とされ、潘美らと北伐。分路進撃し、三月、契丹を固安に敗り、?州に破る。戎人の来援を城南において大いに伐つ。四月、米進とともに契丹を新城に破り、斬首二百級。五月、岐溝関に戦うも、諸軍敗北。退いて易州に屯し、易水に臨んで営す。上聞き、速やかに命令して返城に屯せよと。諸将追われて門に還る。

これより先、賀令図らが言上して曰く、「契丹主幼く、母后専政、寵倖の事を用い、請うはその釁に乗じ、以て幽薊を取らん」ついに曹彬と蔡彦進、米進の三将雄州より、田重進は飛狐より、潘美は雁門より、期を約して一斉に挙した。将に発するにあたって、上謂いて曰く「潘美の師はただ先に雲、応に趣き、卿らは十万の衆を以て声言幽州を取り、かつ自重して緩行し、貪利を得ず。彼聞くに大兵至らば、必ず衆悉く范陽を救い、山後を援ける暇なし」既にして潘美の軍先に寰、朔、雲、応などの州を下し、重進はまた飛狐、霊丘、蔚衆を取り、多く山後の要害の地を得る。曹彬また連ねて州県を下し、勢い大いに震う。ことごと奏すに至り、上訝しんで曹彬の進軍を速めよと。曹彬?州に到達し、十日して糧尽き、因って師を雄州から退かせもって餉の助けを得る。上これを聞いて曰く、「豈敵人前にあり、反して退軍を以て芻粟を援ける、失策甚だしきなり」速やかに使いを遣わして曹彬に前す勿れと止め、急に師を引いて城溝河から米進の軍と会す。兵を案じて鋭気を養い、師の勢西に張るをもって潘美ら悉く山後の地を略して待つ。たまたま重進の師しかして東し、勢いを合してもって幽州を取る。時に曹彬部下の諸将、潘美及び重進の建功を聴くに及び、しかして己の重兵を握って攻め取るところ能わず、謀議して蜂起する。曹彬止むを得ず、すなわちまた再び?州を攻める。契丹の大衆まさに前し、時まさに炎暑、軍士は乏しく困窮し、糧且つ尽き、曹彬、軍を退く。行伍また無く、終に擾乱され敗れる所となる。

曹彬ら至り、詔尚書省において極まる。翰林学士賈黄中らこれを雑治し、曹彬らともに詔を違え率を失するの罪。曹彬は責を負い右驍衛上将軍、彦進は右武衛上将軍、米進は右屯衛上将軍、余人また黜けを受ける。四年、曹彬は起って侍中、部寧軍節度使。淳化五年、平廬軍節度使に移される。真宗即位するやまた檢校太師、同平章事。数か月して召され、枢密使。

 咸平二年、罹患。上は来駕して臨問し、手ずから薬を飲ませ、白金万両を賜る。問うて以後の事、答えて曰く「臣無事というべし。臣の二子材器取るべし、臣もし内に挙ぐば、みな将と為すに堪ゆ」上はその優劣を問い、曹彬答えて「?は?に如かず」六月薨ず。その妻高氏に韓国婦人の称が贈らる。官途の親族、門客、親校幾十余人あり。八月、詔により趙普とともに太祖の廟庭に配饗さる。

 曹彬は性仁敬にして厚和、朝廷に遭って未だかつてさからわず、また未だかつて人の過失を言わず。二国を伐ち、秋毫も取るところなし。位は将相を兼ね、以て自らを異なるとせず、士大夫に遭えば泥にまみれ、必ず車を引いてこれを避けた。下吏を名せず、毎度建白の事、必ず冠してしかしてのち見た。官に居て奉入は宗族に給わり、予積なし。蜀を平らげて帰り、太祖従容として吏の善否を問うも、答えて曰く「軍政の外、臣の聞くところにあらざるなり」固くこれを問うに、ただ薦軍轉運使沈倫廉謹にして任ずべしと。帥となって徐州の日を知り、有る吏が罪を犯すと、具に案じ、年を越してから然る後これを杖刑に処し、人そのゆえを知る莫し。曹彬曰く「吾聞くにこの人新婦を娶り、もしこれに杖すればその舅姑必ず婦をもって不利を為す、しかして朝夕笞でこれをののしれば、自存して使う能わず。吾ゆえに其の事を緩め、しかるに法また未だかつて屈さざるべし」北征に失律して、趙昌言表を請うて軍法を行う。昌言が延安より帰るにおよび劾され、入見を得ず。曹彬は府に在って宥め、上に請うを於いて為し、すなわち朝謁を許さる。

中亜-ティムール

 岩城復活第一号、投票数5票で他を圧倒していたのでティムールをば。丁度翻訳済みだったと言うことでタイムリーでした。しかしチンギスにしろティムールにしろその残忍性のすさまじさよという感じですね。一つの都市を陥として殺戮すること10万人とかいうんですから想像を絶しています。まあ、無慈悲な大虐殺者というだけで世界史上第二位の版図を獲れるはずもなく、創造者、建設者としての実績も十分にあるのですが、「Art of War」ではそっち方面の側面はほとんど書かれてません。残念なことに。
 それではまた後日。一応完成品のカエサルが控えてはいますがストックを作らないとどうしようもなくすぐに底がつきるので、次回アップはある程度記事を書きためてから、ということで。
ティムール(1336-1405)
 14世紀末の数十年に、世界で最も偉大な征服者の一人、ティムールは前触れなく中央アジアに発した。彼は燃えさかる荒ぶる炎であり、危険をものともせず数多の王国と帝国を易々と打破し、獰猛なタタール弓騎兵を率いて勝利に次ぐ勝利を重ねた。東洋の大都市はすべからく襲撃され、略奪された。アンティオキアにアレッポ、バルクとバグダット、ダマスカスそしてデリー、ヘラト、カブール、さらにはシラーズとイスファハン、これら諸都市の住民は無慈悲な拷問にかけられ、虐殺され首を切られた。あらゆる戦場においてティムールは高い塔を建てさせ、虐殺の被害者たちの頭蓋骨を塔内に列べた。彼に諌言を進言した者もまた、おなじ運命をたどった。
 ティムールは新しい勝利の結果、「東洋の真珠」ことサマルカンドの帝都を手に入れ、遠くアジアの向こうから宝物を略奪した。その強奪品の中には学者、絹織工、詩人、画家に音楽家、武器商、宝石細工師、石工、建築家、銀細工師、書家などの人的資源が含まれており、彼らによってティムールはより強大かつ壮大になった。彼の征服した土地の広大さときたら途方もなく、1370年、彼が権力を手にしてから1405年に死を迎えるまでの35年間の征戦の間、ティムールは一度の挫敗もなく、そして帝国建国者としての才覚とその版図において、彼はアレキサンダー大王をしのぎチンギス・ハーンにほぼ匹敵した。後世「チンギスは破壊し、ティムールは創造した」と言うが、彼自身これほどの破壊者であるから、2世紀の後、彼の有名な歌劇「偉大なるティムール」でクリストファー・マーロウが彼を「神の災難」と称したことはむしろ理の当然と言って良い。
  これほど膨大な規模での破壊と創造、その全てをただ一人の男が成し遂げたというのは端倪すべからざる事であるが、彼の記録のうち少なくとも軍事指導者としてのそれはほぼ全面的に信用できる。なんとなれば武芸の優秀性は14世紀中央アジアにおいてのし上がるのに絶他の必要条件であり、現地のことわざに曰く「ただ剣を取る者だけが王笏を手に取ることを許される」であったから。
 ティムールはその頭角を現した初めにおいては、比較的謙虚で穏やかであった。アレクサンダー大王などと異なり、彼は王族の血統ではなかったから、慎重に振る舞う必要があった。伝説に寄れば、彼は1336年4月9日、サマルカンドの南でバリアス族のタラグヘイという低級貴族の家に生まれたとされるが、これとて確かではない。その名前「ティムール」は「鉄」を意味し、のち青年期に足をけがして跛になり、「びっこのティムール」すなわちティムール・イ・ラングと呼ばれるようになり、これがヨーロッパで転訛してティムール・ラン→さらに訛って一般にタメルランと呼ばれることになった。
 チンギス・ハーンおよび彼のモンゴル族と異なり、彼は同族を戦争に導くことをいとわなかった。当時中央アジアは長らく争って分裂していた民族が融和に向かう時期にあり、彼の精強きわまりない軍隊は平原に無敵を証明した。多くの種族がティムールの並外れたリーダーとしてのカリスマおよび勇敢さを見立てて、重要な将帥として推戴した。
羊泥棒から支配者へ
 15世紀の宮廷年代記作家にしておべっか使いのプロパガンディスト、サラーフ・アッディーン・アル・ヤズディは若かりしティムールについて「世界支配の高い志を持った英傑」と評したが、アーメト・イブン・アラブシャーによってより痛烈な批判がなされた。ヤズディとアラブシャーはともにシリアの同時代人であるが、ヤズディはティムールが1401年、剣を置いてダマスカスに彼の出生地に因む市を置いたことを賞賛し、アラブシャーは若き日のティムールが羊盗人を行ったと書き、またその人格についても狭量な略奪者と強調している。かように両極の筆致・視点で書かれている二人の史書だが、ティムールがびっことなったのは1363年、アフガニスタン西部の砂漠を探索中、右の腕と足に矢創を受けて神経障害を被ったためのことであったという点においては一致している。ともかくもティムールの幼少から青年時代にかけての資料は少ないが、兵卒時代から神出鬼没、敵の裏を?き出し抜く術策に長けていたことは広く知られ、また狡猾で敵に容赦ない人物であったという。彼の上記の経歴からその戦士としての優秀を読み解くなら、明敏な知性と準備に細心であるという二点が挙げられるであろう。彼の軍隊は常に組織的で設備の整った最高級のそれであり、戦術および戦略的に見て彼は非常に細心かつ放胆であり、有史以来ほとんどの軍事指導者は彼ほど大胆ではなかった。
 1360年、無名であったティムールはきわめて大胆な行動を取り、歴史の表舞台に躍り出た。故地マワララナハールの川向かいがモグフル・ハンの侵略を受けると、ハジ・ベグ(ティムールが住まうカシカ・ダリヤ渓谷を支配するバルラス族の長)は戦わずして逃げることに決した。このとき若きティムールは、彼の指導者にモグフルはより多くの土地を占拠するため侵攻してくるであろうから、この背後を妨げ脅かすべしと説いた。ハジ・ベグがなにごともしなかったので、ティムールは敵の優越を認め、家臣としてモグフルに自分を売り込んだ。申し出は受け入れられ、ティムールは24才にしてバルラス族の長の座をモグフルから認められ、成功裏に一族を掌握した。
 もう一つ、彼の狡猾な策略家としての事例として、彼が権力を握ることになる1370年以前の数年のこと。彼はハーンに代々の忠誠を誓うか、あるいは戦場でハーンと対決するかを迫られた。これに対してティムールは自身に十分な実力がないことを認め、権謀を使う。病気のふりをして見せ、たらいいっぱいの猪の血を飲んでハーンの公使を迎えた。会談の途中、ティムールは自分が瀕死である演技をして喀血して見せ、相手に病気が事実であると信じ込ませた。公使はティムール不豫の報せを持ってハーンのもとに帰ったが、予め敵陣近くに野営地を築いていたティムールは一気に駆けて油断している敵を急襲し、ハーンとその取り巻き連中を驚愕の中に打ち倒し、これを戮した。
 1370年、すでにかつての羊盗人は、かつての同盟相手、アミール・フセイン、チャガタイ・ハーンの最後の子孫を見限った。彼は彼自身の王冠を戴冠してバルクでチャガタイ・ハン国に取って代わり、名高いアレクサンダー大王やチンギス・ハーンの後継者を自認して中央集権を推進した。彼は王号を名乗るには時期尚早であるとして特別な名を名乗ることはしなかったが、世間はいくつかの尊号で彼を称した。曰く幸運な運命の王、時代の帝王、世界征服者などと。
支配圏の拡がり
 主権者となった1370年から1405年、中国明王朝との戦争途上での死までの間、ティムールはおよそじっとしているということがなかった。1396-98年のサマルカンドでの2年の政務を別として、彼は常に戦陣にあり、建築計画を構想し、洗浄では常に無口で冷徹で、荒々しく、常に能動的であった。サマルカンドを中心として彼は絶え間なく作戦行動を展開し、征服戦争は彼が平原にその軍隊を維持して勝利者であるかぎり永続であり、そうであるかぎり彼の部族はその指導者に忠誠を誓った。彼らには俸給という概念がなかったのでいきおい略奪に頼り、ティムールの麾下は周辺諸国家から蛇蝎のごとく忌み嫌われた。彼の戦歴はつかの間中断されたけれども一つの総合的な作戦行動として一貫しており、彼は征戦のために常時その軍隊を掌握して、動けるようにしておく必要があった。
 彼の征服地を地図で見ると、1370年からの最初の10年は主たる実戦の予行演習のためにためにきわめて好ましく整えられた期間であったことが分かる。この期間中にティムールはマワラナハルとその周辺地域で力を蓄え、それは彼の軍隊がさらに遠くへ遠征するために必要な先触れであった。1379年、彼はウルゲンヒを襲撃し、略奪する。さらに西へ進んで1381年、黎明期の帝国の版図にヘラトを加え、1382年までにはカスピ海の支配者となりおおせた。
恐怖の戦争とその連続
 彼の戦闘スタイルはアジア全体を震撼させた。そしてこの期間、多くの場合において、彼が足を踏み入れるより前に敵手は自ら敗北し、下った。彼の兵士たちの士気は略奪への欲求によって支えられ、このやっかいなポリシーのエージェントたちは喜んで敵手と市民すべてに等しく恐怖を与えた。
19世紀のペルシア史家、ジョン・マルコム卿はこう書いた。「ティムールはその兵士たちによってリーダーとして偶像視されたに違いない・・・。彼は階級社会という共同体について無頓着であったが、しかし彼の征服者としての名声に異を唱える者はいなかった・・・」
 1383年、ティムールはホラーサーンの抵抗者を罰するため、イスフィザールの塔の中に2000人の捕虜を生きたまま繋いで監禁した。1387年には既に以前降服していたペルシアのイスファハンで蜂起が起きたことに激怒し、有名な7万人の大虐殺を行った。1398年、デリー近郊で堅牢な市壁に苦労させられた彼は反転して見せ、敵の撤退を祝うインド人を強襲して捕えた10万人のインド人をきわめて冷酷な方法で殺した。このタタール人の行き過ぎをとがめる事は誰も無く、兵士たちはむしろこの行為を褒め称えた。2年後、シバのトルコ人都市で生き埋めにされた。ティムールは降服した敵に名誉を認めず、約束も守らなかった。バグダッド崩壊後の1401年、ティグリス川は血で赤く染まったといい、このときもティムールは恐怖支配を敷き、120の塔を都市周縁に建て、殺戮した9万人の骸を積み上げてハゲタカの餌とした。
 ティムールは遺言により素晴らしい建築学的遺産・・・途方もなく特徴的な青タイルのモスクと虹青色の天衝く門を持ったドームを譲渡した。それらは注目すべき建造物であったけれども、人々の脳裏に記憶されたのはそれら彼がその治世の間に設計して長らく後世に残った最高の公園や宮殿ではなく、戦場跡につかの間築かれて夜光灯で照らされた人間の首による塔やピラミッド、略奪と暴行の跡であり、彼は恐怖と死の象徴であった。この恐るべき軍事指導者は独立都市あるいは敵対する都市の反抗心を強烈に、大いに効果的に挫いた。
強敵トクタミシュ
 1386年、スリアニヤを獲得した直後、ティムールのもとに気がかりな報せがもたらされた。彼のかつての被保護者、ティムールの軍隊の度重なる助けによってゴールデン・ホードのハーンとなっていたトクタミシュが、かつての恩人に反旗を翻しタブリズに直接攻撃を仕掛けた。ティムールは迅速に反応した。ペルシアに対する3年の作戦行動を切り上げ、軍を西に動かしサマルカンドへむかったティムールはタブリズを救援、急ぎグルジアの首都ティリス(トビリシ)を援護、のち、ここで「彼の征戦の中でも最も凄惨な虐殺の一つ」が行われた。1387年、イスファハンは降伏し、シラーズに降伏を働きかけ賢明にも戦いを避けた。ティムールはアルメニアと小アジアで作戦行動を行ったが、その間にトクタミシュが手強い敵になってマワラナハルを荒らし回った。
 1389-90年厳冬、彼は雪の中馬上で迂回し、自身の軍隊に北上して彼の敵手を粉砕せよと命令を下した。それから5ヶ月、ほぼ2000マイルを踏破して極寒のシベリア大草原を抜けた兵士たちはコンディションを悪化させ、対するにトクタミシュは軍を物陰に潜ませ、領内深くにティムールを引きつけて打破しようとした。
 1391年6月18日、ついに両軍は正面から対陣した。ティムールは彼の敵トクタミシュをわざとらしいほどに軽蔑して見せ、兵士たちに贅沢をさせ、毛皮のテントと大型テント(パビリオン)を築かせ、自らは従容としてカーペットに座り陣取った。年代記に寄ればこの心理戦運動によりゴールデン・ホードの面々は士気を潰滅させ、意気阻喪したという。翌日、戦いのさなか、トクタミシュはティムール優勢のまま逃げだして戦闘はひとまず終わった。
 1395年4月22日、2人の敵手は2度目の、そして最後の対陣に及んだ。3日間に渡って双方は互いの軍隊を操縦し、トクタミシュは地の利を占めて現在のチェチェン共和国のテレク川対面の丘の上に陣取り、この時点で両軍対陣したまま膠着状態に陥ったのでティムールは切り札を使った。夜になるや彼は野営地の女性たちに兵に扮するよう命じ、その一方で3日間の行軍から帰った兵士たちには唯一渡河可能な浅瀬のポイントに移動させた。ティムールの軍はかくて夜襲を仕掛け、彼の兵士たちが利を掴むとトクタミシュはまた戦の最中に逃げたが、ゴールデン・ホードは今度こそ潰滅し略奪されて、トクタミシュについては終わりを知られていない。
先駆者を超える
 彼の敵すなわちイスラム世界は彼のことを野蛮人だと見下していたが、ティムールは高い知性と教養を持ち、歴史と宗教に造詣の深い、比類なきチェス・プレイヤー(戦術家)であった。1398年、彼はペルシアとグルジアを叩いて成功し、5年にわたる作戦活動を終わらせると、今度はインド遠征を表明した。これは彼の先達、アレクサンダー大王とチンギス・ハーンに倣い、それを超えるための意識的な発表であった。
 彼の皇子と軍卒たちは世界の屋根(ヒマラヤ)を10万の兵で超えることの理論的困難とそれに挑戦しようとする精神に仰天した。彼らの「どのように我らが訪ねた山を越えるというのでしょう?」「いかにしてサマルカンドとでリーの間に横たわる大河を渡れば良いのでしょう?」「インド人の半月刀と火器、そして鉄鎧を装備した戦象を相手にどう戦えというのでしょう?」という問いに、ティムールは威圧的沈黙を持って押さえつけた。これら弱者のいいわけめいた反対は、敗北を知らない男(ティムール)の前に無駄な質問でしかなかった。
 それはめまぐるしい作戦となった。山向こうの危険なルートについて探求に着手するや、年配の皇帝(ティムール)1000フィートの絶壁の一点から下降し、自動操縦的に作戦を進めた。無慈悲ながら彼の戦争準備は常に徹底しており、ティムールは彼の兵士たちに三叉の杭を持たせるとデリー近郊の平原に布陣し、市民に市を離れることを命じた。市民は当然拒絶し、戦闘が始まった。ティムールは乾燥した草と木の束を積んだラクダを連れてきており、これに火をつけて三叉の杭でなげつけると、インドの戦象たちは炎にまかれて暴れ狂い、インド軍自身に突進した。
 驚くべき恐怖により、インド軍はあわてふためき我先に逃げ出した。瀕死の恐竜のように、インド軍はパニックに陥り精神を縛られて散潰する。絶命の喘ぎを上げて世界で最も富裕な都市の一つは陥落し、並外れた富をティムールの帝国にもたらした。インドのスルタンが累代に渡って蓄積した財貨は、数日の内に略奪された。無数の首を斬られた死体が路上に転がって腐乱し、頭蓋骨の塔が口に出すのも憚られるような大殺戮の現場に現れた。飢饉と疫病が広まって蔓延し、デリーが回復するために1世紀以上の年月を要した。
破壊巡礼
 一息ついてサマルカンドに勝利凱旋したティムールは、次の7年間にわたる作戦のために彼の軍団をまた招集した。これが彼の人生における征戦の最後の一押しになるが、しかし彼は年齢的にまだ惰弱になっていなかった。1400年、彼はアルメニアの駐屯部隊を破り生き埋めにして殺し、続けて南西に向かいエジプト帝国に入ってアレッポを強襲、猛攻により崩壊させた。タタール族は慈悲を知らず、男女老若を問わずエジプト人の首を切り落とした。軍隊はそのまま南進し、進軍路上に数千の首が山を成して積み上げられ、ぞっとするような虐殺の状況を伝えた。
 1402年、彼はスルタン・バヤズィト(雷鳴)と対決した(アンカラの戦い・参照)。バヤズィトは肥満しているが強力で剣腕に長け、ティムールにとって最も強大な敵であった。だが勝者はティムールであり、これによって小アジアを完全に掌握した彼はエーゲ海に立ちヨーロッパをいつでもねじ伏せることのできるポジションを手に入れる。ついで、彼はこれまでで最大の敵に対峙することに決した。東方中国の明王朝。彼がまだ一度も鉾を交えることのなかった唯一にして最大の敵である。
 1404年冬、タタール族の軍はその頭に68才しわくちゃの老皇帝を推戴してサマルカンドから進軍した。折からの吹雪で温度が急落し、風が身を斬る。さらには雪が降りしきって骨を刺し、男たちのあごひげと口ひげが凍り付いた、と年代記は語る。オトラル、現在のカザフスタンでティムールは病を得、典医が薬湯を与えたが熱が下がることはなかった。1405年2月18日夜8死、一代の英雄ティムールは息を引き取った。彼が死の床にあって警告していた後継者をめぐっての血なまぐさい争い、それはたちまち顕在化し、彼がかくも慎重かつ冷徹に、その建築と維持に多大な労力を要した大帝国はあっという間に崩壊を始めた。彼の死から一世紀と言わず、その帝国は地上から綺麗さっぱりなくなっていた。
アンカラの戦い
 1402年7月28日朝10時、ティムールはアンカラ北東のチブガバッド平原で簡潔に閲兵を行った。彼らはアルメニアからアフガニスタン、そしてサマルカンドからシベリアまでを横断し縦断した20万の世界最強の職業軍人たちであり、事実ティムールに率いられた彼らは敗北を知らなかった。
 左翼は皇帝の息子、皇子シャー・ルフとハリール・サルタンによって率いられた。さらにその前衛にはそのシャー・ルフの息子サルタン・フセインが指揮杖を取り、ティムールの3番目の息子ミラン・シャーは右翼先頭にあってその息子アブー・バクル以下の兵たちを率いた。軍の主立った指導者はティムールとその一族であり、主力はティムールと皇太孫ムハンマド・サルタンの指揮下にあった。
 オスマン帝国のスルタン、バヤズィトⅠ世は、ほぼ同等の兵力を戦場に投入した。彼らの主力はフルプレートの鎧をまとった12万のセルビア人騎兵であり、小アジア諸州から集められた非正規騎兵と歩兵とがこれに加わる。バヤズィトは中央にあって5千のヤニサリス・・・スルタン直属の歩兵隊・・・を率い、それを彼の三人の息子がそれぞれ兵を率いて補佐した。皇子ムーサ、イサ、ムスタファの三人である。右翼中心はスルタンの義兄弟であるところのキリスト教徒・セルビアのラザロヴィック。右翼を率いるのはその息子スレイマン・チェレビ。
戦闘が始まる前から、ティムールの天才的戦術的術策はすでに発現していた。敵の士気を打ちのめして戦う前から疲れ切らせ、そして困憊の体のオスマン・トルコ軍に不意打ちの強襲を喰らわせた。ただ、一週間前にトルコ軍はより高い有利なポジションに移動しそこを占拠していたので、タタール族は純粋な戦闘で敵を打破することができなかった。そこでティムールは術策で勝つべく敵の給水路をおさえてそこに毒を流し、さらに遡って敵の無防備な野営地を略奪、トルコ軍の帰るべき場を奪った。
 本格的な戦闘が始まると、トルコ軍は獰猛であった。平野の向こうに手強いセルビア人騎兵12万が現れ、その圧力に押されてタタール族の左側面はナフサ(揮発油)を塗った矢と火矢とを交互に放って煙幕で自身を守りつつ、後退した。右翼アブー・バクルは矢嵐を盾に敵軍左翼めがけて突き進み、獅子のごとく戦ってついに敵の重囲を突破した。
 バヤズィトの軍に対して、タタール騎兵は迂回行動を取り、チェレビのトルコおよびマケドニア兵の後背を衝いた。この瞬間をもって戦況は切り替わり、ティムール軍に傾いた。それはオスマン・トルコの攻撃を打破した決定的瞬間であり、ティムールにとっては画策通りであった。数ヶ月前から仕込んだ、部族の忠誠感覚を利用してのタタール族の造反が結実した。チェレビは戦いに見込み無しと判断して、残余の兵士たちとともに戦場から落ち延びたが、サマルカンドのエリート部隊はブルサに向かって突撃しながら逃げるチェレビよび彼に従うセルビア人騎兵隊を発見しこれを捕えた。
 バヤズィトの歩兵隊は今なお損なわれずに温存される唯一の兵力であったが、悪いことは重なるものでタタール族中軍が前進、80連隊と恐るべき戦象をもってことを決しようとした。オスマン・トルコの歩兵隊はその真価を発揮するまもなく、たちまち総崩れとされた。
 バヤズィトはスルタンとして最後まで勇敢に戦った。しかしタタール族の今や圧倒的な物量の前に衆寡敵せず、オスマン・トルコ史上唯一無二といっていい武威のスルタンは自ら縄目の恥を受けた。この勝利により、ティムールの最も偉大な事業は完成したといえる。

晋ー杜預


お久しぶりです。PCにウィルスが入ったという表示が出てビクビクしてる岩城です。まあ以前から頻繁にフリーズしてましたが特別変わった事もなし、なんか起ったらそのときに対処すればいいでしょうと思っているのですが、やはり少し怖いですね。そしてまたまたスパンが空きました。体調不良とはいえ申し訳ない。まあ、趣味でやってることだし、そんなせき立てられてやる必要もないのかなーとは思うのですが。それで、本日は杜預です。「破竹の勢い」の人ですね。政治家でもあるので慣れた軍事用語ばかりではなく、ずいぶん手こずらされました。それではどうぞご覧あれ。

杜預(と・よ。222-284)
 杜預、字元凱。京兆杜陵の人なり。祖父・杜畿は曹魏の尚書僕射、父・杜恕は幽州刺史にまで至った。

 杜預は博学多識、謀略に通じ、しかし父が司馬懿と不仲で幽閉され死に致したため、長らく重んぜられず。のち司馬昭が政局を取って後、杜預は高陸公主を妻にめとってようやく司馬氏との関係発達、祖父の爵豊楽亭侯を襲名する。景元四年、鐘会が軍を率い蜀を伐つと、杜預はその武将として作戦に参与、平蜀後、鐘会が謀反しその僚佐の大多数が連座して殺されたが、ただ杜預一人は自らの機知に頼って難を免れた。

 晋武帝が魏に代わって以後、杜預は河南尹に任ぜられ、京師の理治を任される。まもなく命を奉じて対官吏進行審査官に命ぜられ、深く責任重大を感じ、啓奏して曰く「古来より官吏の進退昇降は、みなこれ似議(推し量る)の心、しかして成法に拘泥せず。これのちに専求密微の至るべし。これ疑心にして耳目を信じ、耳目を疑って而して文書を信ずる。もって文書は来越煩瑣にして、しかるに官の術は則ち虚偽なり。曹魏の考課は法律条文きわめて周密、しかれどもかえって苛にして細を失す。唐堯の旧制にしかざれば大を取って小を捨て、密から離れて簡に就く、それでこそ政執行しやすし。顕官を持って委ねるべし、彼らはおのず、各自属官に評議し、毎年評議して優劣等第を決めん。六年をもって最優良のものを主管部門の彙総(とりまとめ、総監)となし、六年均しく優れしものは昇遷、六年均しく劣悪なるは罷免、なおわずかに優れるものは現状維持、なおわずかに劣るものは降格」この一答が官吏登用の基本便法となり、晋武帝ははなはだ杜預を賞賛した。ただこれがいったん実行されると変動が余りに大きく、武帝は根本的部分でこのような迫力に押し負けて、自然と令の実行は取りやめとなった。

泰始六年、杜預は彼と不仲の司隷校尉、石鑒の劾奏により、河南尹の職から罷免される。あたかもこのとき、鮮卑の禿発樹機能が涼州で晋に叛乱を起こし、これにより杜預は長安に往って秦州刺史に遷された。これに対して了見の狭い石鑒はこのとき西北に打って出て、安西将軍、杜預の上司となる。彼はこの機を利用して杜預の職権を打破しようと考えており、杜預に冒険的出撃を命じた。杜預は無理に争っても彼我双方の被害が大きくなるだけだと考え、必ず勝てる機を選んで漸く出撃したので、石鑒はこれを大いに怒り、再び杜預を劾奏して囚車に押し込め、罪人として京師に送り返した。このよしに杜預は公主を妻となし、ようやくにして“八議”の法則に依拠被り、あらかじめ罪を免じた。

 杜預はしばしば打撃を被ったが、しかし朝廷の上下皆彼が謀劇に精通する事を知っており、相応の重用を与えた。ゆえに匈奴の主帥・劉猛が泰始七年、晋に叛いたときも、武帝は杜預を宮廷に召し入れて決策に参与させた。まもなく、度支尚書に任命。杜預はいまだなお衆望を負う立場になかったので、武帝に向かい常に倉凛満ちて穀価安定するため、糧運の面から軍国の大計五十余条を建議し、均しく武帝の採納を得た。

 これより杜預の上役に当る人物はいなくなる。また、石鑒が怨み糾糾として当時、軍を率いて東呉征伐に出陣したが、虚偽の戦功を報告したので杜預によって虚偽の殻をはがされた。両人の間には旧仇新怨あり、事ここに至ってさらに火と水の関係、両者の党派は議論騒然となり、武帝は怒って両人をともに免官させた。数年の後、杜預は漸く原職に服す。

 咸寧四年秋、司、冀、?、豫、揚諸州で連日暴雨。洪水氾濫し、時を同じくして蝗害発生。武帝は大臣たちに向かい百姓賑済の策を諮問し、杜預は上訴して曰く「?、豫州においては?代の防波堤を修築し、その余剰の水を決し流して飢民に魚蚌螺菜を与えるべしですが、これは目前危急の法であります。洪水が引いたならば田地に胎土を積み、畝ごとに糧数種を得られるようにすべし、これ明年よりの収益となります。官府には現在種牛四万五千余頭、これをもって農民に給り、種を耕さすれば、秋以後に納められる租税は幾年後かに大いな収益となりましょう」武帝は彼の意見を採納し、第百姓に頼って民は息を吹き返した。杜預が度支尚書であった数年間、このように国家と百姓にとって有益な措置は数えるべからず、朝野の内外みな彼を賛美して「杜武庫」と称した。彼の知嚢は武器庫同然という意味であり、実際軍事に関して彼が知らざる事がなかった。

 この年十一月、羊?病篤くなる。杜預は数少ない呉伐派の大臣の一人であったから、羊?病逝後、その任を引き継いで鎮南大将軍、都督荊州諸軍事となり、これより彼が呉伐戦の首謀者となる。

 杜預は着任すると羊?が遂に果たせなかった事業を引き継ぎ、大いに軍隊の整理に力を注ぎ、士気向上を奨励し、また精鋭な士卒を選抜し、騙し討ちを以て大いに呉国の西陵督・張政を破った。張政は東呉の名将の一人であったが、その彼が防備を布く前に敗れてしまい、これを深く恥辱と感じて呉主・孫晧に失敗の真相を隠蔽した。杜預はそれを放置せず、離間の計を用いて呉の君臣間に亀裂を入れる。故意に表を奉じ、大量の戦利品を張政が着服したと言わせた。孫晧は果然、計に中り、令を下して張政を召し帰し、留憲にこれを代えた。杜預は東呉辺疆の将帥に変動を招いただけでなく、呉軍の運動そのものをも造成した。

 咸寧五年、益州刺史・王濬が上訴して武帝に呉攻めの許可を求めた。武帝は呉伐に賛同の意を示しながらも、かえってまた大挙出兵の決心がつかなかった。結局武帝に早々に呉伐すべしとの決心をつけさせたのは杜預の上表陳述した意見であり、曰く「この幾ヶ月来、東呉は戒備に厳重を加え、江上に兵を有して行軍しないのを見ることがありません。ここから推断するに、東呉はすでに計窮まり、双方に心配るに無力、只よく夏口以東を保つのみであり、敵を縦にさせるは生の患、実に大いに惜しむべしであります。呉伐に出兵して首尾よくこれに成功すれば、すぐにでも天下太平の基となりましょう。もし成功ならずとしても、耗費はいささかの時間を失うに過ぎず、試さざるより一試あるべきでは?」表章を呈上して以降、武帝は一ヶ月間の間これに批准しなかったが、杜預は安穏とせず再び上表して「およそ事の成否利害において、今呉伐を行うの利は十中八、九。その害なるは十中一、二にすぎません。それを計るに功なくして還るはあらざるべし。かならず朝臣全員に呉伐の利を説き、不可能なれば自己嚢中から計謀を出し、功労あれば自己のものとせず、すべて自己の以前の過ちを認めまするが、自己元来の立場としてこの意見は堅持させていただきます。この秋が過ぎてしまえば孫晧は対策を取るでしょう。来年になってしまえば、再び計謀をなしても及ばざるが如しであります」杜預が表章したそのとき、武帝はまさに中書令・張華と囲碁を打っていたが、張華は棋盤を押し開いて天下の形勢を説き、武帝に曰く「陛下は聖武であられ、国は富み兵は強く、呉主は淫虐にして賢能を誅殺しております。今呉伐を行うなら、大力を費やすことなく一挙平定することができましょう。もとより陛下に猶予の必要はございません」武帝はこれによってようやく呉伐の心づもりを固めた。

 この十一月、杜預は司馬?、王渾、王戎、王濬らの諸将を率い、分路大挙して呉を伐った。一路関門を攻め隘路を奪い、向かうところ敵なし。翌年二月武昌で会合。このとき、ある人が提言して「百年の寇、完全に消滅させるは難。今まさに春、江の水は膨張し、駐留は難事。いったん班師し、冬、再び大挙侵攻するが宜しいかと」杜預はこれを認めながらも却って「かつて楽毅は一役のもとに強大国・斉を併呑した。今我らの兵は威、振い、その勢い破竹の如し。数節の刃を入れれば自ずとバラける。すべすらく力を用いる必要なし」彼の籌劇のもと、晋軍は一鼓建業に逼った。果たして呉軍が出戦しないのを測り、晋軍は武昌から流れに乗って下り、只の一月もかけずに東呉を滅ぼし、勝利した。

 呉国平定後、杜預の戦功は極めて高く、爵を進められて当陽県侯とされ、再び襄陽に鎮した。このときを以て天下統一なったといえど、杜預は「天下安らぐといえど、戦いを忘れては必ず危うし」といって依然軍隊に厳重な訓練を課し、また兵力を分かって要害の地に布いた。これと同時に彼はまた水利組織を興し、田地一万頃を灌漑して、国家と百姓の利益に尽くした。統治の百姓は彼を敬慕して、“杜父”と尊称した。

 杜預は馬に乗るのが下手で、矢を射れば必ず外したが、しかし将帥の行列の中に彼があるだけで士卒は安心し、その謀劇の優れることを讃えざるはなかったという。東呉平定後、杜預は書籍研究に没頭し、《釈礼》《明会図》《春秋長歴》《女記賛》などを撰した。ことに特別なのは《春秋左氏経伝集解》で、これは一門の学派を成した。当時、王済は名馬を非常にかわいがり、和?は財貨を愉しんだ。杜預はこれを揶揄して「王済に馬癖あり、和?に銭癖あり」といったが、武帝がそれを伝え聞いて「では卿は何癖なのだ?」と問うと「わたくしは《左伝》癖でございます」と答えた。

 太康五年、杜預、病死。彼の臨終の際の遺言に従って、子孫たちは衣食を倹約したという。

元-アジュ

お久しぶりです皆様、いかがお過ごしでしょうか。岩城は非常に、たいへん、えらく、体調悪いです。なんというかもうね、脳みそがぐちゃぐちゃになった気分というかなんというかそういう感じでありまして、昨日なんかは久しぶりに明玉飛び出る感覚を味わいましたし、辛い・・・。で、しかしここで潰れてちゃあいかんだろというわけでなんとか気力を奮い立たせました。といっても旧名将録の焼き直しですが、バヤンと双璧をなす元の元帥、アジュです。スブタイの孫、ウリャンハタイの息子ですね。なんかそう書くだけで凄みがある訳ですが。まあ、説明はいらんでしょう。というかしんどいです。なので早速どうぞ。

アジュ(1227-1281)
アジュはウリャン氏の人であり、都統ウリャンハタイの子である。寡黙で智略有り、陣に望んで英気風発、気は万人を覆う。憲宗モンケのとき、父に従って西南蛮を征し、精鋭を率いて候騎となし、向かうところ陥とさざるはなく、あえてその鋭鋒に当たるものはなかった。大理が平定されると諸部に克ち、コーチンを下し、行い在らざるなし。これについてはウリャンハタイ傳に詳しい。憲宗は労をねぎらって曰く、「アジュは未だ名も位もあらねど、挺身奉国、特に黄金三百両を賜与するゆえ、以て将来も勉ぜよ」
 世祖フビライが即位すると、留典宿衛となる。1262年、諸王バイチュ、テコらに従って李?を攻め、功あり。九月、宿衛将軍から征南都元帥に昇進。?に兵を屯し、また宿州に立つ。1264年8月、両淮を略して戦果を攻め取り、軍声大いに振るった。
 1267年8月、襄陽にて閲兵、ついに南郡に入り、、鉄城らの柵を取り、俘虜5万を獲る。軍を還し、南宋軍を襄、樊で迎撃。アジュは安陽灘から長江を渡り、精騎五千を陣してまた虚寨を立て、偽って火刑を仕掛ける。夜半、敵ははたして至り、斬首万余級。はじめ、アジュは襄陽を過ぎ、虎頭山に馬を駐めると、漢の東に白河口を指し、曰く「もしここにおいて塁を築せば、襄陽の糧道を断つべしなり」1268年、ついに鹿門、新城らに橋頭堡を築き、ひきつづきまた漢水の中に台を築き、堡塁で江の相応を夾し、これにより南宋の援兵は襄陽に進めなくなった。
 1269年、大長雨で漢水溢れ、宋将夏貴、范文虎相次いで兵を率いて来援し、分路東岸の林谷間に分け入る。アジュは諸将に曰く「この膨張は虚形であって、これと戦うべからず。舟師を整え新たな堡塁に備えよ。」諸将はこれに従う。翌日宋軍ははたして新堡に出たので、アジュは大いにこれを破り、殺溺擒五千余人、船を獲ること百余艘。こここにおいて戦艦完成し、水軍を教練すべく城の周りに築き、もって襄陽に逼る。范文虎は再び水軍を率いて来援し、来興国がまた戦艦1000艘を率いて百丈山を侵犯したが、アジュはこれを前後湍灘で迎撃し、両者とも敗走させた。
 9月3日、樊城の外郭を破り、重囲の増築を阻むべくもって逼る。宋の裨将張順、張貴が軍衣を装備して船百艘で上流から襄陽に入るが、アジュはこれを攻めて張順を殺したが、張貴を取り逃がしこれがわずかに城内に入る。にわかに輪船が順流に乗って東に走り、アジュと元帥劉整は戦艦を分泊して待ち受ける。薪を燃やして江を照らし、両岸に絵の如く。アジュはこれを追ってに至り、張貴を擒え、余衆を悉く殺す。同年9月、同平章事を加えられる。これより先、襄、樊両城は漢水の間にあって、宋兵は江中に木を植えてその木に鉄鎖を巻きつけて敵の戦艦が通れないようにし、後背から援兵を通して、樊城はこれを恃みとして堅固をなしていた。しかしここに至り、アジュは大のこぎりをもって木を断ち、斧をもって鎖を断ち、その橋を焼いて、襄陽に援兵が通れないようにする。12月、ついに樊城陥ち、襄陽の守将呂文煥は懼れて投降した。
 1270年、命を奉じて淮東を略し揚州の城下に当たる。宋軍は千騎をもって出戦したが、伏兵を道の左に伏せ、偽って北に進む。宋兵はこれを追い、伏兵発してその騎将王都統を擒えた。
1271年正月、参政アリハイヤとともに伐宋を請う。帝は宰相たちに命じて審議にかけたが、久しく決まらなかった。アジュは進み出て曰く「わたくしが久しく行く間にあって、宋の備えを見るに兵弱たるは往昔、今取らずして失せば、再来の時無し」帝はそこで上奏を容れ、詔により兵十万を増し、丞相バヤン、参政アリハイヤとともに宋を討たせる。三月、位を進められて平章政治。
 秋9月、軍を郢の塩山に屯す。俘虜とした民曰く「宋は江に沿う九郡精鋭、尽く郢の江東に聚まり、西に両城あり。今水師の出るその間、騎兵では岸を守るを得ず、これ危道なり。もし黄家湾堡を取らずば、東に河口あり、その中の船をもって湖に入る可し。以下江を渡るの便なり。」アジュはこれに従い、まず郢の舎を攻めてから立ち去り、大澤中に入り、宋の騎兵二千人による突至を受ける。アジュに従うはようやく数十人、しかしアジュは槊を振るって馳せ撃ち、向かうところ恐れてあたるものなく、斬首500余級。その将趙、范の二人を生け擒る。進んで沙洋、新城を攻め、これを抜いた。ついで復州を攻め、主将?貴を降す。
時に夏貴は鎖と大戦艦で江、漢口を扼し、両岸の防御を堅厳にする。アジュは用いるところの軍将馬福に計り、船を淪河口に返し、湖中を穿ち、陽羅堡の西沙蕪口を通って大江に入った。12月、軍は陽羅堡に至り、これを攻めるも勝てず。アジュはバヤンに言って「城攻めは下策なり。もし軍船の半を分かち、西の岸上に循し、青山磯に対して止泊させるを許されるなら、隙を伺い虚を衝き、以て志を得るべし。」バヤンはこれに従う。翌日、アジュは南岸の沙洲をはるかに、衆を率いて猛進し、後随に馬を(南宋の湿地帯ゆえ、馬群より歩軍が早い)いただく。宋将程鵬飛はこれを拒み、中流で大いに戦ったが、程鵬飛は敗退した。諸軍は沙洲につき、急撃し、歩いては戦い岸を上り、開いて同時に行うもの十中に四、敵わずかに退き、岸に出馬するが、ついに元軍の前に粉砕される。アジュは?門まで追撃して還った。夏貴はアジュが江を渡ったと聞くや大いに驚き、麾下三百艘を率いて我勝ちに逃げ出し、余衆皆壊走、ついに羅陽堡が抜かれ、元軍はことごとくその軍実を得る。
 バヤンが軍議を行うところ、あるいはまず薪、黄の両州を取るべしと。アジュ曰く「もし下流に赴かば、退くところなし。上に鄂、漢を取り、旬日(十日)遅れると言えども師のよるべ在らば、以て万全というべし」己未、水陸併進して鄂、漢に進み、その舟三千艘を焼き、煙炎漲天、漢陽、鄂州は大いに懼れ、相次いでみな降る。
 1275年正月、黄、薪、江州降る。アジュ率いる水師は安慶を衝き、范文虎を降す。そのまま下って池州に。宋の丞相賈児道は大軍をもって蕪湖に元軍を拒みながら、裏で宋元の講和を求める。バヤンはアジュに言いて曰く「詔令ありてわが軍ここに駐守す。いかにするや?」アジュ応えて「もし賈児道を許して撃たずば、恐怖によって降った州郡を維持することは難事となりましょう。且つ宋は信義なく、遣使を遣わしての講和、しかしてまたわが軍船を射、警邏の兵を執るやも。今日個ここまで進兵に当たり、もし失うことあらば、我罪みにおいて帰らん」二月辛酉、丁家洲に屯すし、ついに宋の先鋒孫虎臣と対陣する。夏貴は戦艦2500をもって江中を横断し、賈児道は将兵の殿後に控える。元軍は騎兵を遣わして岸を挟みつつ進み、両岸の樹に大砲を据え付ける。それでもって中堅を撃てば、宋軍動揺、アジュは身を挺して船に登り、手に槍を取って敵陣に突入、諸軍これに続く。宋兵大いに潰滅した。ここのあたりの事はバヤン傳に詳しい。
世祖フビライは宋の重装兵をみな揚州に集中させ、臨安について重きをなさす。4月、アジュに命じて分兵して揚州を囲ませた。庚申、真州に屯し、宋兵を破って守金砂を獲、斬首二千余級。揚州はなお抵抗し、瓜州で楼船を建造させて真州から食料を運び入れるが、アジュは樹柵を立てて糧道を断つ。宋の都統姜才が歩騎二万をもって攻撃し柵を破った。宋軍は河を挟んで陣を為し、アジュ麾下の騎士も渡河中これに撃たれて数合戦ったが、堅守する能わず。衆軍偽って北に奔り、姜才がこれを追うや反転して奮撃、万の矢を雨嵐と降らせれば、姜才ついに軍を支える能わず。その副将張林を囚え、八千人を斬った。
 七月庚牛、宋は両淮の鎮将張世傑、孫虎臣が水軍万余をもって焦山の東に駐し、船十艘ごとに聯船をはさんで鉄鎖で繋ぎ、必死の意志を示した。アジュは石公山に登り、これを望み見て、振れが連なって旌旗が長江にはためいているのを見ると、独り言ちて「焼いて走らすべし」と。そこで壮士にして射撃を良くするものを千人選抜し、連なる巨艦の両翼から火矢を射かけさせた。アジュが見守る中、意気軒昂と進軍してくる大船団は次々降ってくる火矢に船牆を焼かれ、煙焔漲天。宋兵は錨を下ろして死戦したが、逃げることを欲しても能わず、軍前の者は長江に飛び込んで溺死し、後ろの者は散走した。?まで追撃し、黄鵠船と白鷂船七百余を得た。これ以降南宋軍は軍を復活させることができなくなる。
 10月、中書左丞相を拝し、諭されて曰く「淮南は重地(湿地)、李庭芝は狡知に長ける。卿すべからく之を守れ」時に諸軍進んで臨安を取り、アジュの任務は瓜州に駐してなお絶せざる雍州攻撃の援けになった。バヤンは兵を血に濡らさず宋を平定したが、アジュは力を誇る典型的なモンゴル武将であった。
 1276年2月、夏貴が淮西諸郡をもって降った。アジュは周囲に言って「今宋既に滅び、一人李庭芝のみ降らず。外に助けなお多き故なり。もしその声援を絶し、彼の糧道を塞ぎ、なお懼れさせれば東の通、泰、に奔り、命をもって江海に逃げるであろう」そこで揚州の西北丁に柵し、高郵、宝応の運搬を扼し、湾頭堡の貯蔵をもって禦ぎ、ついで新城に屯し、もって泰州に逼る。また千戸のバヤンチャルに騎兵三百を与え率いさせて湾頭の兵勢を助けさせ、且つ戒めて云うに「李庭芝は既に水路絶え、必定陸に出る。よろしく謹んでこれに備えよ。丁村の蜂起に如くはまさに守備相応、その帰路を截て」と。六月甲戌、姜才が紅葉への食糧運搬を知り、果たして夜歩騎5000を率いて丁村の柵を犯す。払暁に至って、まさにバヤンチャル来援、諸将皆アジュ麾下の精鋭たちであり、旗幟に書かれるは二つの赤い月。衆塵埃に之を仰ぎ見て連呼して曰く「丞相来れり!」宋軍はこの旗を見て皆逃げ、姜才も身を脱した。追撃して騎兵を殺すこと400、歩卒で死を免れたもの百に満たず。壬辰、李庭芝は朱煥をもって揚州をもって守らすも、姜才は東に走る。アジュは兵を放って追撃し、歩卒を殺すこと千人、李庭芝わずかに泰州に入り、ついに堡塁を築いてここを守る。七月乙已、朱煥は揚州を挙げて降った。乙卯、泰州の守将孫良臣は北門を開いて投降し、李庭芝と姜才を擒えて突き出す。アジュは揚州城に屠城を命じた。揚、泰二州ではアジュが士卒に強く厳命し、暴掠を固く禁じた。武衛軍の校尉が馬二頭を民から掠取したとき、アジュはその場でその校尉を斬った。両淮ことごとく平らげてのち、獲た府は二、州は二十二、郡は四、県は六十七に及んだ。九月辛酉、入見して大明殿でフビライに見え、宋の俘虜について述べる。論功行賞によって泰興県二千戸に封ぜられた。
1285、命を受けて叛王シチムらの乱を平定すべく北伐。翌年凱旋。ついでまた西征し、ハチホウ州で病を得て卒す。享年54歳。河南王に追封された。

晋ー羊祜

 おはようございます。といってもここをご覧になる方がいつ閲覧するか分からんわけで、昼かも夜かも知れないし明日かも知れないんですが。昨日は体調頗る悪く頓服薬を三回飲みましたが、夜中になって涼しくなったので息苦しさがなくなってそれは助かりました。やはり涼しいとだいぶ違いますね。
 で、本日は先日の予告(というか現在やってるという報告)のとおりに羊祜。東晋の諸葛亮が陶侃なら、西晋の諸葛亮はこの人という事になるでしょう。実に、なんというか君子です。儒将、というのともちょっと違う、君子の交わりというのはもっとスケールの大きなもので、世界中のすべての軍人さんが羊祜や陸抗を模範にしてくれるといいんですけどね。とにかくそういうわけです。
 いろいろやることがありまして、次回以降ちょっとペースが落ちそうな予感がしています。たぶん次の記事は早くても来月に入ってかなーと少し後ろ向きですが、まだまだ紹介すべき人材はいるわけで、その限りブログをやめるとかそういうことはないのでご安心を。それでは。

羊祜(よう・こ。221ー278)
 羊祜、字は叔子。泰山南城の人である。累代二千石の官僚の家に生まれ、祖父・羊読は東漢末年の南陽太守を勤めた。父・羊衜は上党太守。羊祜が生まれる前の羊衜の妻は三国時代の太儒・孔融の娘であり、実母は東漢末の大学者・蔡邕の娘であった。

 羊祜は十二才で父を喪ったが、しかし家庭において儒学の深奥に触れ良好な教育を受けた。長ずるに至って博学多識、しかも文章をよくした。曹魏の正始年間、斉王曹芳の共同補弼者・司馬懿と曹爽の闘争が先鋭化。曹爽は羊祜が年若ながら有為な人材であると聞き、召して官に当てようとしたが羊祜は堅く拒絶した。理由は非常に簡単で、羊祜はの姉は司馬懿の長子・司馬師の妻であった。だから曹氏と司馬氏の激突に当って、彼が一貫して司馬氏についたのは当然と言える。

 嘉平元年、司馬懿は政変を起こし、曹爽およびその朋党を誅戮して朝盛の実権を握った。司馬懿はこの翌年に世を去るが、ひきつづいて司馬師が曹魏の大権を握る。羊祜と司馬師との関係は一般的な兄弟のそれとは異なり、羊祜はなかなか重用されなかった。その間、彼の実母と異母兄が世を去り、また彼の岳父・夏侯覇が蜀漢に投降した事も司馬師の猜疑を買った。

 ただし、司馬師が病死し、司馬昭が後を受けると、羊祜は漸く信任を受けるようになる。景元四年、蜀を滅ぼして自らの功績に傲慢になった鐘会が殺された事で、鐘会と対立関係にあった羊祜が重用されるに至り、荀勖らとともに司馬昭の主要な助手的存在になって機密に参与し、魏に取って代わる謀劇の策略にも参与した。当時、羊祜は中領軍として司馬昭の宿衛親軍を掌握した。司馬昭が病死し、司馬炎が位を継いで晋が魏に代わる。羊祜は魏に代わる密謀の立役者と言う事で大功を認められ、武帝(司馬炎)より抜擢されて中軍将軍、まもなく尚書左僕射。この以前まで羊祜は武帝の腹心であって身に要職を帯びる事がなかった。これは羊祜がそれらを謙譲して断っていた事もあるが、ここに至って願わず賈充、裴秀ら前朝の名臣の上に立つ事となった。

 武帝が魏に代わって以後、東呉を平定して天下を統一する任務が、現実味を帯びて西晋の君臣の前に立ちはだかった。羊祜は呉伐の最有力な大臣となり、彼は武帝に平呉についてその勢力を語りこの任について宜しく任せていただけるよう上申、深く武帝の賞賛を受け、それによって泰始五年、羊祜は都督荊州諸軍事として襄陽に鎮座し、まさに対呉作戦第一線の将として正面作戦を行いながら、平行して呉を滅ぼすための種々の工作を開始した。

 羊祜は襄陽に着任すると、まず地勢工事を始めた。呉の石城の守将たちは常に晋の辺疆を騒がしていたので、羊祜は離間の計を用いて呉国の将たちを退走させ、すぐさま石城を攻めて石城以西の五城池を抜き、前線陣地を築いた。すぐさま、羊祜は軍糧の供応問題をも解決する。彼は襄陽に到着したとき百日分の軍糧をもってきていたが、羊祜は辺境防備の圧力を軽減し、巡邏の戌卒を半数に減らした。その余剰兵力を用いて田地八百余頃を拓き、数年の内に軍糧は十余年分に増した。当時襄陽一帯の官場では一種の旧習が流行しており、前任の地方官が死ぬと継任者とその官府に禍が降りかかるというもので、皆が呉将を退けた後のことを心配したが、羊祜は人の死生と生活に関わりはないとして令を下し、この種の旧習を禁止させた。百姓の動乱は少なかったという。彼は廉潔を心がけ、自らの府中における侍衛も十余人を超さないようにして威圧感を減らし、常に微服で各地を視察した。羊祜は遠近種々の挙措を按撫し、江、漢地区の百姓の一致した信頼を得た。

 荊州任職期間中、羊祜が取った最も効果的で成功した行いは、呉人の心理的瓦解であった。呉人に対する態度に徳をもって服せしめ、誠を持って公布した。投降あるいは俘虜となった呉人が家郷に帰りたいと願うと、羊祜はその願いを聞いてやった。呉国の将領・陳尚、潘景らが晋軍との戦いで戦死すると、羊祜は彼らの英雄善戦を賞賛し、厚く埋葬して、彼らの子弟が服喪にやってくると羊祜はこれをまた礼をもって還した。呉将・鄭香が夏口に侵略してくると晋軍はこれを生け捕ったが、羊祜は自ら親しく縛めを解いてこれを還したので、鄭香は羊祜の不殺の恩に感じ入り、その領する部衆を率いて羊祜に投降した。たまたまある人が呉人の子供二人を俘虜としたが、羊祜はこれを知ると令を下して子供を送り返させた。のちこの二人の父親はこれと知って部衆を率い羊祜のもとに投降した。羊祜は軍を率いて呉国の境内に侵入するにあたり、綿密な地図を造り十分す計算尽くの軍糧を積んで、留下の地に絹帛礼物を送った。また羊祜は狩猟を好んだが、彼は慎重で晋の国境から超える事はなかった。果たして狩猟が始まると呉人が射た獲物が晋に送られたが、羊祜は部下に命じてこれをすべて送り返させた。いささかの取るところもなかったので、呉人は彼を賞賛しまた心服して、羊祜とは呼ばず羊公と損傷するようになった。

 泰始七年、呉主・孫晧の任命により陸抗が呉軍の前線統帥となり、羊祜と対峙する。陸抗は呉国の名将・陸遜の息子であり、彼自身優れた政治的頭脳と軍事的才腕を持つ将領であった。羊祜と陸抗は互いに相手を尊重し合い、彼らはこの期間既に敵手と言うよりも好友であった。羊祜は陸抗と戦うたび、その都度期限を約定で定め、互いに詭計詐術の類いを用いなかった。ある部下が詭詐の術、奇策で勝ちを制しようと提言すると、羊祜はそれを留め、酒を飲みつつ無法の戦の無益を説いて下がらせた。羊祜と陸抗のあいだには常に互いを信じるなにものかが存在し、陸抗が羊祜に酒を送ったとき、ある人が酒の中に毒が入っているのではないかと疑ったが、羊祜は陸抗の人となりを信じて酒を飲み干した。陸抗が病を得ると羊祜は薬を求め、自らの名でこれを送った。陸抗の部下は薬中に問題があるのではないかと猜疑したが、陸抗は却って曰く「羊祜が毒を喰らわすような小人であるものか!」といって薬を服用した。陸抗は非常に羊祜の用兵と度量に敬佩し、しばしば「彼は楽器や諸葛亮を超える人物である」と賞賛した。

 当然に敵対する将領同士でありながら、陸抗は非常に清潔な人物として羊祜を讃え、攻めるに際して心を攻める策を採納した。このとき部下たちに告誡していわく「羊祜に対するに我らは徳に服したと見せて対せよ。果たして我ら一党は軍事的対策を耕求すれば、最後は必ず戦わずして潰す。今はただ双方の境界を維持するが好し、一地一戦の得失を耕求するは要らず」

 泰始十年、陸抗病死。伍は羊祜に拮抗しうるに足る将領を失い、呉伐の機は逐漸と熟し始めた。

 咸寧二年、晋の武帝は羊祜を昇進させて征南大将軍とし、呉伐の大計を経略させる。羊祜は既に七年間精心して積み上げた準備の後、呉伐のとき来たれりを確信、武帝に上書してすぐさま呉伐の師を興すべしと建議する。彼は上書の中に曰く「蜀漢を平定したとき、天下の趨勢はすぐさま呉をも伐って一気滅亡させるべしと言っておりましたが、時は流れてあれからはや13年。今江、淮の険阻は険閣に如かず、孫晧の暴政は劉禅を超え、呉人は困窮しており巴、蜀、そして大晋の兵は今盛ん。今こそまさに天下統一の好機であります。ただこれを為すには水陸両進、一挙多路から攻めれば多少の時日をかける事もなく、必ず成功を得ましょうぞ」

 羊祜の建議に武帝は深く感得したが、ただ中央で権勢を握る大臣賈充、荀勖、馮紞は却って西北の少数民族が平定されていない事を口実に、かたくなに呉伐に反対した。羊祜は再度表を奏して「ただ呉を平定しさえすれば、西北の少数民族などおのずと平定されるものです。当面、焦眉の急たるはこの機のがすべからず、速やかに大功を立てるべし」優柔不断な武帝は決断を下せず、羊祜は頗る失望し、詠嘆して曰く「天下の事でままならぬことは十中七、八。漸く断じたと思えば断ぜず。嗚呼、天よ、呉国を攻め取る条件はもはや実現不可能なのであろうか、あにこれ錯失あらずというに、良き計らいもこれを恨むというか?」

 これから二年間、羊祜は積年の疲労から病を得、咸寧四年、軽舟の前線から京師洛陽に帰還する。このとき羊祜は病重しといえども呉伐の志を忘れておらず、武帝に時候の挨拶の際、また逐一呉伐の大計を陳述したが、武帝は依然として呉伐の決心がつかなかった。

 羊祜は病重くなって立てなくなったが、彼は自ら呉伐の重任に堪えうる人材として臨終の席で杜預を武帝に推薦した。まもなく、羊祜は呉伐の志未完成のままに世を終える事を遺憾としながら、長く世を辞す。

 羊祜は歴朝二朝に仕えながらも、位は枢要にあり、人柄正直で謹慎、表章の上奏文はすべて草稿を焼き捨て、人材を推挙し、人と衝突したときは道を譲った。ある人があなたは謹慎が過ぎると言ったとき、羊祜は「朝廷に公爵を拝し、恩に謝するは当然、わたしは本来このような地位に就けなかったのだから」反面で彼は権貴に阿ねらず、因って荀勖、馮紞らに憎み、忌まれた。しかるに公の人心は彼のものであり、荊州の人民は羊祜の死をきいて痛惜の涙を流さざるはなく、市場の交易も停止して、巷一辺に泣き声満ちて呉国辺疆の焼死までもが泣いたという。襄陽の百姓は羊祜の生前の愛顧に託して石碑を建て、廟を立てて祀った。この碑を見て泣かざるものなし、ということから、この石碑はのち"堕泪碑"と称される。

 羊祜の死から二年、晋は呉を攻めてこれを滅ぼす。武帝は人を派遣して襄陽の羊祜の廟を祀った。羊祜の功労を忘れたわけではないという証拠に、特に彼の夫人夏侯氏を万歳郷君に封じた。

南朝-曹景宗

 皆様お疲れ様です。夏も残すところあと半月というところ、頑張りましょう・・・っていうのは自分に言ってるんですけどね。いやほんと、辛い。なんでこんなに今年は暑いのかと思ったら、去年は奥の間で生活してたのですよね。今年は手前の西日が入りまくる部屋に移ったので、熱い熱い。壁面の本棚から本を取り出すとほっかほかなんですよ。これが冬になると極寒ですしね-、とはいえネットのケーブルを考えると奥の間にPCは置けず・・・ついでに奥の間って狭いですからね。まあ、広いこっちの部屋に移った途端地震で木板を頭に喰らう事件を起こしたのですが。
 今日は体調不良、熱さの所為だと思いますがだるくてうごけず、うーんうーんと唸っておりました。よって本来司馬懿に続いて晋朝から羊祜を、と思っていたのですが途中で断念、これは延期してストックから南朝の曹景宗をとりあえずアップさせていただきます。粗野で好色、けれど風雅を好む風流人。歌舞伎者ですね。そして何が良いってこの傍若無人な人物がヰ叡に対してだけは借りてきた猫のように大人しかったというところがよいのです。それでは。

曹景宗(そう・けいそう。457-516)
 曹景宗は字を子震といい、新野の人である。父の名は曹欣之、宋朝の征虜将軍であり、徐州刺史であった。

 曹景宗は幼くして騎射に長じ、狩りを得意としまた愛好した。常々数十人の少年とともに騎馬で鹿を追い、あるとき馬と鹿が相乱れて混乱したとき、曹景宗は矢継ぎ早に矢を放ち、これがことごとく鹿だけを斃した。弱冠(二十歳)にならぬころ、父・曹欣之に派遣され、数人を率いて新野の外に出ると路上、蛮賊数百人に囲まれる。身に百余の矢を帯びた曹景宗は馬を馳せて瞬く間に四箭を放ち、一箭一殺、残りの蛮賊は恐れて潰走した。これによって曹景宗の胆力と勇気は内外に聞こえる。また、非常な読書家でもあり、ことに《史記》の《司馬穰苴傳》と《楽毅傳》を読んでは毎度「大丈夫たるものかくあるべし!」と嘆息したという。宋の元徽年間、彼は父に従って京師に入り、朝命を奉じて員外、のち尚書左民郎とされたが、まもなく父の憂いにあたって離職、郷里に帰る。服喪の間、刺史・蕭赤斧は彼の官職を進めて冠軍将軍、天水太守とした。

 時に建元(479-481)のはじめ、蛮賊が大いに蠢動して騒乱をなす。曹景宗は西に東に征伐の軍を率い、いたるところ敵を破った。斉の鄱陽王・蕭鏘が雍州刺史となると、曹景宗は征虜中兵参軍、馮翊太守、督峴南諸軍事、屯騎校尉とされる。ところで少年の時、曹景宗は州里の張道門と友情を結んだ。張道門は車騎将軍・張兒児の息子であり、のち武陵太守となる。張兒児が誅殺されたとき、張道門もまた連座して殺されたが、その親類縁者は恐れて屍を引き取ろうとしなかった。曹景宗は襄陽から船に乗って武陵まで赴き、友の死体を引き取って還ると丁重に葬儀を執り行った。郷里の人々はこれを義行として讃えた。

 建武二年(496)、魏主・拓跋宏が赭陽に侵犯、曹景宗は偏将(遊撃。非主力部隊)となって毎度敵の堅陣を衝き、斬獲無算をあげる。功績により遊撃将軍。四年、太尉の陳顕達に従って北伐、馬圏を囲み、伏兵二千をもって北魏の中山王・元英率いる四万の援軍を破る。馬圏を抜いたのち、陳顕達はこれを自らの手柄として曹景宗の功績を握りつぶした。曹景宗は恨み言を言わなかったが、北魏の孝文帝が大挙して南侵してくると陳顕達は夜逃げするという無様をさらし、曹景宗に助けられて山道に導かれ、ようやく命を助けられた。

 永泰元年(498)、蕭衍(のちの梁の武帝)が雍州刺史となると、曹景宗は自ら主動的に彼に帰属、しばしば蕭衍を自らの家に招いた。ときに天下大乱、蕭衍は曹景宗の情誼を厚く感じた。永元のはじめ、曹景宗は冠軍将軍、竟陵太守となる。蕭衍義起におよぶと曹景宗は衆を集め、同時に祖思冲を派遣して「襄陽の南康王(蕭宝融。当時15歳)を即位させ、しかるのち出師すべし。これ万全の計なり。」と説かせたが、蕭衍は聞き入れなかった。このくだりについては《武帝紀》に記述がある。まあ、人望のある南康王を即位させてはこの義起ののち自分が帝位につくのに憚りが生ずるから、蕭衍としてはそれはやめておきたかったのであろう。蕭衍は竟陵に到り、冠軍将軍・王茂と曹景宗を従えて長江を渡り、郢城を包囲。2月から7月まで五か月に及ぶ包囲戦ののち、ついに城を下す。彼はまた兵を領して南州に赴き、騎兵と歩兵を駆使して建康を陥とし、江寧に屯した。東昏侯の将帥・李居士は大軍をもって新亭に屯し、同日、精鋭一千騎をもって江寧を攻めさせる。曹景宗の軍はまだ安営が立たず、かつ軍卒は長日の行軍に疲れて武器も破損していたので、李居士はこれを軽んじて吶喊、曹景宗に逼る。が、曹景宗は甲冑をまとい馬を躍らせ、短兵(片手持ちの短い武器。おそらくは剣)をとって逆撃、李居士を敗走せしめた。曹景宗は李居士が棄てて行った物資をことごとく接収、鼓を鳴らし前進し、皂莢橋を衝いてここに壘を築く。彼はまた王茂、呂僧珍と掎角をなし(兵を分かって牽制挟撃し)、王国珍を大航で破る。王茂が敵の中堅部隊を衝き、敵陣を陥とすと、曹景宗はこれに乗じて追撃、殺戮を行った。曹景宗の軍卒は大概が無頼者で構成されており、はっきり言ってしまうと規律がよろしくなかった。道の左右に些かでも富家があれば略奪し、子女を犯したといい、曹景宗もまた軍卒をねぎらい士気を保つためにこれを禁じなかった。蕭衍が新城を前にして号令を厳しく布告することにより、ようやく略奪の宴は平息する。また衆軍の長とともに六門を囲んだ。城を抜くと散騎常侍、右衛将軍を拝し、湘西県侯に封ぜられ食邑一千六百戸を与えられた。まもなく持節、都督郢・司二州諸軍事、左将軍、郢州刺史に遷される。蕭衍が即位して梁の天監元年、号を勧められて平西将軍とされ、竟陵県侯に改封された。

 曹景宗は州刺史となると財物を買いあさった。城の南に邸宅を構え、長堤の東、夏口の北に門を置いたが、東西数里にわたって軍隊が残暴をはたらき、民衆の受けはすこぶる悪  かった。天監二年(503)十月、北魏の軍が司州を侵し、州刺史・蔡道恭を囲む。これを救わず狩猟に興じていたと中丞の任昉に弾劾され、護軍に落された。まもなく散騎常侍、右衛将軍に復す。

 天監五年(506)、北魏の皇族・元英が鐘離に来寇、徐州刺史・昌義之を囲む。武帝は詔を下して曹景宗に兵を統べさせ、鐘離救援を命令。豫州刺史・韋叡をその節度下に置き、道人洲に停宿して各路からの軍を合し、しかるのち進軍せよと命じた。曹景宗はまず邵陽洲を占拠することを述べたが武帝はこれを聞き入れなかった。曹景宗は功績を独占しようとして命令に背き進軍、しかしたまたま暴風雨に遇い、人馬覆滅という間抜けな結果を招いてしまう。武帝はこれを聞いて「賊を破らんとして景宗が進めぬとは、ああ神よ、これ天意なるか!? もし孤軍独り往けば、城はいかほどの間も保てず進退窮まるは必定。今ぞ衆軍ともに進め、さすれば始めて大捷なり」と歎じた。韋叡と会するにおよび、曹景宗は邵陽洲に進軍、塁を立て北魏の城百余を抜く。魏軍と連戦して退けることかなわずも、その十中二、三を殺し、ここに魏軍の進軍を阻む。曹景宗らは武器甲冑を一新し、威儀はなはだ盛んとなり北魏の気を奪う。しかし北魏の大将・楊大眼は長江の北岸に城を建て、食糧を運搬、放牧を求めて北岸にわたるものはことごとく楊大眼の俘虜となった。対するに曹景宗は決死の精鋭一千を率いて楊大眼の陣と対峙する形で南岸に築城、自ら工事を監督する。楊大眼が軍を領して攻め入ると曹景宗はこれと戦ってついに勝ち、築城を成し遂げて別将の趙草にここを守らす。それゆえ軍卒たちはこの城を趙草城と称した。こののち、梁軍は武帝より授けられた巨艦を使い魏軍が長江にかけた浮橋に火攻めを仕掛ける。曹景宗は北岸から、韋叡は南岸から、それぞれ橋一つずつを焼き打った。年明けて六年三月、春の増水で淮河の水が六、七尺も増水すると、それまで平野であった土地も洲となって船が乗り入れられるようになる。韋叡はこの機に乗じ、馮道根、李文釗、裴邃、韋寂らを戦艦に乗せ、(それまでは平野であった)洲の上の敵軍を攻撃、ことごとくこれを斃す。曹景宗は余衆全軍を率いて鼓を鳴らし、徐州城に吶喊、大いに暴れまわって北魏軍を蹴散らした。西岸において楊大眼は営を焼き払い、元英は徐州城を棄てて退却する。諸壘の土は相次いで崩れ、北魏の士卒は甲冑を脱ぎ捨て我勝ちに水中に身を投じた。ために淮河の水は一時流れを止めたという。曹景宗は軍主・馬廣に命じて楊大眼を追撃させること四十余里、濊水まで追い詰め敵軍自軍の死体がうずたかく積み上げられるも、楊大眼を討ち取ることかなわず。また、包囲から解放された昌義之もすぐさま追撃に移り、元英を洛口まで追う。元英は単騎梁城に逃げ延びた。戦後、淮河の周辺百余里には魏軍の死体が連なって積みあがり、この戦いで梁軍が得た俘虜は五万余、武器と糧の類は山のごとく、敵の残した馬や驢馬は数えきれないほどの数にのぼった。曹景宗は俘虜一万余と軍馬一千頭を着服し、朝廷に捷報をもたらす。武帝より帰還命令の詔が下り、曹景宗は意気揚々と凱旋、食邑四百戸を加増され、あわせて二千戸、さらに公爵に進められ、かつ侍中、領軍将軍を拝名。鼓吹隊を賜与される。

 曹景宗は人となりプライドが高く、他人を見下す傾向があった。書をよくし、わからない字があっても人に聞くことはせず、自ら新しく意味を象出してそれが意にかなった。公卿たちをバカにして遠慮というものをまったくしなかったが、ただ一人年長で将軍としての先達でもある韋叡にだけは頭を垂れてはなはだ相手を尊重し、宴があれば筵を引いて上座を譲り、とかく謙遜したので武帝はこれを非常に嘉した。また、曹景宗は好色家でもあり、州内に養う妾は数百人、みな華美に綺羅を飾らせて、ために散財して豪放に笑っていたという。性は躁的でとにかく騒々しく、黙っていることがなく、出かけるときは常に馬車に乗って威張っていたらしい。左右のものが「名は高く位は重くなったのですから落ち着きなさい」と諌めても聞かず、親しいものには「俺は若いころ郷里で龍のごとく馬を飛ばし、同年輩の悪ガキ数十騎を従えて狩りをしたものだ。弓に矢をつがえ放てば弓弦の音は稲妻、矢は餓えた鷹となって鹿を斃す。その血を飲んで肉を食らうことの、なんと甘露であったことか。耳に風の音を聞き鼻からは火を噴くような感覚、あれは死すとも忘れられんし、今老いてここに到るもあれ以上の楽しみを知らぬ。今揚州で貴人となったが、体は却って不自由になり、道をゆくに馬車を使って威張れば小人がしきりに不良爺だと謗られる。馬車に閉じこもって女とむつみ合うぐらいしか楽しみがないのにそのことでガタガタ言われては、いちいち気にしてもおられんわ」と常々語った。また酒好きであり、邸宅で月を肴に飲んでいたかと思えば、民家に押し入って酒をくれと喚き散らすこともあったらしい。本質的に遊び人というか放蕩者であり、剽悍な部下を抱えるも婦女暴行、財貨略奪を止めることがないどころかむしろ奨励するというところがあったが、さすがに武帝じきじきにたしなめられて止めた。武帝はしばしば功臣を集めて宴を開き昔を懐かしんだが、曹景宗はその場で酔っ払って武帝に喧嘩を挑んだことがある。酔いがさめた後さすがに更改して下官を願い出たが、武帝も器の大きい人物で笑って済ませたそうな。文人をバカにしていたが文雅の人、風流人としても一流で、《南史》には彼が即興で作った「去時児女悲、帰来笳鼓競。借問行路人、何如霍去病(行くとき児女悲しみ、帰り来れば鼓が迎える。道行人にあれは誰かと問えば、あれこそまさに霍去病)」という詩が記載されている。

 天監七年(508)、侍中、中衛将軍、江州刺史に。しかし赴任する途上で没した。享年五十二歳。詔により銅銭二十万、布三百匹が贈られ、征北将軍、雍州刺史、開府儀同三司を追贈された。諡は壮。

三国ー魏ー司馬懿ー25史新編三国志9巻

五日ぶりぐらいですかね、結構間を空けましたが、やることが多かったのでスパンをおいたという気はしない岩城です。あれやってこれやってまたあれやって、と結構多忙なのですよ。これだけあれやこれややって収入に繋がらんところが痛みですが。備忘録としての体調書き付け。昨日通院日だったのですが、そのおかげか、なんかここ暫くでは珍しい体調の良さ・・・といってもまだ二日ですが。先週まではもう立つのも辛い日がしばしばだったのでだいぶマシに感じています。そして本日は晋の宣帝、司馬懿です。特に三国時代をやるつもりはなかったんですが、なんとなく司馬懿という人物について調べ直したくなり、やってみました。いろいろ書きたい事はあるのですが、それは訳文でと言う事で。よろしくおねがいいたします。

司馬懿(しば・い。179ー251)
 司馬懿は字を仲達と言い、河内温県の人である。家は当地の士族の名門で、父・司馬防は尚書右丞として早くから曹操を北部尉に推薦した人物であり、兄・司馬朗は曹操麾下で兗州刺史にまでなったが建安十二年、孫呉征伐の陣中にあって戦没した。司馬懿は幼年より厳格かつ良好な家庭教育を受け、兵書を熟読しまた武芸にも習熟した。彼が十六,七才になる頃には、当地の名士がこぞって司馬懿の事を“非常の人”と呼んだほどだという。彼は若くして郡吏となり、当時大名士として知られた崔琰と語らいその才能兄を凌ぐといわれ、建安十三年、荀彧の推薦で曹操に仕える事になる。曹操は彼を相府文学掾に任じ、まもなく黄門侍郎、議郎、相府東曹掾属、主簿に昇遷させる。

 はじめ、司馬懿はまだ曹操から重んじられてはいなかった。建安二十年、曹操が漢中を攻撃し、張魯を打ち破った後、司馬懿は勝ちに乗じて西蜀を取るべしと建言し、曹操はそれを容れた。建安二十四年、関羽が荊州から魏を攻めんとし、樊城を包囲したとき、曹操はその鋭気を避けるべく遷都を考えたが、このとき司馬懿は彼一流の分析力をもって曹操の注意を喚起した。則ち関羽は志を得るも孫権との関係悪く、我らが人を遣わして孫権に江南の地を給うと約し、出兵を願うなら孫権は必ず関羽の後方を攻め、よって樊城の囲み自ずから解け、当然遷都の必要なしと。曹操はこの計略を採納し、呉と蜀を互いに攻めさせ、関羽の威嚇の効果を消去した。このときになって漸く曹操は司馬懿の才能に感得するようになり、彼に太子曹丕の補佐を任せしばしば接触した。司馬懿は機会あるごとに自己の考えるところを表現し、建安二十四年、孫権が上書して曹操に帝号を勧めると、司馬懿もまたこの機失うべからずと曹操に帝号を勧めた。

 曹丕が即位すると司馬懿は先君の依命により丞相府長史、また督軍御史中丞とされ、具体的な国家、組織戦略、いかにして漢を排し曹魏をこれに代えるか、献帝に禅譲関係の事務を任される。司馬懿は奏文を起草して献帝に禅位を迫り、献帝は迫られてやむなく十余日後、宝座を出た。司馬懿は曹丕を大いに万歳したが、当時の老臣大老たちは彼の年若である事を軽んじた。曹丕の称帝後、司馬懿は尚書僕射に任ぜられ、郷侯に封ぜられてまもなく、撫軍将軍。曹丕の外征出伐にあっては、往々にして司馬懿が許昌あるいは洛陽に鎮守した。このころ一時期、司馬懿は総合的に曹丕の顔色辨治を窺ってその意に添うたが、なおまだ国家の実験を握るに至らなかった。黄初七年五月、曹丕病にて危篤、曹真、陳軍、曹休が遺詔の大臣として、嗣主の補弼を任された。

 明帝曹叡即位後、司馬懿の地位には大きな変化が訪れる。まず、撫軍将軍から開府治事に落され、自ら率いる事の出来る軍に大きな制約を設けられたため、彼は自ら股肱の臣を養って自己の力量を高める事に腐心した。明帝は即位から二ヶ月後、呉の大将・諸葛󠄀瑾、張覇率いる軍を襄陽に攻め、明帝の命で司馬懿は迎戦、大いに呉軍を破り、張覇を斬った。こののち曹真が朝廷の大権を掌握し、明帝に建議して司馬懿を宛城に留め、都都荊、豫二州軍事として対呉軍辺疆の軍政を任せた。

 太和元年末、司馬懿の支配下新城の郡主・孟達が叛いた。孟達はもともと蜀の降将であり、曹丕がそのまま太守としておいたものを、今回諸葛亮と連携をなし相通じ、蜀軍の祈山侵攻都と同時に魏に叛き、直接洛陽を搗かんとした。はじめ、孟達は司馬懿が朝廷に戻って規定の手続きを踏んで再度出兵するであろうと踏んでいたから、まず一ヶ月の猶予期間を予想していた。が、司馬懿は危急の事態にあって独断、即時出兵、一日に百五十里を進んで八日で孟達の拠城・上庸城下にたどり着き、あっという間に叛乱を平定してのけた。このとき、彼は上庸を屠城し、叛乱に参加した軍人および成人男子、官吏およびその家族を悉く殺した。太和二年、明帝は両路から発して呉を打つ事を決し、司馬懿に軍を与えて漢水から江陵へ降らせた。曹休は尋陽から一路出兵したが、結果、呉の名将・陸遜に大敗して帰り、まもなく病死した。司馬懿は泰然として班師。二度の戦争を経て、司馬懿の軍事的才能は洛陽の各階層の人々の注意と警戒をを呼び起こしたが、当時、呉貭が明帝に甚だ司馬懿を称揚して「忠知至公、社稷の臣たり」と。曹真はこれを見て功績を立てんと急ぎ、今一度蜀地攻撃を要求する。明帝の太和四年七月、勉めて強く蜀攻めに同意し、司馬懿は西城から出兵した。曹真は十余日かけてようやく蜀地に到着したが、たまたま雨続きで撤退した。

 太和五年、諸葛亮の第四次北伐。蜀群は祈山を囲んだ後、鮮卑と相互互助し、鮮卑は北地に石城を打った。曹真は腫れ物が出来ていて動けず、このとき司馬懿が洛陽に帰ってきていたので明帝は彼に対蜀戦線を委ね、全権の指揮を任せた。司馬懿は前線に到着するや堅守不戦を制定し、蜀軍の糧月き撤退するのを待った。彼は四千の兵を上珪に留め、余軍の総力を挙げて祈山の囲みを解く。蜀軍はただちに上珪に赴いたが、司馬懿が兵を収斂して守ったのでこれと交戦する事はなかった。諸葛亮は攻め手を代え、司馬懿もまた鹵城にうつって山を掘り、営を築いた。魏軍内部にも公然と司馬懿を批判して“蜀を恐れる事虎のごとし”というものがり、諸将はあえて一戦を請う。司馬懿はそこで張郃らに出戦を命じたが、ただの一戦で魏軍は大敗を喫し、これ以降司馬懿の山営退保の令に肯んぜないものはなくなる。なもなく、蜀軍は糧尽きて撤退するが、張郃はこれを追撃して蜀軍の埋伏に中り、射殺されて死ぬ。青龍二年四月、諸葛亮は第五次北伐を敢行し、五丈原に陣し、司馬懿と渭水のほとりで対陣する。司馬懿は二十二万の大群を擁し、蜀軍の二倍以上の兵力を持ちながら関を守って戦わず、諸葛亮はその戦法媼のそれと罵って戦書と婦人の衣装を送ったが、司馬懿の守りが揺らぐ事はなかった。八月にいたって諸葛亮急死、蜀軍退却。この二回にわたる対蜀戦争、戦術上の観点から見ても魏・蜀の損失という観点から見ても戦略的観点から見ても、司馬懿は常に諸葛亮の上手を行っていた。最低でも魏の国土を寸土たりとも犯させていないのだから。この戦功の突出に加え、曹真が若くして病死するという幸運にも恵まれ、明帝は司馬懿を大尉に昇遷させる。全国の軍隊を司馬懿は掌握する事となった。

 景初二年春、明帝は司馬懿に遼東の公孫淵を伐てと命ずる。公孫氏は遼東に拠すること三代、この一挙をもって独立せんとの心づもりであった。公孫淵が執政をとるようになって後、しばしば辺疆と曹魏の間に武装衝突が発生し、しかも遣使をつかわして呉と連絡し景初元年には自立して燕王、改元して紹漢と号し、百官を置いて公然と魏に反した。司馬懿は命を受けるとすぐさま兵を発し、六月、遼東に至り、ほどなく公孫淵の占拠する平襄城下を伐ち平らげ、八月、公孫淵の投降を拒否して包囲突撃しこれを殺す。司馬懿は軍を率いて屠城し、まさに城内の一五才以上の男子七千余人を斬殺した。また公孫淵が任官した二千余人も誅戮する。こののち、彼の手によって速やかに遼東は平定される。

 景初三年正月、年わずか三六才にして明帝危篤となり、その臨終前、司馬懿と曹爽がともに八才の嗣子・斉王曹芳を託される。曹爽は朝廷の任に当って自らの実戦経験のなさを知っており、また年若である事から、最初司馬懿を年長者として立てた。まもなく、彼の身辺にもようやく人材が集まる。何晏、李勝、畢軌らであり、また彼は多くの衆の子弟を起用して朝廷の要害部門に充て、さらに斉王に建議して司馬懿を大傅とし、表面上尊重するふりをして実質その兵権を奪取した。司馬懿ははじめからこれと争っては一日短長ありを覚り、政治から身を引く振りをして見せながら情報を集め、これを武器として堅持した。正始五年、曹爽が功業を求めて軽率に蜀伐を議すと、司馬懿は明確に難色を示す。しかし司馬懿の反対にもかかわらず、曹爽は五万の兵を率いて蜀を攻め、結果国境で惨敗。折れた兵たちは我がちに逃げ出した。こののち、曹爽はさらに司馬懿を排斥しようと躍起になるが、司馬懿はこれを見て病と称し蟄居。政変の画策を開始する。彼は息子の司馬師に命じて各種経過の邪魔を排除し、密かに亡命の徒三千人を招いて洛陽城内外に彼らをまき、一旦必要あれば彼らを招集できるようにした。正始九年、曹爽は親信する李勝が荊州刺史として出任する機会に司馬懿の偵察を依頼したが、司馬懿は偽って病膏肓と見せかけ、李勝は完全に騙された。曹爽らは完全に油断しきり、于嘉元年正月、禁軍を率い曹芳を随えて洛陽南郊九十里、明帝の高平陵に至ったが、このとき司馬懿はまさに機、熟すと立ち、機に乗じて政変を起こし、すばやく司馬師の招集した亡命徒たちに皇陵の外門を封鎖させ、太后の名を以て曹爽兄弟の官爵を罷せしめ、また軍を帯び洛水からの帰路を断ち、また人を遣わし、曹爽兄弟が権力を手放すならばその命を保証すると欺し言わせた。曹爽らは権力闘争の経験が決定的に乏しく、公力を返上。洛陽に至ったところで司馬懿は即時かれらを捕縛し、すぐさまその罪名を並べ上げると、曹爽きょうだいおよびその朋党の夷三族にいたるまで誅殺させた。その数は数千人に及んだという。司馬懿は新たに朝廷の大権を握り、丞相となった。
 嘉平三年五月、司馬懿病死。享年七十二才。その二人の子はともに朝廷の最高権力者として腕を振い、それから十四年後、孫の司馬炎が新王朝ー晋を建てる。追尊され“宣帝”。

イスラムーサラディン

ぅあー、苦しいです。夜中になってもまだ髪が熱を持ってるという、そういう苦痛。やっぱり年を追うごとに熱さの感じ方も変わってるんですかね、以前は夏だからってここまで熱く感じなかったと思うのですが・・・まあウチの冷房扇風機ですからね、他所に買い物とか行くと今度は冷房で寒かったりします。そしてこの熱い中になぜか熱砂の砂漠の主、サラーフ・アッディーン・アル・ユースフ・イブン・アイユーブですよ。まあ好きな人物です。リチャード一世よりは断然サラディンですが、戦人として桁外れな力量の持ち主であるかというと「優秀」ではあっても「最優秀」ではないのですよね。大して名もないような相手に危うく負けそうになる事もしばしば。もっとも、最終的に負けないんですが。この人の優れている点というのは武人としての戦闘力と言うより、君主としての寛仁大度、それに尽きると思います。葬式の時残ってた私財が金貨三枚、というのは有名な話ですが、ここまで徹底した慈善家は史上他にいないでしょうという事で。

サラディン(1138-1193)
 ユースフ・イブン・アイユーブ(ユースフの息子アイユーブ)は1138年、現代のイラクで生まれた。彼はスルタン・ナット・エド・ディンに仕えるクルド族仕官の息子であった。のちに彼が有名になったとき、人々は彼を呼んでエルマリク・エン・ナセル・ザ・コンクエディングと読んだが、彼は彼自身の名、ユースフの息子アイユーブを取り、サラーフ・アッ・ディーン「信仰の名誉」を名乗った。西洋人はこの名を発音できず、しばしば彼をサラディンと呼び、イギリスのリチャード一世(獅子心王)と対比させるが、実際に彼はリチャード一世ときわめて対照的であった。
 リチャードは彼の王国から遠く離れて、そしてそこで彼の人生の大半を過ごした。彼は並外れた騎士であり、そして不安を知らぬ心の持ち主であった。リチャードは叙情詩の愛好家で、ヨーロッパの騎士道のすべてに凝った方法で没入したが、しかし読書を好まず、国費のほとんどを軍備に充てるぐらいの戦争愛好家でもあった。対するにサラディンは戦争を憎み、読書を好んだ。本来であればサラディンが戦場に出る事はないはずであったが、セルジュク帝国の崩壊と家庭の義務によって戦争に引きずり出される事となった。一旦戦争に関わると、彼が卓越した戦略家である事はすぐに明らかとなった。しかしリチャードと異なり、彼は決して彼自身の軍を誇示する事をしなかった。
リチャードとサラディン、その対決を謳う中世の伝説にもかかわらず、両者が総力を挙げて決戦を起こす事はなかった。サラディンはリチャードに対して武力で劣り、しかし彼は支配者として為政者としてイギリス国王より遙か前にいた。彼は一つの国内にエジプト・シリア・メソポタミアと北アフリカを含む広大な版図を合併した偉大で賢明な王であり、そして寛仁な支配者であった。彼の時代、一時的にイスラム教はシーア派とスンニ派を結びつける事にすら成功した。
 サラディンの賊するクルド人とリチャードのノルマン人はある意味で互いによく似ていた。彼らは双方共に冷徹で用心深い、そして徹底した戦略家であり、両者共にそれぞれの騎士道を重んじたが、どちらとも恐ろしく残酷な性質と能力を秘めていた。かつて、交渉の席でサラディンの側が遅滞したため、リチャードはサラディン軍の人質2000から3000人の虐殺を命じた。サラディンは我慢ならず、もし保釈ための身代金が速やかに供出されるようであれば、彼の領域を侵すディナーゲストを出し物に皆殺しにするものをといった。
 サラディンはシリアにおける彼の地位を確固たるものにするため、彼の叔父シール・クーフ(スルタン、ヌールッディーンの作戦指揮官であった)に従軍した。それは達成されて、ヌールッディーンはシーア派カリフが彼らを遮るためエルサレムに送り込んだキリスト教派の王アマルリックを排除するため、エジプトにサラディンとシール・クーフを送り込んだ。アマルリックは2度シリア人を止めたが、シール・クーフは王室にクーデターを起こさせ、キリスト教擁護主義を標榜しない新たなカリフを立てた。シール・クーフはそのままエジプトに入り、国家の舵取りを行ったが、2ヶ月後、(おそらく毒殺されて)彼は死んだ。サラディンは数人のシーア派信徒をシール・クーフ殺害の罪で告発し、彼らのとがが裁かれるよう促したが、しかしサラディン自身に叔父殺害の嫌疑があり、告発はうまく進まなかった。傀儡のカリフがサラディンをエジプトのスルタンに任命し、うまみを得たのが彼であった事も理由に挙げられる。1174年、ヌールッディーンとアマルリックの両者が歴史から消え、サラディンはシリアに侵攻してヌールッディーンの土地を奪った。彼をスルタンに推したのはカイロのシーア派カリフであったが、彼はバグダットのスンニ派カリフの管轄下に(彼がシリアで征服した人々と共に)自らの首府を置いた。
それからサラディンは十字軍諸国に向き直った。エルサレム王国は大きな問題を抱えていた。アマリックの相続人は13歳の息子ボールドウィンであり、これはハンセン病患者であったが、そのいとこ、トリポリのレイモンドが三年間の摂政に任ぜられた。レイモンドは抜け目ない真の武人であったが、しかし彼の摂政期間が過ぎたのち、ボールドウィンは既に彼が年の行った人々のアドバイスを必要としない事を証明した。1177年、彼は彼自身の名によって「サラディンの軍を高く評価し、よってこれを伐つ」と裁決した。サラディンはかろうじて司直の手から逃れ、1178年から新軍を募兵して再起したが、初めの2年間、ボールドウィンはサラディンよりずっと少ない兵力で、絶えず強大なサラディン相手に術策で勝ち続けた。
 1180年、ボールドウィンとサラディンは停戦に合意した。ボールドウィンの内部問題の一つはヌールッディーンの地下牢で16年を過ごしたレイナード・ドゥ・カティリオン(旧アンティオキアの公子)であった。レイナードはサラディンのような宗教的寛容の人とは相容れないキリスト教至上主義者であり、実際、彼はイスラム教徒の巡礼を阻害して攻撃するため紅海にガレー船を置いた。彼は紅海アラビア岸と兵を擁するイスラム教の都市を攻撃し、略奪した。
 しかしこういうこともあった。サラディンとその軍の出現に際し、レイナードの軍には新婚者がいたので、彼は停戦の旗の下から結婚のごちそうの一部をサラディンに送った。辺礼として、サラディンは新婚者の滞在する塔を攻撃しないよう彼の技師たちに命令している。
 一方でボールドウィンをむしばむハンセン病は以前よりずっと酷くなっており、彼は両手足の指を失い、まともに座る事さえもできなかった。彼は義理の兄弟・ガイ・ドゥ・ラシグナンが摂政として立つ事に同意したが、それはガイが全くの無能である事を証明するための時間に過ぎなかった。
 トリポリのレイモンドはサラディンとの間に新しい条約を取り結び、ボールドウィンの7才の甥がボールドウィン5世として叔父の後任になった。しかしこの子供は18ヶ月後に死に、彼の母シヴィリは自ら女王位につき、あろうことか無能なガイ・ドゥ・ラシグナンを王位に就かせた。
 レイナード・ドゥ・カティリオンは再び約に叛いた。サラディンは十字軍地方を侵略し始め、ガイ・ドゥ・ラシグナンは彼が集めうるすべての兵をかり集めて接近するシリアーエジプト勢力と対決した。夏の半ば、サラディンの軍は大きく、そして彼はパレスチナの枯れた土地に馬の飼い葉と水以外の食糧を見いだす事が出来なかった。
 トリポリのレイモンドはガイに待つよう進言した。なぜならサラディンは今回、長期間軍隊を維持できる状況になかったから、このまま待てば勝利は自ずと転がり込んでくるはずであった。しかしガイはレイモンドではなく、攻撃的な扇動者、レイナード・ドゥ・カティリオンに耳を傾けた。サラディンは十字軍士の水場への接触を防ぎ、重厚に防衛戦を築いた。レイモンドと少数の彼の追従者はかろうじてイスラム教の防衛線を突破する事に成功したが、ほとんどのキリスト教徒は矢と、それ以上にほてりと乾きで死んだ。国王ガイは虜囚となり、サラディンは以後長らく武器の運搬を行わないという約束をのみ約させて、身代金を取らずに彼を保釈した。「王は王を殺さない」とはこのときの有名な言葉である。
 しかしサラディンはレイナード・ドゥ・カティリオンに対しては自らこれを殺す事を誓った。彼はレイナードにイスラームを受け入れるつもりがあるかいなかを問い、キリスト教徒がこれを軽蔑と共にはねつけたとき、スルタンは彼の剣を振り上げた。が、彼は人を殺す事に対する平素からの禁忌のため、首をはね飛ばす事が出来ず、レイナードの腕を切り落とした。このときサラディンの恥ずべき使用人は十字軍士の捕虜を虐殺した。サラディンはテンプル騎士団とホスピタル騎士団員の捕虜にあえてイスラム教徒への回収を問う事はしなかった。回答がわかりきった事であったから。彼らは全員が処刑され、一般の兵士たちは奴隷市場に売られた。
 彼は身代金のために貴族を拘束したが、サラディンはそれを獲得するより早く、すぐにエルサレムを含めた十字軍寨の大部分を奪回した。安全を感じると、ガイは約定を破ってアクレの攻囲戦に参加した。彼はイギリスのリチャード、フランスのフィリップ王らと合流した。この秋のアクレ攻囲戦の後に、リチャードは伝統的な十字軍編成を使って海岸下方に軍を置いた。海とイタリアのガレー船が彼の右脇を保護した。他方で歩兵隊の槍兵が、離れたポジションでイスラム騎兵を引き留めた。
 槍兵を保護するのはイスラム弓兵をさらに上回る数を誇るクロスボウ兵で、これら従僕たちの後方に重装の騎兵がいた。イスラムの騎兵が十分近くなったとき、歩兵隊は左右に分かれて横からイスラム騎兵を囲い込むであろう。この軍隊はイスラム軍の真っ正面を横切って通ったが、リチャードはエルサレム奪還に目もくれなかった。彼はその気ならイスラム弓兵が海岸沿いからそれを阻害する事が出来ると知っていた。ゆえにエルサレムはただ野戦軍によって全面的に利用供給されるだけであった。彼はサラディンとの間に優勢ながら決着のない無為な勝負を行い、満足し、休戦協定に調印した。以後何世紀もの間、十字軍を名乗る兵士がエルサレムにやってきては、毎度失敗する事になる。
 サラディンは彼の騎士道に対する素晴らしい勝算を獲得し、十字軍士からも尊敬された。十字軍士たちの手にかかって何千というイスラム教徒が無惨に殺されたにもかかわらず、サラディンは恩赦と、すべてのキリスト教徒へのエルサレムへの自由巡礼の権利を約束した。1193年に彼が死んだとき、政府議員は大いに驚いたという。サラディンの私財は慈善による施しによりすべて使い尽くされており、金貨三枚しか残っていなかったというのだから。

五代ー梁-劉鄩ー旧五代史23巻


先刻ぶりでございます。五代史概論だけ挙げて五代の名将を挙げないと言うもなんなので一人。初め王師範に仕えのち汴梁に忠義を尽くした劉鄩です。この人、自分の列伝ではこのとおり滅多に失策を犯してないように書かれているんですが、実際には「策は間違ってないのに間が悪く」質策を犯す事多数という実に惜しいというか一歩抜けているというか、そういう将帥でした。名将である事は間違いありませんが、本来ならもっと上の功績を挙げられたはずにもかかわらずそれを獲られなかった、という点で不遇でした。最後は疑いの目を向けられた挙げ句暴卒ですしね。ともあれ、ご覧くださいませ。

劉鄩(りゅう・じん)
 劉鄩は、密州安丘の人である。その祖父劉綬は密州戸掾、のち累功により左散騎常侍を贈られ、父・劉融は安丘の令となってのち工部省書を追贈された。劉鄩は幼少にして大志あり、兵略を好み、史書を渉読した。唐の中和年間、青州節度使・王敬武に仕えてその小校となり、王敬武死後は三軍あげてその子王師範を押し立て、留後となす。朝廷は崔安潜を青州の鎮将に命じたが、州人はこの名を拒んだ。棣州刺史・張蟾は兵を率いて王師範を襲い、王師範は都指揮使・盧弘を遣わして逆に棣州を攻めさせたが、盧弘は張蟾と通じて叛き、軍を返して王師範に襲いかかった。王師範はこれを知るや伏兵を設けて盧弘を迎撃、これを受け、劉鄩に告誡して曰く「盧弘いたらば則ちこれを斬れ。」劉鄩は盟約を装って盧弘を誘い出し、その座上で盧弘を斬り捨て、同調者をことごとく誅殺した。これにより王師範は劉鄩を馬歩軍副都指揮使となし、棣州を攻め下して張蟾を殺し、朝廷は因って王師範に平盧軍節度使を授けた。光化の初め、王師範は表して劉鄩を登州刺史となし、年末、淄州に移して行軍司馬に配す。
 天復元年、昭宗が鳳翔に巡幸し、梁祖は四鎮の師を率いて岐下にこれを迎える。李茂貞と内官・韓全誨は詔を矯げて天下の兵に入援を請い、王師範は詔を照覧して梗概、涙を流す。梁祖は腹心を遣わし虚に乗じて管内の州軍を獲り、現地で国を盗まんと欲す。事多く漏れ聞こえるも、劉鄩はただ偏師をもって兗州を陥し、当地に拠するのみであった。初め、劉鄩は細作(間諜、スパイ)を遣わし醤油売りに変装させ、兗上内の虚実および出入りを調べ、城下を見るに兵を引き入れるべき水路の一つを見つけてこれに志を得た。劉鄩は王師範に報告し、歩兵五百を請うて、宵のうち水路中に枚を含んで侵入し、一夜にしてこれを定めたので軍城まったく対応の暇なく、市民は支配者が代わって憂うこともなかった。梁祖は大将・葛従周に命じてこれを攻めさせ、葛従周を節度使となし、兵を率いて城外に置く。州城の劉鄩が拠を為すところ、敵の家族みな城中にあり。劉鄩は能くその家々を撫し、邸第の外に移り、礼を尽くして昇堂し葛従周の母に拝する。葛従周の攻城にあたって、劉鄩はその母を輿に乗せ登城願う。母は葛従周に告げて曰く「劉将軍はわたしに大変良くしてくれました。我が子と変わらぬくらいにしてくださり、また城下に婦人を犯すことを已めさせました。わたしたちが失ったところはありません。劉将軍にもお前にもそれぞれの主があるのです、我が子よそれを察しなさい」葛従周はこれを聞くと歔欷として兵を退いた。劉鄩は城中の老人病人婦人浮浪者をはかってこれをことごとく城外に避難させ、城中においては将士と甘苦をともにし、衣食を分け合い、兵に暴行を禁じ泰然として振る舞った。しかし葛従周の攻囲が始まってすでに久しく、劉鄩は孤立無援、人情ややこの地を去る。ある日、節度副使・王彦温が城を棄てて逃げ、守備の卑者逸ってこれに追従しようとする。劉鄩は守兵にこれを禁ずべからずと言い、人を遣わして王彦温に従容として曰く「副使が少人数で城を出たのは遣者として兵を帯びざるべしと言うことでしたな」といい、また衆に揚言して曰く「もとより副使の行くことを禁じてはいなかったが、長く当地を去られたままではその家族が心配するであろうな」と。守備の民これを聞いてみな戸惑うも、外の軍はこれを聞き知り王彦温に姦心ありと疑い、城下においてこれを戮した。これにより兗州の城内は団結を取り戻す。王師範はの兵力が窮するに及び、葛従周は禍福をもって劉鄩を諭し、面を革め(服従させ)させんとする。劉鄩曰く「青州の本使(王師範)降らば、すなわち城池をもって還し納めん」天復三年十一月、王師範遂に降り、かつ言うにはまず行軍司馬劉鄩、兵を領して兗州に入るが、願わくばその罪を許されんことを、と。劉鄩これを聞き、則ち城を出て命に従う。梁祖その節義を大いに嘉し、以て李英公(李勣)の風ありと。
 劉鄩が降ると、葛従周はともに馬を整え、劉鄩に大梁への帰順を請う。劉鄩曰く「いまだ梁王赦しを捨てず、豪奢な暮らしを約すというなら、あえて命を聞かざる理由なし」。すなわち素服で驢馬に跨がって出かける。まさに入謁におよび、梁祖令して冠帯を賜る。劉鄩曰く「おびただしい罪を負い、拘禁を冀うものではありますが」というも梁祖許さず、慰撫し、且つ酒を飲む。劉鄩はわずかに酒を飲んで梁祖に警告を発するも、梁祖応えて「兗州を取ったのだ、なんの憂いやあらん!」と。翻って劉鄩をもとのまま都押牙となす。梁祖麾下の諸将はみな四鎮の旧将であり、劉鄩は羈旅(籠絡された)の臣であっるのがいきなり衆人の上に立つことになったことから諸将の反感を買ったが、梁祖は彼を甚だ重んじた。まもなく表して鄜州留後となす。
 このとき、邠・岐の衆はしばしば寇族に境を犯された。劉鄩が防備を完備させるに至るも、梁祖はその地の遠さゆえに劉鄩を失うことを慮り、すなわち郡を捨て軍を退いて同州に屯するよう命じた。天佑二年二月、右金五代将軍を授かり、街使に充てられる。三年正月、梁祖は元帥の任を授かり、劉鄩をもって元帥府都押牙、執金吾。開平元年、右金吾上将軍、諸軍馬歩都指揮使。その年明には諸将と潞州を征し、検校司徒に遷る。三年二月、転じて右威衛大将軍、諸軍馬歩都虞侯。五月、改めて左龍武統軍、侍衛親軍馬歩軍都指揮使。
 その年夏、同州の劉知俊が叛き、岐人を引き込んで長安を襲撃、河、潼に兵を分かつ。梁祖は陝に御幸して劉鄩に西討を命じ、劉鄩は奮って潼関を攻め取り、劉知俊の弟劉知浣を擒えて献じ、遂に長安を修復する。劉知俊は郡を捨てて鳳翔に走った。梁祖は劉鄩に佑国、同州軍両使留後を授け、のちまた佑国軍を改めて永平軍、劉鄩を節度使となし、検校司徒、行大安尹、金州管内観察使とする。このとき、西の辺疆まだ安らがず、じわじわと境内を脅かされる。劉鄩は衆を撫して練兵し、独りをもって一面に当らしめる。四年、検校大保、同平章事。庶人・朱友珪が簒奪者となるや検校大傅。乾化三年正月、国難に当って朱友珪より起復視事に命ぜられ、末帝が即位するや甚だ深く重んぜられた。翌年夏、詔により召し帰されて開封尹、鎮南軍節度使。晋人が河朔を侵すや、劉鄩は詔を奉じて魏博節度使・楊師厚とともにこれを退けた。
 九月、徐州節度使・蔣殷が城に拠して叛く。時に朝廷は福王・朱友璋をもって徐州に鎮せしめる予定だったが、蔣殷が交代を受け入れなかったために末帝は劉鄩と鄆州の師・牛存節を遣わしてこれを攻めさせた。蔣殷は淮の夷に救援を求め、偽呉の楊溥が大将・朱瑾に衆を与えて救援に遣わしたが、劉鄩は逆激してこれを撃破。貞明元年春、城は陥ち、蔣殷は一族挙げて焼死。火中から死体を引きずり出し、梟首してもって献じ、詔により検校大尉。
 三月、魏博の楊師厚卒す。朝廷は相、魏の両鎮を分割し、劉鄩に大軍をもって南楽に屯せしめ、もって王鎔を討たせた。魏軍すでにして果たして乱れ、節度使・賀徳倫が擒われ太原に送られた。六月、晋王は魏州に入り、劉鄩は魏県の精兵万人をもって洹水に移した。晋王が来ると予見して、劉鄩は河の間、叢の間に兵を臥せ、晋王至るや大いに兵を繰り出し、囲む事数重、斬獲甚だ多く、晋王はわずかに数騎でかろうじて身を免じた。同月、劉鄩は軍を太原の西・黄沢に潜ませ、まさに晋軍を追い、人を結んで旗に縛り、もってこれを驢馬に負わせ通牒を送る。数日して晋人これを覚り、軍を楽平に至らす。たまたま霖雨長く続き、劉鄩衆を整え師を翻す。魏の臨清、粟を積むところに、劉鄩軍を率いて拠す。たまたまここに晋将・周陽五(周徳威)が幽州から兵を率いて至ったので、劉鄩は貝州を取り、晋軍と堂邑の遭遇戦の末これを撃退、追撃する事北に五十余里、遂に莘県に至る。城塁を増し池隍を深くし、莘から河に至るまで餉道を通す。
 八月、末帝は劉鄩を召して曰く「外旅の事はすべて将軍に一任する。河朔の諸州は一旦没落し、日々患難にて河辺の空き地に退保し久しく闘志なかった。かつて東面の諸侯は奏章し、悉く言うに倉儲の竭え、飛輓の不充足を理由とし、役人の責務とす。役人は事々に捕えられては夙に宵に憂い、我が懐は恐れで盈ちた。将軍は国を休ませ、常に良策を描き、敵の数を聞くに多からずと言えども、設備機械を儲け、もって剪りもって撲ち、すなわち予め不可を予見しすること、先人に類いなし。」劉鄩奏して曰く「わたくしは国の厚恩を受け、かたじけなくもわずかながら政治に携わり、あえて枕を高くせず、ただ節を守り忠を尽くすものであります。過日、西に太原を取らんと欲した時、その帰路を断ってしかる後東に鎮、冀を収め、彼の連携を解くべきでありましたが、二十日にして止み、再び河朔を清めることと相なりました。これはまさに天が乱を望む帰結、国難未だ平らがざるも、ようやく出師の徒あり、時至って軍糧満ち、軍士の傷漸くにして癒え、蒼黄(青くなったり黄色くなったり。病気)は切り開かれん。統括してこれに乗し、部伍これに詢じて皆帰るを欲しすべしと。およそ道のりは毎度犄角を張るも、また敵の餉道を絶たんと欲すれば臨清に拠すべし。ようやく宗城に及ぶも、周楊五援護にいたって騎軍突撃すれば、あたかも鬼神のごとし。わたくしは遂に大軍を領して莘県でかのものを破りましたが、溝を深くし堡塁を高くし、士卒に厳しい訓練を受けさせ、日夜戒厳体勢のもとその進取を伺わねばなりませんでした。営塁を偵視して兵数きわめて少なしと見たからこそ勝ちを制しましたが、樓煩の兵は皆騎射をよくし、最も勍敵、軽々しく謀るべきではありません。しかし、わたくしがもしよろしく時期を得て、あえてもし患難に立ち向かわぬようであれば、わたしくの身体は国より先に天によって裁かれるでしょう。」末帝は遣使を遣わして劉鄩に決勝の策を問い、劉鄩は「わたくしは奇術師ではございません。ただ、十斛の糧の支給があれば、ことごとく敵を破って見せましょう。」末帝は大努して劉鄩に曰く「将軍、米を蓄う。まさに飢餓を癒やすためか、賊を破らんためか?」すなわち使わして督戦に当らせる。劉鄩は諸将校に謀って曰く「主上は禁宮の奥におられて実戦の機微をご存じない。白面の書生たちと共謀しても敗北は目に見えているのだ。大将としての出征にも、君命を受けざる所あり、臨機の変を制せられ、安じて謀を預けられない状況がそれである。今敵人を察するに戦意横溢、軽挙妄動する勿れ。諸君さらにこれを籌るべし。」時に諸将は皆出戦を欲し、劉鄩は黙認していたが、他日、また諸将を軍門に召して列べ、全員に河の水を一器飲ませた。衆みなその意を謀りかね、あるいは飲みあるいは辞した。劉鄩曰く「一器の水に難色を示すようでは、滔々たる河の流れに克つ事、既にあたわず!」衆みな色を失う。数日後、劉鄩は数万人で鎮、定の営に迫り、上下殺戮、殺獲甚だ多し。わずかに遅れて晋軍の援軍が到来したが、退却した。
 二年三月、劉鄩は莘県から軍を引いて魏州を襲い、晋王と胡元城で戦ったが、王師は敗北、劉鄩はかろうじて身を脱し南に奔り、黎陽から河を渉って滑州に逃れた。まもなく滑州節度使を授かり、詔により黎陽に屯す。三年二月、晋王はたてつづけに黎陽を攻め、劉鄩はこれを拒み退けた。衆人が再び朝廷に帰るに及び、再び開封尹を授かり、鎮南軍節度使を領す。同年、河朔の守りを失い、朝廷はそのとがで劉鄩を召喚し、劉鄩は不安からみずからの位を返上すべく上表した。九月、落されて平章事、毫集団練使。淮人が蔡・潁・毫の三郡を侵すと、劉鄩は命を奉じて渡淮、霍丘にいたり、大いに賊を殲滅した。五年、兗州節度使・張万進が叛き、北に晋人と結んだ。末帝はこれの攻撃に劉鄩を充て、劉鄩を兗州按撫制置使とした。この冬、張万進は恐れて逼塞、小将・邢師遇が王師に呼応して潜入し、遂にその城を抜いて張万進を首くくって献じた。十一月、劉鄩は泰寧軍節度使、検校大尉、同平章事に復す。
 六年六月、河東道招討使を授かり、華州の尹晧とともに同州を攻める。これより先、河中の朱友謙が同州を攻め取った際、その息子で留後をなした朱令徳が旄鉞を請い、怒った末帝は劉鄩にこれを撃たせた。その年の九月、晋将・李嗣昭が軍を率いて救援に訪れ、城下での戦いは王師に利なく、兵敗れて河南に奔ったが、浮き橋が落ちて溺死者無算の大敗となった。劉鄩は余衆をもって華州の羅文寨に退いた。これより先、劉鄩と河中の朱友謙の家は姻戚関係となっていたので、王師が西を討つに及んで劉鄩は朱友謙に檄文をもたらし、禍福大計を諭し朱友謙に帰国を誘ったが、朱友謙は従わなかった。これにより軍は数月余停留し、尹晧、段凝らはもとより劉鄩を嫌っていたので、遂にその罪を購うべしと言って劉鄩の逗留先を侵した。兵によって助けられたものの末帝からもその罪然りとされ、兵敗れた後洛に帰り、河南尹・段宗奭から朝廷の密使を受けて深酒し、それが原因で卒した。享年六十四歳、中書令を追贈される。

中国史概論ー五代

皆様、お疲れ様です岩城です。つかれてなどおらん、という方もいらっしゃるでしょうが岩城自身が疲れているのでやはりお疲れ様ですという事で。扇風機の生ぬるい風がかえって気分を悪くすると言うか、しかしつけてないと汗だくだくになるのでつけないわけにもいきません。まあ、今年の夏はなんのかのといって夏バテするほど辛くはない気がしますね。さて、それでは本日は五代史概略。まだ唐朝の名将が残っていますから完全に五代に遷るというわけではありませんが、下準備です。唐朝の時と同様完全なものが出来たという自信は到底ないのですが、一応こういうものを書いておかないと特に初見の方に不親切、ということで恥を忍んで投降します。それでは。

 五代というのはそのものずばり、唐末から宋に至るまでの短期間に交代した五つの政権ですね。正確には五代十国、辺縁に衛星的に存在した十国も含めるのですが、面倒だし長くなるので本稿では中央の五代のみを語ります。ざっとあらましを語ると五代のそれぞれの主役は後梁・後唐・後晋・後漢・後周でして、その年月はすべて数えて907年から959年までの53年、最長の国でも後梁の17年、最短のものは4年でした。いわゆる紛々たる五代の世、というやつでそれにふさわしく乱離が繰り返されたといえるでしょう。もっとも、完全な中央政権というのは確立されず、五代王朝はすべて河南を中心とする北中国の黄河流域に限定されてそのおかげで十国という個性的な衛星国家群が成立したのですが。こういう分裂期ですが文化的レベルが下洛したかというとそういうことはなく、むしろ経済力は養われ十国との交易でより栄え、のちの宋代の基を築いた重要な時代だったと言えます。ただ戦争だけに明け暮れた時代ではなかったということですね。それでは五代それぞれの国家を駆け足で。
【後梁】祖は朱温。朱全忠として有名ですが唐朝の恩顧を踏みにじった挙げ句唐の血脈を悉く絶やした大奸雄ですから全忠と呼ぶ人はまずいません。もと宣武軍節度使で唐朝の国難を救い僖宗から全忠の称を賜り昭宗の時梁王となりましたが、唐朝に宦官跋扈しもはや民をつなぎ止める求心力なしとみるや中原を経略して天下に号令する野心を抱きます。で、904年昭宗を弑し哀宗を立て、907年これに迫って禅譲させ帝位に就きます。このとき名を晃と改めていますが、あまり定着してないですね。そして国号を梁と革め国都を汴に置きます。よって汴梁とも言いますが909年には洛陽に遷ります。しかしこの朱温が政治的にも軍事的にも五代初期の時代をリードしたのは間違いがなく、それは精強無比の沙陀部を率いた李克用ですらも彼と戦って勝ち得なかった事が証明しています。ただし人間性が非道く破綻していて荒淫だったために庶子・朱友珪に弑されて没。この朱友珪もすぐ末帝・朱瑱に弑されます。末帝の治世は11年に及ぶものでしたが戦争を得意とする人物ではなかった。というわけで戦争の申し子のような後唐の李存勗に連戦連敗、最後は人に自分を害せしめて終わりました。宰相・敬翔、名将・王彦章をもっとうまく使いこなせれば、というところだったのですが。
【後唐】祖は李克用。というか李というのは唐から下賜された国姓で本姓は朱邪。突厥沙陀部の出です。朱温が唐を祚したとき群雄中にあってもっとも精強だったのがこの李克用でした。晩年契丹と結んでまで後梁と対峙しましたが特攻を繰り返す李克用の鋭鋒を奸雄朱温はまともに受け止めず、かわし、さばいて搦め手に回り、結果李克用は志果たせず、失意の内に没。しかし息子の李存勗が後を継ぐとすでにこの時期ちょうど、朱温も世を去っているわけです。そして李存勗は世に名高い戦の天才、梁末帝はそれなりの政治手腕はあったようですが戦には凡庸な人物で、後梁を滅ぼしました。まあ、名将周徳威を喪うという損失もあったのですが。ちなみに後梁を滅ぼす以前の国号は晋です。後唐というのは梁を滅ぼして後、唐室復興を目指してつけられた国号ですが、英邁な君主が最後まで英邁である事は珍しく、郭崇轁を蜀に送った辺りから彼も驕慢となり、政は宦官に任せきり、宿将を遠ざけみずからは役者の真似事をして物笑いの種となり、衆人の離反するところとなってまあ、ごたごたあり、殺されるはずではなかったのですが流れ矢に当って没。ついで位を継いだのは明宗李嗣源です。このひとは荘宗李存勗の息子ではなく李克用の仮子ですね。即位当時すでに六十歳。軍の大権を掌握していましたが温厚篤実であり、五代小康の名君として知られます。その後李従厚、李従珂と続きますが大して重要ではないので省くとして、李嗣源の娘が次の後晋、石敬塘の妻でして李従珂と石敬塘は仲が悪かったのですね。それで石敬塘は契丹に援助を求めて汾曲に李従珂を攻め、洛陽まで迫られて李従珂は自刃します。これにて後唐滅亡。4代14年でした。
【後晋】祖は後唐明宗の娘婿・石敬塘。なんですがこの人は後唐政権打倒のために契丹と取引して五万の兵を借り受けたわけです。がしかしそのために契丹に対し臣と称し、燕雲十六州を割譲するという屈辱を味わい、これがのちに遼朝の北宋侵攻の原因となるのですがそんな先の事を見晴るかしてはいなかったでしょうから仕方が無いというもの。942年、石敬塘没。その兄の子石重貴は契丹に心中せず、契丹の太宗に不遜の辞を送りつける真似をしました。これには権臣・景延広らの入れ知恵もあったようですが石重貴は契丹何ほどの事やあらんと考えるようになり、驕りの挙げ句946年、自ら北伐の師を興しました。しかし契丹の大軍大挙南下するに及び諸軍は戦わずして潰走、あるいは降り、後晋は11年にして潰えます。
【後漢】祖は劉知遠。後晋の石敬塘と共に後唐明宗に仕えた武人で石敬塘の晋朝建立に最多の功績を立てましたが、出帝(石重貴)になぜか忌まれ、遠ざけられて他日晋朝を打ち倒す事を心に決めます。946年の契丹南下に際して機を窺い、これが北に帰ったところで大梁に入り、郭威らの勧めによって帝となります。姓が劉氏だから漢という安直な国号ですが、突厥沙陀部の出ですから大漢帝国とはなんの血統的つながりもありません。在位わずか1年にして没。ついで立ったのは息子の隠帝・劉承祐ですが人望薄かったようで李守貞、王景崇、趙思綰らに相次いで叛かれ、郭威がそれを征伐して声望いや増します。劉承祐は讒訴を信じ自らの股肱・楊邠、史肇弘、王章に郭威までも殺そうとし、郭威はこれを知って鄴都に入朝せんとして後漢の兵を破り大梁に入るもすでに劉承祐は乱兵によって殺されていた後であり、声望のあった郭威は推戴されて帝となり周王朝を立てました。郭威としては高祖劉知遠の弟・劉崇の子劉贇を迎立しようとしたのですが、兵士たちの徳望ゆえ劉崇親子は鼻も引っかけられなかったとか。それで劉崇は河東に自立して北漢を立て、以後逆恨み気味に北周を攻撃して苦しめます。
【後周】祖は郭威。この太祖はしばしばの北漢からの侵攻をよく防ぎましたが、三年にして崩じます。しかし後を継いだ世宗・柴栄(郭威の妻の兄柴守礼の息子。郭威の養子)は英邁無比、郭威死後の動乱に乗じ遼と組んで攻め寄せた北漢の軍を高平に破り、以後弱兵を淘汰し強兵を選抜して、これまで五代の君主が思いをいたす事のなかった天下統一の志を抱きます。後蜀を討ち、甘粛と陝西の四省を取り、956年には自ら将となって南唐を伐ち、趙匡胤らに命じて諸将を陥とさせ、958年さらに水軍を使わして後唐主・李璟に帝号を捨てさせ、周を奉せしめると同時、北方を経略せんとして959年、遼を伐ちました。河北諸州を取って瓦橋関以南を悉く回復するものの、幽州で病を得、大寮に戻って後崩じました。世宗は五代まれに見る名君でその軍精鋭であっただけでなく、民政家としても優れ政治・経済・社会制度に対しても優れた見識を持ち、宋朝を通して一貫していた文民統制は彼の発案であると言われます。この偉大な父の後を受けたのは恭帝・柴宗訓ですが、在位一年にして将軍の中でも最有力な趙匡胤に位を譲り、以後時代は宋朝に移ります。趙匡胤は様々な意味で偉大な人物ですが、その最たるものは恩人たる柴家の血筋を宋朝の続く限り保護し続ける事を子孫に対し守り抜かせた事であるかも知れません。

唐ー王忠嗣ー25史新編37巻


 どうも、本来なら一昨日の時点で記事は出来ていたのですが、疲労でアップできず。で、昨日は8月6日と言うことで自粛。なのでこの時間にお届けすることになりました、王忠嗣です。たぶんあんまり知られてない将帥だと思うのですが、紛れもない名将なのでどうかご覧になってくださいませ。ちなみに併伝されていた郭元振は名将は名将なんですが実際に軍を動かして戦うタイプではなくて戦略を立てて実戦は余人に任せるというタイプなので、保留にしました。それではどうぞよろしく。

王忠嗣(おう・ちゅうし。705-749)
 本名は訓、忠嗣とは玄宗より賜った名である。原籍は太原の祁、のち華州鄭県に遷り、故に華州鄭県の人を名乗る。その父・王海賓は太子右衛率、安豊軍使にまでなった。
 開元二年七月、吐蕃が入寇、朝廷は薛訥をもって右羽林将軍、隴右防御使に代え、杜賓客、郭知運、王晙、安思順らを率いさせて敵を防がしめた。このとき王海賓は先鋒となったが、長城堡の一戦で衆寡敵せず、また他の諸将からその功績の大であることを妬まれて孤立、救われず、結果として戦死する。玄宗は王海賓の忠義を哀れみ、左金吾大将軍を追贈した。

 王海賓が死んだとき、王忠嗣はわずかに九歳でしかなかったが、玄宗はこの子供をたいそう寵愛し、名を授け、朝散大夫、尚輦奉御の職を授けて長らく禁中で養った。粛宗がまだ忠王であったころ、王忠嗣と非常に多く交友があった。年齢が高まるにつれて王忠嗣は毅然として寡黙になり、同時に武略に長けるようになって、玄宗と国家の軍事を語らい計るようになる。彼の言葉は常に熟練、はなはだ見識に富み、玄宗は王忠嗣を霍去病の現し身と視て将来かならず良将となると予見したほどである。のちの河西節度使で兵部尚書の蕭崇も、河東副元帥・信安の王?も、みな彼の下で兵馬使を経験した人材であり、蕭崇は作戦勇敢、その功を表して上奏すると玄宗は大いに歓び、右威衛将軍、代北都督に任じ清源県男に封じたほどの人物であった。

 河西節度使・杜希望は吐蕃から新城を取らんと欲し、あるひと曰くこの任に堪えうるは王忠嗣を除いて他になしと。王忠嗣は命を奉じて河西に赴き、速やかに新城を攻め下す。吐蕃はまた報復の兵を興し、新城奪回を欲す。東銀は衆寡敵せずとして畏怖と危惧を惹起したが、王忠嗣は自ら率いるところの部衆のみで馬に鞭を当て前進、吐蕃に猛撃を加え、右に馳せ左に突き、向かうところ敵なく数百人を殺す。唐軍は機に乗じ前面出撃、大いに吐蕃を破った。王忠嗣の戦功は当然ながら卓著なものであり、左金吾将軍、河東節度副使、大同軍使に任ぜられる。開元二十八年には河東節度使に加えて雲麾将軍。その翌年には朔方節度使兼霊州都督。

 天宝元年八月、王忠嗣は命を奉じて北伐、奚怒皆部と桑乾河に戦って三戦三捷、威は漠北を震わした。当時、突厥の中に内部抗争があり、唐は新たに立った烏蘇米施可汗に服属を請うたが烏蘇米施は従わなかったので、王忠嗣は磧口まで出兵して唐軍の威を示し、烏蘇米施は畏れて降るを請うたが行動を持って示さなかったので、王忠嗣はその誠意なしを持って帰るわけには行かぬと突厥抜悉密部およ回?、葛邏録と共同で烏蘇米施を攻めた。烏蘇米施は遠く逃散、王忠嗣は機に乗じて出兵進撃し、俘獲無算を獲て帰る。

 天宝三年八月、突厥の抜悉密が烏蘇米施可汗を攻めて殺し、その首を京師に献じたが、国人は烏蘇米施の弟白眉特勒を白眉可汗として立て、ために突厥はまた大いに乱れた。王忠嗣は命を奉じて出撃し、まず右廂阿波達干ら十一部を破ったが、右廂は下すこと敵わなかった。

 天宝四年二月、王忠嗣はまた河東節度使を兼ねる。彼は少年時代勇敢を持って自負していたが、一個の府に鎮守する大将となって以後は辺疆の安全を持重し、自ままに衆を動かし師を興すこともなく、士卒の傷をねぎらった。彼は常に曰く「国家が平和なときは大将はただその衆を愛護し訓練に注意を払っておれば良い。士卒の力を疲弊させてまで自己の功名を追い求めるにあらず」と、彼はまた巨大な漆塗りの弓を所蔵していたが、これを袋に収めてもっって無用な武力の不要を示した。軍中の士気は旺盛であり、日夜戦いを思っていたが、王忠嗣は軽々に出兵することを誡めた。彼は常に間諜を放って敵情を視察し、十分その状況を掌握してから後、有利な時期を選んで出兵したから戦うごとかならず勝った。朔方から雲中に至るまで、辺疆数千里は要害の地であり、数百里ごとに城堡を置いて土地を拓いた。現地の人々は張人亶から四十年余、王忠嗣こそ最も優れた将領であると認めた。

 天宝五年正月、王忠嗣は河西、隴右節度使兼知朔方、河東節度使とされる。王忠嗣はかくて四つの将印を佩き、軽兵をもって険要の地に並べ、万里に控えさせること唐代にほとんど例がなかった。彼はよくその肩に重任を負い、その軍を収めること完全であり、結果として卓著な戦功を納めた。彼が朔方、河東にあったとき、出戦するごと士卒の武器にそれぞれの名字を刻ませ、武器の遺失を罪に問うた。士卒は奮って戦勝し、自らの武器を惜しんだので、両鎮の軍機は充実して目減りしなかったという。他にも胡馬の商人から軍馬を買い上げる馬がいなくなるほど高値で買い上げ、おかげで唐軍は精強となった。後また彼は河西、隴右節度使となるが、河東、朔方より引き上げる際軍馬九千匹を数え、近隣の防備は非常に強化されていた。青海、積石で大いに吐蕃を破り、また墨離で吐谷渾を大敗させた。

 天宝六年十月、玄宗は吐蕃の石堡城を欲して王忠嗣を使わした。王忠嗣は上書して曰く「石堡は堅固にして吐蕃は国を挙げてここを守っております、もし堅城を攻めれば犠牲数万は必定、これ得失を得ず。ここは兵を休ませ馬を養うに如かず、機を待ってしかして取るべし」この当時、李林甫が王忠嗣の功績の大なることを深く忌み、入朝して宰相となることを畏れたため、これを口実として機に乗じて誣告した。?巧将軍・菫延光が自ら石堡城を取らんと願い出たので、玄宗は王忠嗣に攻城の助勢を命じた。王忠嗣は強いられて服従するほかなかった。

 王忠嗣の部将河西兵馬使・李光弼は上官に「将軍は士卒を愛護するというのに延光は不実。将軍が数万の衆を出したというのに重賞の一つもなく、これでは士気を鼓舞しかねます。将軍の蔵に眠る貨帛甚だ多く、これを振る舞わず数万段の帛を惜しんで余人に罪の口実を与えるは大損というもの。彼はもし戦って敗れれば、必定、将軍の支援不足をもって罪に着せるでありましょうから、あえて財をなげうつべし!」王忠嗣応えて曰く「我は自らの地位や財貨を惜しむものではない、一城の争いでまだ敵を制するを得ずとも、国に害なかりせば、我が一官を数万人の命と引き替えて惜しむところなし!」李光弼は王忠嗣の人格の高潔を思って賞賛した。

 果たして敵に謀るべき所なく、菫延光は石堡城を抜けず、上訴して王忠嗣の尽力不足、非協力を訴えた。李林甫は密かに人を遣わし「忠嗣はかつて宮中で養われ、太子に奉じられんことを望むと云っております」と誣告させた。これに対し玄宗の怒るまいことか、王忠嗣を京師に召し、三司に諮問させ危うく殺さんとした。幸いに対し当時玄宗の寵愛強かった哥舒翰が申し上げて王忠嗣の官爵をもって罪を購わせるよう口を極めたので、漸くにして玄宗の怒りはやや静まったが、十一月、王忠嗣は漢陽太守に貶しめられる。天宝七年、漢東郡太守。天宝八年卒。享年四十五歳。石堡城攻略は哥舒翰に引き継がれ、これを抜く。哥舒翰は自分の功績は王忠嗣の言に従ったものであるといい、王忠嗣は死してなお当世の名将であると讃えられた。宝応元年、兵部尚書を追贈される。

 

ローマーベリサリウスー第三回(BattleField版)

本日中の三部作完結は不可能、と思ったのですが、いやー、やればできるものでした。頭が痛いのなんのって、これ終わったらちょっと早いですが、薬飲んで寝ます。それにしてもベリサリウスはどえらい男と言うほかないですね。何処がよいかと言われればその忠誠心の厚さにとどめを刺します。ユスティニアヌスからほとんどいびりみたいな状況で戦線に送られて、帰ってきて本当に罷免されて、それでも忠義の心を忘れず10年以上の後、彼は数百人で8000人だったかの蛮軍からユスティニアヌスを守るのです。尋常ではないこの忠義こそがベリサリウスの魅力である、と岩城は考えます。当然将才が当世に冠絶していたということがなければ名を残すこと自体なかったわけで、前提条件ですが。
それではラスト、よろしくお願いします。

ローマ攻囲戦-The Siege of Rome
 ユスティニアヌスはベリサリウスを536年、4000余名のビザンツ兵とフォデラーリ(非正規兵、傭兵)、3000のイサウリア兵と200のフン族騎兵と300のムーア人、それにベリサリウス自身のブセラーリ(正規のエリート護衛官)と一緒にシシリーに送った。

 この小部隊がイタリアのすべてを征服しゴート族の境界を脅かすためにユスティニアヌスが動員した兵力のほとんどすべてであった。ムンダスにはイリリクムで(東アドリア海沿岸沿いをやってくる)ビザンツ軍に呼応してダルマティアを侵略する命が与えられた。

これら二つの軍隊はフランク人とガリア人とゴート人、三者の同盟に脅威を与えた。それはゴートの国王の心に恐れと衝撃を植え付けるに十分であった。ベリサリウスのシシリー早期奪取は彼らをパニックに陥らせた。ギボンはテオダハットについて「英雄競争からは脱落した人物であった。彼は芸術の擁護者であり、戦争の危険を嫌った」と描く。

 彼は急ぎユスティニアヌスに公使を送り、和平交渉に入ると、彼の王権の保持が認められるならイタリアは帝国に盲従する用意があると条約に署名した。ついで突きつけられた条約は巨額の年金と引き替えに引退することであり、ユスティニアヌスはテオダハットに王位を許さず退位を強要した。テオダハットはやむなくこれにも同意したが、ダルマティアに進軍してくるビザンツ軍が敗北したのを知ると態度を一変させ、退位を拒否した。

 彼は出来うることなら財産をもって逃走すべきであった。しかしその代わり、彼はフランク人たちにたっぷりわいろを送って、今行使すべきは唯一軍隊のみと主張した。536年春、ベリサリウスはまだシシリー征服を成していなかったが、しかしその間カルタゴに迅速な懲罰の一撃を加えていた。パレルモの小さな駐屯基地を去り、そして北方に軍を進めた。彼の最初の対戦相手はナポリ市であった。ナポリ市民はベリサリウスと交渉を望んだが、彼らはローマ人とゴート人のどちらにつくべきか計りかねていた。ゴート族はすでに何十年とイタリアを支配しており、そしてほととんどイタリア人の慣習に干渉しなかったから彼らが悩むのも無理からぬ事ではあった。

 他方、ビザンツ帝国軍はゴート族よりローマ的と言うよりギリシア的に誇張され、本当の意味で市民の安全を守ることに興味が無かった。ナポリ人はベリサリウスにナポリを避けローマに向かって前進するよう提案した。しかしベリサリウスは大都市でありゴートの駐屯地でもあるナポリを素通りすることが出来なかった。ベリサリウスは麾下の兵に攻囲戦を命じたが、20日間の間時間と費用を空費した。しかし最終的に年への隠し通路が発見されて、ナポリは陥落した。

 彼は駐留部隊を置いて前進した。ローマに進軍したのはおそらく5000人程度だったと思われる。ナポリが失われ、そしてダルマティアが再び攻撃を受けたという報せに、テオダハットは逃走した。

 ゴート人はテオダハットの利己主義とうろたえぶりに驚かなかった。もとより多くを期待していなかったからである。536年11月、ゴートの戦士の集団がテオダハットを王位から退かせた。彼以外に王室関係者はいなかったから、ウィチゲスと言う名の、若干の経験を積んだ軍人が選ばれて即位を宣言した。ふりかえってみればもっとよい選択があったはずだが、しかしウィチゲスは選ばれ、テオダハットの治績の上に改良を加えた。

 ウィチゲスは聡明であり、軍人というよりむしろスマートな政治家的行動を取った。彼はローマに4000人の駐留部隊を残すと、首都ラヴェンナに残余の軍を移した。そして彼は彼の王位の正当性のためにテオドリックの孫娘、マタスンタと強制的に結婚した。一方、ローマは取るべき手を変えていた。ナポリの二の舞を怖れたローマ市民は、永遠の都の市門をベリサリウスの前に開いた。536年12月9日のことである。

 現地の応援を失い、ゴート族の兵は逃げ出した。しかしながら、ローマ市民は彼らのかつての管理人(東ローマ、あるいはビザンツ帝国)の到来に対して熱狂的ではなかった。マハン卿が記述するように「臆病はすべてを雄弁に物語る。彼らの代表者は膨大な市壁の維持管理について不可能であると、ベリサリウスにローマの要塞化計画を思いとどまらせるよう説得した。彼らは内陸の都地を保つには海洋からの補給無しでは限界があり、そして現在のローマ市のレベルを見るに自然の防衛的アドバンテージがなく、防衛には向かないと力説した」

 ベリサリウスは真摯に受け止めたが、要塞化を止めることはなかった。市壁を復元させ、穀倉地帯のシシリーの現地民に、船で収穫物を輸送させるよう義務づけた。若干の守備隊が置かれ、あるいはゴート族が無防備なまま去って行った都市から兵と物資を集めて、南方および東方の田舎方面にばらまいた。彼は同時に、ウィチゲスの行軍を遅らせるべく北方の要塞に兵を送った。ウィチゲスは道中にあってダルマティアのビザンツ軍と拮抗していたが、ベリサリウスの軍の規模の小ささに勇気づけられ、彼はローマ攻撃を決め、ローマに猛進した。ベリサリウスが先だって北に送っていた軍隊はローマに逃げ戻るか、あるいはゴート族の軍隊から隔絶するために彼ら自身を要塞内に封鎖するかした。プロコピウスに因ればゴート族の兵は150000人であったというが、これはさすがに誇張であろう。現代史家のほとんどはこの数字を支持していない。一桁落として15000が現実的な数字に思われる。アーネスト・デュプイとトレヴァー・デュプイは50000人説を主張するが、どちらにせよベリサリウスに対して圧倒的に大軍であったと言えば十分である。しかしながら、ゴート族の数はその全体量に比して比較的少なかった。なぜなら彼らは市の北半分を包囲しただけであったからである。スポレントとナルニおよびペルージャを掌握することにより、ベリサリウスはウィチゲスにローマに殺到せざるをえないよう強制した。ベリサリウスはただ単に堀を深くするだけでなく、外堀をも掘って的を待ち構えた。また彼はゴート族が渡ってくるであろう橋を防衛するため、塔を建てて弓手を置いた。

 この橋は一般にミリヴァン橋だと記述されるが、もしかするとこれは今日テベロンとして知られるアニオ川内側のもう一つの橋であったかも知れない。プロコピウスは二つの川を両方記述している。要塞は橋を守るのに十分すぎる堅牢を誇ったが、しかしディフェンダーたちの精神は不屈たり得ず、彼らは戦うよりむしろ急いで逃げた。そして数日間の間に必要な準備が失われた。戦闘は予想より早く起り、要塞橋が危うく陥落しかけたので、ベリサリウスは1000人の騎兵隊を偵察と哨戒に繰り出した。彼らはゴート族の軍容に驚き、そして過酷な戦術的撤退を繰り広げた。要塞を放棄した裏切り者の一人が、ベリサリウスは際だって白い馬に乗っていることをゴートの兵に教えた。

 それはゴート兵にとって巨大な栄光を勝ち取るための情報であり、彼らの軍の大半がローマの指揮官(ベリサリウス)に向けられた。ベリサリウスと彼のブセラーリは激しい乱闘のるつぼに叩き込まれた。彼らは市門に向かって後退したが、市門は閉鎖されていた。ベリサリウスは死んだという噂が広がり、市民は彼を見捨てた。やむにやまれぬ状況に直面して、ベリサリウスは意外な行動に出た。彼は突撃命令を下した。方向転換はきわめて唐突で、そして野蛮なほど暴力的であったから、ゴート族は新たな増援が門内から投入されたに違いないと思い込んだ。彼らは怖れてキャンプに引っ込み、生き残ったローマ人と彼らの指揮官はようやくにして市内に撤退を果たした。

ウィチゲスは使者を送ってローマ市民に裏切りを促し、ベリサリウスとビザンツ軍をしつこく悩まし、しかるのち攻囲戦の開始を命じる。ゴート族はそれぞれ少なくとも一つの門を塞ぐように配置され、戦線をティベレ川の東の土手いっぱい、ポルタとフラミニア周辺まで広げて、ティブルトゥーナとプラエナスティーナの最も東の門まで、6つの野営地を築いた。

のち、彼らはティベレ川の西、ヴァチカンの丘にほど近いネロ大学の上に備えを置く。プロコピウスが書くには「ゴート族は彼らすべての野営地に深く穴を掘り、地上に胎土を山盛りにした。そして彼らは彼らの溝の中から外に向けて非常に高い土手を作り、先端の鋭く尖った危険な巨木を並べた。彼らはそれをすべての野営地で行い、劣った要塞を強化する方法とした」と。

 ウィチゲスは同時に年に水源を供給する水道橋を破壊するよう命じた。防衛するローマ側にとって、ティベレ川と井戸からはまだ水を引き出すことが可能であり、水は充足していたが、水道橋への流水は弱まり脱穀工場としての力を失いつつあった。それゆえにティベレ川が新しい脱穀工場となり、穀物あるかぎり脱穀を続けた。この間ベリサリウスはそれぞれの市門に兵を配し、市民の中から兵を募って彼の軍中に階級を設けた。わずかな、もっと先進的なローマ人は、自ら危険に対する防備の任についた。

 彼はそれぞれの門の指揮官に市内におけるあらゆる地域での報告を無視するよう命じた。それらの報告は兵士たちの立場を危険にさらし、また噂以外の何物でも無い可能性もあったから、士卒を援護するため継続的にに必要な措置だった。

 都市から不満故に脱走する兵が出てたのをみて、これに情報を得たウィチゲスはビザンツ側に公使を送った。要求はローマ市内におけるゴート族の交通安全の保証であったが、ベリサリウスの態度は素っ気なかった。彼は使者の来訪を予測していた。「貴公とその兵はいずれ薊(ヨーロッパでは門前に植える。故に門前の意)に隠れるのを望むようになるであろうが、しかしいかに上手く隠れても我々は貴公を見つけ出すであろう。そして貴公らの誰もが日の出に希望を見いだす前に、ローマは貴公らを蹉跌させ、裁くであろう。ベリサリウス健在であるかぎり、この町を放棄することはいつまで経ってもあり得ない」

 ウィチゲスはしかし堅い攻囲の決意をもって、襲撃のための武器を構築しはじめた。攻囲開始から三週間で彼の突撃兵器、車輪つきの防護された塔は、羊を虐殺するかのようにローマを滅多打ちにした。ウィチゲスはさらに同時に大量の梯子をまとめて溝を埋め、一気に渡らせるべく下知した。ベリサリウスはこのとき、ウィチゲスの活発な行動同様、彼自身の不可欠な作戦のために時間を割いていた。

市壁前方に置かれた多くのバリスタ(据え付け式の大型の弩)とカタパルト(投石機)が発射された。しかし弓矢やボルトが装甲を貫通するためには、有効射程の2倍の距離があった。市壁の内側にはさらに追加の装甲があり、市の底部にはよりあわされたロープがねじられ、混み合わされて、地位ある将官に守られていた。彼らはこれを後方および下方の相反する方向に引くことで岩を射出することが出来、常に高く遠く岩を発射することが出来た(後世の投石機は旋回軸とおもりを釣り合わせ様々のアクションによってようやく発射されたが、この原始的な投石機は取り回しが容易あった)。投石のタイミングは精妙であり、敵に大損害を与えることはともかくバリスタを破壊した。バリスタを破壊されたウィチゲスは3月21日、新たな彼の武具を持ち出した。

ディフェンダーの多く(主に文民)は恐怖していた。しかしベリサリウスは笑い、彼らにユーモアを示す余裕すら見せた。彼は射手に彼が号令するまで射撃を待たせ、充分に引きつけてから射たせた。ベリサリウスの指揮下で矢は羊に襲いかかる雄牛のように圧倒的に命中した。それから彼は自ら矢を放ち、一撃の下にゴート族の士官ののど笛を貫いた。さらにもう一矢を放ち、同一の結果を後に続かせた。

 続けて、大量の矢が進軍してくる敵に飛んでいったベリサリウスは彼に近接した射手に、砲火を雄牛のごとく集中させるよう命じた。そして同時に、市壁遠くの羊たちを逃さず釘付けにするようにした。

 ウィチゲスが軍を射手の後方に隠し絶え間ない砲火から身を守るよう命令を下したとき、ベリサリウスはポルタ・パラエンスティナと呼ばれる市門からの攻撃を指揮した。その間に、第三の力がネロ平原から皇帝ハドリアヌスの墓地を超えて攻撃を加えた。

 そこの市壁はベリサリウスが既に格別にしていたほど堅牢であり、ここからの攻撃はありえないと思われた。だが墓地をガードする小部隊がポルタ・コルネリアに抜け目なく布陣していた。ゴート人は大きな盾で矢から身を守り、市壁を強襲して梯子を登ることで、まもなくここを占拠した。

 しかしディフェンダーたちは彼ら自身をゴート族の前進に身をさらす前にこれを打ち落とした。彼らは周囲を見渡して墓の周りに転がる大理石の像に気づき、これを砕いてブロックにし投げつけた。まもなく彼らは全員市壁を離れ、ゴート族にブロックの放火を喰らわせた。

 突撃から市を守った一握りのディフェンダーに対してベリサリウスは悪意のない皮肉をかけると、命令を下し、各市門を開いてしばらくの間ゴート族を攻撃し打ち散らかした。逃げ遅れ見捨てられた彼らがローマのキャンプに逆襲の突撃を仕掛けてくると、「ベリサリウスはその闘志を焼却して根絶やしにするという命令を下した。炎はうずたかく上昇し、敵に巨大な驚きと失望を与えた」とプロコピウスは描く。「その日はまさにローマ攻囲戦における退屈で怠惰な封鎖からの急転、ゴートの喪失と驚きの始まりであった」とギボンは描く。

この時点においてベリサリウスはユスティニアヌスに増援要請の手紙を送った。しばらくの、彼を飾った成功の間に、彼が今後勝利を勝ち得続けたとしたらどうなるであろうか、とベリサリウスは皇帝に対して婉曲に若干のプレッシャーをかけた。彼はユスティニアヌスに「ローマ史上未だ嘗て、何万の兵を以てしても一度たりと不可能であったことを私が成したことを思い起こしください。また、今現在ローマ人はビザンツに向かって気前よく振る舞っておりますが、しかし彼らの問題がさらに長期化したとき、彼らは自身にとってよりよい道を選び取るのをためらわないであろうことをご存念ください。 そしていかに統御しても、いつかローマ市民は私をこの市から追い出すでしょう。私は陛下にベリサリウスが終わりを全うせずして陛下のご威光を穢さぬよう請願いたします」

 この手紙を受け取るやいなや、ユスティニアヌスは応答して増援軍を送った。しかし彼が送った増援軍はギリシアで悪天候によって行動を妨げられ、現地で冬を越すことを義務づけられた。この時点でベリサリウスはローマから副次的人員をナポリに送った。おそらく彼は彼の補給線を伸ばすべく急いで命令を下したと思われる。幸運なことに、彼らが南方に逃れたとき攻撃を受けることはなかった。彼は同様にムーア人の兵を送り、彼らに護衛させて食糧の供給を補い続けた。このときゴート族は自軍のキャンプに見張りを立てる以外、何もしなかった。

 ムーア兵は補給を行うと同時に、ゴート族のパトロール兵を待ち伏せ、襲撃した。これは食糧の供給以外、直接ゴート族に打撃を与えることで、ローマの士気を高めるのに一役買った。ウィチゲスはこれに対して大軍を持ってポートゥスの町と港を攻撃し、籠城軍に訪れるはずだった海路からの援軍を否定した。ベリサリウスは港の敗北の重要であることを理解していたが、ただ彼の手元にはそれをカバーリングするだけの人的資源が存在しなかった。

 ベリサリウスの手が届く最も近い港はアンティウムで、南方に一日の距離だった。ゴート族がポートゥスを得た3週間後、再度の攻囲が開始される前にコンスタンティノープルから緊急派遣された1600人の援軍(騎兵)をベリサリウスが受け入れたのはここからである。そして余剰人員を手に入れたベリサリウスは、彼の兵に怠けることを許さなかった。彼は騎兵隊を郊外の丘に送った。ゴート族の過半が彼らに突撃しようと集結したとき、ビザンツの軍は遠距離から矢を放ち、大ダメージをゴートのアタッカーに与えた。プロコピウスが書くに「彼らは密集する人だかりの中で詐に落ちた。彼らの最も成功したものですら兵や馬にぶつからないことはなかった」。騎兵隊は矢を使い果たすと、市門に登って追撃を避けた。「敵は要塞化された都市に近づいた。ローマの兵士たちは矢をもって彼らを射た。蛮族は怯え、追撃を断念した」

 これらすべての要員が、一般市民に攻撃の参加を促した。彼らはベリサリウスに戦闘への参加を懇願した。プロコピウスが語るに、ベリサリウスは最終的に懇願に対して態度を軟化させた。それは彼が経たペルシアとのカリニクムの戦いに比べてよい判断であった。大惨事であるのはカリニクムと同様であったが、それは敵にとってであった。彼の騎兵隊の迅速な成功と共に、ベリサリウスは文民兵に密集陣形方陣-ファランクスを組ませてゴート族をネロの平原で圧倒させた。

 不運にも、市民にとってキャンプの戦利品漁りが敵を追撃する以上に興味深かったので、ゴート族は兵力を再編して、そしてキャンプを取り戻してしまった。訓練されていない文民兵は戦利品のすべてを投げ捨てて都市に逃げたが、市門はゴート兵と激戦を繰り広げる友軍によって閉ざされていた。ベリサリウスと彼の騎兵隊は苦境を脱したが、戦いは引き分けよりややよい、あるいはなんとでも言える結果で終わった。夏、公使が兵に支払う俸給をもってコンスタンティノープルから到着した。

衛兵が町の南から到着した俸給を護衛している間、ベリサリウスは2つの北門から牽制攻撃を仕掛けた。それは一時的に都市の士気を上げたが、しかしまもなく市民は不平を上げるようになった。ベリサリウスにとって尽くしうるベストは援軍が途上まで来ているという約束を信じるのみであったが、それが訪れる気配はなかなか無かった。

 秋、彼はより多くの軍卒を手に入れるため、ナポリにプロコピウスと、そして船と食糧を手に入れるために野心的だが有能な妻アントニーナを送った。一方で彼はゴート族が自軍同様に食糧難にあえいでいることに望みをかけた。ベリサリウスはゴート族の補給車両に強襲をかけ、そして町の境界沿いで彼らを脅迫した。

 敵の補給路をインターセプトすることによって、彼は単にローマの状況を軽減するだけでなく「蛮族は彼らが思っているようにローマに押し寄せているのではなく、むしろ責め返されているように思われる」状況を作った。確かに、約束された援軍は到来した。3000人のイサウリア兵と800人のトラキア兵、そして1000人のビザンツ兵(すべて騎兵)である。それに加えてプロコピウスがかき集めてきた500人の兵士。アントニーナは艦隊と大型穀物店を押さえていた。補給部隊と騎兵隊は、ゴート族が占拠しているポントゥス港を避け、ティベレ川の向こうオスティアの港から、ローマに出発した。これが538年2月下旬あるいは3月上旬のことである。兵士と補給隊の双方がほぼ匹敵していることに学んで、ベリサリウスはひとつの有名な陽動作戦を発令した。

 攻囲戦のあいだ中、ポルタ・フラミニアの市壁は石壁でふさがれていたが、ベリサリウスはここがゴート族のキャンプからの襲撃によって突破されないためにさらなる防備を行った。3月のある夜、門が通行可能になるまで、彼は取り除かれた石で門を塞ぎつづけ、まずまず満足した。翌朝、彼は千人の兵に命じてポルタ・ピンキアニア、ポルタ・フラミニアに向かわせた。彼らは最も近いゴートのキャンプに攻撃を命ぜられ、そして逆襲を受けると「自由に」逃げることを命ぜられた。彼らは命ぜられたとおりにした。ゴート族は激しく追撃したが、ベリサリウスは別軍に命じてポルタ・フラミニアを押し分けてゴート族の後背に出、背面攻撃させた。それに続くゴート族の混乱たるや甚大であり、ボルタ・ピンシアニアから現れる新たな部隊に追い立てられ、合算により恐慌はローマ軍によって増大させられた。

生き延びたわずかなゴート兵が彼らのキャンプに逃れ、そして以降出撃をためらった。これはローマ防衛の成功裏の終わりを齎した。ウィチゲスは食糧と物資の通過の自由および都市の強化を認め、三ヶ月の停戦を申し入れた。よりゴート族の陣地奥深くに攻め入ることを命ぜられたベリサリウスはゴート族をしつこく悩まし、最終的にウィチゲスは攻囲を断念してラヴェンナ防備のために逃走した。ベリサリウスは彼の時代における最優秀の野戦司令官であり、厳しい戦況における熟練の守り手であった。ローマ攻囲戦はほとんど単調なところがなく、そしてこの戦闘が彼のキャリアの最高潮であったことはほとんど衆目の一致するところである。

実際、ベリサリウスの行いのすべては正しいことのように思われた。彼は都市の市壁を修築し、そして彼の戦争のための武力を置き据えるとゴート族到着までの三ヶ月を過ごした。ゴート族はただ都市の片側に野営することにより、ベリサリウスに一面作戦を許した。彼は地元の兵を軍に混成させ、文民に兵士を見晴らせることで安全を拡大した。おかげで裏切りが出たとしても攻囲軍と共謀して都市を脅威に陥れるような重大な試みは行われなかった。

さらなる安全策としてベリサリウスは、ムーア人に市壁の外で騙されやすいゴート人を待ち伏せるようパトロールさせた。ベリサリウスはその間長らく攻囲からの防備に正確な判断を下し、それを維持し続けた。防衛における最強の局面はその行動性であり、ベリサリウスは敵が都市を攻撃したよりもなおいっそう、敵に攻撃をしかけた。この強襲と偽装退却はくりかえしおこなわれた。ローマの成功は文民の軍事投入だけではなかった。攻撃を受けるとき、困窮したとき、ベリサリウスは兵たちを市壁の各所に素早く移動させることが可能だったし、そしてその配置変換の権を自身の手に掌握することによって、彼は軍隊の団結を維持した。最終的に、ベリサリウスは波状突撃、あるいは市壁上からの矢の一斉掃射の前に敵を誘い込み、伏兵攻撃によってゴート族の戦力をほぼ潰滅させたわけだが、これは彼がいつも見せた戦術的柔軟性であった。

ベリサリウスの統率力-Belisarius’s Generalship
 彼の軍隊は非常にけちでしかも猜疑深い皇帝ユスティニアヌスによって掣肘されたから、常に、ベリサリウスは寡兵であった。そして彼は彼が行ったほぼすべての戦いで勝利し、勝つ度毎に指揮する兵力は減っていった(ダラの戦いで25000、アフリカ遠征で15000、イタリア遠征に至っては7500)。ダラの戦いで彼は両翼に充分なディフェンダーを置いたが、両翼中心に機動力に富むフン族騎兵を置くことを忘れず、彼らを決定的攻撃力として使った。

 ローマで、彼は人的資源を市門に集め、そして攻撃を受けている間だけ市壁に沿って軍を広げた。彼の歩兵弓手は壁に並んで配置されることが出来た。この戦術の最も素晴らしい点は、ベリサリウスが消耗を避けて彼の守備的軍隊に複合縦列を命じたこと、そしてゴートの国許からの補給線を断絶させたことにある。彼はこのように敵の注意の焦点を町から遠く離し、あるいは自身出陣して補助を為し敵の食糧供給を断たせた。彼は少数の騎兵隊を丘上に配置してゴート族を引き寄せ、そして矢の集中砲火によって攻撃したが、これは彼が苦しめられたよりずっと多くの死傷者を敵に与えた。

 彼が市外での戦闘に一般市民を含めたとき、彼のこの唯一と言っていい行動原則は破られた。それでもその日の戦いで、妨害を受けながらも敵に大難を与えることができた。ベリサリウスの、指揮を行き渡らせる熟達の、そして最も模範的な手腕は、ローマ攻囲戦で迅速に発揮された。敵の侵入に伴い虚偽報告が広まると、ベリサリウスは分遣隊をそれぞれのポイントに配してそのような報告を無視するよう命じて対応した。彼は彼の副官たちが自分の利権を点から点へと移動させ、権益を私にしたことは彼自身の責任であると自ら認め、弁解しなかった。

 すべて攻守に備えて計画を立てることはベリサリウスの後天的にして最も優れた才能であった。ダラの戦いの時点で彼は既に指揮統率のスペシャリストであったが、ただなぜかプロコピウスがヘルモゲネスに言及していることから、当時のベリサリウスがまだ若い男であっただけにヘルモゲネスの統制下にあったと推測できる。

 彼は彼の能力から提案能力を示した。彼はこのヘルリ人の指揮官の発案に対し、彼の兵力を丘の後ろに置きペルシア騎兵の後方をカバーしてアドバンテージを得るという作戦を献策したが、不運にも入れられなかなかった。

 そして彼の二つの敗北は彼自身の規範・原則を行使することの出来なかったときに限られた。カリニクムを経てそしてローマの大規模な戦闘で、プロコピウスはベリサリウスという屈服を知らないすぐれた判断力が、以前の軍人重視から文民重視に変わったという。

 柔軟な精神は確かに美徳であった。指揮官が作戦を知り、しかるのち彼の兵士たちあるいは部下が何を考えるか、それを汲み取って兵たちの満足を満たす命令を与える指揮官は希有であった。ビザンツ帝国からペルシア人を追い出すのは彼の役割であったが、カリニクムに戦略的撤退した挙げ句、自発的にここに敵を引き込んだのは全く無用のことであった(しかしそれは兵士たちの闘争心の満足を満たすためには必要であったが)。ローマにあってベリサリウスが用いた作戦は、最小限の人的労力で大軍からローマ市を守るため、市壁を占拠し、そして巨大だが洗練されていない地元軍に士気と目的意識の優位というわずかなアドバンテージをもって戦うことであった。どちらのケースにおいても、ベリサリウスは当時の指揮の原則を無視して、大損害覚悟で事を行っている。それは(北アフリカでの彼の初勝利同様)、論じられた戦闘の双方にそれを制御する彼自身の能力が加味された結果の勝利であった。ダラでは優位な軍隊に対する両側面の騎兵伏撃、ローマではウィチゲスが繰り出した無数の攻撃の手を上回る防御手段で、彼は戦場をコントロールした。

彼は彼ら(ゴート族)を勝算のない状況に強制的に追い込むことによって、首尾一貫してゴート族を不利に置いた。市壁に対する執拗なゴート族の襲撃の間に、彼は多角的なポイントから攻撃に立ち向かうための人的資源を整えただけでなく、敵軍が後退を始めるとそれを追撃して、彼らの包囲攻撃機構を破壊するためにゴート族を何処までも追求した。これらの行動は常に、素早く顕著な打撃と、そして迅速な撤退の両輪により、つねに敵に面して正面の門から行われた。これを試みるとき、ベリサリウスは常にゴート族の騎兵隊を矢嵐の中に引きずり込む術策を用意しており、比較的少勢の騎兵隊は全く潰滅させられた。夜間の市門の無防備に対して公文書を発布し取り締まりを強化してその保全を強めただけでなく、大いに必要であるところの食料の輸入を成功させ、そしてゴート族を彼ら自身のキャンプに釘付けにした。

戦略的に、「敵の供給ラインをしつこく悩まし擾乱して、そして敵の町を攻撃する騎兵隊を派遣」する彼の術策は攻め立てられる攻囲者たちに非常に大きな不快感を呼び起こした。バジル・リデル・ハート曰く「ディフェンダーの緊張は激しかったけれども、包囲兵にとっての緊張は時として病気を起こし、命を縮めるほどであった。ベリサリウスは大胆にも包囲兵が供給を受ける道路を不意打ちし、ティボリとテラシナという二つの町を掌握して、彼の脆弱な勢力から2つの分遣隊を発する危険を冒した」

攻囲戦における主要なミス、というより、ベリサリウスの秀逸な点であるが、民間兵と一緒の時でさえ、ベリサリウスと彼の騎兵隊は速戦と即時撤退を可能とし、勝れた防衛能力により市民にほとんど損害を出さなかった。リデル・ハートはベリサリウスを防衛的攻撃戦術の練達と評し、「ベリサリウスは、彼が彼の戦術に敵したコンディションで、至当な兵力で戦う事を許されるのなら、より多く、より優れた相手を打ち破れたかも知れない。それほどに彼の戦術スタイルは当時斬新であり効果的であった。ただし、その大胆な戦術目標に対して彼には弱点があった。それは兵力という資産の欠如であった」という。

したがって、ベリサリウスの進歩的な戦略性は彼の敵の反応から引き起こされるものであった。戦場の上で次に敵がミスをするか、あるいは後退を始めるまで、彼は防御態勢を取るであろう。何世紀も後になってクラウゼヴィッツはこの原則を再び引用している。すなわち「ディフェンダーが重要性とアドバンテージを増した。実際の防御がその役割…攻撃を受け止めた瞬間に、攻撃ー報復の剣をひらめかせる-に唐突かつパワフルに移行する、それこそがディフェンダーの最も素晴らしい役割である」と。

 ベリサリウスは彼の兵とその武装の強弱を熟知し、そしてそれを彼の対抗者の弱点を撃つために最大限利用した。これはローマで最も能く見られたが、ここで彼の馬弓手たちは槍と剣だけの武装のゴート人の重装騎兵隊を射撃によって打ち負かした。しかしながら彼らは、必要とあればうち捨てられた川の要塞の攻囲戦のはじめにそうしたように、一歩も引かずに白兵戦で戦うこともできた。戦闘の中心における彼の個人的指導力は、常に十二分に計算されていた。多くの兵を行動に入らせる前に、彼は状況判断に十分な時間を費やした。ベリサリウスはそういう意味で詐謀の練達であると言える。

 彼のキャリアが進行していくにつれて、敵を騙す詐術は彼の作戦計画で重要性を増した。ダラとその周辺で彼が塹壕をフル活用したことと、
ペルシア人の騎兵を分裂させたこと。彼は若い指揮官たちのために偉大な素質の萌芽を求めたが、彼らがベリサリウスから受け継いだのはベリサリウスが敵から学んだ技術に留まり、出藍の誉れが出ることはなかった。彼は一貫してゴート人を嫌い、待ち伏せとフェイントと電撃的一撃によってローマから遠ざけた。ベリサリウスの戦術的詐術は彼の知性と想像力の賜物だった。

 ローマ攻囲戦ののち、ベリサリウスはラヴェンナまでずっとイタリア半島を掃き清め、有名なところではユスティニアヌスの寵臣ナルセスの軍事を手伝った。ナルセスは540年ゴート族の降服を受け入れて“永遠の平和”を結んだ。ベリサリウスがイタリアを去った後のことである。ベリサリウスはその後ペルシア戦線に投入されてホスローとの散発的な戦闘に着実に勝ち星を上げ、544年、ゴートの蜂起に対する鎮圧のためイタリアに戻った。彼がラヴェンナを包囲すると、ゴート族はローマ皇帝よりむしろベリサリウスに王位を譲らんと申し入れた。

 ベリサリウスは市内に入るまで申し出を受けるポーズを取り、そしてウィチゲスと対面するや彼を捕虜とてユスティニアヌスと帝国の名の下に降伏調印書に署名させた。この申し出とそれに対する駆け引きは、しかしながらユスティニアヌスの妄執癖を喚起するのに充分だった。548年、ベリサリウスはコンスタンティノープルに呼び戻された。

 その後ベリサリウスは不名誉の内に強制退職させられる。が、彼は559年、皇帝と首府がフン族に脅かされたときにこれを救い得た唯一の将官であった。もはや老境の身で、彼は8000の敵を相手に数百人を率いて、そしてほとんど奇跡的な勝利を勝ち得た。

 多くの名将と言われる人がそうであるように、ベリサリウスも彼の対抗者の能力(の欠如)に恵まれていた。それでも、彼の最小の力で最大の戦果をあげての連戦連勝に関して、あら探しをすることは難しい。最先端の戦術の根幹が全身鎧に移ろうかという時期に、彼の軍は軽装であった。命令は簡潔だが作戦は繋がる糸のように連綿として、千変万化に敵将と敵軍を破らないことはなかった。はたして史上何人の指揮官がこれだれの業績を上げ、そして軍中に徳目を必要としただろうか?

ローマーベリサリウスー第二回(BattleField版)

連投です。ベリサリウス第二回。ダラの戦いの顛末とゴート戦争開戦の理由というか原因というか、そこまでです。次回第三回で終了、今日中に文書チェックが終わればそこまでやりますが、果たして終わるかどうか。とりあえずアップできた分までお読みください。それではまた続きをやりたいと思います・・・いやホントは休息せにゃならんのですけどね。

ダラの戦い-The Battle of Dara-
 ベリサリウスはダラにおいて25000の兵を率いた。そしておそらくその三分の一は騎兵であった。兵の闘争への潜在的恐怖感は彼が地方を巡って錬磨することでもそぎ落とすことはできなかったが、しかし軍規と精神は鍛えられた。そして彼らの精神は以前の蹉跌を打ち破った。騎兵隊の状態は洗練されており、少なくとも1200のフン族と300のヘルール(スカンジナビア系の種族)に匹敵し得た。この戦闘力の優越をもって、ベリサリウスは戦争を準備するペルシアに対した。彼には十分な時間的余裕があった。

 おそらく、彼は2年前に彼自身がペルシアから蒙った大惨事、タンヌリス近郊での出来事を忘れておらず、よって、彼はかつて敵手が取ったのと同じ手段で、深い溝を市壁に平行する形で深く掘った。プロコピウスによればそれは市壁から近距離であったという。溝は直線的でも絶え間ないものでもなかったが、兵が向こう側に進むか、あるいは向こう側から撤退するためのポイントには必ず横断線が設けられていた。「中央部分には幾分短い直線があり、そしてこの両端の終端に正直角をなす2本の溝が交差して掘られた。彼らはまずこの二つの直線溝の最端に着手し、独自の方向性から非常に長い距離溝を掘り続けた」

 左翼ボーズの丘の下にはファラス率いるヘルール300騎を含んだその数不明の重装騎兵隊があり、彼らは溝に直角に立っていた。600のフン族軽装騎兵はサニカスとアイガンの指揮下にあった。その他の兵は塹壕を掘りながら、互いに鏡面状のフォーメーションを取ったがそのため丘の翼面という地の利を失った。もう一つ、情報源は定かではないが、ニシタスの息子ヨハンの総指揮のもと重装騎兵がローマ軍に派遣されてきたという。

歩兵隊はベリサリウスと彼の上官たる後方支援官ヘルモゲネスのもと、それぞれブセラーリ(エリート部隊)の主導下ほぼ数千人に達し、溝の後ろから騎兵隊を支援した。プロコピウスはこれについて、いくつかの軽装歩兵の前線における小競り合いに過ぎないとして言及しておらず、深い溝のセクションは、主にそれに対して直角を為したとだけ記述される。この塹壕セクションが部隊前方、あるいは後方に置かれたのか、プロコピウスはそれを明確にしていない。オマーンは“中世の戦闘芸術(Art of War in Middle Ages)” において、防衛ラインは地図から見て後方に位置し、都市寄りに展開していると述べる。しかしプロコピウスのハーバード版、およびゴールズワージー(ローマ史家)、グレートレックス(ローマ、ペルシア史家)はことごとく、防衛ラインはペルシアの戦線に向かって広がっていた、と記している。

防衛ラインの主立った箇所が市壁から「近距離」であったとするならば、ベリサリウスの護衛騎兵たちが塹壕エリアを拒んだのと同様、歩兵たちもまたその命令を受諾したことは全くあり得そうになく思われる。そうすることは確かに最も歩兵隊と騎兵隊という二つのセクションを整然と結びつけたであろうが、そのどちらかが欠けた場合について高名なプロコピウスは気づき、だから市街から離れたペルシア前線と主張したのかも知れない。ペルシア軍の戦力はペローズ・マルハーンの指揮統率能力により初手で40000人に達し、彼は自信に満ちてダラに進行した。彼は言う「準備ができ次第ベリサリウスに大損害を与えて見せよう、彼が無事次の日を迎えることを望むように打ち破って見せよう」と。

彼はローマ軍を偵察して、ローマ兵が戦いの準備を整え整然としているのを見たところで、思い上がりをただした。彼はローマ軍と同様、歩兵隊と騎兵隊を側翼に配した。その数は不明であるが、不滅の人(イモータル)"と言われる精鋭部隊は予備兵として配置外に置かれた。それ以外のものは前後の部隊に分けて配置された。主導部隊が損害を蒙る、あるいは武器を使い果たした場合に、後方の部隊が車懸りに回転して入れ替わることが出来た。そのように戦備を整えた上で、ペローズはローマの騎兵隊を探査した。彼らは遅れてローマ人を発見した。ローマ人は偽装退却によってパルティア人をひきつけ、一見したところでは明らかにペルシア軍優位であったから、ペローズは欺かれて大いに歓び、微塵もこの戦いに敗北の懸念を持たなかった。だからペルシア人は大規模な追撃より、むしろもっと心理的な術策を試みた。両者の軍からそれぞれ優れた闘士を選出して、一対一の介入無しの勝負を行ったのだが、ボーズの、騎兵指揮官ではなく非戦闘員に過ぎない介添人のレスリング・インストラクターが二人のペルシア人闘士を打ち負かすと、ペルシア人は大いに落胆した。

 かくてペローズは市外で戦闘することになる。ペルシア人はわずかに2マイル離れたアモディウスの自軍キャンプに退き、翌日、間諜のやりとりによりペルシアの部隊が10000人強化されたことをニシビスでベリサリウスは知った。ベリサリウスとヘルモゲネス、そしてダラの民間の知事は、困難に対して固い決意で和平を申し出、両国の王は平和を切望しているはずだと主張し交渉人の手を取った。ペローズは戦闘の意味を見いだせず和平を模索し、ベリサリウスは大いなる祝福と平和を断言して「常にあなたはペルシアの責任者としてあられるが、このまままでは十中八九大災害の通過をやり過ごすことは出来ないであろう」と言って戦闘の回避を強く促した。が、ペローズの返書はローマ側にペルシアの誠実を疑わせるものだった。

 ローマとペルシア、双方の神の名のもとに、祈りの文言が返答として返された。ペローズはベリサリウスに、市内における夕食と沐浴を期待すると述べた。3日後、それぞれの指揮官は彼らの軍隊にふさわしい言葉で士気を高めるべく自らの軍に語りかけ、それぞれダラの市壁の外に整列し展開した。ヘルールの指揮官ファラスはそれとなく、ベリサリウスに彼のユニットを左翼最端に置き、そして丘の後ろに隠れる形で騎兵300を配置することを進言した。これは彼らが敵に対する最大の戦果を挙げると共に、伏兵となる騎兵300はペルシアの騎兵隊に対する奇襲攻撃要員として効果を発揮するであろう。ベリサリウスはこの意見に対し素早く断を下し、同意した。

 軍隊は遂に互いと対峙したが、すぐには何も起らなかった。ゴールズワージーが観察するように、「ローマ軍の布陣が正面攻撃を受け止めるように形成された。しかる後、ダラの市壁が互いに近くある状態で、彼らが市を占領することを望んだのであるならば、その瞬間に攻撃を仕掛けるのがペローズに開かれた唯一最大の選択肢であった。」

 ためにベリサリウスは待ちに出る以外なにもしようとはしなかった。そしてペローズはローマ人がミスをして少なくとも正午まで食事を延期することを望んだ(通常ムスリムはこの時間に食事を摂ったので)。一見この時間感覚のズレはさしたる影響をもたらすことはなかった。戦争はあくまでサイドにおける矢の応酬に留まり、しかも目に見える所ではほとんど行われなかった。プロコピウスは中央のどんな戦いについても言及していない。ペルシア人は前後の兵をローテーションさせることで新たな射手を繰り出し、相対的な数でアドバンテージを得た。プロコピウスはテルモピレーの戦いに立ち返って矢が空を暗くしたと述べるが、実のところローマ軍の後方から追い風が吹いたためローマの損害はそれほど大きくならずに済んだ。ペルシア人は射撃の合間合間に突進して来た。プロコピウスが描くには、矢が放たれるや「彼らは互いに対してそれぞれの槍を使い始めた。戦いはいよいよ苛烈を増し始めた」。

ローマ人はまもなく峻厳で容赦ない攻撃の中に彼ら自身を見いだした。対抗者はペルシア人ではなく、より苛烈で好戦的な種族、ベス・アラベイ出身のカディシャヤであった。彼らはダラーニシビス区域の南100キロメートルの地域に接近していた。この原始的ペルシア人の前進は、しかしながらプロコピウスによればヘルールの指揮官ファラスが、彼自身を含めた彼のヘルールの「敵の後背を得て素晴らしい偉業的勇猛を発揮した」ことによって阻んだことになっている。左翼フン族のユニットが戦闘に参加し、カディシャヤたちは自らが囲まれ虐殺されつあるのに気づいた。3000人が死に、残余はペルシアの歩兵隊の防衛ライン後方に逃れて消え失せた。

 この間、ペローズはペルシアの最精鋭、“不滅の人(イモータル)”たちを温存していた。ベリサリウスはこれを見て左翼フン族のサニカスおよびアイガンに急ぎ戦場の反対側に向かうよう命じた。彼らは右翼のフン族、シマスとアスカンに合流した。彼らはやる気十分で後退すると敵を確認して攻撃を始めた。この攻撃が勢いを増したとき、ペローズは翼の騎兵を前方に出し、ついに“不滅の人”を投入した。

他の突撃同様、これもまたいくつかの速戦の成功を得て、ローマ騎兵隊は退いた。騎兵隊の撤退、これに集中して、ササン朝の軍はフン族による横撃への備えを忘れていた。フン族の騎兵は単純な突撃をササン朝に打ち込んだが、しかし経験から彼らはこれを分散させず集中させた。この時点で後退していたローマ軍はストップし、急速転身して高まった攻撃力を叩き付け、半ば敵を屈せしめた。ベリサリウスとヘルモゲネスが温存していた騎兵隊に重きをなすようになると、戦闘はいっそう混沌として乱闘に変わった。

 サニカスは“イモータル”の騎手とその地位高い指揮官バラサマスを殺した。「この蛮族は大いなる恐れに捕らえられたが、結果として短慮からくる反抗心により完全な混乱の中に死んだ」とプロコピウスは書く。さらに「そして、ローマ軍は円陣を成し、その周囲の敵およそ5000を殺した」。多角的な打撃により、リーダー不在のササン朝騎兵隊は半ば以上潰滅した。

 騎兵隊が後方に流れたことで歩兵隊もまたほぼ潰滅し、潰走した。ベリサリウスは追撃を試みるよりむしろそれを制止し、おかげでペルシア軍は全滅を免れた。ベリサリウスは追い詰められた軍が絶望的に捨て鉢に戦ってしばしば窮鼠猫を噛む事を知っており、だから彼は殲滅戦の代わりに明確な勝利を勝ち得たことで満足した。ベリサリウスの軍隊はこの勝利によっておおいに士気あがった。

 この時点までに議されたすべての戦闘は攻撃側の勝利で終わった。が、ダラの戦いで最終的に敵を蹴散らしたのは防衛力であった。ベリサリウスは彼に許された時間の中で、その能力を軍隊をかき集めるだけでなく、和平交渉のためにも使ったが、結局和平はあり得ないと言うことで彼は覚悟を決めた。彼の前面には深い溝があり、敵は正面攻撃のたび失望して落胆した。ペローズの精神は彼の軍隊を激励したけれど、正面攻撃に出る気概はなく、側面攻撃に望みを託した。

 ペルシア軍は当初ローマ軍に二倍する兵力を持っていたから、軍隊を分割したとところでペローズはそれが趨勢に影響を及ぼすとは思わなかった。深い溝は人工の障害としてベリサリウスにササン朝の攻撃ルートを絞ることを可能ならしめた。そして彼は-彼の歩兵隊の水準が低くセキュリティがまた低かったならば不可能だった-いくつかの集団突撃作戦を立案した。ベリサリウスがこのとき見せた質量の集中は、この戦闘において最も注目すべきところであった。彼は彼の中軍のフン族騎兵を、ササン朝の騎兵隊の突撃に対抗するため、両翼にいくらか動かした。

 彼は隠蔽と遮蔽を利用し、左翼丘上、ヘルールの後方に布陣した。効果は証明された。わずかな高地から発したアタッカーによる攻撃は、ベリサリウスのアドバンテージであったと記録される。彼は“イモータル”らの移動方向を観察して、攻撃を受けるポジションをコントロールし、彼個人のブセラーリを最終的な逆襲のために温存し、ブセラーリとフン族騎兵を入れ替える時間を作った。彼の軍は市門にほど近い狭い地域にポジショニングして両翼を厳重に保護されており、ササン朝騎兵隊の攻撃も後退も、あらゆる行動はこの前に大きく制限された。

 その軍の過半を失ったことは、ペローズとそして国王カヴァードに衝撃を与えた。さらに悪いことに、北方の補助的な戦線が破られた。一時的ながら明らかに、ローマ人は国境のこの戦線において優位を手にした。数ヶ月後、カヴァードはアラブの同盟国アマンダのアドバイスを受けて、領土を割譲する。マハンは「アマイダかニシビスか、どちらにせよ彼は打ち負かされ避けるべくもなく追い詰められた。ローマの領土が初めてシリア側を侵略した」と記す。

 ここで彼は思いがけない行動を取り、そしてそれ故に彼の行動を予測することは容易となった。彼はアンティオキアの修復を望んだのかも知れず、その豪奢な夢が、魅惑が彼に防備を忘れさせた。531年初頭、カヴァードは15000の騎兵を西方のアザレシス指揮下の軍に送ってアンティオキア南100マイルのガブーラに到着した。警告と恐怖はこのとき引き起こされた。ベリサリウスは20000人の兵でアザレシスの行動をカットすべく出陣して、残余の2000人(地元の新兵と経験の浅い軍人を含む)でより巨大な兵力を持つがしかしベテラン兵の去ったササン朝の後背を侵略せしめた。

アザレシスはベリサリウスの行動を知るやすぐさま撤退を始めた。ベリサリウスはそれを追い、一日中後背につけた。彼は彼の、潜在的な強さを期待できない兵を用いるより、戦闘の危険を経ずして敵を駆逐する方を選んだ。しかしながら、プロコピウスに因れば、ベリサリウスは彼自身と部下の軍すべてを支配する攻撃性を認めて許したという。のちに彼はこの戦闘の愚かさについて演説したが、広大な東方を迅速に行軍したことについて、軍隊は「最初から最後まで、静かにも、またひっそりとも、彼に陰口をたたく者はなかった。しかし彼らは招かれ出席したベリサリウスに、堂々と弱者であるといい、臆病者であるといい、そして彼らの情熱の破壊者であると叫んだ。多くの将官さえもがこの士卒に連なった。なぜならこの戦闘は彼らの実力を発揮して満足させるものではなかったからである」

ベリサリウスは最終的に兵たちの要求に屈し、ユーフラテス川右手の土手に沿うカリニクムの町に打って出た。プロコピウスは戦闘は困難であったとのみ記す。多大な損害が双方の弓手から互いの軍に与えられ、ベリサリウス麾下の軍は今度こそしっかりと戦ったが、日暮れ、ペルシア軍に同盟者たるサラセン騎兵が合流し、攻撃して、ローマ右翼を叩き、撤退するローマ軍を突破した。

 ベリサリウスは歩兵を指揮し、それは長い時間持ちこたえた。しかしペルシア軍はさらに両翼から攻撃を加え、彼は遂に残余の兵を率いて河を渡り安全を確保した。ジョン・マララスはしかし、異なった見解から異なった記述をする。「サラセン軍が逃げるのを見て、彼らは彼ら自身ユーフラテス川を渡河できると確信した。ベリサリオス[原文ママ]はどんな出来事が起ったのか見ると、彼一流の基準に従ってボートを手に入れ、ユーフラテス川を横断してカリニクムに到達した。軍は彼の後に従った。ある人はボートを使い、ある人は馬と一緒に泳ごうとした。そして河は彼らの死体で満ちた」

 マララスは二人の士官が戦闘から退却する軍隊を救い、彼らが、昏くなるまでペルシア軍を押さえて戦ったと断言する。が、どこに真実が眠っているとしても、この戦いはローマの敗北であった。

 しかしながら、これは事態全体で見た場合重要な意味のほとんどない戦いであった。なぜならカヴァードはほどなく崩じ、彼の後継者ホスローは王位に就くやすぐさま和平交渉を継承したので。ミトレーンのザッカリアは「ベリサリウスはタンヌリスおよびユーフラテスでペルシアから受けたローマ軍の大損害と壊滅的敗走のとがで皇帝から罪を受け、指揮官を免職されて皇帝の元に戻った」と報告する。

 彼はコンスタンティノープルに呼び戻され、彼の敗北に対する罰として、北アフリカのヴァンダル族征伐の準備を任されたが、しかしこの敗北は、のちになればベリサリウスの人生上最後の敗北であったが。532年、ベリサリウスはユスティニアヌスに反抗する巨大な国内の叛乱、ニカの暴動を鎮圧することによって、ユスティニアヌスの心証を勝ち得ようとした。

 続く年、彼はカルタゴへの遠征とヴァンダル帝国への挑戦のため、ユスティニアヌスの創立した基本戦略を彼の知る古きローマ帝国のが可能とした規範に則させた。二つの有名な戦闘、デシミウムとトリカメロンがあった。いずれも騎兵が主体となって戦い、歩兵はその近くに布陣したが直接戦闘に参加することはなかった。どちらにしてもここで論ぜられることではない。敗北したヴァンダル族の王・僭主ゲリメルは才能にも指導力にも乏しかった。もし有能な王が存在したならば、ベリサリウスの忍耐と困難な闘争によっても、勝利を得ることは不可能であったろう。

 これは必ずしも祝福されるべき事ではなかったが、これは確かにベリサリウスの評判を回復させるのを助けた。ベリサリウスが彼が直面した大敵より寡兵で勝利を勝ち取ったことにより、彼の兵士たちは大いに自信をつけ、自らの将官に信頼を寄せた。それと同時に、彼はユスティニアヌスの注目を受けるに至る。彼はベリサリウスがヴァンダルという大帝国を転覆させたのを契機に、この時点から、より一層困難な任務をベリサリウスに与えるようになる。それもますます過小な兵で。

 ベリサリウスの名声はその成功によるものであり、それはもろい麦わら作りのよえな薄っぺらいものではなかった。しかし彼は決して彼の仕える皇帝の妄執性が自分を標的に重ねると考えることが無かった。それ故後になって彼はユスティニアヌスの猜疑にあい貶められるが、なおその忠義が損なわれることはなかった。


The Gothic War-ゴート戦争
 ビザンツ帝国はそれまでしばらく、イタリアに置かれる東ゲルマン系のゴート族、オストロゴス(東ゴート)とは良好な関係を築いていた。493年、オドアケルを破るためにイタリアを攻撃したとき、東ローマ帝国はすでにゴート人国王、テオドリックを支援していた。いったんラヴェンナで即位すると、テオドリックはオストロゴスの王としてだけではなく東ローマ皇帝として振る舞い、裁決するようになった。イタリアの少数民族のうちゴート派はローマ官僚とともに働き、成功を収めた。

 テオドリックは彼自身の民とローマ人を明確に区別したが、しかし彼はオストロゴス自体の精神的レベルと規範の向上をめざした。「副王の職(viceroyalty)」はイタリア全体、そしてパンノニアに浸透していた。しかし不幸ながら、偉大な王の後継者がまた偉大であることは少ない。テオドリックのただ一人の娘アマラスウィンタを残して死んだ。アマラスウィンタの最初の夫は息子アラリックを後に残して死んだ。アマラスウィンタは自ら非常に有能であると思い込み、若い息子の摂政として振る舞ったが、ゴート族の伝統は女王が最高支配者であることをよしとしなかった。ユスティニアヌスはその統治の初期段階ですでにテオドリックとの関係を強固に史用と考えていたが、しかし彼はまもなくゴート族によって形を変えたキリスト教・アリアニズムを含む、キリスト教異端派を迫害し始めた。

 526年テオドリックが死んだとき、宗教的迫害と王国の継承者問題はゴート族の住民を悩ませた。アマラスウィンタはユスティニアヌスとの間に誠心をもった関係を求め、そしてシシリアの麓の使用を無料で許可し、北アフリカのヴァンダル族に対するユスティニアヌスの戦争を援助したが、彼女の摂政期間はアラリックが死ぬと同時に終わった。アマラスウィンタは自身の王威の後ろ盾にヴァンダル族のテオダハットと2度目の婚姻を求めた。テオダハットは婚姻に同意したが、その後彼女の権威を覆して数ヶ月(535年4月)の内に彼女を殺した。

 ユスティニアヌスはアマラスウィンタ殺害を名目としてイタリアに軍隊を入れた。テオダハットは国王を辞任してユスティニアヌスに忠誠を誓うなら無事に過ごすことが出来たが、それ以外の方途はすべて戦争しかなかった。当然ながらテオダハットは平伏しなかったので、ベリサリウスがイタリア戦役に担ぎ出されることになる。

Gothic Military-ゴート人の軍
かつて376年、西ゴート族とともにアドリアノープルの戦いで勝ちを収めたオストロゴスは自身の装備と戦術に非常に満足していたので、ベリサリウスのイタリア遠征の時までほんの少ししか進歩していなかった。軍の大半は騎兵、それも重装騎兵で構成された。ゴート族の兵士は首と頬から下方、少なくとも膝までを覆う皮革あるいは金属製のスーツアーマーを身につけ、ヘルメットをかぶった。彼らは非常に長い槍、ペナントが取り付けられた手槍を振り回した。そして彼らが馬に跨がったとき、あるいは馬から下りたときには、副次的な武器として剣と小型の盾を運用した。戦士は装甲馬に乗り、そして長槍を構えてギャロップ(馬の最も早い駆け足)で突進した。そしてテオドリックはすでに早くも歩兵隊の役割を波及させはじめていた。それはやはりマイナーなままで終わったが、オストロゴスの弓手は歩兵であった。彼らはローマの弓手より広い範囲に布陣したが、防御態勢というものを学ぶことがなかった。騎兵隊が彼らの前に布陣したが、それは歩兵を騎兵が守るという概念よりむしろ矢の保護のためであった。ゴート族の戦術にに多少の変化はあったけれども、彼らの登場からこの時点に至るまで、戦争の技術的様相が大きく変わることはなかった。

オストロゴスはローマ様式の中古の剣を店で売買し、あるいはきわめて酷似した製法で自ら作り出した。ローマ人への露出が、テオドリックの治世下ですでに彼らの戦闘法と命令形態を変容させていた。オストロゴスは彼ら自身の伝統をもとに、蛮性の上に組織的強さを形勢しつつあった。しかし彼らが模範としたのは皮肉にもローマのそれで、しかも副次的な部分に留まった。彼らの戦術はただ基本的戦術目標が設定されているばかりで、あとは騎兵突撃の連続があるばかりであった。突撃が失敗した場合に備えて馬が潤沢に備えられ、援護攻撃のための軍備補強の用意を調えてはいたが、ゴート族の戦術の主たる要素は一撃離脱による痛打、待ち構えて一気に歩兵隊を屠る電光石火の一撃であった。

 しかしゴート族にとって不幸なことに、攻囲戦の間に待ち伏せを決めることは困難であった。そのために、彼らがほとんど技能を持たなかった城壁登攀に関して、練度の低い歩兵に頼るか、騎兵を活用するためにはあえてビザンツ側の突撃を待ち受けてから逆撃せねばならなかった。

ローマーベリサリウスー第一回(BattleField版)

 はいどうも、最近更新ペースが上がっててまずいなーと思ってる岩城ですよ。一週間に一更新、せめて記事と記事の間を五日は空けたいのですが、なんというか妙な焦燥感で作る都度挙げてしまいます。これって精神的負荷が高くなるんで意識的に抑制せにゃあならんところなんですよね。季節やらその他諸事情やらなんやらで体調を悪くしてますし、これ以上悪化させるようではいかんという。適当にゲームでも、とか思っててもなぜか漢文英文と向き合ってる自分が頼もしくも恨めしいわけですが、それはさておき本日からベリサリウス三部作です。それが終わったら五代の概要か唐朝の余人か。まあベリサリウスに関しては皆さんご存じかと思いますが、生涯52戦して2回しか負けなかった、しかもその2回は彼のキャリアのはじめと、無理矢理部下たちの突き上げ喰らって戦わせられて不利な状況下で検討するも敗北、という二つだけなのですね。西洋史上に置いてここまで鮮やかに捷を重ねる男は彼と、他にはハンニバルぐらいしか知りません。にもかかわらず不遇なのですよね、ユスティニアヌスに疑われ睨まれて、戦いに出る都度その兵力を少なく制限されるという、それでも負けないのですからバケモノです。フラーやマハンが手放しで絶賛するのもうなずけるというもの。ところでフラーの「西洋における軍事史」が手に入らんのですよ。巡り合わせが悪いというか。
 まあなんか長くなりましたが、訳文どうぞ。

ベリサリウス(505?– 568)
 ベリサリウスは皇帝ユスティニアヌスに奉職した、東ローマ帝国最高の将軍である。彼をして大多数の場合において勝ちを制しせしめたのは、早急かつ大胆、臨機応変にして独創に富む戦術手腕と、常に敵の不利を最大限利用する極度な巧緻によるものであったーJ・F・C・フラー「西洋史における軍事史」より

 ベリサリウスの正確な生年月日は、彼の受けた教育同様詳らかでない。彼の19世紀の古典的伝記作家であったヘンリー・スタンホープ・マハン卿によれば、将軍ユスティニアヌスが帝位を受ける前、527年の当時にその私的な警護メンバーとして歴史に初登場するとき、プロコピウスの筆に「あごひげを生やした最近風の若者」とあることから、この当時二十歳前後であったのではないかと論じられている。

ベリサリウスの同時代人であり秘書でありユスティニアヌスの戦争史家であったプロコピウスは、ベリサリウスがゲルマニアのイリリア出身、ユスティニアヌスの同郷人であったと書く。

 たいていの情報提供者はベリサリウスについて、その出生の謙虚あるいは卑しさを主張する。が、A・T・マハンは彼が「功績の多寡にかかわらず十分な富と栄光を得ることがきわめて難しかった時代に彼は地所を所有していた」ことから、彼がある程度富裕な出身であったと論ずる。さらに言うならベリサリウスが妻アントニーナとともに、皇帝ユスティニアヌス、皇后テオドーラと同じように、プロコピウスの“秘史”において中傷を受けたこともまた、その論証であるとするが確証はない。

 ユスティニアヌスは483年生まれだが、ベリサリウスがその護衛者として彼に合流する以前から両者が互いを知っていたというのはありえそうもないと否定されている。それについてプロコピウスは我々にヒントではなく、彼のキャリアを語る物語における最も確かな事実、護衛官からユスティニアヌスの「目にとまって抜擢された」という事実を示唆する。エドワード・ギボンの“ローマ帝国衰亡史”によれば、「彼はユスティニアヌスの護衛官の中で、その勇敢をもって最も高名であった。そして彼の後援者(ユスティニアヌス)が皇帝になったとき、この護衛官は軍司令官に抜擢された」とある。

 彼の司令官としての最初の任務はシッタスと同じく、皇后テオドーラの義理の兄弟として勤めることであった。二人の任務が皇后の友人たちの護衛であったと想定して、これが皇帝の注目を身に受けないはずがなかった。ベリサリウスとシッタスはペルシャメニア、長らくローマとペルシア人の係争地対であった地域に526年、送られた。そこで彼らは大規模な戦闘と強奪、多数の奴隷と囚人の獲得に成功した。

 2度目の襲撃では彼らはさほど幸運ではなかった。小競り合いの結果ペルシャの司令官ナルセスとアラティウスに敗れたように思われるが、この両者はまもなくユスティニアヌスのもとに亡命した。プロコピウスはこの戦いに従軍し、「シッタスとベリサリウスが参加したこの戦いにおいて、ペルシア人は有利を得た」という敵側の発言を軽視した。

この戦の戦後処理のすぐ後に、ユスティニアヌスは彼の叔父、ユスティヌスからコンスタンティノープルで帝位を受け継いだ(527年4月1日)。皇帝として、ユスティニアヌスはササン朝ペルシャ帝国との長らく続く戦争を継承した。

 アケメネス朝のアレクサンダー(大王)に敗北した結果、ペルシア人はディアドコイの支配下でいくばくかのヘレニズム文明を吸収していた。偉大なるマケドニアの後継者たちが躍進するローマの前に衰弱し出すと、ペルシア人は北方騎馬民族パルティア人に接触、アルザック帝国のもとに自らの規範を見いだした。パルティア人は地域の回復と拡大を繰り返し、拡大するローマと対峙した。主にユーフラテス川沿岸を国境としてパルティア人はローマと領土を奪い合ったが、紀元3世紀早晩、彼らが凋落するとペルシア人は自ら立ち上がり、これを打ち負かして成り代わった。これがササンの家系、ササン朝ペルシアの成り立ちである。

 彼らは古くアケメネス朝の時代にさかのぼってその栄冠とローマに奪われた都地の奪回の野心に燃えた。東ローマの軍隊はペルシア人を寄せ付けなかったが、それは彼らの意思を折ることは出来なかった。皇帝ヴァレンスは先帝「背教者」ユリアヌスの後を継いで366年即位、ペルシア王シャープールと戦って勝利できず、アルメニアのローマーペルシア分割支配を認め交易権を許すという、ローマにとって必要ではあったが屈辱的な条約に調印した。この時点より、東ローマ帝国は前進してペルシアを征服しようととする野心を棄てた。

 363時点年から数えてユスティニアヌスの統治が始まるまで、両者の関係は一応均衡していた。387年、ローマとペルシアは先述のヴァレンスとシャープールの間にアルメニアを分割統治し、422年、のちに100年の平和と言われるようになる条約を結んだ。この期間、ペルシア領内ではゾロアスター教のマギ(魔術師、精神的指導者)が支配権に重大な影響を与え、また極北から侵入する白人系のフン族-エフタル-による威圧的恫喝を受けて、宗教的、内部的な困難に直面した。エフタルは黒海とカスピ海の両路からコーカサスを経由して侵入、ペルシアを脅した。このエリアは元来ローマとペルシア共同の守備地域であったが、しかしローマは漸進的に撤退、エフタルからの金銭的要求を飲み、ローマ-ペルシア間の条約は終わりを迎えた。ユスティニアヌスの対ペルシア制作はこの金銭的減衰を埋めるためだったという。

 ペルシア人が483年返還された辺疆の都市ニシビス市(363年の条約より返還を要求されていた)の失敗に対して、ローマ人の指導者層はコーカサスの分割防衛を拒絶した。ローマ皇帝アナスタシウス1世(在位491-518)はメソポタミアとアルメニアの各地に防衛陣を築き、特にニシビスからほど近いユーフラテス沿岸ダラの町に要塞を築いた。

 502年と504年、両国は大戦を持って接触した。ペルシャの国王カヴァードはローマから一時的とはいえ初めての勝利を手に入れた。504年、幾ばくかの打撃を蒙り、両国は有名なフン族の侵略の前に505年、和平を結んだ。7年間平和が続いたが、それは撤廃されることはなかったが更新されることもなかった。フンーペルシア戦争の間、ビザンチン帝国はラジカとイベリアのコーカサス王国と結び、さらにペルシア人をいらだたせた。

戦争の時
 2つの大きな要因が、6世紀早期までに、根本から東ローマの軍隊を変容させた。まず、ローマ市民の性質がそれまで以前よりきわめて大きく変質した。それまで成人男性は市民権の一つとして兵役義務を課されたー質問は許されず、一年間の間あらゆる脅威に直面せねばならなかった。彼らを打ち負かす最大の脅威は通常、季節という魔物であった。共和制の終焉までに、軍は都市貧民たちによる長期の奉職、おもに専門職として継承されるものとなったが、しかしながら、帝国内における数世紀はふたたびその性質を変容させていた。ほとんどのローマ成人男性はもはや徴兵義務に応えず、今や軍事に携わって年を越すのは外国人の傭兵に多くを負うた。多くの市民は通商、貿易などの行為により徴兵から免ぜられた。兵役は多くの市民にとってきわめて人気のない職業だったので、商才に恵まれぬ市民には自ら四肢を切断し兵役を避けるものも珍しくなかった。そのため、軍は田舎から、あるいは敵前からすら募兵され、ますますその兵に依存するようになった。

 減少した人的資源に対して要求される前線は広範囲にわたり、攻撃より以上の防御力が求められた。それで帝国は石灰岩の防壁、防御非常線、紐状に繋がる要塞と都市の要塞化に依存し、これらが自然の要害に守られていなかった市民および通商路を守った。ユスティニアヌスは驚くべき数とサイズの石灰岩を作らせたことで知られる。この戦線を維持するのは強度を度外視して機動力重視でデザインされた戦闘部隊であった。
 
 もう一つの要因は、彼ら自身の性質にあった。東西二つのローマ帝国はアジアあるいはヨーロッパからの“野蛮な”機動的戦闘力に圧力をかけられた。侵入してくる軍隊はますます歩兵よりも騎兵よりになり、伝統的ローマのレギオン戦術はこの騎兵隊をよく支えることができたけれども、それらの兵士は何年もの奉職により訓育されてきたものであり、もともとのやる気にかける小規模軍隊(特にローマに対する強い絆なく、辺疆で育てられた人々)は、騎兵の迅速なチャージ(突撃)戦術に対応するだけの鍛錬を受ける率が低かった。そのため、両帝国は歴戦の軍人、すなわち迅速な反応と高速移動を使いうる軍人によって敵軍に打撃を加え、脅かして、権力を握る必要があった。国境に流入する人的資源を軍に加えることは、騎兵指向の訓育方法と経験を持つ異民族の合併を意味し、同時に伝統的な歩兵隊依存体質の減衰をも意味した。これにより東ローマ帝国は襲撃者以上の速度で移動可能な騎兵隊と軽歩兵隊で軍隊を再編する。この新編成軍の速力はカエサルの率いた軍-マニプルス-よりさらに大きな柔軟性を持ち、ローマの伝統重歩兵主体の戦力を書き換えた。

重装騎兵部隊(カタファラクチ)はチェイン・メイルと脛当て、あるいはもっと長いレガースを身につけ、主としてランス(騎兵槍)と弓で武装していた。これは彼らが敵を攻撃している間、敵の反撃の矢に耐えうることを可能とした。場合によっては馬もまた同様に装甲していた。兵士に双方の武器を用意するには訓練期間とコストの両面からの困難があったので、ビザンツ帝国の騎士は彼の最も大きい威力を持つ突撃の衝撃行動を好んで行った。故に弓よりランスが主体として使われ、弓は“もし必要なら”という汎用補助兵器の域を出なかった。騎兵隊の大多数は帝国周辺の異民族から召募された。アッティラの死後、フン族の騎兵がローマに奉職するようになってまもなくフン帝国が瓦解したように、アラン人のイランの大草原、ゲルマンのゴス・サウザスタンなどが斉しく馬と騎手のための飼育場となった。それはまるで過日の(マケドニアの)フィリップとアレクサンダーのそれのように。

 “野蛮な”兵の大部分は不忠実への怖れから400年、軍から除籍されていたが、ユスティニアヌスは地中海帝国を再確立するために軍事力を拡大したく、その願望の限りにおいてどのような不安も抱えていなかった。これら外人部隊のいわゆる「foederati(連合に加わ)」った者たちは、ユスティニアヌスに忠誠を誓ったビザンツの指揮官によって統率、指揮された。このような準個人的な軍はコミタトゥスと呼ばれた。部隊の指揮官はユスティニアヌスに忠実であり、そして部隊員は皇帝よりむしろ指揮官に忠実であることを要求された。これはしばしばビザンツの歴史における問題として提示される。

 馬弓手は彼らの有名なコンポジット・ボウ(複合弓)を用い、フン族の戦士のように長い射程を誇り、さらには接近戦においても高度な戦闘力を保有した。同じくエリート護衛官として育てられるユニット(ブセラーリ)はビザンツか連合のどちらかに属し、連合がビザンツの一部に加わっているからには皇帝にとって同じ条件下で入手可能だった。

 一例として、ベリサリウスの私的護衛官は7000人いたといわれる。軽歩兵隊は防御のために小型のシールドを、そして近接戦闘のために剣あるいは斧を使用した。が、彼らの最主要兵器は弓であった。指揮官階級には弓は既に充分供給されており、そして敵の矢と投げ槍に対する防護として大盾を供給された。すべての兵士たちは弓の使用を指示され、遠距離戦闘が戦争開始の主要な手段となった。重騎兵は敵の弱点エリアを突破するため連携して使用された。

 若干の敵がきわめて精妙な馬弓手であったが、基本的にビザンツ兵の弓はさらに強く正確で、安定性を誇った。ローマ-ビザンツ帝国のリミターニ(国境市民軍)は重装歩兵の数でこそ劣ったが、より重厚な甲冑、剣あるいは斧の重歩兵装備において勝った。彼らは敵の襲撃を防ぎ、そして弓手を守る伝統的防壁の役割を果たした。これらは以前のローマよりもパーセンテージ上ではずっと少ないけれども、多くの著作家が6世紀の戦闘における彼らの重要性に着目している。ユスティニアヌスの治世の間、これは古代ギリシアのそれよりなおいっそう柔軟なユニットであったと。しかし基本的戦術ユニットは旧来のレギオンを踏襲し、一般的な一構成単位は512人と記述される。12人の士官により指揮されたこのレギオンは6144人で、それまでの伝統的ローマのそれよりわずかに大きい人数で形成された。

 現代史家の多くはよく訓練された、そして統制された歩兵隊がその比率にかかわらずローマの戦勝の鍵であったとする。実際、彼らは保護として防御として、軽歩兵隊や騎兵隊の攻撃力同様に重要であった。軍隊の一般的布陣は、もし敵の騎兵突撃が差し迫って見えたなら、歩兵を中心に側翼を騎兵で固め、そして軽騎兵(スリンガー)が先頭に立つ。しかる後、長らくユーラシアの騎兵に対抗してきた経験から、ビザンツ騎兵は彼ら独自の布陣を完成させた。ユニットの3分の2が前方に布陣し、中央を八段階、左右の翼を4段階の深さに分ける。400メートル後方に第2防衛ラインを敷き、騎馬を前線に沿って装甲させ、それぞれのファクターがしっかりと攻撃を補助しあった。このように、防御陣によって保護された弓兵戦術はその後約1000年、地中海世界の基本戦術として君臨した。

 ササン朝ペルシアの軍隊は480年代において既に"白きフン"エフタル族の手にかかって敗北したことにより、若干の改革を経験していた。6世紀への移り目によってクローズアップされるそれは、ローマービザンツ式のそれと異なりそれほど革新的ではなかった。最有力の軍隊は“自由民”およびあまり正規的ではない上流階級の兵からなる騎兵部隊であった。ビザンツ帝国式のカタファラクチより軽装であったが、軍中における比率はほぼ同等であり、馬弓手の多くはフン族とアルメニア人で構成された。傭兵と平民とが若干の補助的騎兵隊を供した。サタラ攻撃のために傭兵として3000人のサビール・フン族が募集されたという。他方ベリサリウスがダラの戦いで戦ったカディシャヤ(あるいはカディシニ)は、ペルシア軍右翼の正規で主要なユニットであった。

 この軽装騎兵隊は弓兵の補助を得たとき重騎兵同等に機能し、ローマのシヴァナリ(ローマ胸甲騎兵)とササン朝のサヴァラン(ペルシア重装騎兵)はほぼ斉しく、完全武装のカタファラクチ(重装騎兵)は堅牢さにおいてペルシアの重装騎兵を凌駕した。しかしササン朝はこの時期までに騎馬を獣皮で覆う比率を下げていたように思われ、実際的により頑丈なスケールアーマーを使用するに至っていた。彼らはローマ兵と同じく多数のハンド・ウエポンを装備したが、特殊な状況を除いては主に騎兵突撃を敢行した。ユスティニアヌスとそしてベリサリウスの同時代、カヴァードとその子ホスローの治世において、サヴァランはまったく弓という兵器を放棄しており、このササン朝軍隊におけるエリートたちは古代の英雄のように"不滅の人(イモータル)"と呼ばれた。そしてその練度はローマの兵と同等かそれ以上であると見做されていた。

 ペルシアの歩兵隊は最も弱卒として知られた。ローマ人によって彼らは軽蔑の対象であった。ベリサリウスはダラの戦いの前にスピーチを行った。プロコピウスの引用に寄れば「彼(か)の歩兵は戦争の目的も知らぬ哀れな小作農以下の存在である。彼らはその敵対者(われら)を煩わせるかも知れないが、これはさしたる脅威ではない。防ぐためにはただ盾があれば事足りる」と。

現代の史家はダラの戦いについて、その態度に共鳴する。そのときペイギャン(ペルシア歩兵隊) はサヴァランの潰走後、あっさりその保護を放棄して戦場を断念したのだから。彼らは主に後衛を担当したが、小作農兵よりなお意欲・モチベーションに欠け、無用の長物に近いと見做された。

 ペルシアの歴史についてはまさしく同時代人であるプロコピウスが、ローマービザンチンとムスリムの戦術についてほぼ正確なところを記録しているのでそれが主な情報源たり得る。彼らはフン族に敗北したことで交戦様式の転換をとった、と。また、プロコピウス以外の状況提供者は典型的なササン朝の戦闘様式について、代え馬を後方に留め、丘の上に双翼を描いて布陣した、と描写する。

幾人かの情報提供者が、ベリサリウス独自の陣形、歩兵弓手の左翼に騎兵隊の護衛をつけるという戦闘法について記述する。いくつかのケースでは象兵についての言及もあり、ベリサリウスが戦ったあらゆる敵の中で最も頑健であったという。のちに情報提供者はベリサリウスは中央の歩兵に騎兵のエリート部隊が翼として構成され陣形を取ったか、あるいは高度に優れた軍隊は固定観念に囚われず、中翼の歩兵・弓兵に騎兵が追従したという。どちらにしても戦闘の主役が重装騎兵であったことは疑いなかった。ローマの騎兵突撃は主として単純であったが、ベリサリウスはしばしば側面攻撃や虚偽によるフェイクを多用した。

The Opponents-対抗者-
 ビザンツ帝国との和平に向かい、523年あるいは524年、ペルシア国王カヴァードは彼の死後嫉妬深い兄から我が子を守るため、ユスティニアヌスのもとに第4子でもっともお気に入りの息子、ホスローを供出した。ローマ人はこの申し出について熟考したが、帝国はこれが獅子身中の虫となる可能性を考え、申し出を拒絶した。カヴァードはこの拒絶に対し個人的な恨みを持った。

 もし524年の作戦で敵を退けた指揮官がベリサリウスとシッタスであったなら、彼らは反撃によってペルシアのアルメニア地方をじらしイベリア方面を征服する行動に出ることが出来たであろうが、おそらく見たところ彼らは526年ナルセスとアラティウスによって敗北したためユスティニアヌスの寵から外されていたらしい。そのため彼の力はユスティニアヌスという偉大な君主の影に霞んだ。

 マハン卿は口角泡を飛ばして語る。「我々はベリサリウスの個人的な振る舞いが、最後まで彼が責任を蒙るべきことではなかったことを知っている。我々はすぐにその後、ダラの戦いに彼を見いだす。彼にはダラの知事のポストを要求する権利とてあったと、私は結論づける」

この戦いでベリサリウスがどう戦いどう振る舞ったのか、その個人的功績は記録に残っていない。しかしもう一人の男(シッタス)は528年、ローマにとってより悪い結果を運んでくることになった。南方国境、サヌリスに築かれるはずのビザンツの要塞ほ支え、支えきれずに敗北した。プロコピウスのショックは大きかったと見え、「ローマ(人)が負けた。凄絶な戦闘の結果、大虐殺があった」と記述している。

同時代人、ミトレーンのザッカリアの記述はプロコピウスのそれほど簡潔ではないが、いっそう非好意的である。ペルシア人がローマからの攻撃を知ったとき、「彼らは策を考案して深い塹壕を掘り、そしてそれをすっかり覆い隠した。三角形の木の杭が様々な隙間から飛び出すのを、彼らは知覚できなかった。ペルシア人は詐謀を以てローマ人を引っかけ、ローマの将官たちは全速力でペルシアの塹壕に飛び込んだ…ローマ軍の騎馬警邏隊は転身後退してダラに帰還し、ベリサリウスに合流した。しかし歩兵たちの内逃げることをしなかったものは殺され、あるいは捕虜とされた」

 この挫折にもかかわらず、529年から530年にかけてベリサリウスは東方(オリエントゥム、マギスタ、ミリトゥム)の戦士たちの中で帝国の5つの野戦軍を率いる指揮官に選出された。彼は同じくこの時点で、ベリサリウスの同時代の記録官、秘書官にして参謀であるプロコピウスを受け入れた。両軍接触の発火点はニシビスの、ペルシアの寨から遠くないチグリス川上、ダラのビザンツ式の都市にあった。ベリサリウスは彼がニシビスで引き受けた任務、ペルシアの寨に接近してビザンツの都市を回復すること、を達成するためにダラへと進み、勝ち進んだ。これら国境軍事的逆転に引き続き、もし彼が本国に要求していた兵備維持のための軍資金が枯渇していなかったとしたらという前提のもと、ユスティニアヌスはカヴァードと和平交渉に入った。「しかし敬虔なクリスチャンとして肉体と生活を惜しみ、汝の財貨を求めるものである。もし汝に金を支払う用意がないのであれば、戦争の準備をするがよい、汝自身のために。汝にとってこの警告は向こう一年の間有効である。我らは準備を整えぬ敵から勝利を盗むことはない、あるいは詐欺や欺瞞によって戦争に勝ったと思われる不名誉も望むところでない」同時代の年代記編者、ジョン・マララスはユスティニアヌスの警句をそう記述している。カヴァードはしかし1年も待たなかった。ユスティニアヌスの公使がペルシアの首府からの帰路にあったとき、彼はダラに滞在していたが、このときペルシア軍は既に進軍を開始していた。

唐ー李愬ー25史新編第55巻

どうも、岩城です。突然ですが岩城の部屋にはエアコンがないのです。小型の扇風機しかないのですね。だから酷暑の中集中して翻訳とかしてるとぶっ倒れそうになります。大概は水を飲んで急場をしのぐのですが、本日はなぜか途中で席を立つことができず、四時間半ほどぶっ続けで翻訳してたおかげでへろへろのフラフラでした。危なかった。
 で、本日は李愬。ベリサリウス三部作のとりあえず第一部を終わらせたところでこちらにスイッチ。基本的にウチのブログでは西洋名将より中華名将の方が受けが良い、ということもありますしね。それに唐朝における最後の名将として先んじてやっておくべきかなと。この人の後には岩城の知る限り唐朝に傑出した名将というのは登場しません。だからあとは時軸をさかのぼって唐初からの名将をやるか、それとも五代、宋と進めていくかなのですが。まあ、またしばらくペースを落としてゆったり決めたいと思います。それでは、訳文どうぞ。

李愬(り・そ。773-821)
 李愬、字は元直、洮州臨潭の人にして、唐徳宗期の名将、李晟の息子である。少年期から父にしたがって朝廷に入仕し、はじめ太常寺協律郎、のち遷せられて衛尉少卿、さらに右庶子、少府監、州刺史、太子詹事、宮花苑厩使等の職を歴任する。

唐の憲宗元和十一年末、淮西の西方戦線の兵は主帥・高霞寓および袁磁らことごとく将才なく、あるものは自重し、朝廷のため尽力することに肯んぜず、ゆえにこの師に久しく功なし。李愬は遂に錐が嚢に穴を空けるようにして自薦し、前線に赴いて手柄を立てんことを請う。宰相・李逢吉は李愬の才もちうべし、といい、憲宗はすぐさま李愬を左散騎常侍兼御史大夫とし、唐・随・鄧節度使にあてた。李愬は唐州に到達したが、正直なところその部下の兵たちは士気阻喪して、表面上何事もないかのように見えて軍の任務は整わず、軍規は粛然ならず、呉元済のため怯えて麻痺していた。李愬は密かに士卒を按撫し、軍馬の糧秣をたらふく食わせ、力量を蓄えてから、進攻の機を窺った。半年の後、彼は条件を満たしたとして出馬、上表して援軍を請う。憲宗は即時河中、鄜坊の騎兵二千を発させ、もって増援とした。

 十二年二月、李愬は部将・馬少良を派遣して州東を巡邏させ、そのとき呉元済の驍将・丁士良を捕えたが、李愬は自ら親しくその縄を解き、誠を持って相接した。丁士良は感激して恩徳を戴き、士をもってこれに報いんと誓った。丁士良は呉元済の文城柵の守将・呉秀琳の謀主・陳光洽を捕え、呉秀琳に迫って兵三千を降す。李愬はまた呉秀琳を衙将となし、その部を率いさせて呉房を攻めさせ、外城を占拠させた。これと時を同じくして、李愬はまた兵を派遣し相次いで馬鞍山、査岈山、治炉城、朗山および白狗柵と汶港柵などを取り、呉元済を蔡州の西に押し込め掃き清めた。南方および西北の軍事拠点を奪い、最後に蔡州平定の道に乗り出す。

 同年五月、李愬と呉秀琳は蔡州取りの策を商議し、呉秀琳曰く「果たして蔡州を取るに、淮西の騎将・李祐を生け捕るは不可欠、秀琳は能く為す力なし」言って李祐が興橋柵の兵を率いて張柴村で小麦の収税を行っていることを李愬に告げる。李愬はすぐさま廂虞侯の史用誠を召し、告誡して「卿は騎兵三百で張柴村付近の樹林に埋伏せよ、人をつかわして敵の前で旗を振ったなら、出でて麦を焼くべし。李祐は官軍を軽視し、必然軽騎を持って追うであろうから、この到来するを待って騎兵で突襲すれば、かならずとらうべし」史用誠は命を聞いてしかして往き、果たして李祐を捕える。李祐は興橋柵を守ってしばしば官軍を打敗し、少なからず官軍の将士を殺傷していたから、諸将の李祐殺すべしと言う声は大きかった。李愬は極力衆を遠ざけ、親しく縄を解いて賓客の礼を喪って李祐を遇し、常に李祐を召して帳の中に招き、帳の中で夜間密談した。
これに対し、ある人が李愬に勧めるに李祐への堤防ぶりを強め、より寵信を与えるべしと。まさしく李愬が蔡州へ総攻撃を仕掛けようと言うとき、うまくないことに霖が続いた。五月に始まり七月に入ってなお止まず、溝川みな満ちて出師することあたわず。ここに至って諸将李祐を殺さざる理由を、伝言して李祐内応を為すと。ために官軍内憂外患。李愬は李祐に弁解すること百般、ただ斉しく齎すことなし。ついに李愬は李祐を京師に送らざるを得なくなった。憲宗に上表して李祐を殺さざる事を依頼し、人を派遣して言わせるに「果たして李祐を殺さば、蔡州平定の成功は無し」憲宗は表に接するやすぐさま李祐の罪を免じ、李愬の元に返す。まもなく李愬は李祐を六院兵馬使、統領山南東道三千精鋭兵馬とした。同時に李愬は関中で出した軍令、敵軍の間諜はそれを泊めたものも含め皆殺しにすべしという規定を取り消した。これにより、官軍には多くの間諜が呉元済の情報を携えて収束する。李愬はその中から虚実を取捨選択し、蔡州の実情を掴んだ。
 九月、唐の忠武節度使・李光顔らが北方線戦にあって叛軍を打破、呉元済は迫られて精兵のすべてを洄曲に向け、蔡州は空となる。
 十月十五日、李愬は蔡州総攻撃を決意、馬歩都虞侯の史旻を文城の留守に置き、また李祐に突騎三千を与えて先鋒となし、自らも三千を率いて中軍、後詰めは田進誠のこれまた三千。東に向かって進発する。夜半、張柴村に到着、呉元済の軍をことごとく殲す。わずかに休んで体勢を整えてのち、李愬は村の寨に五百を残し、さらに五百で洄曲からの帰路を封鎖させ、さらに五百で朗山からの道を截ち、余衆で引き続き東へ向かう。さすがに気づいた諸将が皇軍の方向を問うと、李愬はただ一言「蔡州に入り呉元済を生け捕る!」とだけ述べた。このときの将士の驚きを「皆大いに懼れて顔色なし」という。この夜、天は曇天、多いに雪降り、寒風は骨を刺す。士卒辛苦を叫んで班師を請う。かくて唐軍は豪雪の中七十余里を進み、夜半、遂に蔡州の城下に到達する。このとき、ガチョウの群れが舞って城内城外大いに騒乱をなす。城池付近にガチョウを放った池があり、偶然一、二のガチョウが叫んで城中騒然、雪夜煌亮をなす。李愬はこの事情を知るや総員に水面を撃たせ、ガチョウを羽ばたかせそれにまぎれて行軍の声をかき消した。官軍が蔡州の城下に達することがなくなって既に三十余年、守城の軍士は多く呉房と朗山の守り堅く、咥えてこの風雪である、みな枕を高くして高鼾、防備の備えもしていなかった。夜半、李愬は率いるところの部をもって州城の下に進み、李祐が先頭に立って城牆を登り、門衛を殺して城門を開けた。官軍一斉に入城し、討っては倒し報せるものあらばまた先んじて討ち、故に城中の一人として気づくものはなかった。黎明、李愬の率いる部衆は呉元済の外宅に入る。このとき、守門の兵士がようやくにして官軍入城に気づき、急ぎ慌てて呉元済に報告した。呉元済は洄曲の軍士が帰ってくれば一もみに官軍をつぶせると考え、寒冷の中意にも介さなかったが、官軍の号令が近づくにつれ恐慌失措した。このとき、宅院はすでに官軍に重々包囲されており、呉元済の抵抗勢力はただただ左右の衛兵のみであった。李愬はまず田進誠に命じて外宅に向かい進行させ、他方呉元済の洄曲の守将・菫重貭の家族について人に尋ね、菫重貭に招降の書を送った。菫重貭は単騎洄城から馳せ着けて李愬に降った。このとき、田進誠は外宅の南門に火を放って焼壊しを開始、呉元済は菫重貭の投降を聞き、ただ外宅城上で罪を請うた。李愬が出した梯子によって救われた呉元済は李愬に向かって降服の意を伝え、李愬は呉元済を檻車に入れ京師に護送、これによって蔡州はことごとく平定された。李愬は功績によって尚書左僕射兼山南山東節度使、襄鄧・随・唐・復・郢・均・房等州監察等とされ、涼国公に封ぜられる。

 元和十三年七月、淄青の李師道が挙兵、叛乱。李愬は武寧軍節度使とされ、魏博、義成、宣武などの軍を率いて征討、金郷で大いに叛軍を破り、前後十一戦して敵将五十を生け捕り、殺傷した敵兵は万を超えた。

 穆宗の長慶元年十月、中興の名将・李愬は洛陽にて薨ずる。享年四十九才。大尉を追贈され、諡は武。

 李愬は倹約家としても知られ、その弟が勲貴を頼ってきたときも断り、馬を飾ることも部屋を誇ることもなかったが、ただ父・李晟の故院に対してだけは遠慮無く金をかけた。はじめ、李晟が京師を勝ち取って秩序を回復し、のちに李愬が蔡州を平らげたことについて、識者はその功名と忠節の類似を親子といえど奇なことである、と讃えたという。 

五代ー梁ー朱瑾ー旧五代史13


 どうも一日ぶりです。いやほんとに昨今珍しい連日更新ですが、体調がいいわけではなくむしろ逆。なんかしてないと潰れそうな苦痛の中でもがいておるのですよ。それにしても世の中恐ろしいもんで、介護士が介護対象19人殺害とか見るとうっかり入院も出来んよなーと思う今日この頃です。で、本日は朱瑾。五代の名将というか驍勇を誇りはしたけれどもさほどのレベルではない、せいぜい勇将闘将と言ったレベルですが、現在メインでベリサリウス三部作を翻訳中なのでこれはそのフェイクなのですね。なんか、可哀想な扱いですが。可哀想と言えばベリサリウスの一生も大概可哀想なのですが、評価は極めて高いですよ。フラーやマハンと言った一流の軍人、軍事理論家から絶賛されてます。それはさておき、訳文どうぞ。

朱瑾(しゅ・きん。生没不明)
 朱瑾は朱瑄の従兄弟である。雄武絶倫にして性、頗る残忍。光啓中、朱瑾と兗州節度使斉克譲が婚し、朱瑾は鄆州より盛んに車服を飾り、私に兵甲を蔵し、たまたま礼をもって赴く。親迎の夜、甲士発すを窺い、克譲を虜とし、留後を自称する。蔡賊跋扈するにおよび、朱瑾と梁祖連衡し、ともに秦宗権を討ち、前後してしばしば捷つ。功をもって正しく?州節度使を授かる。既に士の心を得、兼ねて天下の意を并し、梁祖またこれを忌む。朱瑾厚く利をもって梁祖の軍士を誘い、もって間諜を為す。梁祖?を攻めるを為し、朱瑾出師して来援、梁祖としばしば接戦す。

 乾寧二年春、梁祖は大将朱友恭に令して朱瑾を討たせ、塹壕を掘り柵を立ててもつてこれを囲む。朱?はのちに?梁の名将となる将帥賀?および蕃将何懐宝を援護に赴かすが、友恭に擒えられる。十一月、朱瑾の兄斉州刺史朱瓊州を以て降る。梁祖は賀?、懐宝および朱瓊に令して執り、もって城下において捧げさせ、語らせて曰く「卿の兄已に敗れる、宜しく早く順に効け」朱瑾は偽って牙将瑚児に書幣を持たせて降らせる。梁祖は延壽門より至り、朱瑾と言葉を交わす。朱瑾梁祖に言いて曰く「大将の令を欲して符印を送り、願い得るは兄朱瓊来て領に押す、骨肉貴ぶところ、尽く腹心に布するなり」梁祖は朱瓊を遣わして客将劉捍に符笥を取らせ、朱瑾は単騎橋上に立って手を揮い劉捍に謂いて曰く「兄令されて来るべし。余は密款あるなり」すなわち令して劉捍を往かす。朱瑾先ず騎士董懐進に令して橋下に伏せ、朱瓊至るに及び、懐進突出して朱瓊を擒え入り、にわかにして朱瓊の首を斬り城外に投げる。梁祖すなわち班師す。

 ?州陥ちるにおよび、龐師古勝ちに乗じて兗州を攻め、朱瑾と李承嗣はまさに出兵して秣粟を求めて豊沛の間に出兵し、朱瑾の二子および大将康懐英、判官辛綰、小校閻宝、城をもって師古に降る。朱瑾帰る路なく、すなわち承嗣と麾下の将士沂州を保ち、刺史尹処賓関を閉ざして納れず、則ち海州を保つ。師古逼るところと為し、遂に擁州の民江を渡って楊高密に依り、行密表して朱瑾を徐州節度使となす。師古淮河を渡り、行密朱瑾に令して師を率いもって防禦させ、清口に敗る。朱瑾力あり、これより朱瑾淮軍を将いて連年北に徐、宿州に大いに東南これを患わす。

 行密卒するにおよび、子の楊渭継いで立つ。徐温の子徐知訓を行軍副使となし、寵遇頗る深し。のち楊溥は僭號し、知訓は枢密使、知政事となる。朱瑾は以て同平章事となされ、即ち親軍を督す。時に徐温父子は寵を恃んで政をもっぱらにし、朱瑾慮ってつかず。(徐知訓ははじめ兵法を朱瑾に学び、朱瑾悉く心にこれを教える。のち朱瑾と有隙あり、夜壮士を遣わして朱瑾を殺す。朱瑾は手に刀して数人を斬るも、舎後に埋まる。『旧五代史考異』)貞明四年六月、朱瑾は出て淮寧軍節度使となり、知訓家を設けて朱瑾に餞別して宴し、朱瑾この事不遜。翌日、知訓第に謝して詣で、門に留まってひさしく。知訓の家僮私に朱瑾に言いて曰く「相公の政この夕白牡丹妓院に在り、侍るもの得るはなし」朱瑾典謁して謂いて曰く「吾朝に饑えいかんせざる。かつ帰る」既にして知訓これを聞き、愕然として曰く「当晩瑾過ぎるか」朱瑾厚く備えて帳に備える。朱瑾名馬に乗るところあり、冬錦をもってこれを帳貯し、夏薄絹の帳に之を護る。愛妓姚氏色絶色にして、善く歌舞する。知訓至るに及び、酒扈を奉じて寿ぎを為し、初め名をもって馬を奉じ、知訓喜びて言いて曰く「相公出鎭、我と暫別、恨み離れるを知るべし、ここに願うは悉く歓」朱瑾即ち中堂において知訓を中堂に延ばし、姚氏出る。既に酒に酔い、朱瑾知訓の首を斬るも、(知訓朱瑾の馬を求め、朱瑾与えず、ついに隙あり、俄かに朱瑾を出して静淮節度使となし、朱瑾知訓と別に詣で、且つ願って前に馬を献ず。知訓喜び、朱瑾の家に往きて謁し、朱瑾の妻出て拝し、知訓答えて拝し、朱瑾笏をもって撃ち、ついに知訓を斬る『旧五代史考異』)その部下に示す。因ってその衆をもって衙城に急趨するも、知訓の党已に扉を閉ざし、ただ朱瑾独り入るを得、衙と兵戦する。また城を踰えて出、脚に傷し、馬を求めて獲ず、遂に自刎する。市においてその屍暴しも盛夏蠅蛆無し、徐温令してこれを江に投げ、部人この葬いを窺い収める。徐温速やかに疾となり、夢に朱瑾に髪を引かれ満身これを射る。徐温即ちこれを礼葬し、祠を立ててこれを祀る。(朱瑾外来より適し、一騎前をもってその陣を見る。曰く「不足を為すなり」。因って顧みて一麾に叛き、外に兵争って進み、遂に球、謙を斬り、兵乱してみな潰す。朱瑾嘗て有徳をおいて知訓なるもの、終にその凶なるに及び、呉人みな謂いて知訓の曲に在り。旧五代史考異)

南宋ー孟珙-宋史412巻

しばらくぶりのご無沙汰でした、岩城です。少しだけ余力があったので本日2件目をアップ。My most favoriteこと孟璞玉です。中華の名将としては本当に最強に好きですね。理由はいくつかあるのですが、なにより大きなものとして彼が「守戦の名将であった」ということが挙げられます。攻勢に転じたときの威力は岳飛や李靖、韓信や白起らに及ばないでしょうが衰亡の宋朝にあってモンゴルの猛攻に南宋の領土を踏ませず、さらにその構築した防衛ラインが死語30余年にわたって機能し南宋の命脈を永らしめた功績は絶無と行って過言ではありません。というわけで駄文はこれぐらいにして、それでは訳文どうぞ。

孟珙(もう・きょう。1195-1246)
孟珙、字は璞玉。随州棗陽の人である。四世の祖、孟安は岳家軍の中にあって功あり。嘉定十年、金人が襄陽を寇し、団山に駐す。父孟宗政は時に趙方の将であり、兵を以てこれを防ぐ。孟珙はその必ず樊城を窺うを料り、父に献策して羅家渡渡河中を討つべしと論ずる。孟宗政はこれを然りとした。越して翌日、諸群渡しに沿って布陣し、金人はたして至るや河を渡るの半ばで伏兵を発し、その半ばを殲滅する。孟宗政は檄を受けて棗陽の応援に向かい、陣に臨んで父子相失し、孟珙は敵騎中に素袍白馬の者を見つけて曰く「わが父なり。」急ぎ麾下の騎兵隊をもって陣に突撃し、ついに孟宗政を助ける。功を以て勇副尉に進む。

 嘉定十二年、完顔訛可が歩騎二十万を以て分路棗陽を攻め、城下を環の如く囲む。孟珙は城郭に登りこれを射たので、将士皆驚き服した。孟宗政は孟珙に金人の退路を急襲すべしと命じ、孟珙は見事十八の砦を抜き、千余級を斬り、大量の俘虜と軍器を獲て帰った。金人は逃がれ、功績を以て下班祇応。

 嘉定十四年、制置使趙方に拝謁し、一見してこれは奇なりと認められ、引き立てを受け光化尉、転じて進武校尉とされる。十六年、功を持って特に承信郎。父の憂いに中り、制置使は孟珙の復帰を請うたが、孟珙は辞して葬儀と喪の間職に就かず、また辞し、転じて成忠郎。理宗は即位すると特別に忠翊郎を授けた。まもなく峡州兵馬監押兼城巡検、京湖制置使兼提督虎翼突騎軍、また昇進して京西第五副将、仮管神勁左右軍統制。

 はじめ、孟宗政は唐、鄧、蔡の三州から壮士二万を集め、號して「忠順軍」とし江海にこれを統べさせたが、衆が不安がったので制置使は孟珙を以てこれに代えさせた。孟珙はその軍を三つに分かって統制し、衆は落ち着く。紹定元年、孟珙は制置使に言上して平堰を棗陽に造る。それは城から軍の西まで十八里、八畳河を経て漸水の側に至り、水を跨ぐこと甚だ多く、通天槽八十三丈を建て、灌田十万頃、十荘を立てて三つに分かち、軍民の分屯に使わしめる。この歳十五万石を獲た。また忠順軍に馬を自宅で養うよう命じ、栗粟を官給したので、馬はますます盛んに繁殖した。二年、さらに昇進して京西第五正将、棗陽軍総轄とされ、本軍は駐屯する忠順三軍。翌年、京西兵馬都監となるも、母の憂いに丁る。さらに翌年、復帰して京西兵馬鈐轄、棗陽軍駐箚に京西兵馬都監で三軍を統べる。

 紹定六年、元の大将ナヤン・ベンチャン(スブタイのこと?)が金主完顔守緒を追い、蔡州に逼る。孟珙は檄により鄂を守りつつ、金の唐、鄧行省武仙を討つ。武仙は武天錫、鄧守移刺瑗とともにを為し、金のために尽力して守緒を蜀に迎えるを欲し、光化を犯して鋒剽甚だしかった。武天錫は鄧の農夫で、乱に乗じて二十万を集めて辺境に患いを為したが、孟珙はその塁に逼り、一鼓のもとにこれを抜く。帳下の壮士張子良が武天錫を斬ってその首を献じた。この戦役で首級五千、俘虜四百余、戸十二万二十を得て、江陵府副都統制と金帯を授かる。

 制置使は檄を以て孟珙に辺事を尋ね、孟珙曰く「金人もし呂堰に向かうなら、すなわち八千人で足りぬこと無し。しかるにすべからく木査、騰雲、呂堰らの砦みな渡るに節制を受けるべし」すでにして劉全、雷去危の両将が金人と夏家橋で戦い、小捷。同じころ、金人は呂堰を犯し、孟珙は喜び手を打って「吾が計を得たり。」命を極めて諸軍呂堰に追撃し、大河に逼って進み、山険に逼って退き、塞四つを抜いて、金人の棄てた輜重無算、甲士五十二、斬首三千、牛馬に駱駝万計、帰服する民三万二千余を獲る。移刺瑗はその部曲の馬天章に書を奉じて降るを請い、それによって得られた県は五、鎮は二十二、官吏百二十二、軍馬千五百、歩軍四万、戸三万五千三家、口十二万五千五百五十三戸口に及ぶ。孟珙は入城し、移刺瑗は階下に伏して死を請う。孟珙はその衣冠をただし、賓礼をもって見えた。

 はじめ、武仙は順陽に屯し、宋軍を悩ますところなれど、退いて馬蹬に屯す。金の順陽令李英は県をもって降り、申州安撫張林州をもって降る。孟珙曰く「帰属の人、よろしくその郷土につかわしてこれを耕させよ。その人民をとらえてしかるに立つの利は少壮軍に籍を為すのみ。俾は自ら耕して自ら守る。才能ある者には土地を分かち、職使をもって任ぜよ。おのおのその徒をもって招くは勢いそれを殺すなり。」制置使これを是とす。七月己酉、武仙の愛将・劉儀が壮士二百を連れて降り、孟珙は武仙の虚実を問う。劉儀曰く「武仙は九砦に拠し、その大なるは石穴山。もって馬蹬、沙窩、岵山の三砦その前に蔽し、三砦破れずば石穴未だ囲む易からざるなり。もし先に離金砦を破り、ついで王子山砦をまた抜けば、岵山、沙窩孤立し、三師擒らえるを為すなり。」孟珙は翌日離金に兵を向かわせ、廬秀の黒旗師を執るべく入砦したと言わす。金人宋軍を疑わず、すなわち分拠して鉱山の坑道に案内し、宋軍はそこで太呼して火を放ち、掩殺甚だし。この夜、壮士楊青らに王子山砦を衝かせ、護帳の軍は酔って眠る。王建が帳の中に飛び込んでその金将の首を取り、その佩嚢に入れた。外が明るくなって首を見れば、金の小元帥であった。

 丙辰、馬蹬に出師、樊文彬を遣わしてその前門を攻めさせ、成明らに西路を截撃させ、一軍を以て訖石烈を囲み、一軍を以て小総帥砦を囲ませた。火は天を衝き、殺戮山を為す。逃れ得たものもまた成明の伏兵によって捕えられた。壮士老少二千三百が帰順。軍を還し、沙窩の西に至って、金人に遇い大捷。この日、三戦して三捷。まもなく、丁順らが黙候里砦を破る。孟珙は劉儀を召して「この砦すでに破れ、板橋、石穴かならず震撼、汝能く吾のために誰を招くや?」劉儀答えて「晋徳と花腿王顕、金の安撫安威の旧友なり。招けば必ず来る。」廼ち晋徳に遣い行く。劉儀は請うて婦人三百人を偽って逃がし、懐柔して軍にもって入ろうとするよう差し向けようと。孟珙はこれに従う。安威は晋徳を見るや叙情好歓甚だしく、晋徳を介して懐かしく花腿王顕を見、花腿王顕は即日書を致して降った。晋徳はまた孟珙に請うて劉儀を遣わして武仙に去就をうかがえという。花腿王顕の軍は約五千、なお甲冑をほどかず。孟珙は令して宴席を作り、入陣、長い間周りを見て、すなわち去る。かくのごとくかざりなく撫循し、牛を潰し酒を興じて宴を張り、皆酔い飽食して歌舞する。孟珙はまさに上の岵山の絶頂に居る武仙を料り窺い、樊文彬に令して翌朝岵山を奪わせ、その下に軍を駐させ、前鋒に伏兵を埋伏させ、後ろには帰路を遮断させた。すでにして武仙の衆は山を登り、半ばに及んで樊文彬の旗が靡いているのに気付く。そこで伏兵発し、武仙の衆挙措を失い、折り重なって崖に堕ち、山は朱く染まる。その将兀沙惹を殺し、擒者七百三十人、他は鎧甲を棄てて山に逃げた。薄昏、孟珙が進軍して小水河に至ると、劉儀が還り、武仙に降るつもりが無いことを告げ、謀を以て商州の険要に依って守るが、しかるに老人稚児は北に去るを願わずと。孟珙曰く「進軍を緩めるべからず。」夜十刻、樊文彬を召して方略を授け、翌日石穴九砦を攻める。丙辰、寝床で食事をとると出発し、晨のうちに石穴に至る。時に雪積りいまだ晴れず。樊文彬これを患うも、孟珙は「この雪は呉元済を擒らえるの時の雪なり」馬に策を当てまっすぐ石穴に至り、兵を分かって進攻し、しかしてもって樊文彬は行き来して孟珙の側に給事する。寅から巳に至るまで力戦し、九砦一時にすべて破れる。武仙は奔り、宋軍は鮎魚砦まで追求した。武仙は遠くから宋軍を見て、服を替えて逃げる。また銀葫蘆山で戦い、軍また破る。武仙とともに逃げるもの五、六騎。これを追うも隠れて見えず。その降る衆七万人、甲兵は無算。軍を襄陽に帰し、転じて脩武郎、鄂江江陵府副都統制。

 元兵は宣撫王檝を遣わしてともに蔡州を攻めんと約し、制置使は孟珙に諮る。孟珙は二万人で行くことを請い、命により孟珙の諸将尽く護るを為す。金兵は二万騎で眞陽の横山から南に懸ったが、孟珙が鼓を鳴らして前進するところ金人は戦い敗れ、退き走り、これを追って高横陂に至って斬首千二百級。ベンチャンはミャンブティ、モヘグチュ、アシの三人を遣わして孟珙らを迎えた。孟珙は彼らと狩猟し、獲物の地を啜り、馳せて帳に入る。ベンチャンは喜び、孟珙と兄弟の契りを交わし、馬乳を酌してこれを飲んだ。金兵万人東門より出撃するも、孟珙によってその退路を遮られ、汝河に覆い入れられる。その擒らえるところの偏裨八十と七人、さらに蔡州からの降人を獲る。城中飢えに中ると聞いて、孟珙は「已にして窘めるなり。まさに尽く死すまで守り、囲みを突かれてもって防ぐか。」孟珙とベンチャンは互いに約し、南北の軍が相犯さないことを決めた。堰水を決し、瀑布に竹の垣根を建てる。ベンチャンは万戸侯張柔の師精兵五千でもって入城し、金人は鈎兵二卒でもってこれに対す。張柔が流れ矢に中って落馬しかけると、孟珙は麾下の先鋒を遣わしてこれを救い、張柔ともって挟撃に出る。撥発官宋榮はかしこまらず、まさにこれを斬り、衆下馬しとりまいて礼拝を請うも、なおこれ戦う。黎明、孟珙は進んで石橋に逼り、鈎兵をもって郭山を生け捕り、戦いやや却く。金人突至するや、孟珙は馬に飛び乗り入陣し、郭山を斬りもってその衆を侒え、軍気また張って殊更死戦する。進んで柴潭の立柵に逼り、捕えた金人百二人、斬首三百余級。翌日、諸将に命じて柴潭楼を奪わす。金人は争って楼を守ろうとして、諸軍魚を串刺しにしたように列をなし上る。金人はまた飾り立てた美婦人をもって相いに蠱毒し、麾下の張禧らこれを殺してついに柴潭楼を抜く。捕らわれの将五百三十七人、蔡人は潭の固めを恃みと為し、外には即ち汝河を恃み、潭の高さから河において五、六丈の、城上から金字號楼と称す巨弩を伏せた。相伝えるところによれば下に龍あり、人敢えて近づかず、将士疑い畏れる。孟珙は麾下を召して酒を飲むや、再び近づいて曰く「柴潭は天が造ったものにあらず地が設けたものにもあらず、楼に弩を伏せ能く遠くを射ることができるかもしれぬが近くを射る能わず。彼の恃む所は所詮この水のみ。決してこれを注がせ、立ち枯れるを待つべし。」みな曰く「隄堅くして未だ鑿する易からず。」孟珙曰く「いわゆる賢者は両隄の首を築くに一旦止む。その間隙を狙い両翼に鑿すべし。」潭ははたして決壊し、薪蘆もって実り、ついに渡河して攻城に移る。その両将を擒えてこれを斬り、殿前右副都點検温端を擒らえて城下に磔とし、進んで土門に逼る。金人は老稚を殺した油で駆動する大砲、號して「人油砲」を繰り出し、人々はその酸鼻に耐えられず、孟珙は道士を遣わして説きこれを停止させた。

 端平元年正月辛丑、城上に黒気厭厭、日の光なく、降ったもの曰く「城中の糧が絶えて三か月、駱駝のコブを破り形を留めないまでに煮えた粥を喰らって皆を鼓し、かつ聴くに以て老若相食み、諸軍日に畜骨と芹泥をもってこれを喰らう。また往々にして敗残全滅の軍、拘えられてその肉食まれる。故に降るを欲する者衆なり。」孟珙は令を下して諸軍に銜を含ませ、雲梯を城下に布した。己酉、孟珙の統帥する師は南門に向かい、金字楼に至って、雲梯を並べ、諸将に令してまさに鼓を聞いて乃ち進む。馬義が先駆けとなり、趙榮これに継ぐ。万衆競って登り、城上は大戦となる。丞相・烏古論栲栳が降り、その元帥兀達林および偏将二百人が死んだ。西門開き、ベンチャンを招き入れ、江海が参政張天綱をとらえて以て帰参する。孟珙は守緒の所在を問うてまわり、張天綱曰く「城危うきときに宝玉を取って小室に置き、草を以て環と為し、號泣して首をつり、曰く『我、火に便じて死す』と言い硝煙の中未だ絶えず。」孟珙とベンチャンは守緒の遺骨を分かち、金の諡宝、玉帯、金銀印牌各種を獲て還った。軍を襄陽に還し、特に武功郎、主管侍衛馬軍行司公事を授かる。さらに抜擢されて建康府都統制兼侍衛馬軍行司職事。

 太常寺簿守楊祖、看班祇候林拓朝廷に入朝、諜報に謂う元の兵河南府に争い来ると。歩哨すでに盟津、陝府、潼関、河南でみな増屯設伏するに及び、また聴くに淮刻日進師して困窮し、衆畏れ前なしと。孟珙曰く「淮東の師は淮、泗を遡って汴に及ぶ由、十日に達さずして達すこと非ず。吾精鋭選抜の騎馬で疾馳し、十日にして竣事なかるべく、師を逮捕して東京に至らん。吾すでに帰りたれば。」ここにおいて昼夜兼行、二人を使いに出して陵下に至り、御表を奉り宣べ、礼を成して帰る。制置使は奏して孟珙を留め襄陽兼鎭北軍都統制となした。鎭北軍の者、孟珙の招くところ中原精鋭百戦の士一万五千。これを分屯して襄北、樊城、新野、唐、鄧の間に配す。俄かに令がくだって枢密院に赴き議を申し上げ、帯と御器械を授かる。二年、主管侍衛馬軍司公事を授かり、時に暫時黄州に駐箚、朝廷は辞して上(皇帝)曰く「卿は名将の子、忠勤礼国、金を蔡州に破り滅ぼし、功績昭著なり。」対するに孟珙曰く「これも宗廟の威霊と陛下の聖徳、そして三軍の将士の労であります。臣の力などなにほどのものでありましょうや?」帝に問いを返し、曰く「陛下に願いますは民に寛大であられ、人材を蓄え、以て機会を待たれますことを。」帝は更に言葉を重ねるが、孟珙は答えて「臣は所詮甲冑の士、戦いを謂いはいたしますが、それ以外を語る言葉を持ちませぬ。」賜物を賜与されること甚だ厚し。兼ねて知光州、さらにまた兼ねて知黄州。

 端平三年、孟珙黄州に至り、垣を増築し井戸をさらって深くする。軍宝の検査が訪れ、辺境の民で来帰するもの日に栓を数え、家屋三万間を為してこれに住まわせ、厚く殷賑を加え金を貸した。また兵民の雑居を慮り、高阜に斉安、鎭淮の二砦を築いてもって諸軍をここに済ませる。章家山、毋家山の両堡に先鋒を為し、虎翼営、飛虎営を置いた。兼主管内安撫司公事、節制黄薪光および信陽の四郡軍馬。

 元兵、薪州を攻め、孟珙は兵を遣わして囲みを解き、また襄陽を攻められると鄧の守りを張亀壽に、荊門の守りを朱楊祖に、郢の守りを喬士安にそれぞれ郡を委ね去る。復州の施子仁が死ぬと江陵が危急を告げる。詔により沿江、淮西から援軍が遣わされ、衆に孟珙を越えるというものなし。すなわち先遣隊の張順が江を渡り、孟珙が全軍を以てこれに継ぐ。元兵は兵を二つに分かち、一つを復州攻めに、もう一つは枝江の監利県から筏を編んで長江を窺う。孟珙は変事に旌旗と服の色を変え、循環往来、夜篝火を並べて江を照らし、数十里の所に接近しているのを確認すると、外弟の趙武らを遣わしてともに戦い、節度自ら往き、砦二十四を破り、民二万を解放した。嘉熙元年、県男に封ぜられ、高州刺史に抜擢され、忠州団練使兼知江陵府、京西湖北安撫副使。まもなく、鄂州諸軍都統制とされる。

 元の大将ティムゲが漢陽の境に侵攻し、大将クオン・ブケが淮甸に侵攻すると、薪州守張可大、舒州の李士達ともに軍を委ねられながら去る。光州の董堯臣は州をもって降った。三郡の人馬糧機械を合わせても黄州守王鑑、江師万文勝は戦って利あらず、孟珙が入城するや黄州の軍民喜んで曰く「わが父来れり。」城楼に駐留し、指で戦守の策を書き、その城すべて兵の気概を持たせ、逗留者四十九人ことごとく斬って徇えた。上は御筆をもって将士に戦功の賞を約し、特に孟珙には金盌を賜与し、孟珙はそれに白金五十両を益して以て諸将に賜った。将士は数か月にわたって苦戦し、病傷者相継いだが、孟珙が医師を遣わして診療させると士卒皆感涙した。

 二年春、寧遠軍承宣使を授かり、帯と御機械を賜与され、鄂州江陵府諸軍都統制とされる。孟珙は三軍の賞典未だ頒されずを見て、辞を表す。詔に曰く「功あって賞さずば、人は朕をなんと謂うか? 三軍の勲労、その来趣や上。封爵の序、将帥より始める、卿ここに至って辞すまいや?」まもなく枢密副都承旨、京西湖北路安撫制置副使兼督視行府参謀官とされ、さらにまもなく制置使兼知岳州とされる。すなわち江陵節制司の檄を以て襄、郢の回復に乗り出し、まず張俊が郢州を復し、賀順が荊門軍を復す。十二月壬子、劉全が冢頭に戦い、樊城に闘い、郎神山に戦って、しばしば勝ちを以て聞く。三年春正月、曹文鏞が信陽軍を復し、劉全が樊城を復し、ついに襄陽の回復成る。枢密都承旨、制置使兼知鄂州を授けられた。劉全を譚深に遣わして光化軍を復させ、息州、蔡州を降し、孟珙はこれ逆らうを以て兵と為すと命じ、壮士百余を得た。籍を忠衛軍と為す。

 はじめ、詔により孟珙は京、襄を修復し、郢を得てしかるのちかならず軍費を贈って以て通ずべしといい、荊門を得たのちもって奇兵を出すべしと。この由をもって方略を指授し、兵発深く入り、至る所捷ちを聞く。孟珙は略を奏して曰く「襄陽を取るは難しからずしてこれを護るは難しく、将士不勇にあらねど、車馬機械不精にあらねど、実在する事力の不給を辞すものであります。襄、樊は朝廷の根本、今日百戦してこれを得ても、まさに経理を加えねば、元気護る如く、甲兵十万をもってしても非ず、それを分守するに不足であります。その兵を課して敵来る後、これを保つに全勝を執若するや? 上兵は謀を伐つと申し、ここは争わずして取るべきでありましょう。」すなわち先鋒軍を置き、もって襄、郢の帰順した人を隷属さす。

 庚寅、諜報により元兵大挙して江に臨む。孟珙は策を講じて敵は必ず施、鈐を通って湘湖に出ると読んで、粟十万石を以て軍餉とし、兵二千で陝州に屯し、千人を帰州に置く。忠衛軍の旧将晋徳を光化から還らせ、孟珙進んでこれを用う。孟珙は弟の孟瑛に精兵五千を与えて松滋に駐留させて夔州を応援させ、晋徳に命じて帰州の隘口万戸谷に造兵させる。元兵より江を窺い、孟珙は密かに劉全を遣わして敵を拒み、伍思智に千人を授けて施州に屯させる。元の大将タハイは万州湖難、施、夔州を震撼させたが、孟珙は兄孟璟を湖北安撫使、知峡州となし、急ぎ策謀を以て防備に備えた。孟珙自身は請うて督府にあり、軍を師して西上、孟璟は調略した金鐸の一軍を帰州の大亜砦で迎撃した。劉全は巴東県の清平村で捷つ。孟珙の弟孟璋には選抜した精鋭二千を与えて澧州に駐留させ施、鈐路を守らす。四年、子爵に封ぜられた。

 孟珙は條文を上に上奏し三層防備の策を説く。まず制置使および移関外都統の一軍を夔州に置き、涪の万以下江に面して責務を負う、これ第一層、鼎、澧を第二層となし、辰、沅、靖、桂州を以て第三層となす。峡州、松滋にはすべからく万人を屯して水師を隷させ、帰州には三千人を屯させ、鼎、澧、辰、沅、靖州におのおの五千人、郴、桂州に各千人、しかして江西を保つべしと。また楊鼎、張謙を辰、沅、靖の三州に遣わし行かせ、同地を守る卒に蛮民を熟知するよう諭告し、思、播、施、鈐に請求して支柱と為し、もって来上を図る。

たまたま諜報が元兵襄樊において攻めるを知る。信陽では衆を集め軍民に種を配り、船に材木を積んで鄧から順陽に向かう。そこで張漢英がから出撃し、任義が信陽から出で、焦進が襄陽から出て、分路その勢をめる。王堅がひそかに元の造船所に近づいて材木を焼き、また師を過ごすために必須の糧を蔡州から失わせるべく、張徳と劉整が分路蔡州に入り、積み上げられた食糧に火をかけた。この功により孟珙は寧武軍節度使、四川宣撫使兼知夔州とされた。麻城県、巴河、安楽磯、管公点ら淮河の民三百五十九名、みな沿辺で戦いを経た士となり、號して「寧武軍」。孟璋がこれを領す。孟珙は進められて漢東軍侯兼京湖安撫制置使。

フファイリ・バートルが壮士百人を師し、老稚百十五人を従え、馬二百六十匹をもって降る。孟珙は「飛鶻軍」と號し、フファイリの名を改めて艾忠孝となし、飛鶻軍の統括に充てて官につけた。四川制置使・陳隆之と彭大河は仲が悪く、朝廷においても交わりを持たなかった。孟珙曰く「国事はかくのごとく困難であり、智を合し謀を并せ、それでもなお払い勝つに懼れあり。しかして両司方は勇ながら私闘し、これでは廉破と蘭相如の風ありとはいえませんぞ。」馳せ書してこれを責める。陳隆之、彭大河は得心して大いに恥じるところがあった。

蜀政の弊害を改め、諸郡県の団体に条目を列挙させて、曰く管轄を計らず、曰く論功不明であり、曰く軍糧減り、曰く官吏貪暴、曰く上下互いに欺く。また曰く「険要を選ばすして砦柵を立て、則ち兵の民を護るに難、流離を集めずして安楽に種を耕し、則ち民を以て兵を養うの難なり。」管吏の功労の上下を設けてもって賞罰を課し、奉行をつかさどらせて諸々を可能とさせる。黎の守閻師古が言うに大理国は黎、雅を通って入貢を請い、孟珙は大理からの報せに邕、広を自ずから通り、川蜀の道を取るのはよろしからずとしてこれを退けた。兼夔路制置大使兼屯田大使。軍に宿の儲けもなく、孟珙は大いに屯田を興し、軍を動かして堰を築き、農民を募集して種を給与し、秭帰から漢口まで、屯田二十、荘百七十、併せて十八万二千二百八十頃を為し、上屯田の始末の所減とひもで巻いて保管した食料の数について、詔を降して奨諭していただいた。靖州徭の林賽児が乱を為し、王瑀がこれを平らぐ。

 淳祐二年、孟珙は京、襄の死節死事の臣の要請を受けて入朝し、岳陽に祠を建てる。歳時に祭りに至り、祠に名を賜って閔忠廟。淮東兵を受け、枢密俾として孟珙は応援し、李得に精兵四千を与えて遣わし、息子の孟之経を監軍となす。間諜の報せで京兆府のヤカダテイが騎兵三千を以て商州の鶻嶺関を取り、房州の竹山から出る。王令を遣わして江陵に屯させ、ついで郢州に進晋させる。劉全が沙市に屯し、焦進が千人を引っ提げて江陵から襄陽の荊門に出、劉全は檄して十日分の糧を齎し、南漳を通って襄に入り、諸軍と合する。

 元兵三川に至り、孟珙は令を下し戌主兵官として応出、寸土の失地も許さず。開州の梁棟の糧が乏しくなると請うて司に還り、曰く「この城は棄てるなり。」と言って梁棟を夔州に遷す。使いの高達の首を斬って随える。この由は諸将の間で令を凛としこれを謹ませた。元兵瀘に至り、孟珙は重分に司の兵を分かって応援させ、張祥を涪州につかわし屯させた。功により檢校少保、爵を進められて漢東郡公。孟珙曰く「沅の険阻は辰ほどではなく、靖の険阻は沅ほどではない。三州皆措置に当るなら靖が尤も急であろう。今三州では一寸の米粒も兵に出るところなく、これ京湖の憂いの一である。江の防御は秭帰から壽昌に及び、二千里に渡って、公安から峡州まで難所およそ十余カ所あるも、隆水冬には涸れ氷り、節制して防備に当るべくねも、兵は備えを忌むもの多く、これ京湖の憂いの二。今尺屋に幸いにも数人を数え、既に守り河原の難、また守るは険隘、これ京湖の憂いの三。陸抗の言葉に謂う『荊州は国の藩表、それに如くは虞に有り、ただ一郡を失うに非ず、まさに傾国の争い。もし増兵八万にして併せて防御するに非ずば、韓信、白起といえども復す能わず、巧みに展くところなし。』と。今日の時勢大略はそれに似る、利害至重なり。」余玠は四川の宣諭ながら行政の区を過ぎて孟珙に賛同し、孟珙は以て重慶にわずかながらの粟と餉の屯田米十万石を搬入し、晋徳を師とする六千の兵を遣わして蜀を援けさせ、孟之経を策応司都統制とする。四年、知江陵府を兼ねる。孟珙は左右に云って曰く「政府はまだ我らの窮状を知らぬ。もし朝廷が兵を以て我に合さば、君臣怒涛をなすというに、なにゆえ伝わらざるや? 珙、往かばすなわち上に我が虚を報せ、行かざればすなわち誰も実際の捍患を知ることなし。いかんすべきや。」識者はこれを是とした。

 詔により京湖の兵五千が安豊に移され、寿春を援ける。孟珙は劉全を遣わしてまさに往かせる。ついで命有って分兵三千を斉安に備え、孟珙曰く「黄州と寿昌は三江口を隔てて一水があるのみ、すでに全兵水を渡り、なんで予め兵を遣わす必要があろうか? まず一日さらに一日を費やして、無益にして損有れば、万一上が遊びなさるに警鐘を要する。我が軍は既に疲れており、この計を得ざるなり。」劉全従わず。端平五年、御筆を以て職事の脩挙を授かり、転行両官、令を許すを回復する。孟珙は江陵に在り、白に登って詠嘆して曰く、「江陵は三海をたのみとし、自然低湿の地にある。変あっては桑田の者たちは敵の鞭一鳴りしただけでさっさと城外に逃げるだろう。ここは城から東を以て、古嶺先鋒から三汊に至らせれば、隔てるところに限りはない。」廼ち内隘十一か所を修復し、また別に城から数十里の所に十の隘路を築く。沮、漳の水が城西から江に流れるよう旧来の方法を取るも、東がこの障害となる。湾曲して城北から漢口に入らせ、しかして三海一つに通る。従うにその高下、櫃から畜泄をなすこと三百里に及び、大河果てしなし。土木工事には職工百七十万が動員されたが、民はその徭役に駆り出されることはなく、上は造形美術であるとこれを讃えた。

 孟珙は身を江陵に鎭し、兄孟璟は武昌に師す。故事に謂う、兄弟同処一路の者になかりせば、田に帰るを請うて許されず。詔によって五千の援兵が淮に送られ、孟珙は張漢英の師につかわす。枢密の兵が移動して広西に赴き、孟珙は執政の書を執って曰く「大理から邕の間数千里には部落数千、今まさに選ばれしものが数郡に分布し、生夷を分かち治めて険要の形勢に依りるのみ。よろしく措置しながら屯兵を関に創り、積糧とまぐさをこの地に聚めて、声勢すでに張り、国威自ら振う。この風聞を調す計出ず、空しく錢糧を費やす。ことに益なし。嗚呼」聴かれることなし。元の大将ダイナが江陵に至り、孟珙は楊全を遣わし荊門に伏せさせて戦う。孟珙は先んじて間諜から情報を知り、枢密に達し、檄を飛ばして両淮で備えをなすも、両淮知らざるなり。のち、はたして報せの如く。孟珙は奏して「襄、蜀は離散して士、帰るところなく、蜀士は公安に聚まり、襄士は郢渚に聚まっております。臣が公安と南陽に両書院を創りて、もって田廬の隷となることを否定したのは、いささか教養を教え込むためでありました。」帝に提題を請うとを賜与された。

 はじめ、孟珙が招かれて襄陽の鎭北軍に駐留すると李虎、王旻らが乱を起こし、鎭北また潰え、降るものが後を絶たなかったのでそこで厚くこれを招いた。行省范用吉は密かに降るものたちと通款をなし、もって報告を受けてはこれを質と為した。孟珙が朝廷でそれを申上げても朝廷は従わなかったので、孟珙は「三十年中原の人心を収攬したものが、今志を得ずして伸びざるとは!」ついに病を発し、休退を請う。檢校少師、寧武軍節度使を以て致仕。江陵府にて没。時に九月戊午、月は朔日。大隕石が境内に堕ち、雷鳴の如く音轟いたと思うや、薨ず。台風が発生して家屋の横木が折れた。訃報に接し、帝は震えて哀悼の意を示し、銀絹それぞれ一千を贈り、特に少師を贈り、のち更に太師を追贈、吉国公に封じ、諡は忠襄。廟号は威愛。

 孟珙は忠君礼国の念、金石を貫くべし。在軍中参佐部が論事を枉げると、人に謂い人これを異とした。孟珙は折衷の事について片語をもってのぞくことをしなかったので、衆士みな満足した。人を謁して客と遊び、老校退卒しても敬意を恩威と慰撫を以て接して敬意を表された。名と位は重しと雖も、これ鼓と旗を立て、将吏に臨んで色凛然、敢えてその死に泣かざるものなし。位を退くとすぐに焼香して地を掃き清め、背なしの椅子に背筋を伸ばして座り、蕭然として事の他に自分を置いた。貨殖に遠く、物事に深い味わいを好んだ。その学識は易学に顕著で、六十四卦を各々四句で繋げ、名付けて警心易賛。また仏教にも堪能で、自ら號して「無庵居士」といった。

ボヘミアーヤン・ジシュカ第三回(BattleField版)

 どうも、一ヶ月に5,6回更新がすっかり平常になってしまったなーと少し慨嘆しつつもこれ以上のペースは無理だわな、と体調を見てそう断ぜざるを得ない岩城です。それでも今回は更新スパンそこそこ早かったような気がするのですが、まあ以前は一日2件とかアップしてたわけでそれを考えるとむぅ、と思わざるを得ませんが、無理は出来ない身体です。とはいえ、死ぬ死ぬいいながら自分みたいな人間がやたら長生きするんじゃないかなと思っていますが、苦しいのに死ねないって一番辛いんじゃないですかね。だからって自殺する度胸もないし。
 さておきまして、ヤン・ジシュカ第三回目にして最終回。3回分合わせると一人で100バイトを軽く超える分量ですが、今回はそんなに長くありません。今回描かれるのは主にジシュカの統御の技術についてですね。将才において15世紀に冠絶すると言っていいジシュカですが、現地の人に言わせてなおジシュカは世間的にマイナーな人物であるといわざるをえないようです。惜しむべし惜しむべし。

ジシュカのジェネラルシップ
 ヤン・ジシュカはまぎれもなく中世後期-早期ルネサンス期を代表する、最も想像力豊かな将官であった。火薬兵気を最初に使用したのは彼ではなかったけれども、それを利用する手法において彼は同じ時代の誰よりもいっそう大胆で革新的であった。経済的に下級の人民を兵として扱うという彼の考えは100年戦争におけるウェールズ長弓兵、スイスのパイク歩兵などによって代替され、チャールズ・オマーンの考察するところに寄れば「封建制における騎兵と小規模な封建制度自体の征服」ゆえに、他国(主としてイギリス)で使われることがなかった。

指導者としてのジシュカを支える強さは計略と画策、驚異的な士気の練達、単純な命令系統と士気の高さであった。策略の終結点は当然ながら敵を不利なポジションに置くことにあり、ジシュカはこのため敵の重装部隊をしばしばその運用に適さない地形に追いやった。彼が指揮を執った最初の二つの戦い、サッドメールとヴィトコフ・ヒルでは完全にこれをやってのけた。ボヘミア人は攻撃者に対し、彼らを隘路に誘い込むことで数の力を強制的に否定し、急激に落ちた敵戦闘力に対してより多大な火力を集中することで勝利をたぐり寄せた。

 不利な立場を相手に強制する能力は、彼の戦術と同様、敵の能力を熟知することにきわめて依存した。ジシュカは、自軍のポジションがどうであろうと小作人では騎士に勝てないことを知っており、それ故、彼は帝国の騎兵部隊を相手にワゴンブルグという高さ・堅さの利点をもって戦った。ワゴンブルグの前では騎兵は無力であり、下馬した騎士とワゴンに守られた小作人兵ならば互角であった。ゆえに彼は絶対その状況に敵を引き込む必要があった。

 小作人のディフェンダーは槍とフレイルを使い、同じく剣で武装した正規兵と対等に渡り合った。彼の戦争の攻撃は常に防衛的であり、彼は包囲攻撃の任にも従事し新式の大砲を使用したけれどそれは旧来の戦争の延長でしかなかった。彼の戦争の独自性はあくまでワゴンブルグに集約され、これは比較的平坦な土地の多いボヘミアの地勢とマッチして効果的に使われた。

そして、彼は敵を戦争に引きずり出し、敵軍に対して必要なかぎり武器を使用しない受け身の強さを備えた。ジシュカはピストルを装備したが、彼の敵がそれを利用しない限り、彼はそれを使うより、優先して彼のワゴンブルグを完成させることに専念した。これはもちろん、ワゴンブルグを戦争の短期決戦兵器として使うためであった。なんとなればほとんどの軍隊はこの当時小銃を装備しており、木製のワゴンは彼らが15世紀早晩すでに扱われていた火矢による火事とは異なり、それほど多くの砲火を吸収することは出来なかったから。あらゆる新戦術、あるいは新兵器が紹介されるはじめにおいて引き起こされる驚きは常に驚異的であり、ジシュカのワゴンとそれによって運用されるピストルも例に漏れなかった。これこそがジシュカをして他の将官より際立たせる者であり、彼は彼自身の軍隊の強さと弱さを直視し、その弱い部分に彼の能力を傾注し、改変させた。

 彼のこの二つのサプライズは唇歯輔車の関係を取った。ワゴンブルグと小作人軍人。実際どんな程度の損害が出たか以前に、多大で猛烈な砲火に直面したことはサッドメールで騎士たちを驚かせたに違いない。これは銃が、集結して受動的に使われた最初の例であった。効果は顕著であった。騒音はそれ自体恐ろしい武器であり、さらにそれは敵兵を混乱させる火薬の瞬きと硝煙に結合した。

 見たところ、軍馬は次第にそれを乗り越え始めた。なぜならクトナ・ホラの戦いにおいて帝国の騎兵部隊は繰り返しボヘミア軍に突撃したから。しかしたとえピストルと小型砲によって与えられた損害が実は軽微であったとして、それは続く矢と弩ボルトによって補われた。最初に登場したとき、ワゴンブルグの性質は十二分に驚くべきものであったろう。しかし彼はクトナ・ホラにおいて防御から包囲突破へと戦術をシフトし、夜襲を行って再びこれまでにない発想を見せた。彼は戦闘の性質に対する一般的な態度と、シギスムントの個人的スタンスを熟知しており、酔って彼は彼の敵をマヒさせるためにその両方を欺いた。たとえ彼がほとんど敵に損害を与える事無なく勝利したと言っても、長らく続いた戦争の中で彼の反抗と追撃は彼の敵がいつも遭遇していたようものではなかつた。これはやはり通常の中世的戦争ではなかった。なぜなせ中世における戦争の終焉はたいていにおいて平和的撤退で終わるものだったから。しかしながら、フス信徒は騎士的な方法で行動せず、革命運動主義の騎士がそれに順応することもなかった。

 中世の将官が敵を追いかけるに当たって「数マイルにわたる継続的な追撃、勝利の後を追って敵の完全な破壊を達成するように敵の後方を追いかけることが普通であった」という一文に、エイマンは注目する。これは決して普通でも通常でもなかった。これはただ拘束を受けない心を持ち、軍の状況、必要に常に従って対処したジシュカのような人物にとってのみ「普通」であった。それは必ずしも彼らが小作農であったからではなく、訓練を受けたジシュカの兵は敵軍にとって常に驚異的であった。ショーワルターが監察するに「中世の軍隊は、一般的な、条件反射を呼び起こすことすら可能なコマンド機構を備えたが、彼らは基本的にパートタイム的であった。そのため彼らの戦術的技能は洗練されてはいるが限定されたものであった」という。ジシュカはゲリラ戦士としての彼自身の経験から教訓を得て、彼の軍隊を訓育すべくあらゆる宗教的モチベーションを兵士たちに持たせた。

 ジシュカの兵士たちにとって、ワゴンの運転と工具の取り扱いは真に第二の天性であった。彼らの能力に関する限り、ジシュカは通常以外の何事をもするように求めなかった。かくして、ジシュカは素晴らしく単純な命令系統を確立した。火薬兵気は非常に基本的な(簡単に扱える)武器であったから、本当の意味で専門的なトレーニングは必要なかった。彼は同じく彼の農民軍に、武器とするに彼らがもともと使っていたツールが最もよいという理由から、その戦具としての扱いを教えた。大鎌、フレイル、熊手、ピック、くわ等、非常に強く、やる気があり、重労働に慣れていた人々によって行使されるとき、身近で、残忍な武器になることが証明された道具たち。それは彼ら自身の情熱とマッチするか、あるいは超越した熱意と結びつけられた。ジシュカの経験はどんな状況であろうと兵に従事させるリーダーに彼をのしあげ、その兵らは動いているワゴンあるいは要塞の中で、容易に割り当てられた仕事をこなすことが出来た。フス信徒の初期の勝利は、彼らに「異端者に対し神のために戦う」という一か八かの態度を取らせるに十分であった。そしてやがて上流階級人が、彼ら既存のこの感情を利用するようになる。

 躾が行き届き、よく働きあるいは戦うという狂信的かつ自発的な意思は、どちらにしても侵入してくる革命運動者たちがしつらえたものではなく、むしろジシュカに植え付けられたものであった。彼らは今まで彼ら自身に求められた最も複雑な画策をジシュカによって直線的に整列させられ、しかるのち敵を混乱に陥らせるやそれを継続させるため闇雲に撃ち、互いの後についてシギスムントの本営に入っていった。ワゴンブルグを形成するための動き以外、彼らが行った行動はこのような簡単な攻撃あるいは防御であった。ただ、ヴィトコフ・ヒルを登るプラハからの二正面作戦のような精巧な行動も不可能ではなく、必要となれば士気の高さによりあらゆることをこなした。士気の原則とその利用について、ジシュカは熟練の指揮官であった。

宗教は信じる者にとって恐るべきやる気を出させる原動力となる。ジシュカはこれを彼の軍の武器として士気向上のために使った。彼は自身プラハを支配する保守主義者ほど宗教的ではなかったが、ヤン・フスの死に続いて出現した軍事派閥と同様急進的であることを世間に示した。彼の信念は彼が社会の最も低い階梯で構成された急進党派と戦争したときでさえ揺らぐことはなかった。彼は一般市民のフス信徒と協会と、そしてある種の妥協点を探した保守主義者の経緯と忠誠を得た。しかし人々が彼に従ったのは社会的、経済的進歩のためと自由のため、信教の自由と支配からの自由のためであった。かれらの利害が一致する限りにおいて、ジシュカは彼ら自身の武器を持ってやってきた小作農兵と都市貧民層のサポートを受けることを約束された。

 宗教は軍隊をばらばらにしない接着剤であるかも知れなかったが、それ以前に軍隊には自制が必要であった。モラルの高い軍隊勢力は常により大きなユニット間での結合を誇り、よってそれらの欠けた無秩序な軍隊よりよく戦う。ジシュカは厳格に基準を設定した。それぞれの兵士は特定の戦術作戦において位階に応じたポジションを割り当てられた。不従順、および治安紊乱行為はひどく罰せられた。位階は社会的地位よりむしろ能力によって定められ、このコミュニティーにおいて農奴は貴族と同等であった。

 我々は既にこれまでこの態度が論じられるのを見てきた。能力は出生に打ち勝つ。そして処罰はとが人に斉しく降りかかる。もちろんジシュカ自身がいた。彼がまだその目に光を持っていたとき、彼は常に彼の部隊と共に戦った。脅威と恐怖の前に状態を共有することで、兵士たちは常にリーダーに尊敬と忠誠を払った。のち、彼が完全に光を失ったあとも、彼は3年間なお野戦司令官として活躍した。宗教的小作農軍隊のために無私で戦う、それはまさに神の恩寵のサインであった。それは同じく、ジシュカの名前がどれだけ敵を恐怖し失望させたかを表わす。ジシュカの常勝は戦場の両側、勝者と敗者に斉しく無敵のジシュカ、と言うムードを与えた。そして、彼が彼の軍隊のために書いた歌(賛美歌と軍令の混合)はフス信徒の粗末にして蛮勇な武器と同じぐらいに敵から怖れられた。

 ヤン・ジシュカという名前は不幸ながらヨーロッパの外に(残念なことにその内においても)メジャーな存在として記録されてはいない。彼のワゴンブルグは歴史の短時間において確かに効率的であったけれども、それは一人の想像力豊かなリーダー、すなわち盲目の年を取った男が、天性によって、敵の弱点を利する材料を手にしたに過ぎないと考えられており、この盲目の老人が人目をひく機会があまりに少ないのは残念なことである。

ボヘミア-ヤン・ジシュカ第二回(battleField版)


 たいそう苦しくたいそう辛いです、岩城です。なんといいますか、起きてても横になっても苦しさがかわらんのですね。とにかく頭に空気がパンパンに詰め込まれたようになって、胸と背中がえらい激しい動悸に襲われて、そして極めつけに四肢の不如意です。掴んだはずの本とか取り落とすのはもう当然、ちょっとそこまで買い物に出るだけで倒れそうになるというか、実際道ばたに倒れることがあるというか。まあ、あと一ヶ月我慢すれば9月ですからね、涼しくなれば多少マシになるのではないかと。
 で、本日はヤン・ジシュカ二回目。後5ページあるのでもう一回お付き合い願えればと思いますが、やはり長すぎですかね、この記事。それにしてもジシュカという人物は調べれば調べるほどに味が出るいぶし銀でして、というか戦争規定(レギュレーション)を最初に定めたのがジシュカであると言うことは寡聞にして知りませんでした。まあ元々の記事が長いのに前説まで長くなりすぎてもと言うことで、それではどうぞ。

対抗者
 ハンガリー王シギスムントがボヘミアでどのようにフス派を訴えるべきか考えあぐねている間に、戦いがプラハで再び広がった。1419年11月のはじめに、シギスムンドの皇子の一人がフスの巡礼者を襲撃し、そして虐殺した。ジシュカの軍隊はチャールズ橋を渡って突進し、王党員勢力と戦う日々でプラハの多くの区画を破壊したが、しかしソフィア王女が最終的に和平を交渉した。プラハのフス市民は田舎巡礼者撤去のお返しとして皇族の管理したヴィスヤルド要塞の返還と霊的交渉の権利を与えられた。ジシュカは一都市のためにこのような重大な事柄を断念するプラハのウトゥラキストに失望し嫌悪を抱き、それで彼はボヘミアの西パルゼンを防御するため、プラハから彼に追従するターボリストたちを離脱させ、穏健派と急進派を初めて(一時的ながら)団結させた。一方でカトリックの王党派はこの戦いの意義をフス信徒、特にジシュカ率いるターボリストに対する勝利について見いだした。

 ゲルマンの重厚な都市クトナ・ホラ。ボヘミアの富の多くを産出した銀鉱において、フス信者は異端であるとされて有罪宣告され、つぎつぎ首をつられた。本当に、その数は非常に多く官憲を抑制することは難しく、フス信徒は首吊られる代わりに銀山の中に投げ捨てられるようになった。このような罪と罰はただ宗教的な敵意だけでなく、民族的反感をも燃え上がらせることとなる。フス信者はそれまで聖書が方言に翻訳されるようにするために、とラテン語よりむしろチェコ語で彼らの礼拝を行っていたが、ボヘミア人のために、という「普遍性」はますますドイツの上流階級のものになりチェコ人は被差別階級となった。故に、フス戦争は宗教的、国家主義的闘争であると同様、階級闘争でもあった。

 同時に、穏健派の貴族は交渉するために代表者をシギスムントのもとに行かせた。もし彼があらゆる意味での霊的交渉を保証し、教会の迫害に反対してフス派を指示していたならば、そして教会の汚職に対して敢然と戦うならば彼はボヘミアの国王として歓迎されたであろう。しかしシギスムントは愚かにも、自身があらゆる抵抗をも押しつぶすことの出来る軍事大国を現出したと夢想して、あらゆる妥協を固辞した。しかしながら彼はゲルマン公に強烈なサポートを取り付けるよう説得することが容易に行かず、そこで最近王位に就かせたポープ・マルティン5世に改革運動の認可を説得した。1420年3月17日、マルティンは合意。そしてそのとき彼の教皇特使フェルディナンドおよびルセナ司教は聖職ゆえの強固な正義感から「遍く原初的な主権」のテキストを朗唱した。これはすべてを根絶する働きをもつ改革運動を「魔女、フス信者、その他すべての異端者と彼らの利益のために働き、受け入れ、弁護するものと戦う者たち」であると公布して、この闘争に参加する人々が教会によってすべての罪をあがなわれるであろうと触れた。シギスムントは彼の目的に参加するため、神聖ローマ帝国に介入を求め支援者を呼び集めた。そして彼は彼の兵士たちが自説を取り消した者であろうとあらゆるフス信徒を殺すという命令を与えた。
 
 フス信者は自信の聖戦に対する要求と、おなじく保証されたと信じる天国の報酬でこれに返答した。ヤン・ゼルビスキはそれが信頼の目的のためにではなく、憎悪によってされたから、ヤカ・フスを焼死させることに同意したすべての貴族と人民は有罪であると説法した。フス戦争の当事者として、トマス・フッジが書いている。「誇張とほのめかしに寄る、正義と聖戦を振りかざしながらしかし根幹に軍事主義しかなく、奇跡の名の下の殺戮は想像も出来ないほど桁外れなスケールであった…。異端者、クトゥズ・ジュ・ボージ・ボジョヴニチは反聖戦の賛美歌[神の戦士であるあなたに]の中で邪悪な改革主義者の手にかかって死ぬことは殉教であると説いた。「神の戦士であるあなたよ…、失われたキリストはあらゆる報酬を与えるでしょう。彼らの人生に与える者よ…斉しく永遠の生を享受すべし」

 ボヘミアのカトリック貴族がシギスムントとローマ法王、双方の指示を受けて行動を開始した時期に、まさしくジシュカのパルゼンへの到着は時宜を得ていた。彼は市の司祭ニコラス・コランダから防御を堅牢にすべく仕事を請け負ってこれに着手し、その間一方で彼は北方ネックメールの町を包囲攻撃から解放することを決めた。スヴァンベルグのボフスラフ卿麾下の王党軍が町に接近すると、ジシュカは彼の弓手と弩弓手を7台のワゴンかに乗せて連射を浴びせ、ボフスラフ軍の利を奪い彼らを撤退させることを決定づけた。そしてジシュカはパルゼンに戻り、彼の兵士たちを指揮する。ネックメールの戦いはジシュカの戦術的特徴、ワゴンブルグの最初の適用をもって印象づけた。

サッドメールの戦い
ジシュカは1420年3月までパルゼンの防衛を指揮した。もし市が急襲して奪われたならと、中級より以上の市民はジシュカあるいは神父コランダに、彼らの運命の嵐に同行するより、むしろボフスラフと交渉させろと言い、独自にそれを実行した。ボフスラフはターボリストに通行の安全を保証することを認めた。400人の男性グループが3月23日、12の戦闘用ワゴンを使い、女子供を定期的に安全(と思われる)な土地に発送させた。ボフスラフはしかし、彼自身の約束に拘泥することがなかった。密使がパルゼンから発され、国王の追従者および国中のさしせまった脅威について、まさか国王の軍隊が慈悲をかけることはあるまいと小規模キャラバンを走らせ、いたるところで反抗運動させた。

 二つの王党派派閥が応答した。二つの縦隊はピセックといい、ターボルからおよそ20マイル西の地において対陣した。彼らは2000人の常備軍は地元の人々から「鉄貴族」と呼ばれ怖れられる。うち一閃を率いるのは彼らはハラドックのヘンリー、セントジョン騎士団の偉大な指導者であり、ストラコニスを基地とした。残る一千を率いるのはスタンバーグのペーター。ジシュカは比較的平坦な、しかし魚のいっぱい捕れるエリアを周遊し、北方から騎士団が接近するのを見て、彼は急遽彼のワゴンたちを二つの池の堰の間に布陣した。冬の間、双方は精根尽き果てた。

 ここで彼は12台のワゴンの終端から終端までをチェーンで繋ぎ、王党派の配置を非常に前衛的に限定させた。フス派の大砲によって王党派の人馬には実際以上のダメージとパニックが広がり、対して地位を高めた防衛者たちは長槍、ハルバード、そしてフレイルによって騎士団のランス・チャージに匹敵する突撃を見せた。セントジョン騎士団のヘンリーは午後遅くに彼らの最初の突撃を仕掛けたが失敗し突破し損ね、ために彼らは下馬して運を天試しに出た。犠牲者は両軍において非常に多大であったとされ、ジシュカ軍のワゴン3台が破損したと伝わる。しかし銃と弓、そして農具兵気による複合兵科戦術はなお攻撃者を寄せ付けなかった。スタンバーグのペーターはフス派右翼の空隙、ただしきわめて泥だらけの池を通って攻撃することによりワゴンブルグの防衛戦を突破しようとした。しかし彼らの馬は速く、騎士たちは血気盛んに出しゃばったがために自身を汚泥の中にはまらせた。彼らの鎧甲は重く、ゆっくりとしか動けず、そこにジシュカが小作農軍をひきつれてやってきた。迅速にワゴンの陣を立て直すことで作り上げられた防衛的堅壁は、馬をパニックに陥らせるピストルの使用同様に、敵に驚きの要素を与えた。防御体勢を取るジシュカの前に、敵は池に挟まって狭い正面にしか展開できず、突撃をそらし、討ち漏らした。ジシュカは地勢を防御力を最大限にするという目的のために使ったのである。それは攻撃に転じた時点において、敵手たる騎兵に少なくない打撃を与えた。

 彼の地位はワゴン要塞と、激しい騎兵突撃をなぎはらう火力の使用という二点によって確立された。あるときは乗馬し、またあるときは下馬して攻撃する騎士団であったが、フス信徒とその指導者(ジシュカ)の濃厚な火力に秘して、彼らは絶対的火力不足により不利であった。防衛という性質および彼の人的資源の欠如により、ジシュカは王党派の側面攻撃運動にまで手を回すことが出来なかったが、そこで彼は非武装人員およびさらには女性従軍者をも戦闘に利用することを考えた。開けた土地で農民主体の歩兵隊に負けた騎士団を相手にするなら、彼ら(あるいは彼女ら)を使ってすら勝利を奪うことが可能であろうと。逆襲、あるいは追撃はなく、翌日負けた王党派は戦場を去った。そしてジシュカはターボルに凱旋し、3月27日、騒々しいレセプションに参加した。

 まもなく、人々はリーダーの選出を始めた。ジシュカは4人の指導者の一人に指名され、ひきつづき軍事指導者として組織化と訓練を継投した。他方、ニコラス・コランダはグループの政治指導者として精勤した。

 ジシュカはフスの中央集権と勢力の向上という新しい役割を引き受けた。もしジシュカが威圧的なまでの高潔さの中にあって彼の新しい軍事組織の創造を行うなら、それは世紀の慣例破りとなるはずであった。彼は軍隊に最善のアドバンテージを獲るためにあらゆる動員可能な人手を用い、しばしば行われる新技術と革新は旧来の傭兵の戦術とは並び立たなかった。ジシュカがこの頃軍事作戦の中心にワゴンを据えることに決めていたのは疑いない。彼の軍は第一に小作農の軍であり、彼はその上に少数の都市職人と接触しその力を用いた。職工は種々のサイズの銃を造り、小作農は誰もがワゴンを扱いその上で背全生活を行った。ジシュカは標準的指示として総員団結してワゴンブルグを形成し、しかるのち馬をワゴンから外し、ワゴン同士を鎖で縛って、戦いに備え兵員を配備させた。

 兵士たちは天与の資質によって結びつけられ、ジシュカもまた彼らの宗教的熱狂に斉しいモチベーションを持ち合わせていた。ジシュカは彼の追従者のために完璧な戦闘スタイルを創造しただけではなかった。彼は当時中世においてはまだ確立されていなかった方法で彼らを訓練し、鍛えた。ジシュカが近郊ヴォジスの町を早朝攻撃して指揮したとき、彼の勢力は一様に実戦における現場研修を修めた。サッドメールにおいて敵の指揮官・ニコラス・ディヴォキー麾下の勢力は町とその都城を占拠したが、ジシュカの攻撃軍は驚くべき精強さでもって敵守備隊を場内に押し込んだ。他方、彼の兵士たちは馬と捕虜を捕らえた。(これはサッドメール戦後、敵軍に捕らえられた30人のターボリストと交換された)。ジシュカは騎兵隊の基盤とその逆襲の行軍について偵察した。5月16日、プラハに王党派脅迫の報せを届け、ジシュカと彼の軍はその二日前に軍容を整え終えていた。

 彼は9千人をプラハに向けた。うち歩兵が5000と数百の騎兵が実戦力であり、残余がワゴンを運用する。最初の日、彼らは50マイルの距離をカバーし、その行軍の終わりに400人の王党派騎兵団をボネソフの町から離れさせた。王党派は3つの勢力に別れた13000人の軍隊を、プラハすぐ南のポルシの村に集結させた

 ジシュカは丘の頂にワゴンブルグを布陣し、約50人の犠牲者を出しながらも王党派のアタッカーを撃退した。それは王党派の、イタリア出身の金目当ての指揮官に撤退を要求するのに十分の成果を上げた。フス軍は5月21日、プラハに入った。ジシュカはすぐさま、町の南方、ヴィズヤルド要塞に面するハラドキャニー城の攻囲に着手し、攻撃しつつ防備を強化、一斉に堀を深く穿った。国王シギスムントはクトナ・ホラに彼の本拠地を置いたままマヒしているように思われた。彼は、運用されるワゴンがハラドキャニー城に突入するのを見ていながら、ただジシュカという指揮官の生み出す流れを変え、プラハに対してフェイントをかける以上のことはなにもしなかった。しかし彼が決戦を拒んだので、ジシュカは最終的に攻囲を諦めて、都市の防御力強化に専念するほかなくなった。その合間にターボルおよびハラデック・クロローブが攻囲を受け、ジシュカの努力が水泡に帰したところで、シギスムントは遂に1420年7月中旬、プラハを目指して進軍することを決めた。ジシュカは今や彼自身攻め立てられていることを理解した。彼に残されている道は外側の、東方ヴィトコフ・ヒルの丘上に走るか、南方ヴルタヴァの土手から見下ろすかで、そのどちらかのポジションをキープする必要があった。彼は丘に登り、防備強化を兵士たちに命じた。

ヴィトコフの戦い
 シギスムントの80000の軍勢は、伝えられるところに寄れば帝国の33の公国とスカンジナビア半島以外の全ヨーロッパからやってきた。それは45000の重装歩兵と、35000の重装および軽装騎兵からなり、さらにそれ以上の数の非正規傭兵部隊をも含む。彼らはヴルタヴァ川とプラハの旧市街を見下ろす高所にキャンプを張った。ヴィズヤルド同様王党派に占拠された小都市と一緒くたに、フス信徒たちは三方から囲まれた。すでにヴィトコフ・ヒルの急勾配は援護を取り除かれており、峰の西終端に見張り台が立ってられた。ジシュカが強化した見張り台と城牆に巡らした堀を見下ろすように、堤防の端に塔が建てられた。それは丘の上100ヤードにわたって組み上げられた。

 両軍の間にはそれぞれわずか30人の兵を並べることしか出来なかったが、ジシュカは敵が襲撃に着手する前に自軍を強化する余裕が出来たと確信した。しかし彼には誤算があった。シギスムントは2方面作戦をもって攻撃を企図し、7月14日、まずハラドキャニー城から出て突撃すると、ついで北方のらヴィズヤルド要塞から出て南側面を撃った。これらに対応しながら、ジシュカはヴルタヴァじゅうの7000から8000の騎兵をかき集め、川の流れが東から北にかわる遠くへ向かわせた。これは騎兵隊が浅瀬の丘に移動して、敵の拠する峰の頂近くに接近することを可能とした。騎兵隊が川を渡りきるまで、この作戦が気づかれることはなかった。その間ジシュカは大急ぎで陣の補強を行った。その間、彼らの胸壁の後方のディフェンス陣は可能な限り長く持ちこたえなければならなかった。運良く地勢に恵まれたフス信徒は、多くの場合においてそれをサッドメールの狭路前面に押し出すことを可能とし、おかげで彼らがわずか数百ヤードの隣接地を襲撃したとき、シギスムントの騎兵隊は一度に数千人を削られた。

 フス信徒の穿った溝は、多くの騎士を下馬させ、徒歩での戦闘を強制するという役割を果たした点においてひょっとしたら非常に強力な武器であった。胸壁の後ろから矢を放つフス信徒に対してシギスムントの十字軍は塔の上から矢を放ち、その騎兵たちはフレイルで戦う軽捷だが装甲を持たない小作農兵員にはなお有利であった。ジシュカは窮地のの兵士たちに直接的支援を与えるため、小部隊を丘の最西端に導いた。彼は彼自身と、より大きいターボリスト、そしてプラハ市民をもって、攻撃者の側面を撃つため、東のより高い丘に登った。ジシュカの伝記史家・エイマンはこう書いている。「状況の重大を見て取って、彼はいかなる犠牲を払ってでも、彼自身の命を危険にさらしてもこの小部隊とともに防波堤を為そうとして戦いに打ち込んだ。この時点からより多大なターボリスト戦力の到着まではわずかな感覚があるのみだったが、しかしこれは彼の軍にとって重大な、心理的な危機であった」

 ジシュカの格闘にすべての耳目が集中している中、完全な奇襲によって側面攻撃が為された。それはターボル軍を代表する展開であり、司祭が指導者的立場に立ち、弓手がそれを援護し、そこに小作農兵のフレイルとスパイクがもたらされた。襲撃を受けて騎士団は壊乱し、あるいは逃げ、あるいは走り去った。ことによると軽率に撤退して急な崖の斜面を落ちた死傷者は戦闘それ自体より多かったかも知れない。この撤退だけで300から500の兵員が失われ、フス信者たちはそれを逐ってポルチニ門から現れ野戦病院に退いた帝国兵を追撃した。

 王党派はそれ以上の攻撃をしなかったが、しかしジシュカは戦勝にもかかわらず防衛防備をより強くするよう取りはからった。皇帝軍が総力を挙げる前に、ジシュカは戦闘のための準備を既に始めており、それは既存の防衛と新しい建設の双方を含んだ。しかしながら、彼は適切な安全な防備を提供することが出来なかった。なにゆえなら帝国の攻撃は、迅速に、猛然と、戦闘開始の通告無しに人員不足のターボル軍に襲いかかり、防備以前の段階で防衛を強いたからである。

幸運なことに、攻撃を受けた部署は強く、そして地勢は防衛のために有利であった。当初の立場から、ジシュカは反撃を開始した。彼は普段通り地勢を十二分に生かすことは出来なかったけれども、彼は二箇所のポジションを保持しており、戦闘が最西端に向かい収束していく状況において、誰一人にも裏をかかれていることに気づく時間を与えなかった。彼らが後背の斜面にいたということは、キャンプから離れた王党派の度肝を抜いた。ジシュカの逆襲撃はおそらく3000人程度で行われたと推定されるが、この驚異的側面攻撃は数における優位不利を逆転させるのに必要十分であった。

 彼らはヴルタヴァ川沿いに、そして帝国キャンプ中に、撤退している敵兵を追いかけたけれども、搾取へのこれ以上の犯行は愚かしく馬鹿げていた。損失はシギスムントの軍にとって最小でしかなかったのだから。にもかかわらず、彼らは不満と最初の放棄の意思をなげうつことがなかった。さらに悪いことに、夏の酷暑は王党派、帝国軍を崩壊させるべく伝染病を蔓延させた。シギスムントが何事も行わなかったために、シギスムントはフス派と通じているという噂すら、キャンプを通じて流れ始めた。

 軍が離散しかかるのを見て、シギスムントは多少の政治的な動きを取った。彼はカトリックの勢力下にあるハラドキャニー城に赴き、そして彼自身が聖ヴィトゥス大聖堂でボヘミア王即位を認められるようにした。彼は既に大勝利に続く物々しいパレードや儀式を望んでいたから、これは満足のいくとは言えない行為であったが。彼はしかるのち、残余の兵力16000前後をクトナ・ホラ、彼がたとえ他の何も持っていなかったとしても支配しておく必要のあった銀山の地点に動かし、兵を長期にわたり休ませた。この動きは現実的ではあったが、彼の望みはプラハの半分をしっかりと掴むことであり、大規模勢力の静養地にすることではなかったから、フス派の士気の急上昇に対して景を薄くされる感は否めなかった。フス派はその年末までにもう一つの軍事的勝利を得た。が、同じく年末までにシギスムントは、プラハの前に新しい軍を動員していた。ターボリストは今一度救援に訪れ、1420年11月1日、プラハはフス派によって救済された。
 
 ハラドキャニー城とプラハの西側は数ヶ月後、フス派に敗れたが、1420年代後半までジシュカはフス派内部の抗争に関わり、煩わされねばなくてはならなかった。ボヘミアの最も貧しい人々はフスの教えを受け入れただけでなく、それを「完全に平等な社会がキリストの再臨を引き起こすであろう」というミレニアム思想にかぶれはじめた。中産階級および大地主たちは宗教より経済的理由からこれに反対した。都市の大多数の公民(小作農)は後ろ盾としてジシュカを頼った。最も急進的な司祭のもとに集まった貧しい人々は、彼ら自身が鎮圧される、それを打破するためには究極的に戦いしかないと訴えた。若干の人々は和平に向かって歩み始めたが、しかし主に田舎の、また都市出身者の中でも貧しい人々の大部分は、彼ら自身の進歩のすべてはジシュカの後に続くことによって推し進めることができたと悟っていた。

 ターボルの要塞都市はなおいっそう急進的な集団の一つであったが、しかしそれをコントロールするのは今や小作農ではなく、中産階級であった。1421年早期までに、ジシュカはターボルの中に、そして外へ向けて、フス派の軍隊における最高司令官としてのポジションを固めていた。おなじく1421年早期、シギスムントはフス派に時間と問題を残したまま最初の革命闘争に終止符を打ち、ボヘミアからドイツに引きこもっていた。あらゆる革命指導者の不在は、フス信徒にとって自身の影響力を広める好機となった。多くの町が、フス派からあるいは数日、またあるいは数ヶ月の攻囲を受けた。ジシュカはこの時期、この包囲攻撃のひとつで重大で致命的な創を負った。フス派の保持するタチョフ市のラビ攻略のさなか、ジシュカは攻撃を陣頭指揮し、流れ矢に射られた。これは彼の残る片眼を射貫き、潰して、そしてほとんど彼の人生を奪った。しかしプラハでの数週間は、彼はもはや盲目ではあったけれど、健康を回復させることは不可能でなかった。彼は二度目の目を失った後も彼自身の素晴らしい作戦を戦い抜き、視力の有無はほとんど問題にならなかった。彼はその実績により彼自身を支え、実際彼の才能は衰えを知らなかった。

 彼の世評は彼自身よりさらに上位にあった。7月下旬、メイセンからやってきたドイツ軍は成功裏に国境を越えフス派に対する最高の攻囲を行った。プラハのフス派軍はジシュカの統率のもと一ヶ月で再編され、ついでシギスムントの再度の改革運動に対抗するため後退行進した。ジシュカがフス派を率いているという報せが届くと、彼はまだ創のダメージから回復していなかったけれどもドイツ軍を振り向かせた。ドイツ軍は彼と対戦するよりむしろ退き帰ることを望み、実際引き返した。2度目の改革運動は前回以上の規模の軍隊によって成された。その概算はおおよそ120000から200000。改革運動者は幼児に至るまですべてのチェコ人を殺せと命令を受けていた。最初の軍は東方の上パラティネートからチーブを通ってザテックの街道に登り、フス派の寨に向かった。第二の軍はメイセンの外からやってきて三叉に別れ、プラハ北西の町の多くを攻撃、第一軍と合流した。

 ザテックはまもなくドイツ軍にあたえられることになったが、しかしその間に6回、大規模な襲撃を阻んだ。改革主義者の士気崩壊とフス派の突撃は、10月2日、ジシュカの軍が到来したという知らせによってよりその度合いを増した。ドイツ人たちは再び、荷物をまとめて撤退するよう求められた。さらに彼らにとって悪いことに、彼らが撤退準備を終える直前、火事がキャンプのテント村で発生した。少数の衛士はキャンプを空けており、これによってドイツ軍はおよそ2000人の死者を出した。より悪いことに(フス派にとっては喜ばしいことに)、この敗北ののち、シギスムントは彼の軍を動かした結果、悲観的状況で第二の改革運動を取り下げるしかなかった。

 南のクトナ・ホラとネメッキーから第三の攻撃が訪れ、1421年の間ジシュカを多忙に貼り付けた。この期間にシギスムントは彼の最終攻撃力を動員していた。60000のハンガリー人兵士はフィリップ・スコラーリ、もっとよく膾炙するニックネームで言えばフィポ・スパーノなるイタリアの(金目当ての)将官の指揮下、モラヴヴィアに行進した。シギスムントはモラヴィアとボヘミアの国境、ヤジャヴァの町で10月下旬、彼らに合流した。クトナ・ホラへ造幣局と鉱山を取り戻すためにすぐさま進発したにもかかわらず、シギスムントは、彼普段の躊躇いを見せて軍容の強化を待った。これはジシュカの12000の軍に先んじて(12月9日に)都市に着き、その防御を固める時間を与えた。

 帝国軍はヤジャヴァからクトナ・ホラまで50マイルを行進するのに、20日をかけた。史家エイマンはこれについて記述している。「すべての時間においてシギスムントとハンガリー人はチェコの村々を破壊した。男たちを火あぶりにし、少年を八つ裂きにし、女性と少女たちをレイプした。彼の部隊の行動は非常に法外なものであったのでこれを説明するチェコの年代記は一つや二つではきかないが、その詳細に対して言及されることは少ない」

 シギスムントとスコラーリは12月21日にクトナ・ホラに到着した。およそ50000の帝国軍のアブローに対し、ジシュカは城壁前の十分な広さの中にワゴンブルグを展開した。スコラーリはこの作戦の軍司令部で、ワゴンに対峙するため細いラインに誘い込んでの騎兵突撃を行い、日を通じて攻撃を続けた。フス派の大砲は多数の死傷者を敵に強いたが、しかしこの攻撃はフス派の注意を西に引きつけた。スコラーリとシギスムントはすでにゲルマン民族のクトナ・ホラへの執着を至当に評価しており、密かに彼らのリーダーと連絡を取っていた。戦いが市壁の外で紛糾するさなか、帝国の重騎兵隊が南に広く展開して、マレソヴ道沿いに門に接近した。内通者が彼らに門を開いた。ジシュカが市内で率いていた小部隊は孤立して途方に暮れ、今やフス派は包囲を受けた。ジシュカは彼自身の経歴上最も危険な状況に今おかれていることを知ったが、しかし彼の不屈で輝かしい心は折れることを知らなかった。

 勝利が確定されたものとなるまでシギスムントは市に入ることを延期して、彼はまだ帝国左翼の彼の大本営にいた。ジシュカは日の出に敵のリーダーの本営を襲撃して、奇襲による逆転勝利を勝ち取ることに決めた。敵兵の再度の兵力投入は計り知れナカッタガ、ジシュカはシギスムントが決して自分自身を危険にさらさズ、常に後方から命令を下すことを知っていた。そのため、フス信徒は彼一人を片付けることに躍起になり、彼を直接狙った場合さしたる敵兵の抵抗を導くことはないであろうと確信した。12月22日夜明け直前、ジシュカはワゴンを線上に展開し、シギスムントの本営に発砲した。誰も夜中の内にこの銃砲斉射が訪れることを予想できなかった。そしてジシュカがプランニングしたとおり、帝国軍の至る所でパニックが起った。ジシュカの縦陣はときどき停止しながらも再装填するや、帝国の壊乱する防衛ラインを粉砕した。フス信徒が敵の脱出を追撃しなかったにもかかわらず、その効果は十二分であった。夜、攻撃すべしと言うジシュカの決定は完璧に図に当たった。もし襲撃が朝を過ぎ明るくなっていたなら、これはおそらく成功していなかったであろう。

 夜が明け始めたとき、フス派のワゴンは見受けられなかった。ジシュカは戦場からおよそ1マイル離れた、そして必ず敵の撤退軍が通過するであろう丘の上に彼らを配した。逃げる敵を捕捉できないとなると、ジシュカは彼の兵士たちを、かつて彼がワゴンの補強材を求めて2週間を過ごしたコリンに移動させた。その間にシギスムントはまたクトナ・ホラに自身を置いていたが、彼にはすべての兵を町に宿泊させる余力がなかった。そこで彼はコリンへの中途カバー役を務めさせるべく、キャスラヴに特別の注意を注ぎ、東にフス派の寨とネボヴィディを押さえ、周辺地域に兵を散らした。翌年1月6日、ジシュカはこの分散を利してネボヴィディに奇襲攻撃を仕掛けた。不幸なことに、一部の情報提供者がフス派の攻撃があった、と言うほか、この戦闘の細部を伝えるものはない。帝国側の記録は都合良く散逸してしまった。匿名の19世紀の史家による記述、おそらくジシュカ麾下のジョージ・サンドの伝記からの引用に寄れば「突然、落雷のようにジシュカがシギスムントの兵の前に現れ、四散させた。何百というハンガリー人が最初の猛撃でパニックに陥り、村から村へと落ち延び討ち減らされていった」という。誰もそれ以上のいかなる詳細も提示しない。重要なのはむしろ戦後、シギスムントの改革運動者たちがクトナ・ホラに逃れ、そしてパニックを起こしたと言うことである。彼はドイツの町町の指導者たちに、町がフス派の手に落ちるよりは火をつけるよう命じ、そうならないためにジシュカの軍から町を守るよう命じた。ハンガリーの騎兵分遣隊が火をつけるべく後方に留まったため、市民は準備が出来ていない状態で町の防備を押しつけられた。ジシュカの猛追のスピードと彼の兵たちの略奪品に対する妄執は、
ほとんど実際に火事を起こさせなかったし起きたとしても速やかに鎮火させた。追及の手はとどまらず、パニック同様継続した。シギスムントはハブライ数マイル南西で抵抗することに決め、彼のアドバイザー、イタリアのスコラーリに相談した。スコラーリは彼の軍はあまりにもやる気をなくしているといったが、シギスムントはきかなかった。か、このアドバイザーは正しかった。フス派が攻撃してきたとき、防衛軍は反転して総崩れとなった。革命運動者は個人の武器以外すべてを棄てた。ジシュカは再び襲撃したがこのときも詳細は詳らかでない。シギスムントはモラヴィアに逃れるためヤラヴァの町から撤退した。彼は彼の軍隊よりも上手く、ネメッキー・ブロッドからサザヴァ川を渡った。軍隊は氷結した川の向こう側に、猛ダッシュしてフス信徒の追撃を振り切ろうとしたが、しかしながら川は完全に凍っておらず、割れた氷は報告されただけで548人の騎士を溺死させた。

 町の急ごしらえの仕事が薄く短い壁を作ったが、フス派の砲撃によってずさま無用のものとされた。フスの警邏隊は壁の特に薄い部署を見いだし、そしてもう一度戦いを起こして、命令なく突破した。ばらばらになった市民はそこかしこで降服の交渉をした。フス派の勝利とそれに続く略奪、および統制の喪失から一年、ジシュカは戦闘の中から戦闘部隊の行動を制限して、歴史に見る戦争の第一次的交戦規定を定めた。

 1422年1月9日の戦争は帝国勢力に最低でも4500人の人的被害を与えたが、フス派側の損害は記述がない。しかしそれはきわめて軽微であったと推定される。クトナ・ホラに始まりネメッキー・ブロッドに終わる作戦行動は、攻守とも最高の状態でジシュカを舞台に上げた。

彼はクトナ・ホラの外でワゴンブルグを用意するため数日間待った。そしてそれは、それを攻撃した帝国軍騎兵隊に多数の死者と損害を与えた。彼は町民によって裏切られたが、孤立させられているのを知ったとき、ジシュカは軍事力の一つの弱点、国王の本営に彼の戦闘政権を終結させ、火力と心理的脅迫をもって彼の敵対者(シギスムント)をマヒさせ、逃亡を果たした。

 彼は勝利を手に仕掛けた敵手から戦おうとしない天性の性癖、その軍隊の分散性を利用して1月6日、あらゆる攻撃要素のすべてを結合して攻撃を仕掛けた。奇襲、一極集中、テンポコントロール、そして図々しいまでの大胆さ。彼は連絡を取るための動きを故意の攻撃、そしてその後に、即刻利用して長期的優位の追求に導いた。帝国軍人は盲人の指揮官の包囲から包囲突破を指揮して包囲を破り敵国を横断したが、そして冬のさなか正確な追撃に驚嘆させられた。この追撃戦は典型的な中世の戦争とは一線を画した。

 この大戦略事業の中で、一連の作戦行動は同様に大きな意味を持っていた。二度目の改革運動を終結させ、そして彼が接近することのなかったシギスムントのボヘミアに対する野心を何年もの間落胆させた。シギスムントをハンガリーに置くことによって、そしてドイツの皇子に未来の革命運動を行わせることによって、ジシュカはボヘミアの闘争の必要性を軽減した。彼の追従者のそれ同様、ジシュカの評判は次の数年に起った第三の改革運動においても最重要な存在のままありつづけた。ジシュカの軍歌を知るフス派の兵士は、戦闘なくその歌だけで国外で敵を恐怖させたという。ハンス・デルブリュック曰く「好戦的な特徴はすでに優位を得、そして完全に最有力なものとなっていた。ドイツ人は彼らの歌を聴くやいつでも、くもの子を散らすように、フス派への恐怖から逃走した」と。

 不幸にも、フス派の目的のために内部の確執が侵略がしたよりもより大きな問題を引き起こした。ワゴンブルグ戦術はすべてのフス信徒のために標準的な力となったが、彼らはしばしば宗教内のライバル派閥を攻撃するため、互いにこれを利用した。ジシュカは1424年、モラヴィアの侵略を準備している間に死んだ。そして、彼の指導者の地位は上手いことドイツの革命運動に対して長らくフス派勝利のラインを支え続けた偉大なるプロコプに継承された。最終的に、1434年、フス信徒に若干の譲歩を認めた停戦条約が締結され、署名された。しかしながら彼らは30年戦争の始め、ホワイトマウンテンの戦いが開始される2世紀後まで、ボヘミア当局を再確立しようとしなかった教会の恩寵外に留まった。

ボヘミア-ヤン・ジシュカ第一回(battleField版)


お久しぶりでございます。今回スパンが1週間超えてしまいました、まあ体調が悪かったのもあるんですが、ともかくも申し訳ない。なんか夏の蒸し暑さの所為ですかね、妙に身体がだるくて頭が破裂しそうな感じが・・・まぁ愚痴はこのくらいにしておきまして。
 本日はBattle Fieldという書籍からヤン・ジシュカ。といってもページ数が実に30ページほどありまして、今回はさわりの第一回、7ページぶんです。なんというかヤンジシュカという人物は新戦術の考案者としてアイディアマンの才能が豊かな人でして、ワゴンブルグという移動要塞もそうですしそれまで開戦の合図程度にしか使われていなかった鉄砲の集団戦敵組織的運用を考案したのもこの人、近代戦の祖と言っていいのじゃないでしょうかね。まあ本格的な近代戦はオランイェ・ナッサウ家のマウリッツ、そして北方の獅子王グスタフ・アドルフを経てナポレオンの登場を見なければならないでしょうが、彼らの根底にもジシュカの精神が流れていた、と言うことで。それでまあ、今回は~~の戦い、というのは出てこないのですが、第2回から早速登場の予定。まあ気長にお待ちください。それでは。

ヤン・ジシュカ
 彼はフス信徒たちの銀地的指導者であり精神的支柱であり、彼は十字軍と戦ったがその性格は誰よりも初期カトリックの十字軍時代のそれに酷似して騎士道的だった。個人の性質というより偉大なして恐ろしき神の法をもって人々を制御し、咎人を神の御許に送って罰していただくべく、彼の敵、(ボヘミアの)人類の災いに対してそれをたたき伏せ、殺して神の元に送った。彼はそれをごく正当なことだと信じており、またその力の原動力はジシュカにとって神に対する絶対の信仰であった。
フレデリック・エイマン~ヤン・ジシュカとフス革命より~

闘争への背景
 若い頃のジシュカについてわかっていることは少ない。英雄伝説はその空隙を埋めるべく説話を付け加えたがるものだが、そういうものもほとんどなく、たいていのことは推測から語るほかない。彼はボヘミアのトロクナフで生まれ、名家ではないが誇り高く気高い家族の中で育ったと類推される。複数の情報提供者によって彼の財政状況はずいぶんと開きがあるが、ともあれ彼は若干の社会的地位を持っていたことは確からしい。彼の青年期のおそらく最も重要で有名な経験は、それが失われるようになった理由もまた推測の域を出ないのだが、片目の視力喪失であった。それは子供時代あるいはティーンエイジャーの頃から、彼は半盲であったかと思われる。数人の情報提供者が言うにはジシュカ、というのは「単眼」を意味するニックネームであり、彼の本名はヤン・トロクノフスキといったという。
 1306年、ボヘミアの王統は断絶し、王冠はドイツのルクセンブルグ下院に譲渡された。1347年、チャールズ4世国王はプラハ大学のリベラルな学風のために教会を建て、ここを学問の中央府として少々の国家改革を行った。チャールズが1378年に崩御すると後任は二重の王がつとめることになった。すなわち神聖ローマ帝国皇帝にしてボヘミア王ヴァクラフである。ここでようやくジシュカの名が歴史に登場、1380年、ヴァーツラフの宮廷に下級貴族の狩猟手として奉職したとある。ヴァクーラフは彼の支配する土地の統治を考えるよりも狩りが好きで、しかも形式にとらわれない人物としてよく知られていたから、彼が若く有能なハンターであるジシュカに友愛の念を抱いたという線は考えられる。宮廷においてジシュカはその後下級貴族としては異例の早さで出世していくが、ヴァーツラフの統治を取り巻く政治や軍隊行事によってこの仮定は裏付けられる。ヴァーツラフの王国で起こる問題のキーパーソンはルクセンブルグ家の彼の弟、シギスムントであった。シギスムントはハンガリーの国主であり、ヴァーツラフはいついかなる状況でもボヘミア貴族たちとともに問題に相対したが、これら貴族の大部分がシギスムントおよび彼のブランデンブルグのいとこ、マルグレイブ・ヨーストと同盟して貴族連盟を作った。ヴァーツラフはヨーストの兄弟プロコフ、モラヴィアのマルグレイブと同盟したが、最年少のルクセンブルグの兄弟、ゲルリッツのヤン公爵の援助に期待し、 期待を裏切られた。1399年、双方の上級貴族たちの間で大規模で広範囲にわたる戦いが始まった。それは略奪と暴行を伴い、国家を衰退させた。シギスムントはボヘミア貴族にヴァーツラフからドイツ人の王の職務を放棄させ、彼を新たにルパート3世とした(そして兄の死後1411年、自らその地位に収まった)が、一度始まった戦争はとどまるところを知らなかった。戦いはボヘミアとモラヴィアの全体で行われ、15世紀初旬に入っても続いた。戦闘の理由は3つあった。2人の王とルクセンブルグの2人のマルグレイブの間の個人的葛藤と、あるいは彼らのどちらかを指示した資産家の投資屋による思惑、そしてまたその資産家によって雇われた金目当ての無頼漢傭兵たちによる蛮行。ジシュカの主な伝記作家、フレデリック・エイマンによれば、ジシュカの名が重要に記録に残るのはこのころ、主にローゼンベルグ家の敵として戦ったのがはじめだという。そのためこの当時彼がヴァーツラフに将校として奉職していたのは間違いがない。彼の部隊はマテイ・ブッセにより自由権限を与えられたが、リヒテンベルグの別のある貴族の指揮下に入った。 なぜならジシュカが高級将校として腕を振るう地位を持たなかったからであり、実際のところ彼はこの当時、有能な下士官ではあるがそれ以上と見做されてはいなかった。
 戦いはヴァーツラフに不利であり、同盟者・プロコフが死んだことによってより不利となって、やむなくヴァーツラフはローゼンベルグのヘンリーとマルグレイブ・ヨーストと和議を結んだ。他方、シギスムントはハンガリーで問題に直面していたが、彼と同じく異母兄弟と闘争するハンガリー国王の支持あるいはサポートを得ることに成功、これにより戦争と略奪はより激しい物となり、さらに長く続いた。これらの間に、ジシュカはヴァーツラフ麾下の武将で最も軍事的才覚に定評あるヤン・ソコルの注目を得るに至った。ソコイが見たところ、ジシュカは他の指揮官が考えもしなかった何かを見据えているようだった。ジシュカはこのゲリラ戦を通して彼が天性の指揮官・リーダーであることを実証し、1409年、ジシュカはソコイとともにポーランド王に傭兵として雇われ、チュートン騎士団との戦いに加わった。
 ポーランドは長らく異教徒の国としてチュートン騎士団の標的にされており、リトアニアと同盟を結んでいたが、1386年、リトアニアの皇子ヤージェローが即位しキリスト教に改宗すると状況が一変、騎士団員たちは14世紀初め、以前からの異教徒の支配からプロシアを解放するためにやってきたが、結局異教徒はいなくなっていたので無規律に略奪と暴行を行った。反抗はあったが組織的なものではなく、彼らの行軍速度を遅らせる程度にしかならなかった。ポーランド人とリトアニアの同盟に対して、今や騎士団は組織的な政後ろ盾胃を持った恐喝行為を行うことを意味した。
 騎士団はその行軍速度を落とすが、しかし地方一帯で最も素晴らしいとされる重鎧部隊を保有していた。が、ポーランドとリトアニアが同盟しているという状況は、騎士団に真の脅威にさらされるかもしれないという恐怖をもたらした。しかもポーランドの装甲部隊は貴族で構成されていたが、彼ら自身のよき体躯と身体能力により大胆な戦陣を敷くことに躊躇せず、リトアニア人の方は長年モンゴル系異民族に直面して戦い続けてきた経験から、アジア的戦術に慣れて軽装であった。から、騎士団を恐怖させるに十分であった。しかしながら不幸にも、ポーランドおよびリトアニアの連合軍は彼ら自身の勇敢さと身体能力以外、チュートン騎士団に対して何らかの策を講じることがなかった。政府は当時都会として知られたボヘミアから中欧、東欧における全軍人を投入した。
 1410年タンネンベルグの戦いにおいて、騎士団とポーランド国軍の暴力の中でジシュカとソコルはポーランド国王ウラディスラフに奉職した。もっとも、ソコイとジシュカがともに行動したかどうかはわからない。とにかくジシュカは騎士団の重装騎兵相手の戦いの中で、最高司令部への異動を持ちかけられるほどの経験を積んだらしい。ポーランド軍はソコルと対峙したまま1411年の講和条約締結までそこにとどまり、ラジン要塞の防衛に関わって、不幸にもソコルはこの攻囲のさなかに死んだ。ジシュカはこの戦争で彼の理解者にして後援者であった人物を失ったことになる。
 1411年、ジシュカはボヘミアにヴァーツラフの家宰兼護衛として従事していた。ジシュカはヴァーツラフ国王の妻・ソフィア女王と近しくなり、彼女が規則的に協会へ行くのをエスコートする役割を担っていたが、このころ、中央ヨーロッパの信仰基盤を揺るがしかねない学説がプラハで興った。ヤン・フスというプラハ大学監学芸学部総長であった進学者の説教を、ジシュカはそのいつかの日曜日に聞いたらしい。その当時はフスはあくまで敬虔なカトリック信徒というだけであり、ヴァーツラフ国王およびソフィア女王の信任厚かったが、イギリス・オックスフォードの神学者ジョン・ウィクリフの学説がプラハに伝わるとこれに共鳴、追従する者が多く出て宗教革命を主張、フスもその人であって、彼スの説く究極的裁定、神の下の平等は多くの人々に熱狂を持って迎えられた。
 大学における彼の教え同様に、その説教はボヘミアのカトリック貴族を恐怖させた。フス教会に浴びせた二つの批判、一つは「現在の教会の不敗と堕落」であり、もう一つは「聖餐、ミサ、懺悔の解釈の改め」であった。ことにフスは聖餐について、人間誰しもが平等であり、聖職者や貴族ならずともパンとワインの食事をとることに何ら問題はないと主張した。この思想がジシュカに大きな影響を与えたことは疑いがない。エイマンはいう「我々はそのとき、フスが彼の王の侍従の中で最も忠実な、そして最も決然とした支持者を得たことを知っている。ジシュカが彼を信じたように、もしフスが生きていたなら、フスの主義思想をもっと理解できるよう努めたに違いないし、フスの側でもジシュカのとった荒々しい方法を承認したであろう」と。フスがしばしばジシュカを評していった言葉は、真実の人であり、火のように苛烈、大胆かつ強靱で、さらに衆望があると。

 フスはよりいっそうの人気を得ると、その分だけドイツ貴族は彼の掣肘を要求した。チェコ教会当局が1408年、ウィクリフの職務を非難したとき、フスはウィクリフを悪者と認めることを断固拒否した。プラハの大司教はコローナ枢機卿同様、「反ローマ法王」ことポープ・ジョン3世をの言葉を代弁してフスを破門、フスが市から追い出されるまでプラハ市は戒厳令下に置かれた。1411年、フスはこの裁定に対し一般議会に控訴したが、逆にさらに重ねて破門された。1412年、ヴァーツラフはフスを城に招きプラハから出立するよう説得したが、しかしこれは単にフスへ彼の宣教の機会を民衆に広める結果にしかならなかった。1414年、当局はフスにコンスタンスの異端審問会に出廷するよう命じ、審問会を主催したシギスムント国王はフスの国内通行の安全を保証すると約束しておきながら、審問会がフスと彼の教えを非難すると一転、その約束を破って1415年、彼を火あぶりにした。モラヴィアの歴史ある教会にて、J.E.ハットンはこの事実を克明に記述している。「ついに残酷な刑罰が執行された。兵士たちは彼の遺体を挫き、ナイフで彼の頭蓋を切って、そして彼の骨は砕かれ曳かれて粉とされた兵士らは猛烈な燃えさしの中でどれだけのフス信者が絶望に苦しんでいるかを見ようとしたが、驚嘆すべき事にかれがフスから受け継いだ心は炎に焼かれてなおまったく揺るぐことがなかった。ある一人の兵士は彼の槍を火の中に突っ込んで刺し殺し、彼らの信仰心を暴力をもってひさごうとしたが、無駄であった。最終的に元帥の命令によって、兵士たちはフスとフス信者たちの遺灰を集め、それをライン川に放り棄てた。」と。

 このシギスムントの処断は危険きわまりないものであった。非常に人気の高い政治指導者であったフスを殺したことは、暴動の危険をはらむ。もしかれらが追従者として立ち上がったならば、それはきわめてタフで強靱な反乱兵となる。それが新しい宗教運動、フス運動となった。シギスムントはフスに通行の安全を与えなかったことを失策と悔やんだという。そしてボヘミアのすべてのドイツ人は、ボヘミア市民の明確な敵意にさらされた。452人の貴族がフス処刑への抗議書面に署名して、世論はカトリック教会にとって非常に不利となった。

 フスの教えが浸透した町で、カトリックの司祭が追放され、修道院が攻撃された。田舎ではフス擁護派の貴族がフスに帰依した司祭に教区を個人的に与えた。1417年、コンスタンスの異端審問会はすべてのフス信者たちに破門を言い渡した。ヴァーツラフはフス信者を認識、評価してかれらのために報奨金を提供、調定しようというポーズを見せたが、しかしながら彼ら数百人は火刑であぶられるか、溺死させられるか、あるいは奴隷としてクトナ・ホラ銀山で働かされるかして、そうでないものも刑務所に放り込まれた。刑務所はフス信者でほとんど満杯の状態だったという。

 しかしながら迫害はフス派の心を強固に冷酷にしただけだった。プラハでは進行を抑制して若干の成功を見たシギスムントと当局政府であったが、貧しき民は彼ら自身を組織化して町を強化し、丘に住まうた。プラハからおよそ50マイルのところにあるネームジェスという町は、ターボル山と改名されてフスの魂の働きとヤン・ジシュカのための本拠地となった。フス派の司祭はヤン・ゼリフスキであり、フス自身よりなお過激な扇動をもってより新たな力を得た。彼とジシュカは1419年7月の終わりにカトリックへのフス派の反乱を宣言した。7月6日、ヴァーツラフは諸都市のフスの司祭を解任して、カトリック司祭を復権させ、プラハのフス派議員も強硬派のカトリック教徒に置き換えた。

 7月30日、ゼリフスキは大衆と奉職者の双方をもってともに聖餐式を行った。そしてそしてニュータウン、プラハへの進行を指導した。彼らは国王が任命したカトリックの議員を見いだし、彼らは刑務所に収容されているウトゥラキストたちの釈放和与要求したが、議員はこれを拒否したので、彼らは暴徒となって刑務所に押し入り、議員たちを窓から下の道路に投げ捨て、それを免れた者は惨殺した(プラハでは2世紀の後、30年戦争のはじめにほとんど似たようなことが起った)。これは動揺するヴァーツラフにあまりにも多くのショックを与え、彼は二週間後、脳卒中で死んだ。

 議員窓から放り棄て事件をジシュカが指導したのか否か、それは判然とせずしばしば問題とされるが、しかし彼がプラハへの奉職を絶ったのちまもなくフス派の軍事指導者に選出されたことは確かである。10月下旬までに、彼は早くも年へのアプローチを占拠するヴィシヤード城を確保していた。ボヘミア全体で広範囲に要求を訴えるフス信徒たちが蔓延したが、ひとまとまりのフス派の派閥というものはなく、流動的であった。大まかに言って改革派と保守派があり、改革派はターボル山に集中する勢力に典型を見、キリストの再臨を引き起こすために教会に対する戦争を仕掛け始めた。至福千年説の信者的であったと言っても良い。この革新的派閥の前に、保守派およびカトリックはひとしく動揺した。シギスムントが摂政に任じていた女王ソフィアは彼女自身のフス派への傾倒にもかかわらず、国家と政府の平和と秩序の維持を求めた。彼女はプラハの西半分を防備するためハラダキャニ城を補強し、その上で外からの支援を待った。

戦争の時
 14世紀末から15世紀初旬にかけて、装甲重騎兵の地位は低下していた。フランスではイギリスの長弓隊が歩兵の支配権を再確立していたし、スイスのパイク歩兵もまたいっそう効果的な密集陣形を組むようになった。概して歩兵復権の時期にあったのであるが、しかしながらフス戦争・・・これ以降フス派と王国および教会の闘争をこう呼ぶ・・・の時期、ままだこれらの戦術は東ヨーロッパにまでは届いておらず、ドイツの上流階級支配者層の軍隊はまだなお重装騎兵であり、それが唯一の併科であるといってよかった。弓兵も歩兵も騎士に数で勝ることがなかったのである。騎士の戦闘力および相対的重要性は古来多くの討論の主題であり、若干の、下級階層の学者が歩兵の重要性を論じたが、多くの上流層は騎士こそ戦場の華といって譲らなかった。すべてを突破するチャージングの効果は薄らいではいたけれど、それとても他の軍との連携で役割を果たすことが出来ていたし、初期中世、彼らは十字軍以外の戦争をほとんど経験せず、そこでの成功により騎士はかれらの勇敢さの概念に影響を与えたはずの戦争でほとんど死傷者を出すことがなかったから、自負心はいやが上にも高くなった。騎士の甲冑はフス戦争の時までにその絶頂に達した。はじめ14世紀までチェインメイが主流であったが、しかしアーバレストやクロスボウといった強弓の矢が鎧の継ぎ目を破って肉に突き立つにいたり、新しくより強力な鎧が必要とされた。実際的にはこれは13に着想され、14世紀に開発が始められた。これは16世紀にフレキシブルに動くプレートメイルとして完成し、それゆえ、今日騎士の姿と言えばこの板金鎧である。プレートメイルの標準的な重量はスーツアーマーといわれる全身鎧の場合、50から60ポンドにも達したと言う。そのため馬から落ちるた騎士は、特に泥濘の地形では押し寄せる歩兵のなすがままだったが、しかしながら平野でまっすぐに、強力な剣あるいは槍を持ってチャージする理想的運用をされる場合において、15世紀の騎士はやはり手強い戦士として畏怖の対象であった。
 攻囲戦が時代の主流となった。歩兵隊は重要な構成要素になり、戦闘はより頻繁に複雑化されていき、それに伴い死傷者も増えた。かつてキリスト教の気高い騎士道的闘争であったものは、いつしか階級闘争になった。おそらくそれは1300年を境にして、歩兵復権と共に騎兵が凋落したことが原因なのであろう。中世のいくつかの戦闘は明らかに歩兵を主として行われ、そしてそれによって勝利を得られることが多かったけれども、装甲騎兵というその名の優越神話が崩れることはなかった。負けた兵卒に金融的価値がないとなれば見捨てられるのに、それに対して騎士や貴族「上位の存在」は身代金を用意して命をあがなわれる。この待遇差に対して、フス派は騎士を怨敵として敵視の象徴とした。確かにフスの平民出身の信徒たちにとって、彼らが信奉する自由と自己尊重の感覚に対し彼ら「上位存在」は憎むべき敵であったのである。歩兵の鍛錬はギルドライクな組織により、都市で町で行われた。軍事史家、デニス・ショウワルターは「ヨーロッパの都市および国家の軍隊はこの一四世紀という時代に増加傾向にあった。もし、それぞれの課題についてそれぞれが特定の技能を持っていたなら、ギルドと同胞たちによって支えられた兵士たちの労役は分散されたであろう。そして、ありとあらゆる他の事柄同様に、専門家の供出はむしろ合理的ではなかっただろうか? しかし実際には、経験豊かな技能的将軍は少なく、兵器製造業者も限られていたので、兵員の増加に伴ってその質もまた上昇するというわけにはいかなかった」と言う。
 歩兵たちは武器と、地元の指揮官の下の若干のトレーニングを獲得して、自分たちの強さに期待をかけた。すべての市民軍がそうであるように訓練の基準はてんでばらばらであり、そしてまた歩兵と装甲騎兵の京堂トレーニングというものはなかった。ドイツ諸州で人的資源の基本単位は一〇人の兵士中に一人の騎士で構成され、これをグリーブと呼んだが、しかしながら、それにもばらつきがあった。シュヴァーベンではグリーブは歩兵四人と騎兵四人を意味し、ニュルンベルクでは騎兵二人と槍兵を意味、シュトラスブールでは騎兵五人、レーゲンスブルクでは槍兵一人に弓兵一人と騎兵三騎であった。さらにはさまざまな雑務を行う付添人(戦いに参加したかどうかは分からない)や使用人がつくことが基本的に当然であった。それぞれの市が、彼らが利用されるとき供給するはずの、定められたグリーブン(軍隊)をもっていた。百のグーリブがオベルハウプトマン(将軍)に統率され、その下で一〇ごとのグリーブがハウプトマン(将校)に指揮された。町民兵は棍棒あるいは槍を使い、小作農兵は農具で戦った。歩兵隊における唯一の技術職は弓兵あるいはクロスボウ兵であり、クロスボウは弓に比べればまだ使いやすくトレーニングを必要としなかったが、それでもなお専門職であり、ジェノバ人のような専門の傭兵も若干存在した。一四〇〇年早期、クロスボウはすでに鉄で作られた精巧な武器に発展していた。それは高速でボルトを発し、貫通力を増したが、威力の増加に伴い技術的な処置も増加し、連射速度はむしろ下がった。クロスボウの貫通力対重装騎士の突進力の相克は中世の間を通して絶え間のないいたちごっこを演じた。クロスボウ兵がボルトを発するのを待って騎兵隊が高速突撃で近づき、再装填の隙にこれを撃つという状態であった。
 ただ遮蔽物の後方にある大部隊のクロスボウ兵部隊のみが、騎兵のチャージングを打破する望みを持っていた。一般に、クロスボウ兵の砲撃は騎兵の起動処置を妨げ疲弊させ、そして彼らは羊を屠殺するように戦場に虐殺の場を開いた。それが彼らの兵科的特色であり、フス信徒が重装騎兵という敵を打破するための歩兵擾乱につぐアドバンテージであった。そして、歩兵隊が開いた道を突撃して陣を突き破ってくる騎兵隊に対して、これから身を守る手段は前述の通り、遮蔽物の後方からの砲撃であった。ジシュカは防御を彼の戦術の起点としたが、特別に改造した車(ワゴン)に弓兵あるいはクロスボウ兵を乗せて、そこから砲撃を行い守備的アタッカーとして運用することによって敵を混乱させた。そのため彼の防衛戦術は機動的であり、従来の籠城戦術とは一線を画した。
 といって高速防御陣営としてワゴンを使うという発想はジシュカが始めて創案したというわけではない。少なくともローマがガリアと戦った頃その最初の形を見ることが出来るし、ゴシック様式のワゴン要塞は三七八年アドリアノープルの戦いでも使われた。ビザンチン帝国でも規則的に似たような戦術が使われたし、モンゴル人は同様の戦術をもってユーラシア中を席巻した。タンネンベルグにおいてチュートン騎士団の騎士たちがワゴンブルグ、あるいはワゴン要塞と呼ぶようになったジシュカの軍略も、その後継といえる。だからといってジシュカの戦術的才能がおとしめられる者では決してないが。
 かれらの拠点は「キャンプ」を意味するチェコの言葉から「ターボル」と呼ばれるようになった。そしてその戦術はアーネスト・ブュプイとトレヴァー・デュプィの両氏によって「歴史上最もシンプルで、そして最も効果的な戦術システムの一つ」と呼ばれる。ジシュカのなしたことはワゴンブルグを洗練された防備を為す特別にくみ上げられた戦術機械としたことであり、これが常に彼の戦術の根幹となった。彼が最初に着手したのは普通の手に持つようワゴンだったが、最大限の防衛を実現するためこれに改良改善を加えた。まず、彼はワゴン同士の速やかな着脱が可能なように留め具の改良に着手した。それからそれぞれのワゴンを鎖で縛り、着脱可能な盾でカバーした。盾のボードはワゴン上の兵士から下は車輪までをカバーするように、敵に直面する側に取り付けられ、また盾にはクロスボウの射撃用に穴が空けられていた。ワゴンはしばしば増産され、強化と再補給を容易にした。それぞれのワゴンは長さ一〇フィート、ハルバーードのようなポールアーム兵とクロスボウ兵で構成された一六人のクルーを載せることができたという。ワゴンブルグの完成はワゴンの間に置かれた小型の大砲でによって見られた。ワゴンブルグの概念自体は新しいものではなかったが、ジシュカが常に彼らの操手を訓練することによって、きわめて洗練されたものとなった。手あるいは旗による信号で彼らはあらゆる陣編成に素早く移動することができ、互いが互いをリードし、また末端からの信号で常に戦場をコントロール、制御できた。ワゴンブルグは基本的に4両編成で出陣し、外向きの2両と内にあって支援する2両に分担された。
 ターボルの車輪は大きく、そしてへりをかすめて鉄で舗装されていた。前輪と後輪が鎖で縛られロックされて唇歯輔車となった。車輪は28対であったという。そして布陣からワゴンブルグを築くまでには1から2時間を要した。彼らの敵の多くの証言によれば、フス信者は溝・窪地におけるポジショニングを強化して、敵の潜入に対する警戒のためにワゴンの下から発掘した土を投げつけて防備した。ジシュカが初めて本格的に国と戦ったとき、ワゴンブルグはわずかに7両を数えるに過ぎなかった。しかし彼の軍隊が成長するにつれ、彼は180台のワゴンを擁し、それを円周2500ヤード間に整然とポジショニングするまでに至った。人的資源の大部分は小作人が供出する中でジシュカは軍事的専門知識をもって彼らを指導し、また若干の貴族とも友誼を結んでいた。敵の罪を打ち破るまで、彼らはワゴンブルグの闘争圏内に留まった。衛士たちと騎士たちとの間の隔たりは開かれた。騎士たちは突撃してターボルの防衛軍を粉砕せんとするが、しかし陸戦における基幹は歩兵の方であった。
 彼らは戦後探し出した戦利品によって武装し、ために標準化された兵装というものを持たなかった。たいていの場合、兵士たちはワゴンの壁の後ろに布陣して戦ったので、胸甲よりもむしろヘルメットが彼らにおける最重要の防具であった。いわゆる「やかん帽子」といわれるヘルメットはゲルマンの地における典型的なヘルメットであって、この当時多くのバリエーションが作られた。標準的な剣と槌矛、それに小作農の農具ナイフ、手斧、干し草用フォークとからさおなど29に上る武器は、フス信者のトレードマークと言える武器となった。
 通常の戦闘と異なるもう一つの点として、小作農の女性たちの従軍が上げられる。彼女らは防衛陣を築くのを助け、そして実際戦闘に参加すらした。1420年の1戦ののち、ハンガリー人は男装して従軍する156人のフス女性信徒を捕らえた。1422年、もう1つの戦いでは、フスの女性たちは斉しく強烈さと獰猛さを持って昂然と戦った。なぜならこれは聖戦であったから。フス信者の女性戦士における最後の言及は1428年、もしかしたらフスの兵廠で作られた最初の火薬武器の使用があったかも知れないと言うことに終わる。彼らが確かにこれを発明したか、あるいはそれ以前からあったものを改善したのか。ともかくもこのような武器のほとんどすべては、それまで包囲攻撃の初撃にしか使われなかったが、ジシュカはこの運用法に着目した。ピストルは構造上単純であり、長さおよそ16インチの鉄のチューブに火芯を込め、着火すれば誰にでも扱えたがおよそ狙いをつけることは不可能な代物だった。が、群衆によって斉射されるとき、あらゆる効果を持った。ジシュカは50の通常兵器に対して70のピストルを兵士に装備させ、これはドイツ語源でタバコパイプを意味する「プフェイフェンバッシェン」あるいは「パイプ銃」と呼ばれた。楽器に関する言及と言われ、チェコ語ではさらに楽器としての意味合いがわかりやすく「ピシャーチャラ」横笛と呼ばれた。これがのちのピストル、の語源であるのかも知れない。
 若干の情報提供者はこれより大型の銃がワゴンの中に置かれていたと言うが、しかし狭苦しいワゴンの状態を鑑みるにこれはありえそうにない。いくぶんか大きいタラスニス(小型の野戦砲)は常設的にワゴンの後方に備え付けられて、ここから曲射砲の概念が産まれたとされる。また、より大型のホーフニック砲が上方に取り付けられると、平地の人々のポジションは一変した。ピストルとタラスニス、双方が1380年代からそれまで一般的に使用されていたのにもかかわらず、ジシュカが火薬兵気の新考案を捻出するまで発展を見なかったのは戦術的革新として指摘されるべきである。移動基地から戦闘に至るまで、彼の貢献は後の世の戦術家に搾取されるこになるのであるから。チャールス・オマーンのコメント「これら戦闘ワゴンが整然と布陣されたとき、いかな強烈な騎兵突撃であろうともそれはオーク材の板と、鉄輪を貫通することはかなわないであろう」

プロフィール

岩城 隆之

Author:岩城 隆之
病を得てより20余年、もはやこの病気が快癒することはないのでなんとか折り合いをつけてやっていこうと決意を新たにして帰ってきた岩城です。とはいえ昔のように連日新しい記事を書くのはさすがに無理。やれる範囲で適度にやっていこうと思います。よろしく。

最新記事

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

気が向いたら押してやってください

中華名将録 南北朝篇 再販

DLmarketで購入

最新トラックバック

アクセスカウンター

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
695位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
96位
アクセスランキングを見る>>

検索フォーム

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。